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~部活見学・前編~

 烏丸(からすま)憲房(けんぼう)の朝は早い。

 始業時間二時間前には道場に登校し、道着に着替えて道具を取り出すと、まずは正座して目を閉じる。

 早朝の空気は清清しく澄んでいて、まだ人の気配は少なく、小鳥の鳴き声や樹々のざわめきといった、自然の声が濃厚だ。

 憲房は、真冬のキンと張り詰めた、痛いほどに冷涼な空気が、精神も澄んで引き締まる様で好きだが――、幾分冷たさを残しながらも、かぐわしい花の香りが柔らかくただよう春の早朝も、嫌いではなかった。

 清冽な空気を深く吸い込む。深呼吸するにつれ、思考から余計なものが少しずつそぎ落とされていく。

 『自分』という個がその場に拡散して、世界と融合していく。

 最後に意識に残るのは、『弓』と『的』、それだけだ。

 そうして、憲房は立ち上がる。

 

 両足を踏み開く『足踏み』、重心を整える『胴造り』、矢を持ち的を見定める『弓構(ゆがま)え』、両手を掲げる『打起(うちおこ)し』、弦を引く『引分け』、心身を合一して射る瞬間を計る『会』、矢を発する『離れ』、姿勢をそのままに的を注視する『残心』。

 この八つの過程――『射法八節』を、流れるように一連に行う。一度たりとも断絶することのなく、一つの円環のように、動き、連ね、そして――。

 最後には、見事に中心を射抜かれた的が残った。

 憲房は呼吸を整え、次の矢を手にすると、そしてまた一連の流れで的を射抜いた。

 

 それを十五回繰り返したとき、初めて矢が的の中心を外れた。

「……っ!」

 憲房はそれを見ると弓を置き、いらだたしげに短い髪をかき混ぜた。

 悔しげに顔をゆがめる。

 それは単に、的を外したから悔しいというだけではない、何か追い詰められたような焦燥感すら見えた。

(憲房……、あなたは、憲房というのね。覚えておくわ。きっと……いつかきっとまた会えるから――)

 懐かしい記憶の面影が脳裏をかすめる。それを振り切るように、憲房はぎゅっと目を閉じた。

 それから一時間、弓術の練習を続けてから、道場に備え付けのシャワーで汗を流した後、制服に着替え、教室へと向かった。

 平日の朝の、それが毎日の憲房の日課だった。


***


「部活見学?」

「ええ、ぜひ観に行きたいなと……。ご一緒してはもらえませんか?」

 入学式の数日後、共に食堂で昼食を食べていたとき、紫の言葉に明は箸を止めた。

 それから思いだすように中空に視線をやる。

「確かに……。入学式でも、ずいぶんたくさんの部活動が、演技をしていたな。登下校時の勧誘も非常に熱心だし――、神学院は部活にも力を入れているのか?」

 さも興味のなさそうな明の口調に、紫は力説した。

「力を入れているどころではございませんわ。武道、球技、演劇、文芸、音楽にいたるまで、神学院は全国大会優勝候補の常連といっても過言ではありませんのよ」

「そんなにか」 

 紫の剣幕に若干たじたじと、明は相槌を打つ。

「それに、部活動は何かしらやっておくべきだと、私はお勧めいたしますわ。何であれ、勉学だけでは学べない部分がありますもの。現に、私が入部を希望している弓道部が良い例です」

「なんだ。見学に行きたいのは弓道部なのか?」

「はい。弓道は、単に的に矢を中てる競技と思われがちですが……、どちらかといえば、精神の鍛錬に重きをおいたものです。集中力、気力の充実、いつも平静を保つ不動心、そういったものを養うのに弓道は最適ですわ。そして、これらの精神力の向上は、必然、神力の向上にもつながります。ですから、巫女のしての修行としても、適しているのですよ」

「そうか。そういう一面もあるのだな……」

 明はしばし、思案した。

 部活というものは趣味の延長線上だと考えていたから、特にどこかの部に所属する必要性も感じていなかったし、入部の勧誘については、よくもまあこれほど熱心に誘えるものだと感心しながら(その勧誘の熱心さは、明の外見と久遠時の姓が大きく影響していたのだが、本人は気付いていない)、丁重に断ってきたものだ。

