~部活見学・後編~
その少し前。
団十郎が、憲房と話し合いを終え、見学者たちの元に戻ってきてすぐに、明は問いかけた。
「部長。彼は一体誰なんだ?」
その口調に、わずかに非難の色が混ざっていたのは、致し方ないというものだろう。
問われた団十郎も、やや困ったような顔で返答する。
「烏丸憲房。俺の幼馴染で、うちの副部長だよ」
「副部長?」
それを聞いて、明は目を見開く。
「ずいぶんおかしな話だな。そんな重要な役職についているというのに、こんな部活の行事を放り出して、一人だけ練習しているというのか?そしてそれをあなたは黙認している?」
団十郎は驚いたような顔をして、それから苦笑した。
「……まいったな。君は、ずいぶんはっきり物を言うんだね。――もしも友人の肩を持たせてもらえるなら、彼は、天才的な技術をもった射手なんだ。美しく、正確無比。いや……、天才じゃないな。それだけの、努力を惜しまない人間だ。彼の弓道への熱意は、友人として誇りに思っている。こうした行事に費やす時間も、彼にとっては惜しいんだろう」
「……でも、技術だけじゃないですか」
ぽつりと、近くで聞いていた女生徒がつぶやいた。服装からして見学者ではないから、おそらく二年生だろう。
「いつだって一人で練習してばっかりで、協調性もないし。腕がいいだけで、副部長なんて……」
そこではっとしたように、言葉を切る。口元に手をやり、目を伏せた。
「……すみません。言い過ぎました」
「……いや。言われても仕方がない部分は、確かに、あるからな。だが――憲房にも、事情はあるんだろう。わかってほしいとは言えないが、少し……、待ってやってくれないか」
憲房を見る団十郎の目には、友人を心配する気持ちが溢れていた。
明は、紫に顔を寄せると、密やかに囁いた。
「紫。あの、憲房という三年生……何か、見えないか」
「明?」
突然の言葉に、怪訝そうに紫は明を見やる。
「なんだか、――いる気がする。何か、感じるんだ。紫なら、見えないか?」
はっとしたように、紫は憲房を見る。
明に目で頷いてから、意識を集中させて彼を注視する。紫の目はどこかぼうっと焦点をなくし、黒曜石のような瞳がごくわずかに紫色の光を帯びたようにみえた。
そして、しばらくの後、はっと体を引き、ぼう然とつぶやく。
「そんな……まさか、嘘でしょう!?」
うろたえる紫の肩に、明は手を添え、確認した。
「やはり……いるのか?」
「います。ずいぶんと、かそけき……ですが。明、あなたよく気付きましたね」
「なんとなくな。――それじゃ、行ってくる」
何気ないように手を振り、明は歩き始めた。
――憲房に向かって。
それに気付き、慌てて、団十郎がこちらに寄ってくる。
「あ、久遠時さん!だめだ、今はそっとしておいて――」
引きとめようとする団十郎に控えめに手をあてて、紫は言った。
「部長。どうか、少しお時間をいただけませんか。明には、何か考えがあるようです。――決して悪いようにはいたしません。どうか」
最後には、ひたと団十郎を見つめながら願った。
団十郎は、間近に見た紫の美しさに若干うろたえながらも、その瞳の真摯さと、明への絶対的な信頼を感じとり、制止しようとした言葉を止めた。
「――今の憲房は気が立っている。明ちゃんも、怒鳴り散らされるかもしれないよ。心配じゃないのかい?」
「あら――」
その言葉に、紫は可笑しそうに笑った。
「怒鳴られたくらいで消沈してくれるような可愛げが明にあれば、私は今まで苦労することなどなかったでしょうね」
それを聞いて、団十郎は苦笑しながら、処置なし、とばかりに両手を挙げた。
「分かった――。しばらく、あの子らを二人にさせてあげればいいのかな?どうなってもしらないよ」
茶目っ気のある表情で言う団十郎に、紫は自信満々に頷いた。
「大丈夫です。明をどうにかできる人なんて、父様くらいですから」
団十郎は、さすがに説得を諦め、――そして、この風変わりな久遠時姉妹に、いくばくかの期待も抱きながら、元通り、部活見学対応へと戻っていった。
――そして明は、
「申し訳ない。物好きな新入生の登場だ」
と、憲房の練習に割り込んだのである。
