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人脈というのは、すごいものなんだと、オリバムは実感していた。
数日前から、ぽつぽつとオリバムのもとに代筆を依頼する人が訪れ始めた。一昨日は用意していた紙が足りなくなって一時休業を余儀なくされ、今日はついに順番待ちができるほどになった。
「こりゃあ、ラジェに礼をしないとなあ」
本日最後の客を見送ってから、ぽつりともらすと、横のテーブルを拭いていたロザーが納得したような顔を向けてくる。
「どうも最近知らない顔ばかりくると思ったらラジェのせいか」
「……知ってる顔の客ばかりで悪かったな」
むすっとして、オリバム。ロザーはかまわずにさらに隣のテーブルを拭きにかかる。食堂の方も、客足が一区切り着いたところだった。
「雑貨屋のテザさんは、だいぶよくなったそうだ」
「そうか。んじゃ、もうこないか」
最初の依頼人は、怪我をした手のかわりを求めてオリバムを訪れた。治ったのならもう用はないだろう。
「ラジェに礼をするなら、今度はメシをおごってやったらどうだ」
「そうだなあ」
言われてみれば、先日会ったときにおごられたままだ。オリバムは勝手に厨房に入り込むと、水をくんで一息に飲み干した。昼から今まで休憩も入れずにいたのを、ようやっと思い出した。
「なんだ、まだおごってやるほど儲かってないか」
「そんなことはないけどさ」
問題なのは、誘った後だ。商売が軌道に乗ったのなら最初に礼をすべきはロザーでしょうと、眉をつり上げるラジェッタの顔が今から目に浮かぶ。
(でもなあ……)
ちらりと、ロザーの横顔を盗み見る。
もくもくとテーブルを拭いて回る友人に、礼をするとしたら何だろう?
(……いや、簡単か)
ラジェッタにロザーの店でおごればいい。
大げさに礼をするといっても二人とも受け取らないだろうし、まだやっと客がつき始めたような自分に、大層な礼ができるとも思えない。
(儲かったらロザーに新しい店の一軒もやるとかできるけどな)
夢物語もいいところだ。
自嘲めいた笑みを浮かべていると、ロザーの不審そうな視線に出会った。
「オリバム……客がきてるが、具合が悪いなら断るか?」
「えっ、いや、まて、大丈夫だ!」
どこの具合だとつっこむことも忘れて、オリバムは慌ててコップを置き、カウンターの奥から出る。
店の入り口には一人の男が待っていた。見た感じでは、五十歳くらいだろうか。白いものの混じった髪は灰色に見える。身なりはきちんとしていて、裕福な商家の主人といったところか。
「君が代筆屋か?」
オリバムと目が合うなり、男はそう尋ねた。
「そうです。すいません、どうぞこちらに」
愛想笑いを浮かべて奥の専用席に案内する。椅子を勧めてから自分も席に着くと、オリバムは新しい紙とペンを用意した。
「お待たせしました。それじゃあ、ご用件をどうぞ」
男はじろじろとオリバムを遠慮なく眺めてから、おもむろに一冊の本を取り出した。
「頼みたいのは、これの写しだ」
テーブルの上に乗せられたのは、古びた本だった。表紙にはこれといったタイトルもなく、一見しただけでは何の本なのかはわからない。
「ちょっと拝見させていただいてもいいですか?」
男は重々しくうなずいた。持ち主の許可を得て、オリバムは古びた本をそっと開いてみた。思わず眉をひそめる。色の変わってしまった紙の上に、見たことのない文字が並んでいた。
「これは……その……」
「私の名前ならベートだ。ティオクで石材屋を営んでいる」
ティオクは、ブラティから東に行った先にある町だ。馬車を使っても半日ほどかかる。取引のついでにでも寄ったのだろうか。
「どうも。ではベートさん、これはいったい何語です?」
「知らん」
自信に満ちた答えだった。二の句が継げないでいると、ベートは本を指先でとんとんと叩く。