 だが、今の紫の話を聞くからには、部活というものは神力の鍛錬にも貢献する部分があるという。

 ならば、自分も何らかの部活には所属しておくに越したことはない。

 なにせ、明が神学院に入った目的は、巫女としての実力をつけて、(かれら)と意思疎通を計ることなのだから。

「わかった。そういうことなら、私も部活見学に同行しよう」

「まあ、本当ですか。ありがとうございます」

 紫は、なるべくなら明と同じ部活に入ることができれば嬉しい、と思っていたから、まずは、見学に同行してもらうという第一関門を突破できたことを喜んだ。


***


「こんにちは!いらっしゃい。……うわあ、これは綺麗なお客さんだね。二人とも、新入生?弓道部を、見学に来てくれたのかな?」

「はい。私は久遠時紫、こちらは同じく明と申します。練習を拝見させていただきたく、どうぞよろしくお願いいたします」

「久遠時明だ。よろしくお願いする」

 なんとも対照的な二人の挨拶である。

 入学間もない、この時期である。二人の他にも、道場付近は見学希望者が何人も集まっていた。

 部員である上級生たちが、見学希望の署名をもらったり、試射の順番を決める番号札を渡したりと大わらわだ。弓道部というのは、どうやら神学院ではなかなかに人気の部活らしい。

「久遠時……君たちが噂の久遠時姉妹か!やあ、話には聞いていたけど、本当に二人とも美人だなあ!こうして話すことができて嬉しいよ」

 明と紫の対応をしてくれたのは、大柄で、いかにも純朴そうな青年だった。二人の名前を聞いて、まるで有名人に会えたかのようにいかにも嬉しそうにきらきらと目を輝かせている。まるで愛すべき大型犬がぶんぶんと尻尾を振っているようだった。

「――あ、いや、申し訳ない。僕は()()()()雑貨屋の息子で、高貴な方たちとは縁がないものだから、君たちが特別な家柄なんだと聞いてはいても、どうもぴんとこなくてね……。他の新入生の子と同じようにしか接することができないと思うけど……、礼をとれず、気に障ったら申し訳ない。この通り。許してくれ」

 そう言って、折り目正しく、頭を下げる。

 明と紫は、目を見合わせて、顔をほころばせた。

「どうか、頭を上げてください。あなたは上級生で、私たちは他の見学希望の子と同じ、ただの新入生です。家の名など関係ありません。謝っていただく必要など、どこにもありませんわ」

「あなたが正しい。ここにいるのは、一風変わった単なる一年生二人だ」

「……なんですの、その、一風変わった、というのは」

「おかしいか?私はよく変わっていると言われるのだがな」

「それはあなただけです。私を巻き込まないでください」

 いかにも心安げな、ぽんぽんと交わされる二人のやり取りに、青年は目を白黒させ、次いで楽しそうに笑い出した。

「あっはは!確かに。ただの新入生、ね。分かった。そのように扱わせてもらおう。――僕は、清水団十郎(だんじゅうろう)。一応、この部の部長をやらせてもらっている。どうぞよろしく」

 それを聞いて――、今度は二人が目を丸くして、丁重に礼をすることになったのだった。


***


「さて――、それじゃあ、皆。弓道衣には着替え終わったかな?着付けでおかしなところがあれば、遠慮なく、周りの部員に言ってくれ。その他、質問でもなんでも、気軽に声をかけてくれればいいぞ。きょうの見学で、充分に弓道の魅力を伝えられたら、俺はうれしいからな」