***
憲房は、美貌の少年が話しかけてきた瞬間、怒るよりも先にあきれ果てた。
先ほどあれだけの騒ぎがあった直後だというのに、一体この少年は何を考えているのかと思った。
しかも、憲房への接し方は、到底新入生が三年生に接する態度ではない。
傲岸不遜そのものだ。
憲房は大人気ないとは思いつつも、語気を荒らげて言ってしまった。
「邪魔をしないでくれと言っただろう。見学に戻れ!」
だが、当の少年はけろりとした顔をして、
「分かっている。邪魔はしない」
と堂々と頷いたのだ。
「ただ黙って、ここで先輩の練習を見学させてほしい。それならいいだろう?」
憲房は、ぽかんとした。
「……それが、お前にとって何の得があるんだ」
「得があるかないかは私が決めることだ。――それとも、先輩は、人に見られているだけで、練習に身が入らなくなるような、集中力のない人なのか?」
これは、あからさまな挑発だ。そう分かってはいても、憲房はかっとなった。
ただでさえ、先から苛立ちっぱなしなのだ。
「ふざけるな!――そこまで言うなら、好きなだけ見ていればいい。ただし、俺はお前をいないものとして扱う。相手などしないから、そのつもりでいろ!」
「ああ。それでいい」
それから憲房は、宣言どおりに、少年のことは完全に無視して練習を続けた。
明も一言も発せず、くつろいでそれを見ていた。
***
ずいぶん時間が経った後、憲房は汗を拭こうとタオルを探した。
そこで、少年が視界に入り、そういえばこの子がいたのだと改めて思い出した。集中して、忘れていたのだ。そのくらい、少年は静かにそこにいた。
「まだいたのか。いい加減戻ったらどうだ」
憲房の言葉には答えず――、少年は全然違うことを言った。
「先輩の射法は綺麗だな。流水みたいだ」
それを聞いて、憲房は愕然とした。
それは、その言葉は、憲房が、昔、あの人に――。
(――ふふ、ありがとう。そんな風に、ほめてくれるのね――)
「でも、人工的だな」
だが次の言葉に、はっと思い出から引き戻された。
「きっちりと、正確に流れを固められ、堤を築かれ、澱みを除かれ、あふれないように、汚れないように、管理された流水のようだ。綺麗だが、豊かではない」
暴言といえばあまりにも暴言だ。素人が経験者に言えたことではない。
だが、憲房はとっさに反論ができなかった。
「それに、流れがいつも穏やかなわけでもない。水量が増えれば水路は溢れるし、勢いが強くてもまた同じだ。――弓道というのは、精神修行の面もあるのではなかったのか?あなたの場合――、失礼だが、穏やかならぬものを感じるぞ。完璧であらねばと、狭い枠の中に一生懸命自分を押し込めている。一体、何をそんなに焦っているのだ?」
もう、これ以上は聞いていられなかった。
「出ていってくれ!!……もう、たくさんだ。何も知らないくせに勝手な口を叩くな!」
叫んだ。
相手が入学したばかりの新入生であることへの気配りなど、している余裕はなかった。
少年は、しばらく憲房を見つめた後、ふいと踵を返し、姿を消した。
いつの間にか、見学会は終わっていたようだ。
道場には自分一人しかいない。
一人になりたかったはずだった。だから見学生を遠ざけたし、先ほどの少年も追い出したのだ。
だが、独りになった自分は、ちっとも楽にならなかった。
やり場のない思いが、体中を駆け巡る。
言うことを聞かない。この自分の心と体は、ちっとも宿主の言うことを聞いてくれない。
荒れ狂う心情のままに、矢を打ち続ける。
もはや型などあったものではない。ひどいものだ。
そして、弓道を、こんな風に憂さ晴らしに使ってしまう自分に、さらに腹が立った。
気付けば、矢を打ちつくしていた。
息も切れている。腕はがくがくと振るえ、汗が滝のように流れていた。
力尽きたように、その場に崩れ落ちる。
と、視界の隅に、近づいてくる人の足が見えた。
反射的に見上げてその顔を確認すると、ぼんやりとした意識の中、考えるよりも先に言葉が口をついて出ていた。
「……お前、女の子だったのか」
「なんだ、今まで気付いていなかったのか」
