10
「トゥランダ!」
今にも湖に飛び込もうとするルーセントを、オリバムは羽交い締めにして台座の元まで引っ張った。いつまでも狭い橋の上では、二人ともまとめて落ちかねない。
「オリバム、放せ、トゥランダが!」
トゥランダが沈んだ辺りは、まだごぼごぼと泡立っている。溺れて、もがいているのだろうか。早く引き上げれば助けられるかもしれない。呪いを解いてくれた恩人だ。そちらに向かいたい気持ちはあるが、ルーセントを放すわけには行かなかった。
「ルー、落ち着いてくれ! ダメだ、この湖は危険だから」
「何が危険なんだ。危険だって言うならトゥランダを早く助けないと」
「ダメだって! ルーまで溶かされたらどうするんだ!」
ぴたりと、ルーセントの動きが止まった。ぎくしゃくと、首を回してオリバムを見る。
「溶ける……?」
「あれをよく見てくれよ」
オリバムが示したのは、先ほどまではリョーゼの秘宝を抱いていた、台座だ。器の中に向かって、天井から水が規則的に滴っている。秘宝を、壊すための水が。
「あの水はなんでも溶かす水だってロウが言ってただろ。ロウが手を突っ込んだときも、トゥランダが叫んでたんだ、危険じゃなくてなんなんだ」
「そうかもしれないけど、別に湖に落ちてる訳じゃないだろう」
「落ちてるんだよ。あの水はちょっとずつだけど器から溢れて、湖に流れ込んでいるだから、そんな所に飛び込んだら、ルーの方が危ないだろ」
「でも、じゃあ、トゥランダは……」
ルーセントは悔しそうに俯き、ゆっくりとオリバムの手から離れた。
「トゥランダ……」
ルーセントは膝をついて、地面を叩いた。
オリバムは湖に目をやった。
湖面はもう静まっていた。トゥランダは溺れて沈んでしまったのだろうか。
(水面を歩けるような人でも溺れるのかな……)
確かあの時、精霊みたいな物だと紹介された。湖の精霊だというなら、湖で溺れ死ぬようなこともないような気がするのだが。
(でも……あの時は雷に打たれたみたいになってたしな……)
ロウヴェルは一体トゥランダに何をしたのか。どうして、ハゥルライズを奪ったりしたのか。ここに用事があると言っていたのに、どうして先にそれを聞いておかなかったのか、オリバムは悔やんだ。
(理由があるなら言ってくれてもいいじゃないか)
だんだんと腹が立ってきた。とっつかまえてゆさぶってでも理由を吐かせてやりたい。この場にロザーとラジェッタがいたら、自分のことを棚に上げてと呆れることだろう。
「ルー、ここにいてくれ。俺、ちょっと様子を見てくる」
「様子? なんの――」
ルーセントがのろのろと顔を上げた頃には、オリバムは橋を渡りきっていた。石畳を蹴って、階段を駆け上がる。当たり前だが、ロウヴェルの気配のカケラもない。ひんやりしていた空気は徐々に暖まり、走ったことも相俟って、上りきったときにはうっすらと汗を掻いていた。
(見えなかったからずいぶん下まで降りたと思ったんだけど、以外とそうでもなかったな)
階段の先には、木製の扉があった。きちんと閉まっているところをみると、ロウヴェルは余裕でここから出て行ったに違いない。
(……いったい、なんだってんだよ……!)
