9
ルーセントの手を借りて立ち上がったオリバムは、その手をがっちりと握りしめた。
「なんだよ、オリバム」
また錯乱したのかと、ルーセントは慌てて手を引く。が、オリバムは離さなかった。
「ルー、お屋敷にまだ帰ってないんだろ?」
ルーセントは一瞬動きを止め、それから乱暴にオリバムの手を払った。
「ルー!」
「僕はリョーゼを治める。王宮には、アミが行けば問題ない。伯爵家だってアミがそのまま継げばいい」
「治めるって、こんなところでどうやって生活するって言うんだよ」
「見たところ、食べるものにも困ってる様子だったしな」
ぼそりと言ったのは、ロウヴェルだ。ルーセントは、う、とも、ぐ、とも付かない声を上げている。
「そうだよ、食事なんかどうしていたんだ。水はあったみたいだけど」
「こっそりどっかから持ってきてるんじゃないのか。お屋敷育ちのおぼっちゃんが、一人でどうにか出来るわけもないだろ」
「一人じゃない。トゥランダがいる。それで十分だ」
ルーセントはむくれ顔で横を向いてしまう。
オリバムはトゥランダを見た。黒髪の女性は、困ったような笑みを浮かべたが何も言わなかった。
「とにかく、僕は帰らない。オリバムこそ、呪いが解けたんなら、もうここに用はないだろ」
「それは、そうだけど……」
大本を遡れば、ルーセントを追いかけるのが目的だった。連れ戻せれば一番だが、この様子では無理そうだ。居場所を確認した今、伯爵家に報せに戻るのが最善なのかもしれない。
「まあ、落ち着けよ。せっかく滅多に入れないところに入れたんだ、ちょっとくらい観光してもいいだろう?」
ロウヴェルが明るく割って入る。ルーセントは憮然としてにらみ返す。
「観光するような物なんか無いぞ」
「そうでもないだろ。例えば、アレとか」
ロウヴェルは湖の中心を指した。
すっと、トゥランダの表情が消えた。
「あれが見えるなんて、ずいぶんいい目をお持ちね。貴方はどなた? 魔術師のようには見えないけれど」
「薬屋のロウヴェル。目がいいのは生まれつきだ。で、なんなんだ?」
「なあ、ロウ、何が見えるんだ? 魚でもいるのか?」
オリバムも目をこらしたが、何も見えなかった。時折水滴が落ちる以外は、静かな湖面だけが広がっている。ロウヴェルは苦笑した。
「ここに魚なんて棲めるわけ無いだろ。見えないのは、そう言う仕掛けがしてあるからだ。――そうだろう?」
問いを投げられたトゥランダは無言だったが、ややあって微かに頷いた。
「そうね。せっかくここまで来たのだし、そちらのあなたへのお詫びも兼ねて、見せてあげましょうか。よろしいですか、ご領主様?」
「トゥランダの好きなように。僕はどのみちお飾りだから」
ルーセントは肩をすくめた。トゥランダの口元が優しく緩む。
「他に代え難い立派なお飾りですわよ」
ルーセントは複雑な顔になった。褒められたのかけなされたのか、悩んでいるらしい。
トゥランダは再び表情を消して向き直った。
「領主様の許可が出ましたから、さあ、どうぞ、こちらに。この貴重な時を、じっくりご堪能くださいませ」
芝居がかった調子でトゥランダが片手を掲げると、湖が輝いた。
湖からわき上がるような白い光は、しかしすぐに収まって、顔に手をかざしていたオリバムは、光の収束に合わせて手を下ろす。
「あっ! あれ、あそこに!」
オリバムは思わず声を上げていた。先ほどまで平らだった湖面に、何かが突き出ていた。残像がちかちかする目をこすってよく見てみると、石でできた台座のようだ。
「どうぞ。狭いので一人ずつ」
トゥランダが誘った。ボートもないのにどうやって、と聞き返す前にトゥランダは足下を指した。
湖に中心に至る橋が伸びていた。湖に向かって途切れていた道は、橋を介して台座へと真っ直ぐに繋がった。
「招かれた者だけが辿り着けるってわけか」
ロウヴェルが橋に足をかけた。続いてルーセントに譲られてオリバムが。最後にルーセントが訳知り顔でゆったりと橋を渡り始めた。
「うっ」
声にならない叫びをあげるオリバムに、トゥランダが怪訝そうな顔を向けてくる。
「どうした?」
ルーセントとロウヴェルに同時に尋ねられて、オリバムはトゥランダを指した。
「水の上を、歩いてる……」
やはりあれは、見間違いではなかったのだ。
けれども、驚いていたのはオリバム一人だった。
「だから?」
ロウヴェルは当たり前のことのように言うし、トゥランダとルーセントはきょとんとして顔を見合わせた。
「あれ、言わなかったっけ」
「そういえば、言っていないかもしれませんわ」
そうかそうかと頷いて、ルーセントが言った。
「トゥランダは、この湖の精霊みたいなもんなんだよ」
「精霊……?」
幽霊とどう違うのかという疑問はぐっと飲み込んで、オリバムは頷いた。
「そうか。わかった」
少しもわかっていなかったが、詳しい説明を聞いたところできっともっとわからない。水の上も歩ける女性なんだと無理矢理納得した。
橋を渡りきると、大人が十人くらい輪になれるほどに広くなった。中心には、遠目から見たとおりの台座が据えられている。高さはオリバムの胸の位置くらいで、つるつるした黒い石で作られている。台座の上部には、艶のない金属の器がはめ込まれていた。覗き込んでみると器の中には縁のぎりぎりまで水が溜められていて、底には、楕円形の白い物が沈んでいた。
(ゆでたまご……?)