傍若無人な口調は相変わらずのまま、制服姿に着替えた明が、そこに立っていた。
弁解するように、憲房は言う。
「見学者用の袴は男女共用なんだ。道理で、綺麗な男の子だと思ったよ。……てっきり、もう帰ったものと思っていたんだが」
「着替えに行っていただけだ。さすがに門限も近いしな。――だが、まだ、質問の答えをもらっていない。だから帰れない」
そう言って、憲房の目を見つめる。
少しも揺らぎのない、太陽のような瞳だ。
へとへとに疲れていたこともあり、なにやら物珍しい女の子に目をつけられてしまったこともあって、自分を堅く覆っていた色々なものが、ぼろぼろと剥がれ落ちていくようで、憲房は思わず苦笑した。
「さっきの……」
「うん?」
壁にもたれて座り込む憲房を、覗き込むように明が膝をつく。
「さっきの、流水のようだ……って言う言葉な。あれは、驚いた」
「なぜ?」
明の言葉は端的だ。決して不必要なことを言うことも、話を無理やりに聞きだそうとすることもない。
だから逆に喋りやすくて、つられるように憲房は、団十郎以外に話したことのない昔話を――柄にもなく――話し始めていた。
「昔、俺が同じことを言ったんだ。――まだ、小学に入る前だったかな。俺が、弓道を始めるきっかけとなった人に」
憲房は、懐かしそうな笑みを浮かべる。
それは初めて見る、険のない彼の表情だった。
明は無言で、憲房の隣に座る。そうして、黙ったまま話を聞いていた。
「さっき、お前は俺のことを人工的な流水だと言ったが――、言いえて妙だよ。あの人に比べたら俺の射法は、その辺の用水路と大して変わらない」
憲房の射法は、充分に美しいものだ。それをそんな風に言う彼に明は驚いたが、無言で見つめることで、続きを促す。
憲房は思い出す。記憶の彼方の女性を。
初めて出会ったのは、いつのことだっただろうか。記憶に残る最古に近い。おそらく、まだ四・五歳かそのくらいだろう。
あれは多分、祭りか何かの日で――、いつもは行かないような場所に連れて行ってもらえて、自分ははしゃいでいた。探検するような気分で、あちこち歩いているうちに、両親とはぐれてしまったのだ。
心細い気分はあったが、探検していた場所は緑深く、花が咲き誇り、綺麗で気持ちよかったので、もう少し、もう少し、と思い、草木を掻き分け、奥へ奥へと歩を進めた。
と、その時――。
とおん……
脳内を軽く叩かれるような、深く響く心地よい音に、憲房ははっと惹きつけられた。
(なんのおとだろう……)
音のなるほうへ、無意識に足が向かう。
とおん……
波紋のように音がこだまする。
心地いい。
この音をもっと聞きたい。
その心のままに、それを追ってしばらく歩いていると、突然、開けた場所にでた。
周囲を樹木に囲まれた中に、ぽっかりと、まるで隠れ家のように、その場所は存在していた。
そこに、一人の女性がいた。
憲房からは女性の背中しか見えない。
女性は、弓矢を持ち、立ち木に結んだ的に向かっている。
そして、――弓を引き絞り、矢を射た。
っ ――っと! おん……
総毛だった。
間近に聞いた射的音は細く鋭く、これまで追ってきた音は単なる残響に過ぎなかったのだと悟った。
女性の射姿は、途方もなく美しかった。
人の踏み入らぬ、幽玄の山の奥から、懇々と湧き出る、澄み切った水のように。
それが溢れ、せせらぎとなり、いくつもの命を育むように。
所作は流れ、響きは波紋のように広がり、自然への慈しみとなった。
ぼう然と、――陶然と、憲房は見入った。
ふらりと、魅入られるように、女性に向かって歩をすすめたとき。
女性は突然振り返った。
憲房も驚いたが、それ以上に女性は、ひどく驚いたように憲房を見つめていた。
巫女装束のような服を着た、綺麗な女性だったという印象がある。昔のことで、詳細な面差しは記憶にない。
そして女性は言ったのだ。
「あなた……どうして、ここへ?」
音につられてきたのだと、自分は言った。そして、女性の弓をもっと見たい、とも。
それを聞くと、女性は――最初は驚いた顔のままだったが――すぐに、嬉しそうに微笑んでくれた。
女性が憲房に、弓道を教えてくれるのは間もなくのことであり、そしてその逢瀬は一年間の間続いた。