 部長の清水は、たいそう気安い人柄のようだった。

 周囲の部員たちからも「部長、見学会だからって張り切りすぎですよー」などと、野次が飛んでいる。

「ずいぶん、おおらかな性格の方なようだな」

「そうですね。――でも、部員の方からの信頼も篤いのが、見ていても分かりますわ。人望のある方ですのね」

 明と紫も弓道衣に着替え、見学者の列に並んでいた。


 その時、ふと、道場の隅に、一人の部員が立っていることに、明は気付いた。

 今日は新入生に向けた見学会の日であり、部員は総出でその対応に追われているはずだ。だが、その中で彼は一人黙々と、壁際で練習をしていた。

 気になった明だが、

「さて、じゃあ説明をするより、まずは俺が射てみるか!百聞は一見にしかずというしな。見てもらったほうが早いだろう。それから各自体験練習に入ってもらうとしよう」

という声に、視線を部長へと戻した。

 部長が矢を射ると聞いて、部員たちもそろって見学できる場所に位置どった――、明が気に留めた一人を除いて。

「射法には詳しい作法があるんだが――まあ、説明はあとだな。それじゃ、行くぞ」

 そういって、弓と矢を手に持つ。

 途端、部長の顔つきが変わった。表情が違う。目の色が違う。何より放つ雰囲気が大違いだ。

 先ほどまで、豪放磊落(ごうほうらいらく)、いかにも人好きのする好青年だったが、今はどこか戦士のようにも見えた。

 ぴんと張り詰めるほどに、彼の意識が細く細く研ぎ澄まされていく。

 やや脚を開くと、的を見据える。

 矢をつがえ、徐々に部長の腕が持ち上げると、だれが指示したものでもなく、自然と会場には沈黙が落ちた。

 まるで、拘束されるような沈黙だった。

 自分の呼吸の音さえ聞こえそうなほどに静まり返り、明は思わず息を詰める。

 身動き一つできない。

 団十郎はただ一人、悠然と立つ。

 弓矢を掲げた所から腕を下ろしつつ、きりきり、きりきりと弓が引き絞られていく。

 暴れんばかりの力が、そこに生じるようだった。

 引き絞るほどに、弓矢の檻の中に獣が膨れ上がり、凶暴なそれは、()()()()、とばかりに荒れ狂う。

 射手は、それを懐に抱えながら、機が熟すまで、さらに弓を引き絞り、獣を己が内で成熟させていく。

 いつだ。早く。まだか、まだか。

 明は思った。

 あれは、戦いだ。

 自分自身と戦っているのだ。

 見ているほうが焦燥に駆られるほど、弓と、空気は、張り詰め、そして――。


 ビッ――   ――たぁん!!


 機が頂点に達したとき、矢は放たれた。

 『離れ』の音は、意外なほどに短く、そして的に(あた)る音は、まるで儀礼祭典の(つづみ)のように、朗々と、道場に響き渡ったのだった。

 それは余韻を残して去り、しばし的を見つめた後、団十郎は構えを解き、礼をした。

 顔を上げたときには、もう元の朗らかな部長だった。

 矢は、的の中心を射抜いていた。


 わあっと歓声が上がる。

 新入生たちは、初めての演舞を目にして、興奮に顔を上気させていた。

「すばらしい……!なんて美しい射法八節なんでしょう」

 紫も例外ではなく、その射技に見惚れ、やや熱っぽく賞賛の言葉を口にした。

 明も、人の動作をここまで美しいと思ったのは、紫と鳩羽さんを除いては初めてのことだった。


「それじゃあ、今度は君たちも弓に触れてみようか。――大丈夫、いきなり射てみようなんて無茶は言わないから、僕たちと一つ一つ慣れていこう」

 それをきっかけに、各部員が新入生につき、まずは道具の持ち方から指導を始める。

「本当は基礎はみっちり時間をかけてやるんだけど、今日は見学だからね。君たちもやはり自分で射るところを体験してみたいだろうから、最後には、皆に射法の時間をあげるよ。まずは飛ばすことが出来たら、充分に及第点だね」