腹立ち紛れにオリバムは扉を乱暴に開けた。
そこは、無愛想な石壁に囲まれた廊下だった。窓も火もないのに明るいのは、天井がぼんやりと光っているせいだ。
(湖の天井と同じだ)
光る石なんてどこで採れるのだろう――壁を撫でながら廊下の端までくると、また同じような扉があった。ここも、きちんと閉まっている。押し開けると、今度はやや幅広い廊下に出た。突き当たりの角を曲がると、ドアが並んでいる。
(ずいぶんと奥深い建物だな)
またどこからかおかしな声が聞こえてくれるような既視感に襲われて、オリバムは頭を振った。気のせいだ。もう大丈夫だと、トゥランダが言ってくれたのだ。
(だいたいここは、あの時の部屋じゃないし)
記憶の場所とは違うことを確認するつもりで、オリバムは一番手前の扉を開いてみる。大きな机と、その上には何に使うのか見当もつかない器具がいくつも見えた。誰かの書斎、だったのだろうか。部屋の主を無くして久しい部屋は、物が詰まっていても、虚ろな感じだった。
(ほらな、違うところだ)
オリバムはほっとして扉を閉めると、再び廊下に沿って歩いた。いくつかドアの前を通り過ぎて、正面の扉を開く。
広い空間に出た。空気が軽くなったような気がする。
高い天井を見上げて、オリバムは立ち尽くした。ここには窓があって、外光が柔らかく降り注いでいる。机と椅子が整然と並んでいて、それらに座った人が注目すると思われる先は、一段高くなっていた。ただし、祭壇も祀る神々の姿絵も無い。礼拝堂ではないと判ったが、それだけだ。
(集会場、って感じでもないよなあ)
オリバムは次の扉を探した。ここがどんな建物なのかはどうでもいいことだ。机と椅子の向こうに扉を見つけた。当然、ぴったりと閉じている。無駄だと判っていても、一応、扉を開けてみた。
今度は広い庭に出た。庭の中心に向かって延びる小道の両側には、綺麗に手入れされた花壇や植え込みが配置されている。道の先には東屋があり、テーブルと椅子が置かれているのが見えた。
(花も木も、ずっとこのまま……?)
オリバムは背後を振り返る。この街がいつ出来たのかは知らない。しかし、無人になってかなりの年月が経つだろうに、崩れそうな建物はどこにも見えない。庭も、誰の手も入っていないはずなのに、こんなにも綺麗に整えられている。
いびつさを感じて、オリバムは身震いした。こんな所にいつまでもいられない。出来ればルーセントも連れて帰りたいところだ。
(ロウヴェルは……いないよな)
庭は、当然のように無人だった。ロウヴェルがどっちに行ったのかも判らないが、そもそも目隠しで連れてこられたオリバムには、ここがリョーゼの街のどの辺になるのかも見当がつかなかった。
念のために、周囲をぐるっと回ってから、オリバムは湖に戻った。
ルーセントはまだ台座の横に座ったままだった。母親の帰りを待つ小さな子供のように、膝を抱えてうつむき加減で湖を見つめている。トゥランダは、まだ現れないようだ。
「ルー」
足音で気づいていたはずだが、呼びかけるまでルーセントは身じろぎ一つしなかった。
「オリバム……」
顔を上げたルーセントは、怪訝そうに首を傾げた。
「その人は誰だ?」
「は?」
ルーセントの視線は、オリバムの背後を見ていた。ぎょっとして振り返ったオリバムは、危うく足を踏み外して湖に転落するところだった。
「なっ……誰だ、あんた!」
オリバムの背後に立っていたのは、つばの大きな帽子をかぶった男性のようだった。顔はよく見えない。すり切れかけたマントを羽織って、同じくらいすり切れた布の鞄を肩から提げていた。
オリバムの過剰な反応で、ルーセントも我に返ったようだ。立ち上がって、軽く腰の剣に手を添える。
「止まれ。何者だ。ここにどうやって入り込んだ」
「――どうって」
侵入者はつばの端をちょっと持ち上げた。やはり男性だ。四角い顔に敵意は無い。中年のようでもあり、初老のようにも見える。
「そっちの人の後ろから着いてきただけだよ。その人は気づかなかったみたいだけどね」
指さされて、オリバムは二度驚いた。ここに戻るまで、誰かにつけられていたとは夢にも思わなかった。
「後ろって、だって足音なんかしなかったぞ!」
「静かに歩くのが得意なんだ」
男は真面目に言った。あっけにとられているオリバムの顔をじーっと見て、一歩近寄る。
「君、どこかで会ったことないかね?」
初対面だ、と答えようとして、オリバムの記憶が歯止めをかけた。言われてみればどこかで見たような――。
「知り合いなのか?」
剣にかけた手をどうすべきか、ルーセントは困っていた。オリバムは答えず、男の顔を見つめたまま、つば広の帽子を指した。