「先日、先代の遺品の中からひょっこりでてきたのだ。むろん、誰も読めなかった。しかし、先代が大事に持っていたところを見ると値打ち物なのかもしれないと思ってな、知り合いに相談したところ、カルナゼーンの大学に見せたらどうかということになったのだ」
「ははあ……」
カルナゼーンといえば、大陸でも有数の学問の都だ。フールラング王国からも、上流貴族の子供は毎年何人か留学しているという話だ。
「でも、それならなんで写しなんか?」
「万一のことを考えてだ」
ベートの答えは素っ気ない。詳しく答える必要はないという無言の意図を感じて、オリバムも曖昧にうなずく。
「はあ、なるほど」
どんな万一があるんだろう――詮無いことを考えながら、オリバムはもう一度本をめくった。たいした厚さではない。オリバムが昔使っていた読み書きの教本の半分もないだろう。
「しかし、これ全部写すとなるとしばらく時間をいただくことになりますけど」
「全部写す必要はない」
ベートはそういって、オリバムから本を取り返すと、ぱらぱらとめくって、とあるページで手を止めた。
「ここの、こっち側のページだけ写してくれればいい」
「ここだけですか?」
「そうだ。ほかのページは他の人間に任せているから。これならすぐできるだろう?」
「ええ、まあ」
「急がなくていいから、間違えずに写してくれ。出来次第で料金ははずむ。頼んだよ」
そして、自分が目の前にいたらやりにくいだろうと言ってベートは別の席に移動した。ロザーを呼びつけて、飲み物を注文している。終わるまでじっくり待つつもりのようだ。
ロザーに目顔でうなずいて見せてから、オリバムは問題の本に向き直った。
(しっかし、ほんと、わけわかんない文字だな……)
代筆屋を始めるまで、オリバムはキベラ伯爵の屋敷で働いていた。主な仕事は、伯爵の双子の息子、エルバイム=アミディームとエルバイム=ルーセントの世話役だ。双子とは年頃も近かったし、伯爵自身にも気に入られていたオリバムは、一緒に学ぶ機会を与えてもらったので、読み書きに不自由しないばかりか、異国の言語にも多少精通している。けれどもこの文字は、記憶の中のどの言語にも当てはまらない。
(教本があればな……もしかしたら辿れるかもしれないか……)
伯爵の屋敷にある立派な図書室が思い出される。家庭教師から宿題を出されるといつも、双子と一緒にそこにいって額をつきあわせて――
(っと)
ふと、我に返る。知らず止めていた息を吐く。胸を押さえて、息を整えた。
今オリバムに求められているのは謎の言語を翻訳することではなく、写し書きを作ることだ。読めなくても、見たままに文字を写せばいいだけのことだ。余計な記憶も必要ない。
オリバムは椅子に座り直すと、じっくりと本を眺め、紙に写していった。見たことのない文字なので、線の角度や線と線の交わる位置なども何度も確認して写していく。
たった一ページの作業とはいえ、かなり時間のかかる作業だった。三枚ほど書き直して、ようやくできあがったときには陽が傾き始めていた。
「できたかね」
テーブルの上に影が差し、見上げるとベートが立っていた。逆光で表情がわかりにくいが、待ちくたびれて怒っている様子はないようだ。
「あ、はい、お待たせしました」
オリバムはできあがった写しをベートに差し出す。ベートはそれを受け取ると、上から下までなめるように見回した。
「ふむ、なかなかの出来だ」
「ありがとうございます。あの……本と見比べなくても?」
遠慮がちに言ってみると、ベートは、はっとしたように写しから顔を上げた。
「ああ、そうだったな、本と見比べなければな」
ベートは椅子に腰を下ろすと、本のページと交互に見比べる。うんうんと、うなずく様子が、しかしなんだかわざとらしく感じられた。
(この人は……この文字を読めるんじゃないか?)