 部長の言葉に、見学生たちは一気にはしゃいだ。

 なんであれ、たとえ飛ぶかどうかも分からなくても、やはり弓道部に来たからには、矢を射る経験がしてみたかったのだ。


 しばらくは、そんな風に和やかな時間が流れた。

 この分では、弓道部に入部希望する者も多いだろう。そんな風に思われた――、その時だった。


「すまないが――練習の邪魔だ。話しかけないでくれないか」


 そんな台詞が、賑やかな道場に何故か良く通って、楽しげな見学会を凍りつかせたのだった。


***


 その台詞を発したのは、道場の片隅で、見学者に目もくれず、一人黙々と練習していた男子生徒だった。

 部長が、指導していた新入生に席を外すことを断って、そちらに駆けつけると、

「憲房……」

少し困ったように、部長はその男子生徒の名前を呼んだ。

 どうやら、新入生の女子が、離れて練習していた男子生徒――憲房に興味を持ち、練習中でもかまわず色々と話しかけたらしい。

 憲房と呼ばれた男子は、やや険のある目つきで部長を見やる。

「団十郎。部の活動を維持するために、新入部員を勧誘する必要があるのは分かる。だから今回の見学会も黙認した。――だが、練習の邪魔をされるのを容認した覚えはない。見学会はお前に任せると言い、お前もそれで了承したはずだ。新入生の監督はしっかりしてくれ」

 おかしなことだった。

 団十郎は部長であるというのに、憲房はまるで自分が上であるかのようなきつい口調で物を言うし、部長は部長で、それに逆らう様子もない。むしろ、痛ましそうに憲房を見ている。

「……何よ。自分だけ頑張ってるみたいに。――大会では部長に敵わないくせに」

 誰かがぽそりとつぶやいた言葉は、発言した本人も驚くほど、はっきりと道場に響いた。

「誰だ!?」

 憲房は気色ばんで発言者を探す。だが、誰しもが視線を逸らして答えようとしない。

「憲房!」

 団十郎は憲房の肩を抱いて壁際に寄った。

「みんな!練習を続けてくれ。ご機嫌斜めな幼馴染のお相手は、俺の役目だ」

 そんな風に、堅くこわばった道場の空気を解きほぐしながら、憲房に向きなおる。

 そして小声で口早に告げた。

「悪かった。お前の邪魔をしたのは全面的に俺が悪い。監督不行き届きだ。申し訳ない。この通り、謝る。だから――だから、ようやく、弓道を楽しいと思い始めてくれた新入生の皆を、どうかこのまま練習させてやってはくれないか」

 団十郎と憲房は、同じ3年生だ。

 昔から一緒に、弓道をやってきた仲間でもある。

 そんな団十郎に真摯に謝られて、憲房も幾分理性を取り戻した。

「……悪かった。あんまりしつこかったものだから、つい、かっとなって……。お前の邪魔をしたかったわけじゃない。――弓道の魅力に、気付いてくれた子達を、手放したいわけでもない」

 団十郎はほっとした。

「わかった。今後はお前に、不用意に見学生は近づけない。練習の邪魔はさせない。約束する」

 あくまでも非を認めて謝る団十郎に、憲房もいつまでも渋い顔はしていられなかった。

「……部長がそんなに頭を下げるものじゃない。……俺も、悪かった。見学会を続けてくれ」

 団十郎は、途端にぱあっと顔を明るくする。

 それを見て、憲房は苦笑した。本当に感情を隠せない奴だ。

「じゃあな。――教えてた新入生のところに、早く戻ってやれ。こんなことになった以上、この上さらに俺によってくるような物好きもいるまい」

「ははっ、機嫌を直してくれたようでよかったよ。じゃあ、行ってくる。練習、頑張れよ」

「ああ」

 急いで、教えていた新入生の元へ戻っていく団十郎に、憲房はため息をついた。

 決して嫌いではない。団十郎は、尊敬すべき友人だ。

(だが…、それでも……)

 いつまでもしつこく湧いてくる思いを振り払い、憲房は練習を続けた。


 暫くの後。

 誰かが近寄ってくる気配を感じ、憲房は手を止めた。

(誰だ……?)

 まさか新入生ではあるまい。そう思って振り向いた憲房だったが――

「申し訳ない。物好きな新入生の登場だ」

顔を向けた視界に飛び込んで来たのは、見学生用の弓道衣を着た、光り輝くような美少年だった。

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