***
「一年間?」
それまで黙って聞いていた明は、そこで初めて質問した。
「一年後、親の仕事の都合で、俺が引っ越すことになったんだ。それで、終わり」
「となると、あなたが五歳か、六歳?それ以来会っていない人のことを、よくそれほど覚えているものだな」
自分でもそう思う、と言って、憲房はほろ苦い笑みを浮かべた。
「忘れようにも忘れられない人だったよ。――今になって思えば、あれが、俺の初恋……だったのかな」
何気なくそうつぶやき、だがそう言った後、途端に柄にもないことを言った自分に焦ったらしく、かぶせるように言葉を継いだ。
「とにかく!それが別れだった。――結局、どこの誰とも分からないまま。一度名前を聞いたんだが、はぐらかされてしまったしな……。でも、別れの時、言われたんだ。『あなたが弓を続けていれば、いつかきっと会えるから』って……」
明はまた黙って聞いている。
「それからしばらくは、寂しかった。だが、彼女を想いながら弓を続けていたら、いつの間にか、ほとんどの大会では優勝していた」
憲房は自嘲するように笑う。
「周りのみんなも、神童だ、天才だと、えらくもてはやしてくれてな……。正直、あの頃の自分は調子に乗っていたと思う。自分は特別なんだ……なんてな。でもそれも、団十郎に会うまでのことだった」
「団十郎……部長のことか」
明が聞くと、憲房は重々しく頷いた。
「そうだ。あいつの弓を初めて見たときは――なんて奴がいたのかと思った。俺が目指していた弓とは、まるで別物で、だが、例えようもなくすばらしかった」
彼女が静なら、団十郎は動の弓だった。
そこで、憲房は自分の両手に視線を落とす。
「そこで、分からなくなってしまったんだ。俺は、俺の射法は、ほとんど完璧といってもいいほどに正確だ。正確なはずだった。なのに、大会ではあいつに勝てない。何度練習しても、何度正確に射ても、あいつと争うと、いつものように撃てない。正確に射たとしても、負けてしまう」
「……」
「団十郎は、いいやつだ。俺みたいなのと違って、ただ技術だけじゃなく、面倒見もいい。人望もある。何度も支えてもらったし、友達だと思ってる。――だが、こんなことじゃ、俺は彼女に会えない。もっと上達して、技術を磨いて、誰にも負けない射手にならなければ、胸をはってもう一度彼女に会うことができない!」
「……」
「そう思うと、時々、無性にあいつがねたましくなる。射手の才能も、人望も。俺にないものを持っているあいつが。……そして、友達のことをそんな風に思う自分に嫌気がさす。嫌気が差しながらも、なおねたましい……。堂々巡りだ。そんなことばかりで悩んでいる自分が大嫌いだ」
苦しげに吐き出すように言い、そこで改めて明がいることを思い出したように、うろたえた。
「いや……、こんなこと、年下の女子に話すことじゃなかったな。……何を言ってるんだ、俺は。情けない。忘れてくれ」
初めて会った新入生に、普段は見せないような心情すら吐露してしまった自分を恥ずかしく思うように、憲房は顔をそむける。
しかし明は、淡々とただ聞いていた。そして言った。
「あなたは、誰かに評価されたくて弓道をしているのか?」
「な――?」
思わず、憲房はそむけた顔を戻す。
すると、驚くほど近くに明の顔があった。
わずかに赤面した憲房だが、明は何ほどにも動じていない。
「誰かに負けてしまうなら、自分が一番にもてはやされないなら、弓を引く意味はないのか?」
責めたり、批判したりするような口調では全くない。
あくまで純粋な疑問文だった。
「違う」
気付いたときには、言葉を発していた。
考えるまでもないほどに、憲房の心は、その問いに否と答えていた。
「なぜ、射ようと思ったんだ?」
「……なに?」
継がれる漠然とした質問に、反応が遅れる。
「惹かれる人に出会った。その人の弓を引く姿が美しかった。また会いたいと思う。それは分かる。――ならば、見ていればよかったではないか?何度でも会いに行って、その姿に見惚れていればよかった。――なのに、なぜ、あなたはこうして今、弓の道にいる?」
見て、いれば?