そんな疑問が胸中をかすめた時、ベートは満面の笑みでオリバムに向き直った。
「ありがとうよ。完璧だ。料金はこれでどうかな」
ベートが差し出したのは、五倍もの金額だった。
「こんなに? いや、これは――」
「かまわない。私の気持ちだから受け取ってくれ。手間をかけたね」
目を丸くしているオリバムの手を取って金を握らせると、ベートは思い出したように写しの最後を指した。
「ああ、そうだ。すまないがここに君の名前を書いてくれないか」
「俺の?」
怪訝そうなオリバムに、ベートはもう一度写しを指さした。
「あとでまた、同じ写しを作ってもらうかもしれない。そのとき、同じページを写す方が簡単だろう?」
「はあ……でももう一枚必要なら、いま作りましょうか?」
料金も多めにもらっているし、もう一枚くらい構わないと思ったのだが、ベートは笑って首を横に振った。
「いや、今からでは時間がかかってしまうから。それに必要かどうかわからないからな」
だからとりあえず名前を書いてくれと繰り返されて、オリバムは言われるままに名前を書いた。
「オリバム、というのか。そうか」
書き終えると、ベートは満足そうに笑った。
「そうか、本当にありがとうよ、オリバム」
「いえ……こちらこそありがとうございました」
オリバムの挨拶もろくに聞かずに、ベートはそそくさと店から出て行って、あっという間に夕方の人混みに紛れて消えた。
「なんか……変な客だったな」
ぽつりと漏らすと、ロザーが怪訝そうに振り返る。
「オリバム……やっぱり具合悪いんじゃないか? なんだか顔色が悪いぞ」
「え? いや、そんなことは――」
いいかけて、オリバムは二の腕のあたりをさすった。
「――あるのかな。なんか、寒気がする」
「今日はもういいから、寝てろよ」
「寝込むほどじゃないと思うけど……」
ただで間借りさせてもらっている代わりに、昼間と、夕方から閉店までの間はロザーの手伝いをすることにしていた。しかしロザーは、ひっこんでろと言わんばかりに手を振るので、オリバムは素直に店の奥に入った。従業員の休憩室用の小部屋を、私室として使わせてもらっている。
上着を脱いでごろりと横になると、やはりだるさを感じた。
(風邪でもひいたかな)
そんなことを考えながら目を閉じていると、ふいに人の気配に気づいて目を開ける。
「オリバム、おい、具合はどうだ?」
ロウヴェルだった。ランプを持って、ベッドの脇からのぞき込んでいる。窓を見やると、陽はとっくに落ちていた。いつのまにか眠り込んでいたようだ。
「ロウ? なんでここに」
「飯を食いに来たら、おまえが寝込んでるってロザーがいうから、見物にきた」
「……只見はごめんだ」
背中を向けようとして、押さえられた。
「タダで診てやってるのはこっちだろ」
ロウヴェルは強引にオリバムの額に手をあてた。
「熱は無いみたいだな。悪寒がするって言ってたらしいが、気分はどうだ?」
オリバムは抵抗するのをやめた。ロウヴェルは薬屋だが、医者のまねごともできる。流行病に掛かった母を診てくれたのも、ロウヴェルだった。
「気分は、そんなに悪くない、かな。さっきまで悪寒がしてたけど今は何ともなさそうだ。ただ……」
上半身を起こして、オリバムは二の腕をさする。その先の説明が、旨くできない。
「ただ……うまく言えないんだけど、悪寒が残ってるような感じがする」
「悪寒が、残ってる? んじゃ、これから熱が上がるところか」
「いや、そういうのじゃなくて、悪寒はしないんだけど……なんて言えばいいんだろうな……ぞくぞくっとした感じが、こう、皮膚の下にいつまでも残ってるって言うか、足が痺れたときに限って足の裏が痒いみたいな、でも痒いところがよくわからないって言うか」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。目だけ動かして見上げると、あきれているとばかり思っていたロウヴェルは、真顔で考え込んでいた。
「オリバム。お前今日、いつもと違うものに触らなかったか?」
