敵を欺くには
コクピットの中はむせ返るような血の匂いだった。
もうすでに犠牲者が出ているようで、操縦席のパイロットの様子がおかしかった。
「はい、これがナイフ。セラミックだから切れるよぉ」
狭いコクピットに連れ込んだのは男達を暴れさせないためだろう。
「でも、トンちゃん達に向けたって駄目だよぉ。こっちには銃があるしぃ、ま、お嬢ちゃん達じゃ無理だけどね」
へらへら笑いながら渡されたナイフをレイコは持っている事さえできなかった。
傍らからリンがそのナイフを取り上げる。
「リンちゃんごめんね、・・・・ごめんね・・・・。
飛行機嫌いだって言ってたのに、無理に付き合わせちゃってこんな目に遭わせて・・・・」レイコは泣きじゃくった。
優しく、本当に優しく、リンはレイコの背を撫でて、それからゆっくりと桑原達に向き直った。
村上はもう真っ青だった。だが、真っ直ぐ目を逸らす事も無くじっとリンを見つめている。
「よ、よすんだ!」
副パイロットがかすれた声で言ったが、銃を向けられると黙ってしまった。
「さあさ、早くしましょう。あのパイロットのオジサンみたいになりたくないでしょう?」
糸目の男が楽しげに言った。
トスッと、まったく無造作にリンはナイフを突き刺し引き抜いた。
刺された村上の胸からピュッと血が飛び、リンの頬にかかる。
あっ、と声を上げてレイコが気絶し、村上もその場に崩れ落ちた。
レイコの力の無くなった体を片手で支えナイフを持った手をだらりと下げたリンは犯人たちの方を向いて頬にかかった血をペロリと舐めた。
リンの表情が鮮やかに変わる。
犯人達は呆然自失し、その一瞬で十分だった。
「うわっ!」
糸目の男が叫び声をあげて目を掻き毟り、銃を持った男達の手首から血が飛沫いた。
同じように呆然としていた桑原は腕の中に大切なお嬢様を押し付けられたのを知って、自分が求められている唯一の行動を取った。
レイコを抱え込み、その場に伏したのだ。
「もう良いぞ。エコノミークラスに一人残っているはずだ。そいつを捕まえろ」
冷静この上も無いリンの声に顔を上げればコクピット内で立っているのはリン一人っきりだった。
残りの一人は簡単だった。後ろから銃を突き付けてやればあっさりと降参し、桑原はそいつを厳重に縛り上げてからコクピットに戻った。
コクピットの犯人達はリンと副パイロットに縛り上げられ転がされている。
「大丈夫だからね。僕が証言してあげるから。犯人達に無理強いされたんだって」
副パイロットがリンに言った。「あんな状況だったんだから、殺人になんてなりゃしないよ」
「殺人?」リンは副パイロットを見て、それから気が付いた様に、ああ、と言った。
「さっさと起きろ。大切な筋肉も太い血管も傷ついちゃいないだろうが」
リンが言うとむくりと床から村上が身を起こした。
「本当に刺したでしょうが」村上は恨めし気にリンを見た。「そりゃあ、この血は殆どがトマトジュースとケチャップですけどね。でも刺さってましたよ。トマトジュースが浸みて痛いんですよ」
「こいつの目を誤魔化すためだから仕方が無いだろうが」リンは言った。「コクピットが血だらけじゃ無きゃ血管の2、3本も切るつもりだったんだぞ」
「あんた達、いつ相談したんだ」
村上がジュースだのケチャップだので血糊を作って密封袋に入れ、それを腹に巻いていたサラシで胸やら腹やらに巻きつけていたのは知っていたが、それを2人で相談していた様子は全く無かったのだ。
「それより、レイコを座席に戻してあげて。こんな所に居たら血が付く」リンは言った。
飛行機は結局ここから一番近い国である日本に戻る事になった。
「誰も殺したりなんかしていないよ。相手を殺さず倒す能力は一族一だと師匠の折り紙つきなんだぞ」
レイコが目覚めるとリンはハイジャックの悪夢は終わったのだと教え、村上の姿を見せてそう言った。
「リンちゃん、あれって針?」
縛られて纏めてビジネスクラスの前の方に転がされている犯人達の中に糸目の男を見つけてレイコは言った。
糸目の男の両目を縫い閉じるような形で針が刺さっている。
「ああ、忘れていた」
リンは立ち上がると糸目の男に近づき針を抜く前に言った。
「お前を縛ったのは私だ。腕を抜こうとしても無理だぞ」
「ちぇっ、お見通しですか」
針を抜かれると男は糸の様だった目を大きく見開いた。「すみませんね、お嬢さん。すっかりおみそれしちまって。
前言は撤回させてもらいますよ。お嬢さんに何もできないって言うのをね。
大したお嬢さんだ。その針、含み針って言うんですか?昔忍者映画で見たような気がします。
針が口に入ってるなんて全然気づきませんでしたよ。
普通に喋ったりしてたでしょう?
お嬢さんは忍者の末裔か何かですか?」
男は子供のように目をキラキラさせて尋ねて来る。
「ところで、物は相談ですが、あたしと結婚してはくれませんかねぇ?」
レイコも桑原達もいけしゃあしゃあと悪びれもせずとんでもない事を言い出したハイジャック犯に目を剥いた。
「男と結婚する気などない」これがリンの答えだった。
男は笑った。前の様な病的な物の無い無邪気ともいえる子供の様な笑みだった。
「そうですか。悪党と、でもなきゃ狂人と、でも無いわけだ。
じゃあ、また相談なんですが、あたしの子供を産んじゃくれませんかね。1億、いや5億までなら出せますが」
「断る」と、リン。
「そうですか。でも、あたしゃ諦めませんよ。やっと理想の女を見つけたんだ。
本当に、あんたは綺麗だ。こんなに綺麗な女を初めて見たよ。
あの時、あんたがあたしを見てほっぺたの血を舐めた時、いっちまいそうになりましたよ。
それで瞼を縫われる事になっちまったが、あたしゃ、あれが見られて良かったと思ってる。
当分夢に見て漏らしちまうだろうよ」
確かに、と桑原は思った。
糸目の男のように下品な事は思わなかったが、あの時のリンは信じられないほど美しかったと。