ただ、見惚れていれば――?
「そんなこと、出来るわけがない」
断言した。
その姿を目にして、近づきたいと、思わずにはいられるわけがなかった。
「最初はただ真似をしたかった。同じことをすれば、その人と同じようになれると思った。――だが、はじめは全然だめで、――それこそ、弦を引っ張ることすら出来なかった。ようやく引くことが出来るようになったと思えば、今度は矢が飛ばない。飛ぶようになっても、ぼとりと落ちる。――悔しくて悔しくて仕方なかったよ。また、隣であの人が、それをにこにこしながら見ているしな……。だから、練習して、何度も何度も練習して、少しずつ、ほんの少しずつ進んでいって――。上手く飛ばなくても、的に当たらなくても、それが、楽しくて仕方なかったんだ。わずかでも上達するたびに、嬉しくて、嬉しくて……」
いつしか憲房は、明でも、道場でもない、どこか遠いところを見ていた。
「不思議とな、上手くなるにつれて、周りのものが良く見えるようになった。的に集中すればするほど、見えないはずの、左右はもちろん、頭の上から、背中の後ろまで、ぐるりと一周、『その場』が自分と一つになる。――その瞬間は一瞬だけど、他では体験できないものだ」
懐かしいものを思い描くように、そしてそのときの自分を思い出すように、憲房は優しい笑みを浮かべていた。
「――なんだ」
「ん?」
突然明が頷き、憲房はきょとんとする。
「先輩は、弓を射ることが楽しいのではないか」
「――」
すとん、と。さも当たり前に言われた台詞に、憲房はあっけに取られた。
「さっきまでは、一体この人は、何をそんな、やりたくもないことを無理やりやらされるように、弓を引くのかと不思議に思っていたぞ。強いられるような、焦燥にかられるような、そんな風に何度も射る」
「――」
「だが、ご自分で分かっていたのではないか。先輩は、弓道が、楽しくて続けているのだ。それならば、例え友人であろうと、自分にないものを持つ相手に出会って、悔しくないはずはない。負けたくないと思うのは同然のことだろう。人はそれを、そのような相手を、好敵手と呼ぶのではないか?」
「……」
「ねたみなどと、わざわざ負の感情に変換することはなかろう。ご自分を責める必要はない。それはな、単に弓道への愛を競っているだけだ」
ぶはっ!と、そこで憲房は吹き出した。
「愛……、愛を、競う!?団十郎と!?なんだ、それは。柄でもない!っはは――!」
さもおかしげに、これまでの鬱屈を吹き飛ばすように、憲房は笑った。
明もそれをみて、おかしげに微笑した。
「それにな、先輩は、それほど大切に覚えているその人を、信じてあげられないのか?」
「なに?」
明は笑んだ瞳で憲房を見つめる。
「その人は、『弓を続けていればきっと会える』、と言ったのだろう?――なら、先輩はそれを信じていればいいではないか。信じて、毎日楽しく、心のおもむくままに、弓を射ていればいい。ただそうしていれば、いつかきっと会えるんだろう?」
憲房は、闇の中で光るものをみつけたように、ぼう然と明を見た。
その心の中にどんな思い出がよぎっていたのか、しばらく、そのまま、時が過ぎる。
――そして、ふ、と嘆息した。
「は――。ほんとに、不思議なやつだな、お前は。失礼きわまりないのに、なぜか不快じゃない」
「ん?失礼か。何故か最近よく言われる」
「よく言われるんならほんとなんだろ。自覚しろ」
「ふむ。一理あるな。了解した。以後気をつけよう」
「お前、多分全然理解してねえよ」
高らかに笑い、すくと憲房は立ち上がった。