皮を剥いたばかりのゆでたまごに、とてもよく似ていた。
「これがリョーゼの秘宝よ」
トゥランダが歌うように言うと、上から水滴が落ちてきて、器の中に落ちた。水面が揺れると、耐えきれなかった水が器からこぼれ落ちて、台座を伝い、細い溝に流れて湖の一部となった。
「これが秘宝?」
立派な台まで作ってあるのに、沈んでいるのがゆで卵とは、オリバムには理解できなかった。実は台座の方が秘宝なのではと思ってみたが、トゥランダの視線は台座の中に向けられていた。
「ええ、そう。知っている人はほとんどいないと思うけれど、これはハゥルライズという宝石よ」
「これ、宝石だったのか!」
思わず叫ぶと、一同の不審の視線を集めてしまった。
「お前、なんだと思ってたんだよ」
「いや、なんか、皮の剥いたゆで卵みたいだなとか……」
ロウヴェルと、ルーセントの視線が冷える中、ぷっ、と吹き出したのはトゥランダだった。
「ゆでたまご! そうね、そう見えて当然ね。普段の暮らしには何の関係もない物ですもの」
「じゃあ、どんなときに関係あるんです?」
何気なく口をついて出た疑問だったが、トゥランダは胸を突かれたような顔になった。
聞いてはいけないことだったのかもしれない――オリバムが質問を取り消そうとする前に、トゥランダは答えをくれた。
「世界を書き換えるときに」
「は?」
ぽかんとするオリバムに、トゥランダは苦笑した。
「わからないでしょ? それでいいのよ。これはリョーゼが取り憑かれた悪夢の結晶なのよ。だからここに隠して、無くなってしまうまで見守っていなければいけないの」
「……『虚空水』か」
呟いたのは、ロウヴェルだった。
「薬屋さん、貴方はいろいろ知っているのね」
トゥランダが探るような目を向ける。ロウヴェルはそれに気づいた風もなく、水滴が落ちてくる天井を見上げていた。
「なるほどな、ああして一滴ずつなら大した影響もなく落とせる」
「ロウ、なんだその『虚空水』って」
オリバムがつつくと、ロウヴェルは面倒くさそうに説明してくれた。
「簡単に言えば、何でも溶かしちまう魔法の水ってところだな」
「え? 秘宝なのに、溶かしちゃうのか?」
オリバムのもっともな疑問にトゥランダは頷いた。
「これは秘宝でもあるけど、リョーゼを存在できなくした諸悪の根源でもあるのよ」
「それは自業自得なんじゃないのか?」
ロウヴェルの皮肉げな一言に、トゥランダは視線をきつくする。
「どういう意味かしら?」
「ハゥルライズは自然界では小指の先ほども無いくらい小さい。小さくても書き換えには使えるが、たいしたことはできないな。だからあいつらは、これを育てて自分たちの望みに適う力を蓄えさせたんだろ? それが制御できなくなってこんな有様だ。自業自得と言って何が悪い」
読んでしまった本のあらすじを聞かせるように、ロウヴェルは一息に答えた。それが抗いようもないほどに真実であることは、トゥランダの顔色を見ていればわかった。
「……本当に物知りな薬屋さんね。ええ、そうよ。だから私たちは街を異動させてまでこれを壊そうと」
「ああ、誤解したらなら謝っておく」
ロウヴェルは笑いながらトゥランダを遮った。
「俺は別に、過去を懺悔させようなんてこれっぽっちも思ってない。リョーゼの過去にも未来にもまったく興味が無い」
トゥランダは不快そうに眉を顰めた。不穏な空気にオリバムは慌てた。仮にも、住人であるトゥランダと領主であるルーセントの前だ。
「おい、ロウ、ちょっと口が過ぎるぞ。お前だってここに用があってきたんだろ。だったらもう少し言い方ってものが――」
「リョーゼに、用があった?」
トゥランダが聞き咎める。ルーセントも怪訝そうな顔になった。不穏な空気をさらに広げただけだったことに、オリバムは遅蒔きに気づいた。
「ああ、そうなんだ。俺の用は――これだよ」
ロウヴェルは片手をあげると、無造作に器の中に手を突っ込んだ。
「何をするの! その水は『虚空水』だって貴方――」
トゥランダの悲鳴は、途中から意味が変わった。
「貴方、まさかそんなことが!」
「やっぱり、思ったとおりか」
