戦士
字はあっという間に読めるようになった。
からかわれているのではないかと、ちらりと思ったけれど、からかうのならあれほどの学習のやりかたはすまいと思う。
本当に熱心に小学校の一年生からの国語の勉強をやったのだ。
きっと忘れてしまった事を思い出しているのよ、とレイコは思っていた。
そうでないと困るのだ。一応大学生だし、真面目な学生だった鈴香は殆どの単位は取り終えているとは言え、まだ残っている単位もあるのだ。
いつまでも、休んではいられない。
教育学部で小学校教諭への道を目指している鈴香とは違って、お金持ちのお嬢様のレイコは、と言えば大学に行ったのは学歴を付けるためと結婚までの猶予期間に遊ぶためであり、真面目に資格など取る気はさらさら無かったのだが入学式で鈴香に出会ってしまった。
それは恋だったのかも知れない。
自分にレズっ気なんて無いと思っていたのに、一見ごく平凡な鈴香に出会った瞬間に激しく惹きつけられる自分をどうしようも無かったのだ。
生まれも育ちも全く違うのに、同じような境遇に生まれ育った娘たちと居るよりずっと楽しかった。
遊ぶどころかこの上も無く真面目な学生生活を送る事になってしまった事を後悔なんてしてはいない。
鈴香に会えて、一緒に学生生活を送れてどんなに楽しかった事か。
自分の名はリーンだと言うのでレイコは鈴香をリンと呼ぶようになった。
鈴はリンと読まなくも無い。
学校に行ったのはそれから一週間ばかりが過ぎてからだった。
レイコがリンに着せようと思っていたワンピースは却下されて、リンが着ているのは持っている中で一番スポーティーなコットンパンツとTシャツ、そして大き目な作りの上着だった。
いつもならそんな組み合わせはレイコよりよほどお嬢様っぽいリンには似合わないのにとても良く似合っていた。
きっとそれは、今のリンの表情のせいかもしれない。
表情が驚くほど力強いのだ。
目には強い光が宿り、以前の自信無さげな気弱さ、曖昧さが綺麗さっぱり消え失せているのだ。
学校に着いた途端、近づいて来る集団にレイコは嫌な顔をした。
本来ならばレイコが属していてもおかしくないお嬢様グループなのだが、レイコは大嫌いだった。
やる事なす事お嬢様風を吹かせて鼻についたし、何よりもどこがどう気に入らないのかリンに嫌がらせをするのだ。
嘗ての鈴香はおっとりとした性格でその嫌がらせに気付いていない事も多く、レイコもそれとなく庇っていたのでどうという事も無かったのだが・・・。
「ああら、白川さん。
失恋の痛手からはもう立ち直ったのかしらぁ?
竜村君も御馳走に飽きてお漬物でも摘みたくなったのかしらねぇ」
彼女らはやはりどこから聞きつけて来たのかレイコが一番話題にして欲しくなかった話しを口にして来た。
あの、最低男の竜村と彼女たちが係わりが有った訳では無く、竜村も逆タマ狙いならばともかく食い物にするには彼女たちの親が大物過ぎて手が出せなかっただけなのだが、、派手に遊んでいると言う噂のハンサムな男が自分たちを無視して平凡な鈴香を次の交際相手に選んだことが許せなかったようだ。
苦労知らずなお嬢様達だけあって竜村の黒い噂など全く知らなかったのだ。
「私の容姿を話題にしてからかえるほどお前たちが美しいとは思えぬのだがな」
レイコが何か言うよりも早くリンがそう言った。
レイコはドキリとした。
リンのその声は彼女が今まで聞いた事も無いほど冷たい物だった。
悪名高いお嬢様グループが何故か一言も反論できず立ち竦んでいる。
レイコは丁度後ろになっていて見えなかったのだがリンのその時の目は人喰いの獣のように怖い物だった。
それから、何の邪魔も入らず無難に一コマだけ入っていた授業をこなし、後は図書館に籠って様々な本を読んだ。
時折リンが質問をしそれにレイコが答えたり、共に文献を調べたりしながら平穏に。
このままリンが記憶を取戻し、元の鈴香に戻ってくれると思っていた。
三カ月ほどの後に、ニッコリ笑いながら屈強な5人の若者を完膚なきまでに叩き潰すのを見るまでは。
「あの人たち警察に言うかしら」
レイコは怯えたように去って行った一団の方を窺った。
「言わんだろう。あいつらは堅気じゃ無かった」
「まあっ、暴力団なの?」レイコはもっと怯えた。
「心配はいらない。レイコの顔は見られていない。それに奴らは何もせぬよ」
彼等の中でたった一人だけだが、はっきりとリンの事を認めていた。
だから手下と思しき者たちを止めたのだ。
後の奴らはぼんくらばかりだった。
あれ程はっきりと気配を投げつけてやったのに反応したのは件の男一人と言う有様なのだから。
以前は大人しい鈴香をレイコが守る立場だった。
だが今は完全に逆転している。
普段は大人しいが突然ぎょっとする様な言動に及ぶリンを一生懸命止める立場になってしまったのだ。
「いつの間にリンちゃんあんな事出来るようになったの?まるで格闘ゲームを見ているようだったわ。
どちらかと言えば実技系は苦手だと言ってたじゃない」
小学校の教師を目指す鈴香の唯一の弱点が体育だったのだ。
レイコの言葉にリンはちょっと困ったような笑みを浮かべた。
鈴香の中に別人の男が入り込んでいるという事を未だ信じて貰えないのだが、それでもがらりと人格が変わってしまった鈴香を見捨てる事無く親身に世話を焼いてくれる。
レイコが居なければこの世界への順応はもっと時間が掛かったはずだった。
「我らは戦士の一族だから」
リンはこれまでにも何度も繰り返して来た答えを口にした。「戦いは我ら一族の習いせだから」
その答えを聞くとレイコはいつも同じ表情を浮かべる。
その悲しげな顔を見たくなくて、できればそれを口にしたくは無いのだがレイコにだけは嘘を吐きたく無かったのだ。