晴れやかな表情で明を見下ろして、言う。
「今から一矢射てくる。そこで見ていろ。――これが、俺の、烏丸憲房の弓だ」
その自信に満ちた表情に、明も頷いて答えた。
「分かった。しっかりと見届けよう」
的の前に立つ。
一度目を閉じて、深呼吸する。
それから。
足踏み――胴造り――弓構え――打起し――引分け――会――離れ――
っ ――っと! おん……
――残心。
憲房は、的を見つめていた。
今のは、彼女と同じ、一矢だった。
いつしか自分でかけていた戒めを取り払われた憲房の弓は、自分でも信じられないほど伸びやかに飛んでいった。
しばし瞑目して、――そして、誇らしげに振り返る。
「どうだ。今のが彼女の教えてくれた弓だ」
「ええ、そうね。私の弓。――ようやく呼んでくれたのね」
***
振り向いたその先。
そこに立っていた女性に、憲房は絶句した。
そして、その声にも。
憲房の手から、弓がからん、と落ちる。
そこに立っていたのは、まぎれもなく思い出の女性だった。
複雑に、美しく結われた黒髪。巫女装束のような、ひらりとした綺麗な和装。
――そして、弓矢。
何もかもが、思い出のままだった。
「――どう、して……?」
先ほどまで、道場には憲房と明以外、人っ子一人いなかった。誰かが入ってくれば、物音くらいしないわけがない。
その上、思い出の時から、十年以上たっている。
それなのに、女性の外見は少しも変わっていなかった。
女性は、困ったように微笑んでいる。
答えて言葉を継いだのは、明だった。
「先輩の故郷は、下総国だそうだな。部長に聞いた」
明がこちらに近づいてくる。
「先輩がその人に出会ったのは、祭りの日。そして、周りには花が咲き乱れていた。おそらく季節は春だったのだろう。下総国で、春の祭りといえば、まず思い浮かぶのは香取神社の例祭だ。そして香取神社で、弓の名手といえば――」
憲房の斜め後ろに位置取り、膝をついて言った。
「香取神社の祭神、経津主神に決まっている」
***
誰も何も発さない。
憲房は、憧れの人を目の前にして、何も言うことができなかった。
知らず知らずに、膝をつく。
そんな憲房の仕草を少しだけ寂しそうに見つめて、その人は言った。
「あの時は、名前を名乗ることができなくて、ごめんなさいね。こんばんは。経津主です。――あなたが、私を呼ぶほどに成長してくれるのを、ずっと待っていたのよ。……あのときの子が、もう、こんなに大きくなったのね……」
少しずつ、女性は近づき、憲房の前に立つ。
その溢れ出る神気を、今なら感じることができ、憲房は思わず頭をたれた。
「頭を上げてちょうだい憲房、その顔を良く見せて」
その言葉に、おずおずと、顔を上げる。
視線が絡み合った。
思い出す。
記憶の中の顔が、鮮明によみがえり、目の前の美しい人と重なった。
「もう立派な男の子になって……。まったく……もう少し早く、呼んでくれてもよかったのではなくて?」
からかうように、経津主神は言う。
「……御神は、神社にいながらにして分身を飛ばすことなど造作もないが、祭神であらせられるからな。――相応の力量を有した巫の召喚でなければ、そうそう出て行くことも難しかろう。あなたがそれだけの巫覡になるのを、この方はずっと待っていらっしゃったのだ」
差し控え、頭を下げつつ、小声で明は言う。
こみ上げる想いが邪魔をして、言葉を口にすることが難しかった。
声を振りしぼるようにして、憲房は話す。
「ずっと……、お会いしたかった」
くすりと笑って、経津主神も答えた。
