神代文字
「――この倭国から、主要な神々がいっせいに姿を消したのは、今から百五十年ほど前にさかのぼります。正確に言えば、百五十一年、和暦二五二四年の出来事ですね。これが皆さんのご存知の通り、『大隠』と呼ばれる災害です」
無級教室の授業中。
おっとりと教科書を読みあげながら、倭国史の教師である、枝垂桃が教室を歩く。
豊満な肉体に、一回り小さいのではないかと思うような、ぴったりと身体の線が出る衣装。
佐藤などは、正直目のやり場に困るのだが、桃本人には、扇情的な格好をしている意識は全くない。試着せずに服を買い、なんとなく小さいなーと思ってもそのまま着てしまう、のんびり屋なだけだった。
「大隠の原因については、今を持って定かではありません。神が人類を見放したのだとも、神より上位の存在に放逐されたのだとも言われていますが、いずれの説も、仮説に過ぎません。はっきりしているのは、大隠により、多くの争いや天災が勃発し、何十年にわたり、動乱の日々が続いたという事実です」
桃は通りすがりに、居眠りをしていた檜山の頭をぱしり、と叩く。
「いて」と声を上げはしたものの、おそらくまた寝るんだろうと佐藤は思った。
見事なまでに、知識には興味がない男だ。
「ですが、七十年前、和暦二六〇五年にようやくその動乱にも終止符が打たれ、そこから倭国は目覚しい発展をとげました。お隠れになられた神々の他に、新たな神々が生まれ、そして神術もより複雑なものとなり、この七十年で、倭国は、大隠以前を復興――いえそれどころか遥かにしのぐほどに、豊かな国となりました」
桃は今度は通りすがりに、授業そっちのけで読書に勤しんでいた露草の頭をはたく。
……知識に興味がありすぎるのも問題だ。佐藤は思う。
最も、露草の場合、授業の内容などとっくに頭の中に入っているのだろうけれど。
「それでも、大隠で失われた神々を取り戻そうとする試みは何度も行われました。ですが、今をもって、それらの神々がどこへ消えてしまったのか、多くの神学者の研究結果をもってしても、それは明らかにはなっていません」
いや、あえて檜山や露草でなくとも、この話を一生懸命に聞いている生徒はいなかった。なぜなら、これは初等部でも習うごく一般的な歴史だったからだ。昔話で例えるなら、「むかしむかし、あるところに」くらいのレベルだ。導入部である。
大して聞く必要もないと、聞き流す生徒が大半であり、かくいう佐藤も、その一人だっただろう。
――これまでならば。
残念なことに、平凡な人生を歩んできた、平凡な佐藤柴の、平凡な日常は、これ以上なく非凡な同級生たちのおかげで、波乱万丈なものになることになった。――歴史的な出来事に巻き込まれるほどに。
***
「――まあ、それでは、大隠で消失された一柱、木花咲耶姫を、明が開放して差し上げたのですか?」
紫は目を丸くして問いかけた。
そんな表情をしていても、相変わらず綺麗な少女だ、と明は思う。
「ああ。まあ、そのようだな」
相槌を打ちながらも、明は紫の持つ箸の先の方が気になっていた。
ちょうど紫が卵焼きをつまみ上げたところだったので、美味しそうなそれが落下してはもったいないと気が気でなかったのだ。
時は昼休み、場所は中庭の長椅子。
二人でお弁当を食べながら、先日の顛末を話していたところだった。
ちなみに、お弁当は紫の手作りである。寮や学校の食堂も無論あるのだが、学生用の台所で朝から二人分の弁当作りを日課とする、まめな紫であった。
とまれ、こうしてのんびりと話ができるようになるまでには、一悶着あった。
話は、よろず部が結成した、その夜――というか、女子寮帰宅時にさかのぼる。
***
「えっ。やだ、ちょっと! 明ちゃんったら!」
「なによ、菫。そんな世間話が好きなおばさんみたいな台詞を吐かないの」
「おばさんでもなんでもいいわよ、紅葉。それどころじゃないんだってば! ――明ちゃん、その腕輪は一体どうしたの?」
きらり、と猫のように瞳を輝かせる皇菫。女子寮における、明の『姉』役である。
「あれ、本当だ。綺麗な腕輪ね。でも、華美になりすぎない限り、装飾品は特に禁止していないけれど……何か問題があるの?」
「大ありよ! この明ちゃんが、自分で、腕輪なんかを買うと思う!?」
