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trip change  作者: tamap
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鍛錬

 まずは金。

鈴香もいくらかの蓄えは持っていたが彼女の慎ましい生活の様子が判っていたのでそれを減らすのはしのびない。

この前のストリートファイトの報酬として相手の財布を頂こうとしたのだが、それはレイコに止められてしまった。

どうやら犯罪になってしまうらしい。


 そこの所が彼には馴染めない。

どうして自分に危害を加えた者に報復する事がいけないのか、か弱い抵抗以外認められないのか。

 テレビを見ていても犯罪者の方が保護されているのではないかと思う事さえある。

それならそれで、できるだけ上手く立ち回るべきなのだろうと思うのだが、レイコの道徳観は筋金入りで彼にもそこからはみ出して欲しくは無いらしい。


 テレビと言う物は彼にとって素晴らしい情報収集の道具だった。

リモコンの使い方が良く判らないと言うか、消費電力を抑えるためかコンセントを抜かれていたためにリモコンとテレビの関連性すら判らなかったので、レイコがやって来るまでテレビが何のための道具が見当も付かなかった。

今はテレビからの情報でニュースによる世間で何が起こっているのかと言う情報から、コマーシャルによる家電製品の使用方法、ドラマや芝居による買い物の仕方とか世間の常識等々、大変な優れものだった。

高度な知識を教えるチャンネルなどもあり、テレビにより教えられた知識は多い。


 そのテレビを見ながらリンはゆっくりと体を動かして行く。

鈴香の体は全くと言うほど鍛えられて無く、彼がまずしなくてはならなかった事は彼の元の肉体程とは言わない物の彼がある程度自由に動かせるだけの体を作る事だった。

女性の体をやたらと鍛えてもどうかとは思ったのだが、現に今宿っている彼にとってそのふにゃふにゃの鍛えられていない柔らかな体のままでは扱いにくい事この上も無く、不都合でもあったので、最低限は鍛えさせてもらう事にしたのだ。

 彼が元の体でごく当たり前にやっていた事がこの身体では出来ないのだと気付いた時はさすがに愕然としたものだが、、もっとうんざりしたのはこの身体には彼が【赤ん坊】と呼んでいた3歳以下の子供と同じ程度の準備運動から始めなくてはならない事だった。


 しかしまあ、鍛えられていないにしても健康ではあったらしく息切れはするものの身体は良くついていってくれた。

彼がかつて一度も経験した事も無く、一応理論的には知っていた筋肉痛に少々驚きはしたが。


 ひと月が過ぎる頃には、リンの身体の方が劇的に変わった。

一族の秘儀にあたる鍛え方もあったのだろうが、その体の支配者である魂に引きずられたかのようにリンの身体は一族ほどでは無いものの鍛錬に驚くほどスムーズについて行くようになったのだ。

そして今は、レイコに『ありえない』と呆れさせるほどの身体能力を持っている。


 ひとまずの鍛錬を終えてリンは部屋の隅から紙袋を取り出す。

中に入っているのは紙に包まれた生地。

それを畳の上に広げると印一つ付けずにザクザクと切って行く。

この生地を見つけたのはレイコに連れて行かれたデパートと言う城のように巨大な市場だった。

その建物の中には様々な店が目も眩むばかりに飾り立てられて豊富な商品を展示している。

うわさに聞く世界中の富が集まると言う海賊王の支配するヴァルタの市でもこれ程ではあるまいと思った。

 伸縮性のある肌触りの良い丈夫そうな生地はおあつらえ向きに艶消しの素材で望みどおり色は黒。

「お葬式みたいよ」と言いながら彼が買おうとしていたそれをレイコは自分の買い物と一緒にカードで支払ってくれた。

彼が生地を手に入れようと思ったのは差し迫った必要があったからだ。

とにかく着る物が無い。

鈴香の服は彼が着るには相応しいとは言えず辛うじて着られる服はシーズンに合わなくなっている。


 三か月余りずっと彼にくっ付いていたレイコは今は居ない。

最初に着替えの入った大きなボストンバッグと布団袋を持ち込み、めったと家に帰らなかったレイコも季節がすっかり変わってしまったので一旦家に帰らざるをえなかったのだ。


 とりあえずこの国の金、と再びリンは思った。

レイコの言うとおり犯罪は犯さぬ方が良いだろう。

自分がドジを踏むなどあり得ぬことだと思ってはいるが、レイコに説明の出来ない金だと困る。

それに、いつの事になるか判らないけれど、この身体には傷一つ付けずに元の持ち主に返したいと思っているのだ。


 考え事をしながらも、リンの手は器用に間違えなく美し縫い目で針を運んでいる。

型紙も無く適当に切ったように見えるのに寸分の狂いも無く寸法が合っている。

そうやって切りながら今の自分の身体が元の自分より随分と華奢なのだと思い知った。

自分の身体の寸法は自分を見下ろし少し触ってみるだけで服が作れるほどちゃんと判る。

なにしろ、他人のそれなら一目見ただけで寸法が判らなければならないのだ。

もちろん、先輩戦士の着る物を作るために。


 【子供】と呼ばれていた3歳以降、床磨きから始まって掃除、洗濯、繕い物、料理は言うに及ばず、勿論服も縫えなくてはならない。

育児だって出来なくは無い。

何しろ3歳以降の戦士の卵を手が掛からなくなるまで育てるのは少し成長した彼らの役目なのだから。


 突然、リンの手から持っていた針が飛んだ。

壁に黒光りする昆虫が針に串刺しにされてカサカサともがいている。

 季節が夏に変わろうとしていた。

雨ばかり降り続く季節は終わったものの部屋の中はむしむしと嫌な湿気で、どちらかと言えばからりとした寒冷な気候に慣れた彼に不快感を与えていた。

 お嬢様育ちのレイコの不快感は彼の比では無いようで、しきりとクーラーを欲しがっていたが彼女が衣替えを名目に逃げ出したのは、このゴキブリと言う名の不快害虫が主な原因だろう。


 リンは壁に刺した針を取り返しがてら、クシャリと虫を握り潰した。

手と針を洗うと平然と縫い物を再開する。

針のように細く軽い小さな物を投げて標的に命中させ、さらにそれを壁に縫い付けるなどと言う芸当をごく普通にやってのけた彼はそれがどれほど常識はずれな事か理解していない。

彼の仲間たちならばそこらの雑草の葉一枚でさえ凶器にして戦えるのだから。

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