「へ?」
「いやいい、たぶんそうだろうな。ちょっと待ってろ」
一人で完結して、ロウヴェルは出て行った。ぽかんと見送っていると、手に椀を持って戻ってきた。
「これを持ってろ。紙はあるか?」
「紙? 紙ならそこに」
差し出された椀には八分目ほどまで水が入っていた。透明な、ただの水だ。
ロウヴェルはサイドテーブルから紙を一枚取った。それから椀の中に右手の人差し指をつけてぬらし、紙の上に何かを書いた。
「……あぶりだしか?」
黙ってみていろと、にらまれた。
オリバムは首をすくめる。
「よし。オリバム、その椀の中の水で指をぬらしてこの上におけ。どの指でもいいから」
ロウヴェルが水で何かを書いた反対側に、オリバムは言われた通りに指をぬらして置いた。
「こうでいいのか……え?」
ロウヴェルと同じ椀でぬらしたというのに、オリバムが指を置くと、そこから真っ黒いシミが広がっていった。
「な、んだ、これ……」
オリバムは目を丸くして、シミが広がっていくのを見つめた。シミは、まるで白い面を食いつぶすかのような獰猛さで広がっていく。普通に水を吸ってじわじわ広がるのとは、全く違っていた。
「……オリバム、おまえ今日、何をした?」
問いかけるロウヴェルの声は、どこかひどく疲れたような声だった。指先から広がっていくシミから目を離せず、オリバムはうわずった声で答えた。
「何って、まじめに仕事してただけだ。ほんとだ。ラジェが宣伝してくれたおかげで結構人がきて忙しかったぜ」
「その中で、変な客はいなかったか?」
「変なのは別に……ああ、変わった依頼の人はいたけどな」
「どんな依頼だった?」
「本の写しを書いてくれって人だったんだ。どこの言葉かわかんないやつでさ」
オリバムがベートの依頼のことを話すと、ロウヴェルは眉間にしわを寄せたまま、別の紙を取り出した。
「その写しってのを、思い出してここに書いてみろ」
「急に言われても……見たこともない文字だったし」
「一文字でもいいから早くしろ」
詰め寄る目が、座っていた。
オリバムは慌ててペンを取ると、必死に記憶をたぐり寄せた。本と首っ引きで何度も書いていたせいだろう、ありがたいことに最初の方は結構覚えていた。
「こんな感じだったかな」
ほら、と書き上げたものを渡すと、ロウヴェルは何度も繰り返し、目でその文字を追っていた。その様子に、ふとオリバムは既視感を覚える。
(ああ、そうか……ベートと同じだ)
最後に写しを何度も確認していたベートの様子とそっくり同じだった。
(ってことは、まさかロウも、あれを読めるのか?)
「……」
ロウヴェルは紙を放り出すと何かをこらえるような表情で、額を抑えた。光の加減なのか、ひどく顔色が悪い。
「ロウ? どうしたんだよ、おまえこそ具合悪いんじゃないか?」
「…………だ」
呻くような声だった。
「え? なんだって?」
ベッドから身を乗り出して聞き返すと、ロウヴェルは額から手をはずし、オリバムを真正面から見据えて言い聞かせるように言った。
「謀られたんだよ、おまえは!」
「ハカラレタ……?」
意味がわからず、ただ繰り返す。
「はかられたって……謀られた? 俺が?」
「他に誰がいるんだよ」
黙ってロウヴェルを指すと、ばしっとその手をはたかれた。
「ふざけてる場合じゃねえ。いいか、よく聞けよ」
オリバムは頷いた。いまさらだが、とてつもなく嫌な予感がする。出来れば聞かないでおきたい。
「おまえは欺されて、魔法にかけられたんだ。それもただの魔法じゃない。これは『呪い』だ。しかも間違いなく、おまえの命に関わる類の奴だ」
「……呪い、って? え? 俺が?」
ロウヴェルは辛抱強く、噛んで含めるように言った。
「そうだ。他の誰でもない、お前に呪いがかかってるんだ。何度も言わせるなよ、お前はこのままだとな、そのベートって奴の代わりに死ぬことになるんだ!」
「え……?」
ロウヴェルの瞳はどこまでも真剣で、オリバムは、ただただ、ぽかんとするしかなかった。