ばん!と効果音がつかんばかりに片手を広げて明を指し示す菫。
言われて監督生、九条紅葉は、明の全身を見回した。
化粧っけのない顔。シンプルに着た制服。飾り気のない髪型。
「……思わないわね」
「でしょう!?」
当の明は、帰ってくるなり菫に捕まえられ詰問され、これは一体何事かとぽかんとしていた。
「と、いうことは……ねえ、明ちゃん。こっそり、お『姉』ちゃんだけに教えてくれない? ――その腕輪、誰にもらったの?」
「ああ、これか?これは、ひ――」
姫にいただいたのだ、と思わず言いそうになり、慌てて口を閉じた。
「ひ……?」
「え、もしかして本当に誰かにもらったものなの? それは意外ね――と、こういう言い方は失礼かしら」
菫は、どんな反応も見逃さない、というように明を凝視しているし、紅葉までもがなにやら興味をもち始めたようで、こちらに近づいてくる。
明は困った。
よろず部結成直後、一夜に言われたのだ。
「今日のこと、それと封印のことは、秘密厳守。このよろず部内だけにとどめておこう。校内にたくさんの神様が捕らえられているかもしれない、なんて広まったら混乱を招くかもしれないからね。幸い、特別な神物を下されたのは久遠時さんだし、このよろず部で活動していくのが、まずは道理ってものでしょう」
一理ある、と思った。
というわけで、正直に話すわけにはいかない。
――しかし、菫と紅葉は、興味津々に見ている。とても逃がしてくれそうにない。
苦肉の策で、明はおそらく人生初めての嘘をついた。
「ひ……、檜山に、もらったのだ」
「きゃあ!檜山君なの「檜山……ですって……」」
いつの間にか背後に立っていた紫に、三人は凍りついた。
あの久遠時紫が、微笑んでいない。
いつもしとやかに柔らかい表情を浮かべている紫が、能面のように無表情である。
いや、能面は能面でも、般若の面かもしれない。
「檜山猩……あの知識も教養もない、お気楽能天気な力馬鹿から、明が、装飾品を贈られるような仲になったというのですか」
「あ、あの、紫。実は、だな……」
「出会ってまだ間もないというのにいつの間に……。油断も隙もない……! 明。早まってはいけません。大丈夫。腕輪であればまだ間に合います。今夜これから、今後の対策についてじっくりと話し合いましょう」
「ゆ、紫? だから、話を――」
その小柄な外見に反する予想以上の力をもって、紫は明を部屋へと連行していった。
「……あれは、相当絞られるわねー」
「……私たちの出る幕はなさそうね」
それから明は、弁解のためにも――ほんの出来心で発した一言が檜山に多大な災難を与えかねなかったので、それはもう懸命に弁解した――また紫には知っておいてほしいという心からも、大まかな事情を説明することとなった。残念ながらその日は就寝時間の都合上、詳しい話はできなかったのだが、とりあえずの誤解は解くことができ、周囲には、「檜山の頼みごとに協力した礼に、檜山家に余っていた神具をもらった」ということで話を通すことにした。
詳細はまた後日、ということで、なんとか紫の詰問はお開きとなったのである。
***
そして話は昼休みへと続く。
「お隠れになられた神々の復活など、今まで成し遂げた方はおりませんわ。明……とんでもないことをなさいましたのね」
「なんだかそう言われると、悪いことでもしたような気になるな」
「ご冗談を。慶ばしいことには違いありませんわ。ただ……やはり、あまりこのことは公にするべきではありませんわね。名だたる学者たちが押しかけて、明に対して、どうやって封印を解いたのか強引に問い詰める光景は見たくありません」
正確には、それほど生易しいものではない。
明が研究対象として、神学者たちに実験と称して、いいように弄繰り回される可能性を、紫は危惧していた。そんなことは断じて許せない。
「一夜も、そう言っていた。今のところ、このことを知っているのは、よろず部の皆と、萌黄、それに紫だけだ」
「一夜……網利、さん、でしたでしょうか」
「ん?ああ。なかなか変わった奴だぞ」
「その方もあなたには言われたくないでしょうが……でも、そうですね。少し、普通とは異なる方のようですね」
「ああ、そういえば、思い出した。紫に聞きたいことがあったんだ」
