回想
幼いころから、かれらの気配は身近にあった。
澄んだ小川、豊かな緑、そよぐ風、さやけき自然のそこかしこに。
あるいは、台所、書斎、居間、身近な家の中でも。
気配は時に大きく、時に小さく、神々しく、暗く、荒々しく、つつましく、にぎやかに、微かに。
明はかれらが好きだった。見ることも、会話をすることもできなかったが、世界のあらゆるところにかれらが存在していることは感じていた。
かれらが神と呼ばれるものだと知った後も、郷愁を感じるように、かれらに惹かれ、愛しく思う気持ちは変わらなかった。
幼馴染である、紫は、ごく自然にかれらを瞳に映し、言葉を交わすこともあった。
それも当然なのだろう。
紫は、国内でも名の知れた巫の血筋である、久遠時家の直系長女。
その上、久遠時の血筋の中でも際立って優れた異能を顕現した、一族の秘蔵っ子。いわば神々に愛された存在だ。
久遠時の姓をもらいはしたものの、その血が流れていない自分が、紫と同じであるわけがない。神の姿を見る、『現視』の能を持たないことも当たり前のこととして受け入れてはいたものの、幼馴染のようにかれらと接することができたら良いのにと思ってはいた。
思ってはいたが――。
「……今、なんと、言われた?鳩羽さん」
朝食の席。
白米に、味噌汁。焼き魚に、ひじきの煮物、卵焼き。
よく磨かれた光沢のある木机に並ぶ、日常の朝食。
明と、紫と、紫の父親である鳩羽の三人で囲む、いつもの食卓。
その、のどかに凪いだ日常に一石を投じる、鳩羽の一言があった。
「はい。ですからね、紫と一緒に、明さんも神学院を受験してはどうかと言ったんですよ」
にこにこと微笑み、食事を続ける鳩羽。
三十歳程に見える、穏やかな風貌の男性である。すでに四十にはなっているはずなのだが、やや長めの黒髪と、細身の体つき、すっきりとした輪郭に優しげな瞳は、実年齢よりその人を若く見せている。
十代の明に話しかけるにしては、口調はえらく丁寧だ。
特にかしこまった様子ではないから、普段から、相手に関わらず、そうした口調で話すことが習いになっていると伺える。紫の口調が丁寧になるわけである。
「……。神学院の受験には、筆記と面談に加えて、実技試験があることは鳩羽さんも良くご存知のはずだが」
ごくわずかに低くなった声音に、紫はさりげなく明から距離をとった。
(……これは、危ないですわね……)
ぴん、と空気が張り詰め始める。
「ええ、そうですね。知識を試す筆記試験、人格と応用力を試す面談試験、それに加えて巫としての能力を試す実技試験の、『三試』に合格することで初めて入学が叶う。――他の神術学校のほとんどは筆記と面談のみですから、その点が、神学院が国内最高峰の名門校、神学術のエリートと言われる理由ですね」
不穏な雰囲気に気付かぬはずはないのに、さらりと爽やかに返す鳩羽。
「……。……異能が雀の涙ほどもない、これまで神の姿を見たこともない、神気に関しては凡人以下の私に、そのエリート校試験を受けろと?たとえ鳩羽さんといえど、その言葉は私に対する侮辱と受け取るが、よろしいか」
空気が凍る音が聞こえた(気がした)。
氷点下だ。
明は普段感情をあまり表情に出さない。だが、出さないからといって、何も感じないわけではない。内にある感情を察することができるほどには、幸か不幸か付き合いの長い紫は、思った。
これはいけない。
饒舌なうちはまだいい。だが、明が静かになったら要注意だ。
声を低め、言葉を区切るように、一言一言ゆっくり話し始めたら最悪だ。
それでいうと今の状況は大変良くない。
警戒体制を通り過ぎて避難勧告を出すべきだ。
(父様……。お願いですからもう少し上手にお話を進めてください……)
せめてお味噌汁で暖をとろうと両手でお椀を持ち、しとやかに紫がすすっていると、明の凍てつくような視線を笑顔で受け流し、鳩羽が言った。
「はい。確かに明さんは、従来の実技試験での合格は難しかったでしょう。ですが、来年度の入学試験から、合否判定は三試の合計得点で行うことになるそうですので」
ふ、と。明がかもし出す冷気が霧散した。
「……合計得点?」
瞬き、明が繰り返す。
「ええ。たとえば去年までは――仮に三試が各百点満点だとするなら――合格までの最低ラインとして、全ての試験で六十点以上をとる必要がありました。けれど、合計得点となれば、三百点満点中の百八十点が最低ラインとなります。すなわち――」
一度、言葉を切る。
