アルバイト
「リンちゃん、荷物はそれだけなの。それとももう預けて来ちゃったの?」
あまり大きくないボストンバッグ一つをぶら下げてやってきたリンを見てレイコは驚いて言った。
「これで十分だ。毎日洗濯すれば良いし、足りなければ現地調達すれば良い」
最小限の着替えとコンパクトに纏められた裁縫道具と洗面用具、それに加えて少量の非常用食料。
それだけがリンの荷物のすべてだった。
それに引き比べてレイコの荷物ときたら人が楽々入れそうな巨大なサムソナイト2個に大きな機内持ち込み用ボストン、さらに大き目なショルダーバッグと言った荷物で、馬に付ける鞍袋一つで長い旅をする一族の彼から見ると何年行くつもりなのだろうかと呆れるほどだ。
「レイコの父上がアルバイトの報酬をはずんでくれたからね」
留学前にレイコの父の会社で受け付けのアルバイトをしたのだ。
会社の顔でもある受付嬢を素人の小娘二人にあてがったのは、厳重に警備された大会社のビルの中で少しでも自分の近くに置いて娘を見守りたいと言う親心だったのだろう。
短期の受付嬢のアルバイトとしては破格の報酬を得る事になったのは訳があった。
動きにくくて凄く嫌だったのだがレイコと揃いの制服と帽子といったスタイルで一日じっと座っているといったアルバイトを始めて2日目、その時リンはこの仕事がカウンターから一歩も出なくて良いと言う事を前日と、その日半日の経験から分かっていたのでロッカールームに支給されたハイヒールから自分のスニーカーに履き替えに行って帰った所だった。
此処の受付嬢の制服は動きにくいタイトスカートでは無くズボンかプリーツスカートを選ぶようになっていて、レイコは可愛いと評判のプリーツスカートだったがリンは勿論ズボンを選んだ。
そのため、下がスニーカーでも素材が黒い皮製なので目立たない。
カウンターの所にちょうど出かけるところといった様子のレイコの父親がお供をゾロゾロ引きつれて
カウンター内のレイコと話をしていた。
リンの鋭い目は、男たちの中の一人の様子がおかしい事にすぐに気付いていた。
距離を測りこのままでは間に合わ無い事も。
「すみませーん」
リンは明るい大きな声で言い、彼らの元に駆け寄った。
今しも懐に飲んだ凶器を掴みだそうとしていた男は出ばなをくじかれ一瞬ためらった。
そのためらいが命取りとなった。
そのまま、カウンターの横から入らず、男たちの中に突っ込んだリンは目指す男の腹に膝打ちを喰らわせると前のめりになった男の延髄に肘を叩きこんでいた。
何がおきたのか、判った者は殆ど居なかった。
ただ、小柄な女の子が走って来て、勢い余って男とぶつかったとしか見えなかったのだ。
だが延髄打ちを喰らった男が倒れた時懐からポロリと銃が転げ落ち、その場は騒然となった。
ガードマンが駆けつけ、警察が呼ばれる大騒ぎの中、レイコの父親のボディーガードの一人が素知らぬ顔でカウンターの中に戻ったリンに近付き言った。
「お嬢さん、何か武道でもやっていらっしゃいますか?」
ボディーガードのリーダーでもある彼にはリンの動きが見て取れ、有るか無きかの殺気に対する自分の反応が小娘に後れを取った事を深く恥じていた。
「あら、何の事かしら?私、慌ててぶつかっただけですわ」
リンは言いながら、この使いにくい身体でなければ気付かれる事など無かったろうにと腹立たしかった。
「御冗談を。ぶつかって膝蹴りまでならともかく、あそこまで正確な延髄打ちは無理ですよ。
こちらとしては、あれほどの・・・」
あれ程の武術の達人が何故受付などに座っているのかと聞きたかったのだがその言葉は遮られた。
「まあ、リンちゃんったらそんな事したの?乱暴な事はダメって言ったのに」レイコが叫び、「白川君!君が助けてくれたのかね」と、レイコの父親がリンに抱きつかんばかりに感謝した。
そう言う訳でリンはレイコの父親の命の恩人として請求した訳でも無いのに受付の短期アルバイトとしては破格の報酬を受け取る事になった。
もっとも、狙われた相手がレイコの父親で無ければレイコに危害が及ばぬ限り知らん顔をしていただろうが。
リンが内心危惧した通り、預ける荷物はともかく、機内持ち込み用の荷物さえ足手まといになりモタモタすることになった。
向こうに着いたら着いたで受け取った荷物で大変な思いをするに違いない。
一応、何度も海外旅行の経験はあるレイコだったが、今までは人任せの大名旅行で、一人で何でもこなさなくてはならないこんな旅行は初めてだった。
海外旅行は勿論、国内旅行でさえ経験の無いリンがウロウロモタモタと頼りないレイコを引っ張って行く羽目になってしまった。
「本当にしっかりしたお嬢さんだ。麗子にしては上出来の学友を捕まえたものだ。
学校の先生になるのが望みだと聞いたがまったく勿体ない。
卒業したら私の秘書になってくれれば良いのに。
追々には跡継ぎのレイコの右腕にね」
絶対に付いてこないでと見送りを拒絶されたものの、やはり心配でこっそり見送りに来たレイコの父親は特別に用意させたVIPルームの分厚いガラス越しに愛娘を見ながら傍らの男に言った。
「しかし、あの御嬢さんはどうも普通の御嬢さんには見えません」男は言った。
「桑原、考え過ぎだよ。
白川君は地方の普通の家の娘さんで不審な点なんてどこにも無かったよ。
あの御嬢さんに後れを取ってしまった君がそう思うのは当然かもしれないが、家もちゃんとしているし、ご両親もちゃんとした方達だよ。
勿論、麗子が友達が出来たと言って来てすぐに調査はさせている。
真面目な良いお嬢さんで、お蔭で麗子まで引きずられるように真面目になって、高校時代みたいに君たちをハラハラさせる事も無くなった。
良い事じゃないか」
「それはそうなのですが・・・」
お嬢さんに後れを取ったと言われて少々傷ついたが桑原は言った。
「じゃあ、頼んだよ。
こっそりお目付けを付けたなんて知ったら麗子は怒り狂うだろうから、くれぐれもこっそりとな。
例の刺客が未だに何者か判っていないのだから麗子を手元から離すのは不安だが、国内に置いておくのもそれはそれで心配だ。
まったく、いきなりゾロゾロ問題が噴出して来おって」