鞄から何かを取り出そうと下を向いた明は、紫の表情の変化には気がつかなかった。
「――え、私に?あ、はい。なんでしょうか」
「これなんだが」
明は、一枚の写真を取り出した。
桜の樹に刻まれていた、文字らしきものを写した写真だった。
「例の封印に、施されていたものだ。この上から『〆』の形に金属で塞がれていた」
「その金属は――明にしか抜けなかったと言いましたね?」
「ああ、そういえば、そうだった。皆がなぜ苦労したのかわからないくらい、あっけなく抜けたぞ」
「どうしてなのでしょうね……。他の方は、疑問に思ってはいませんでしたか?」
「なんでだろうな。最初は皆も不思議がっていたが――その後の木花咲耶姫の登場やら、腕輪をもらうやらで、そんなことはどこかにいってしまったな。とにもかくにも、他にも封じられている神がおられるなら、それを探すほうが先決だろうと」
「そうですか……。確かに、その方が大事には違いありません。――それで、この写真でしたね」
「ああ。紫なら何か知っているかと思ったんだ。この文字――か記号かわからないが、何にせよ。心当たりはないか?」
ひらがなの「う」に近い……とはいうものの、幼児が鉛筆で書きなぐったような、梵字にも近いような、ひらがなよりももっと入り組んで複雑な模様だ。
紫は写真をじっと見つめて、言った。
「――神代文字」
「かみよもじ?」
「神代文字、神代文字とも言います。文字通り、神の時代に――古代倭国で使われていた文字です。これはその中の一種、阿比留草文字だと思われます」
「あひる……?」
「阿比留草文字。中でもこれは、ひらがなの『あ』に相当する文字ですね」
「ひらがなの、あ――」
あいうえおの、あ。
最初の――はじまりの、文字。
「そうです。五十音の頭、初めの文字。それを封じることは、はじまりを封じられること。終わりよりももっと根源的な、存在することすら否定する、最高位の封印です。――施したのは、よほど高位の巫でしょうね」
「しかし……おかしな話だな。木花咲耶姫が大隠で失われた神々のお一人だというなら、大隠そのものが、この封印によって引き起こされた可能性が高い、ということだろう? だが、先の授業でも聞いたが、大隠によってこの倭国は多くの被害を受けたはずだ。それほど高位の術者が封印を施したというなら、なぜわざわざ自分たちを苦しめるようなことをしたのだろうな?」
「さあ、それは……。そんな難しいことを私に聞かれても、答えようがありません。それよりも、明がその封印を解くことができたというのが、今は大事ではないでしょうか。もし、他の封印も同様に解くことができるのなら――」
「ああ、それが私にできるというなら、考えるまでもない。神々の開放のため、私は私にできることをする」
「……明らしいですね。――たしか、木花咲耶姫は、神々との絆を深めよとおっしゃったのでしたね?それが封印を解くことにもつながると」
「ああ、そうだな」
「では、ともかく神々との縁を結ぶことを当面の目標とするべきでしょうね」
「――それは、願ってもないことだな。せっかくかれらと意思疎通ができるようになったのだ。わたしとしても、可能な限り多くの神と出会ってみたい」
「そうですね。私も組と部活が違いますから、一緒にいられる時間は短いですが――できるだけ明の力になりたいと思います。……そういえば、今日はちょうど、弓道部はお休みなのです。放課後は、一緒に帰りませんか? これからどうしたらいいのか、話し合ってみるのも一興かと」
「そうだな、了解した。ありがとう、紫。そうしてくれると助かる。何しろ私は、かれらとの交流についてはほとんど未経験だからな……」
「ふふ。友達の力になれるなら、嬉しい限りです。――まあ、さすがに昨日の今日で別の神様に出会えることはないでしょうが、今後のために対策を練るのも重要ですしね」
「ああ。それじゃあ、また放課後に。よろしく頼む」
「ええ、一緒に帰れるのを楽しみにしています」
そうして紫特製のお弁当を美味しく平らげ、二人は午後の授業に戻っていったのだった。
***
そして放課後。
共に帰る明と紫の通りすがりに、
「えーん、えーん、えーん」
悲しげに泣きじゃくる、幼女の神様が立っていた。




