異変
彼が先代から事業を受け継いだ時、血筋ゆえに跡を継いだだけの人の良い甘ちゃん社長だと思われていたのに、後をついでから5年、けして甘ちゃんでは無いと周囲が気付き始めた証拠のごたごた。
確かに彼は家族や周囲の者には寛容で気前の良い男だった。
けれど、事が事業に関するとなると人が変わったかのように厳しく冷酷な一面を見せるのだ。
だから、彼の人の良い優しい一面しか見ずに付け込もうとした者は手酷いしっぺ返しを食らう事になる。
それで失脚した親族が何人居る事か。
先代が身内に甘い人だったから縁故で入った親族たちの中には無能な上に自分に利益を取り込む事に汲々としている人間が呆れるほどいたのだ。
様子見をしていた最初の3年。
そして、証拠を揃えてバッサリと大ナタを振るった4年目。
今は寄生虫の如く会社に巣食っていた親族と言う名のお偉いさんが激減してかなり風通しが良くなっている。
だが、同時に恨みも買っていた。
仕事をしない、会社に不利益ばかりを齎していた奴らのくせに汚職を指摘されクビになる事を理不尽だと言い立てた。
警察沙汰にしなかっただけ有難いと思って貰わねば。
業務上横領で何年も刑務所に入らなくてはならない奴が何人も居るのだから。
信頼していた周りの者にまで、汚職役員の息が掛かっている者が居て、彼は傍に置く者を選ぶにも神経質になっていた。
だから、会社とも一族とも縁の無い娘の親友を取り込みたかったのだ。
彼の見つめる先には可愛い娘の麗子が一回りも小柄で華奢な少女に引っ張られるようにゲートに向かっている。
トランクを預ける所からチケットでの席の手配まで、麗子が気付かずやり残している事をテキパキと片づけたのも彼女だ。
一流の秘書も顔負けのそつの無さ。
娘の初めての一人旅(友人と一緒ではあるが)をはらはら見ていた彼もやっと安心する思いだった。
空を飛ぶなんてとんでもないと思っていた彼もその馬鹿でかい乗り物に乗ってしまうと覚悟を決めた。
それにその乗り物の大きさたるや空を飛ぶなんて冗談としか思えないような代物だった。
シートに座れば目の前はスクリーン。窓を閉めてしまえば映画館の様だ。
長々と待たされたあげく飛行機が動き出すとリンは自分が甘かったと痛感した。
スクリーンには滑空を始めた飛行機の行く手の滑走路が映し出され、それが切れて海に突っ込む寸前でぐっとGがかかり空に舞い上がるまで延々と映し続けたのだ。
リンにはそれを喜んでいる大半の人々の気が知れなかった。
スクリーンに何も映らなくなり、リンは気持ちを切り替えた。
気分的に金縛り状態ではいざと言う時動けない。
外はもう夜で暫くは下の夜景を楽しんでいた人々も機体が雲の上に上がってしまうと闇夜でもあり次々と窓を閉めてしまう。
そうなると天気も気流の状態も良いので軽いエンジン音と僅かな振動はあるが空を飛んでいるのが嘘のように穏やかな飛行が続く。
彼らが乗っているのはビジネスクラスでエコノミークラスとは比べ物にならないほどゆったりとしていたが、旅行の時はいつだってファーストクラスのレイコには少々窮屈なようだ。
離陸してほどなく食事が出たがリンにとって他人の作った食事を毒見の作法も無しに出されると言うのはどうしても馴染めない事の一つだが、我慢しなくてはやってゆけないようだ。
「リンちゃんは海外旅行は初めてよね」レイコが尋ねた。
「もちろん」リンは頷いた。「どうして?」
「だって、食事に少ししか手を付けて無かったでしょう?これから4、5回は出るんですものね。
いちいち全部食べていられないわよねえ。座りっぱなしなのに太っちゃう。
ヨーロッパ行きの南回りだともっと出るのよ」
「旅行は初めてだが本で知識を得た。
旅行社で貰ったパンフレットにも色々書いてあったぞ」
「ごめん、私って今までの旅行って全部人任せだったから、リンちゃんが居なきゃ乗り損なう所だったわ」レイコは顔を赤らめて言った。
「予約はしてあったのだからそんな事は無いと思うぞ」リンはにっこり笑いかけてレイコを安心させた。
敵に対しては冷酷非情な彼等だが、好きな女性に対しては限りなく優しくなれるのも彼等一族の男だった。
昨夜は興奮して眠れなかったと言って、少し眠ると言って座席を倒しすぐに眠ってしまったレイコを残してリンが席を立ったのは間もなくだった。
前もって貰ってあった薄い毛布をそっとレイコに掛けてやると時間帯のせいか空席の目立つ客席の間を歩いて行く。
大半の乗客は夜の出発のせいか早々に毛布にくるまり座席を倒して眠り始めている。
ビジネスクラスの最前列に近い席からずうっと後方、もう少し行けばツアー客をギッシリ詰め込んだエコノミークラスと言った中央側の席の所でリンは立ち止まり一人の男性客を覗き込んだ。
「今度も偶然か?」
皮肉の籠ったリンの口調に男は縮み上がった。
「ぐ、偶然ではありません」男はかすれた声で言った。
「ならば、私に始末されても良いと思ったのか?」
「し、始末されるのはちょっと・・・」
冷や汗をダラダラ流しながら男、村上は辛うじてそう言った。
「では、ちょっと来てもらおうか」リンは言い、村上の席の一つ置いた向こうの席を見る。
「あなたも来てくださる?桑原さん」
サングラスを掛け、そっぽを向いて寝たふりをしながら耳をそばだてていた桑原はギクリとした。
「寝たふりしてもダメよ。レイコに告げ口されたいの?」
リンに言われて渋々桑原は寝たふりを止めて彼らの方を向いた。
「急いで、こっち」リンは2人の男をエコノミークラスとの境にあるスチュワーデスが客にサービスするドリンク類を置いてある空間に入った。
そこには彼らをとがめるスチュワーデスの姿は無かった。
「えっと、白川さん・・・」
問いかける桑原をリンは手で止め村上を見た。
「何人だと思う?」
「は?」リンに真剣な顔で問いかけられ村上は言った。
「私が見て取っただけでビジネスクラスには2人だ。全部見て回る訳には行かないし、その時間もありそうに無い」
やっと村上にもリンの言っている意味が分かった。
「あなたのせいだと思っていました。凄く嫌な予感がして」
村上は宙を睨むようにしていたが、酷く緊張した表情になるとリンを見た。
「ここに2人は間違い無いと思います。
後、上に一人。エコノミークラスに3人かと。
すみません、訓練不足なんです。こっちの方を磨こうとは思わなかったものですから」
訳の分からない桑原が会話の意味を問い返そうとした時、カクンとほんの僅かに振動を感じた。
「始まったな」リンが凍りつくような笑みを浮かべた。