「私もよ。祭事で現に近くなっていたとはいえ、神である私を探しあててしまった上に、ずば抜けた弓の才気を持っていて、いつもちょこまかと後をついてくる男の子が、可愛くて仕方なかったから」
改めて自分の行為を言葉にされて、憲房は恥ずかしさに顔を赤らめる。そして、恭しく言った。
「もったいない、お言葉です……。こうしてまた会えて、とても嬉しい。ですが――、まさかあなたが、祭神でいらっしゃるなどとは、思ってもいませんでした。あなたに、せっかくここまで御出でいただいたあなたに、捧げられるようなものを、私は今、何ももっていない……」
それがいかにも悔やまれる、というように、憲房は唇をかむ。
だが、経津主神は、それをさえぎるように手を差し伸べた。
「いいえ。今の一矢は、どんな捧げ物にも代えがたいものでした。すばらしく美しい――そして懐かしい、射法八節。昔の私にそっくり。あなたは、私の教えを、本当に大切に覚えていてくれたのですね……」
経津主神が差し出した両の掌に、ぽう、と一本の矢が現れる。
「御礼に、私も一矢を返しましょう。この矢は、あなたに差し上げます。……あなたに触れることのできない私の代わりに、あなたの側近くあるように」
はっと、憲房は顔をあげた。
経津主神は、優しい微笑みを浮かべている。
神物を下されるという、限りない誉れに――そしてまた別の個人的な理由に――頬を上気させながら、憲房はその矢を両手で捧げ持った。
「――謹んで、お受けいたします」
そうしてその矢の中央に――ちょうど経津主神の掌の上に――、畏敬の念を込めて、接吻を落としたのだった。
***
経津主神が還られた後、憲房は感心したように明に言った。
「お前、いつから気付いていたんだ?」
「うん?」
「俺の想い人が、人ではないって。どうも、最初から気付いていたように感じるんだが……なんでだ?」
「ああ。先輩には、どなたかは存じなかったが、神の気配がずっとあったからな」
「なんだと?」
驚いたように明を見下ろす。
「今まで誰にもそんなことは言われたことはないぞ。お前……ずいぶんと異能が高いんだな」
「いや?一年無級の落ちこぼれだぞ」
「はあ!?」
「今も、経津主神の御姿は拝見できなかったからな。先輩の一人芝居を見ているようで、なかなか奇妙な光景だったぞ」
「おま……っ!だって、言葉は!?会話していただろ?」
「それも、直接は聞こえていない。紫にお願いして、『言霊』で通訳をしてもらっていたのだ。それで会話の内容を教えてもらった。紫は御神の御言葉を聴くことなど容易いからな。現に、私が御神と直接御言葉を交わしたことはなかっただろう?」
明の言葉を聞くにつれて、ぷるぷると、憲房は震えだした(もちろん怒りでだ)。
「じゃあ……何か?お前は気配を感じられるだけで?先の会話はお前の友人に筒抜けで?……お前は俺が一人で喋ったり動いたりするのを見ていた、と――?」
「ああ、その通りだ」
あっけらかんと即答した明に、憲房は手刀を食らわせようとして、あっさりとよけられた。
「なぜ怒る」
「恥ずかしいからに決まっているだろうが!」
なんとかして突っ込みを入れようと手を繰り出す憲房に、ひらひらとよけ続ける明。
「恥ずかしくなどない、感動的な会話だったではないか。案ずるな、紫は口外するような愚かな人間ではない。無論私もだ」
「そういう問題じゃない!男子高校生の繊細な心をなめるな!!」
そうして二人が和気藹々とじゃれて(?)いると、道場の戸が開いて、紫と団十郎が入ってきた。話が終わったことを察した紫が、団十郎を連れて戻ってきたのだ(何しろ名目上は部活見学の途中であったのだから)。