「その帽子をとってくれないか?」
それもそうだと、男は帽子をとった。乾いた砂のような髪が現れ、オリバムを見る瞳は深い緑色だった。顔には皺が刻まれているが、老人というには少し早いようだ。
(確かに、どっかで見たような……)
二人はまじまじとお互いの顔を見つめ合って、そして同時にお互いを指さした。
「ロザーの親父さん!」
「ロザーの友達の……いや、すまん、名前が出てこないな」
申し訳なさそうに頭に手をやる男は、オリバムの記憶通り、ロザーの父親のガレスだった。こうして思い出してみると、仕草も雰囲気も、無愛想な友人そっくりだ。
「オリバムです。お久しぶりです。それより親父さん、行方不明だって聞いたけど、なんでこんな所に」
あるときから姿が見えなくなったガレスのことを尋ねると、ロザーはただ一言、そう言っただけだ。それ以上突っ込んで聞くのも躊躇われて、以来そのままになっていたのだが。
「行方不明?」
怪訝そうにガレスは繰り返し、何かを思い出すように目を閉じた。
「……そういえば、しばらくエリシャとロザーの顔を見ていないな」
「しばらく、って」
その『しばらく』が年単位だと言うことに気づいているのかいないのか。
オリバムはためらいがちに告げた。
「ロザーのお袋さんなら、だいぶ前に亡くなりましたよ」
エリシャはロザーの母親だ。無愛想なロザーとは対照的に、明るくて気さくな人だった。一人で店を切り盛りしていたのだが、風邪をこじらせてロザーの看病の甲斐もなく亡くなった。
「エリシャが?」
ガレスは一瞬だけ目を瞠って、すぐに表情を消した。
「そうか。ロザーは元気か?」
「お袋さんの店を継いでますよ。自分の目で確かめてきた方がいいんじゃないですか?」
口調が刺々しくなってしまったのは、一人残されたロザーのことを思ったからだった。ロザーは何も言わないが、寂しくないわけがない。
「そうだな。いずれは」
否定とも肯定ともとれる返事をしてから、ガレスは台座の前まで近寄ってきた。
「おい、待て」
ルーセントが慌てて間に入った。一度はおろした手を再び剣にかけて、説明を求める。
「オリバム、この人は誰なんだ。知り合いみたいだが」
「あ、えーと、この人は俺の幼なじみの父親で」
ルーセントに紹介しなければと思うのだが、その先が続かない。オリバムが知っているのはそこまでだった。ガレスの職業すらも知らない。
ルーセントは、続きは本人に聞くことにした。
「僕はエルバイム=ルーセント・ロクトブ・キベラ。リョーゼの半分の領主だ」
正しくは、次代の領主だ。キベラ伯爵が存命のうちは、双子は後継者候補に過ぎない。が、今ははったりをかませるつもりだった。
「半分? そうか、今の若様は双子だったな」
ガレスがひとり納得するのを見て、ルーセントは眉を顰めた。
「オリバムの知り合いだそうだが、貴方は何者だ? どうしてリョーゼに入ってきた? いや、どうやって入ってきた?」
理由ではなく、方法が問題だ。威嚇すら込められたルーセントに問いかけに、ガレスは動じた様子もない。
「名前はガレスだ。若様のように身分があるわけではないので名乗るほかには何もないが、私のことならトゥランダが保証してくれるはずだ」
「トゥランダが? トゥランダを知っているのか?」
思いがけない名を出されて、ルーセントは驚いた。ガレスは頷く。僅かに、微笑んだようだ。
「若様よりはずっと長いつきあいになるよ」
そう聞いた途端、ルーセントが憮然とした。ガレスは構わず、湖を見やった。
「それでさっきから出てきてくれるのを待っているんだが、いっこうに気配がないのはどういうことなんだろうと思ってね」
「トゥランダは」
そこまでいって、ルーセントは押し黙ってしまう。ガレスが途方に暮れたような目を向けてきたので、オリバムが代わって先ほどまでの出来事を説明した。
「なるほどな。まあ、そういうことならトゥランダは無事なのだろう。いわゆる気を失った状態なんだろうな」
「トゥランダは無事なのか?」
未だに不安をぬぐえないルーセントに、ガレスは思いやるように肩に手を置いた。
「トゥランダはそう簡単にいなくなったりしないよ。彼女には使命がある。それは若様もよく知っているんじゃないかな」
ルーセントは目を瞠った。ガレスを見つめて、お互いが同じことを知っていることを理解した。
「……そう、だった。トゥランダは、ここからいなくなることはないんだ。最後の時までずっと――」
言って、ルーセントは、はっとした。
「でもハゥルライズはもう無いんだ!」
「なに?」
ガレスは台座の中を覗き込んだ。澄んだ水を湛えた器に、水滴が落ちて虚ろな音を響かせた。