「すなわち、仮に実技試験が零点であったとしても、筆記と面談でともに九割以上の点を獲得すれば、合格も不可能ではないということです」
しん、と静寂が降りた。
紫は視線を明に向ける。
明は無言で鳩羽を見つめている。
「ただし」
淡々と続ける鳩羽。
「ただし、これはあくまで不可能ではないというだけのことです。合格圏内の点数をとった受験生が定員を超えた場合は、もちろん成績順に採用されることになります。優秀な生徒が集う神学院の試験――。最低ラインの点数では、合格は厳しいでしょうね。明さんは、完全な形ではないとはいえ、感知能力については優れています。実技試験においても、全くの零点ということはないでしょうが、それでも、大きなハンデとなることに違いはありません。難関で知られる三試を通過するには、かなりの努力が必要だと思います。そのうえで――」
鳩羽は明に、ひたと視線を合わせた。
「そのうえで、受験に望まれる覚悟は、ありますか。――と、問いたかったのですが……」
明の表情を見て、鳩羽はにっこりと笑った。
「そのお顔を見る限り、聞くまでもなさそうですね」
明の瞳が煌いている。
陽光のように燦々と、その奥に強い灯が燃えていた。
「受ける」
微塵のためらいもなく、きっぱりと答えた。
「私は、神学院を受験する」
鮮やかに笑う。
宝物を手にしたような、希望にあふれた笑顔だった。
「感謝する、鳩羽さん。貴方のおかげで大事な情報を知ることができた」
軽く頭を下げ、明は猛然と朝食を平らげはじめた。
「礼には及びません。明さんが神学院に通いたがっていることは、知っていましたからね。娘の望みを助けるのは、親の役目です」
満足げに頷く鳩羽に、明は困ったように笑んだ。
「何度も言っていることだが……、親と言ってくださるなら、敬語はやめていただきたいのだがな。私の口が悪いのも問題だが、その上貴方がそのように丁寧に話されるのなら、どちらが目上か分かったものではない。拾って育てていただいた恩があるというのに、不調法もいいところだ」
「明さん」
とたんに背筋を伸ばし、鳩羽は厳粛に言った。
「それこそ、何度も言っていますが、恩を売った覚えはありません。あなたの生みの親が他にいらっしゃるのは確かですが、紫もあなたも同じ、大切な、私の二人の娘です」
その揺るぎない瞳と声に、明は表情を和ませ、目礼した。
何度聞いても、鳩羽のその言葉はいつも嬉しい。
「ありがとう、ございます」
「それに、私の口調はもう習いになっていますから。こちらの方が楽なのですよ」
明は苦笑すると、それ以上は食い下がるのはやめた。いつもこうして言いくるめられてしまう。
それから、手早く食事をすませ、食器を片付けると、すくと立ち上がった。
「さて、そうと分かれば、時間を無駄にすることは無い。紫。君も受験生だというのにあつかましいお願いなのは重々承知だが――、勉強につきあってくれないか。私一人では到底追いつかない。君の力が必要だ」
なんとも即決即断、切り替えの早いことだ。先の今で、もう三試に向けて勉強を始めようという。
いつでも迷わず、やるべきことをためらわない。いつもはっきりと物を言う。
明のそうした潔さが、紫は好きだった。
紫も打てば響くように答える。
「もちろんですわ。私にできる限り。人に教えるというのは、いい復習になりますし、充分私の勉強にもなりますもの。ただし――」
煌、と紫の背後に炎が燃える。小柄な紫の体が、幾分大きくなったかのようにすら感じる。
明の後ろに燃えるのが豪快な紅い炎なら、紫は静かな青い炎だ。
「容赦はいたしません。現状での合格までの果てしない距離は、お分かりですか?私に手伝いを願うからには、よもや途中で音を上げたりなさいませんように、お願いいたしますね」
言葉は丁寧だが、発する圧力が半端ではない。
しとやかに微笑む、その笑顔がこわい。
度胸は人一倍持っているはずの明ですら、わずかにひるんだ。一筋冷や汗を流す。
「……分かった。覚悟する。――部屋で待っている。ゆっくり食事をして来てくれ」
さながら戦に臨むかのように腹を据えると、明は自室へと戻っていった。
しばしの後、静かに襖が閉まる音が聞こえる。
充分な時を置いてから、鳩羽は深い声音でささやいた。
「……よろしく、たのみますね。紫」
同じく小さな声で、しかし決然と、紫が答えた。ひどく大人びた表情だった。
「はい。父様。久遠時の名に誓って」
そうして幼馴染の力となるべく、その後を追った。
※15.09.11 1部と2部を分割。