「あら、まあ……。烏丸さんは、ずいぶんと無駄な努力をなさっていますのねえ……」
「へえ。明ちゃんはすごいね。憲房の動きについていけるなんて、すごい身体能力だよ」
「紫!」
「団十郎!」
見物人が来ては、さすがに追いかけっこを続けるわけにも行かず、二人はお互いの友人の元へと駆け寄った。
見ると、団十郎はまだ道着のままで、薄く汗をかいている。
「お前……」
「ああ。しばらく時間がかかりそうだったからね。基礎鍛錬をして待っていたんだ。部長として、新入生を残して帰るわけにはいかないからね」
それはそうとしても、そこで鍛錬をしながら待っていたというのが団十郎らしい。
憲房は、知っていた。
団十郎は、憲房と同じくらい――、いや、もしかしたら憲房以上に、日々の練習を欠かしていないことを。
そしてそれだけの鍛錬を積みながら、部長職もこなしながら、皆に笑顔で振舞っていたことを。
「……すまなかったな」
心から憲房が言うと、団十郎は、憲房がその一言に込めた気持ちを、全て分かっている表情で笑いながら、
「――何のことだ?それより、お前が、憑き物が落ちたような顔で笑っていてくれることが、俺にはなにより嬉しい」
と、朗らかにいった。
憲房は苦笑する。
本当に、この友人の懐はどこまでも深く、自分よりも余裕があるように見えて、やっぱりそれは少し悔しい。
「団十郎。今度久しぶりに、勝負をしよう。十本勝負だ」
「ああ、いいよ。何なら今からでもするか?」
「馬鹿野郎。いろいろあって俺はもうへとへとなんだ。また今度にしろ」
「なんだ。そのくらいのハンデはくれないのか。一皮むけたお前に勝つのは、俺でも難しいぞ」
「よく言うよ。負ける気はないくせに」
じゃれあうように言い合いを続ける二人を尻目に、紫は明に耳打ちした。
「あとはもう二人でも大丈夫そうですわね。……私たちは、帰りましょうか。そろそろ門限が心配です」
「ああ、そうだな」
そう言って帰ろうとする二人に気付き、憲房が呼びかけた。
「久遠時!――あ、い、いや。明!」
苗字を呼んだら、二人同時に振り向いたことで、二人を区別をするために、明を下の名前で呼ばざるを得なかった。
そのことでうっすらと赤くなった憲房を見て、
(おや……?これは……)
と、紫と団十郎の二人は、憲房に小さく芽吹いたほのかな感情を察する。
「その、……いろいろと、悪かったな。……それと、――ありがとう」
真摯な顔で礼を言う憲房に、
「気になさらず。あなたの実力と、紫の通訳のおかげだ」
さらりと返し、ではな、と手を振って、明は去った。
「……まったく、明はどこにいっても人気者ですわね」
憲房のあの表情。明への好意は見逃しようもなかった。
女子寮への帰り道。紫が感心したように言うと、意外そうな声が返ってきた。
「どこがだ?今日も失礼な奴だと叱られたばかりだ。しかしな、正直に喋っているだけだからな……。嘘はつけないし、どうしたものかな?」
そんなふうに、つらつらとぼやいている明に、紫はあきれ果てた。
「ほんっっとうに、鈍いですわね……」
まあよいでしょう、と紫は思うのだ。
紫はこの幼馴染のことが大好きだったから、彼女が他人から寄せられる好意に鈍いことは、むしろ歓迎するべきことと言えなくもなかった。
(今頃、烏丸さんは、部長さんにからかわれているかしら……)
そんな風に楽しい(憲房にとっては迷惑な)想像を巡らせながら、明と肩を並べて、春の宵の中、花々の芳香と共に、帰途の道を辿っていった。