ロウヴェルはそのまま器の中から白い宝玉を取り出した。軽く振って水気をはらうと、トゥランダに向かってかざして見せた。
「悪いな。ちょっとこいつを借りていくよ」
紙かペンでも借りるような気楽さで言って、ロウヴェルは踵を返す。
「待て、ロウ」
「借りるって、そんなこと勝手に――」
ルーセントとオリバムは同時に我に返った。慌てて追いかけるが、橋は一人ずつしか通れない。オリバムが先に立つが、追いつく前にロウヴェルが先に振り返って、何かを投げつけてきた。
「ぅわ!?」
砂埃が舞ったと思った。とっさに顔を背けたが、吸い込んでしまう。途端に、目と鼻が痛み出す。くしゃみと涙がとまらない。
「なんだこれ!」
オリバムのすぐ後ろから走り寄っていたルーセントも、その場にうずくまる。
「悪いな。少ししたら収まるさ。じゃあな」
ロウヴェルは再び橋を渡ろうとして、再び止められた。
「お待ちなさい、薬屋さん。私にはそんなイタズラは効きませんよ」
湖上からトゥランダが凛とした声で命じる。
「だろうと思ってたよ」
慌てるでもなく、ロウヴェルは振り返ってトゥランダと向き合う。
「あんたはどうやら、人でも幽霊でもない。人工の守護聖霊ってとこだな」
「最近の薬屋さんは本当にいろいろなことを知っているのね」
湖面を、トゥランダはゆっくりと進む。ロウヴェルは動かない。白い手が真っ直ぐに差し出されるのを面白がっているようにも見える。
「それなら、この空間全体が私のものだということもおわかりでしょう? 無駄なことは止めて、素直にハゥルライズをお返しなさい。今なら、許してあげます」
「それは寛大な処置をどうも」
大仰にお辞儀をして、ロウヴェルは不敵に笑った。
「俺のことを止められるなら、俺もあんたのことを許してあげますよ?」
すっとトゥランダの目が細められる。瞬間、彼女の周囲に幾つもの蛍火のようなものが浮かんだ。光は素早くトゥランダの周囲を飛び回り、光と光の境目がわからなくなって、最後にはトゥランダ自身が光に包まれた。
トゥランダは微かに一言だけ呟いた。
直後、伸ばされていた指先から、まっすぐにロウヴェルに向かって光が幾筋も飛んだ!
「ロウ!」
オリバムが叫んだのと、光がロウヴェルを貫いたのは同時だった。
ロウヴェルは――笑っていた。
「これも、思った通りだ」
ロウヴェルは、己の身体を貫く光の束を無造作に握った。光は氷が溶けるように無くなった。
「こんなものじゃなくて、直接俺を捕まえた方がいいんじゃないか?」
からかうように片手を差し出すロウヴェルをきっと睨んで、トゥランダは再び光を呼び集める。今度は自分ではなく、ロウヴェルの周囲を光が舞う。
「お望みどおり、捕まえてあげます」
光は今度は網のようになってロウヴェルを閉じこめた。
「なるほど。これなら」
ロウヴェルは光の網をつかんだ。トゥランダが、あっと声を上げる。
「あんたを捕まえられる」
「どうし――!」
光の網が、ひときわ明るく輝くと、トゥランダは高い悲鳴を上げて水中に没した。水柱が上がって、湖面が激しく揺れる。
「トゥランダ!」
「ルー、待った!」
涙を流しながらルーセントが叫ぶ。立ち上がったところでオリバムに羽交い締めにされた。
「ロウ、お前いったいどうしたんだよ!」
ルーセントを押さえながら、オリバムも叫んだ。目の痛みと目の前の光景で、頭の中は混乱している。ロウヴェルだと思っていたのは、実は別人だったんじゃないかとか、わけのわからない考えが浮かんでは消えていた。
涙でゆがむ視界の向こうから、ロウヴェルの声が聞こえる。普段通りの口調が、訳もなく憎たらしい。
「安心しろよ、おぼっちゃま。あれは死んでないよ。もともと人工の存在なんだし、死ぬってのも変だろ」
光の網の残滓を払って、ロウヴェルは微かに自嘲気味に微笑む。
「まあ、こんなのも言い訳だよな。悪いが、これはちょっと借りていく。ちゃんと後で返すから、って言っても信じないだろうけどな」
「ロウ! 待て!」
オリバムの声に、ロウヴェルはもう振り返らなかった。
ルーセントの絶叫だけが、延々と響いていた。




