リッサ海戦(一)
オーストリア艦隊は7月19日1400にファザナ港外で集合、総隻数27隻で動き始めました。1430にポーラ湾口を過ぎてアドリア海に出ると、後はダルマチア諸島を左舷に進路は南東、一路リッサへ直進します。
開けた海面に出るとテゲトフ司令官は事前打ち合わせ通り艦隊を三つに分けました。
先頭は主力の装甲フリゲート7隻(この項では第1戦隊と呼びます)、二列目は大型の木造艦7隻(同じく第2戦隊)、三列目は小型木造艦艇10隻(同じく第3戦隊)、それぞれ別個に快速の偵察艦、輸送船を通報・伝令艦として先頭に立てて進みます。
それぞれの戦隊はヤジリ型に艦列を成して前の戦隊を追う形で進み、それは上空から見ることが適うなら(当時まだ航空機は発明されておらず、気球も海上飛行は冒険レベルでした)ちょうど真っ直ぐに伸びて枝を広げた樅の樹の形に見えたことでしょう。
この隊形は相互の連絡や援助が容易で、悪天候時にも衝突の危険が少ないという利点がありました。しかもこの形は敵に遭遇した時に指揮官の命令一下、別の隊形に変更(例えば横列や縦列などに)する事も容易だったのです。
テゲトフはファザナ出港直前の艦長集合でこう訓令しました。
「敵と遭遇すれば接近戦となるだろう。その場合、第1戦隊の装甲艦は一心に敵中へ突入し敵艦に体当たりを敢行せよ。これを避けられた場合も努めて敵に急接近して体当たりを狙い、砲火はあくまで定めた一艦に集中することが大切となる。敵は艦の数、性能、防御も、砲の性能も我らを上回っているので、これを五分五分に持ってゆくにはこの方法しかない」
その他の木造各艦艇にはこう告げます。
「汽帆走フリゲート各艦は敵艦隊の隊形により艦隊運動を変更するので、諸君等は旗艦の信号命令に注視してこれを実行するか、諸君等を束ねて指揮を委ねるコモドーレ(戦隊指揮官。この場合階級ではなく役職名なので代将や准将と訳すのは正確ではありません)「カイザー」艦長ペッツ大佐の指揮に従い行動せよ。また、コルベットや砲艦は速力が大抵はフリゲートと同等か上回っており、砲も大型砲を搭載するものが多いので、主力艦が交戦中、3艦程度で一群を成し、これで敵の単艦を攻撃して我ら主力を援助するように」
19日1700には最新の電信を待って艦隊を追いかけろと命じられたシュタディオンが追い付き、報告しましたが艦隊の発進後は重要な電信は入っていませんでした。
この夕方から次第に風が強まり、波が高くなって来ました。また進行方向の南東から向かい風となったので、足の遅い艦3隻がたちどころに遅れ始め、艦隊は速度を5ノット半に落として進みました。
この時間を利用して、テゲトフは旗艦艦長や司令部属員たちと話し合い、敵がもしサン・ゲオルクを占領していたとしても、つまり敵が湾内にあり砲台も敵が使用していた場合も、我らは迷わず一直線に敵艦隊へ突撃を敢行しよう、と誓い合います。
また、テゲトフは自分が戦死しても攻撃を緩めず、時期を見て艦隊に知らせ、次席指揮官(ペッツ戦隊指揮官)が代わって艦隊指揮を執るまでは、旗艦艦長ステルネック大佐が指揮を執り艦隊に命令することと決めます。
明けて20日。空は一面雲で覆われ風は収まらず、波は高いままでした。
穏やかなアドリア海を想定して建造されていた小型や旧式の汽帆走フリゲートは低い位置に砲甲板があり、その砲眼も水線からさほど離れていなかったので全て波を被って、ほとんどの砲が使用出来ない状態でした。
テゲトフは快速の艦により先行して偵察させることに決め、カイザー・マックスに命じてリッサ島方面を偵察させました。プリンツ・オイゲンを護衛に付け、伝令として快速のシュタディオンを付します。
この3隻は0700に艦隊を離れ、先行しますが程なくして引き返し、「汽船6隻を確認す」と信号して来ました。また、ほとんど同時に旗艦のマストに登って双眼鏡で見張りをしていた下士官が「東南の方位に煤煙が見えます」と報じますが、ここで突然雨が降り出して次第に激しくなり、すると霧が南西から漂って来てたちまち艦隊を覆ってしまいました。
ここでテゲトフは決断を迫られます。
このまま前進して敵が不意に現れた場合、この霧の中では満足な戦いが出来ず敗退する危険も増します。
また、リッサ島が既に占領されていた場合は、艦隊はイタリア艦隊が苦労したように島の敵とも戦うはめになります。例えリッサ島が未だ占領されていなかったにせよ、島には27隻もの艦隊を収容する施設はなく、装備を極力降ろし、糧食も石炭も最低限しか積み込んでいない艦隊は、ただ一撃に賭けるしかありません。
しかし、テゲトフには迷いはありませんでした。島がどうであろうが、今は敵艦隊のみを攻撃する。数分後、提督は「南南東に向かい前進せよ」と命じたのです。
すると天もテゲトフの決心を後押しするかのように、オーストリア艦隊が進み始めると次第に霧は流れ始め、雨は止み、風も北西、追い風へと変わりました。0900には未だ波は高いものの霧は南へ流れ去り、視界が開けました。
しかしこの波浪のため、旧式艦や小艦艇は砲眼の扉を開くことが出来ず(高い波と強風で開けばたちまち浸水し沈没してしまいます)海戦中は苦労して数門の砲を発射するに留まりました。
1000には霧は全て消え、雲間から太陽も降り注ぎ始めました。そして天候が急速に回復する中、遂にそれは見えたのです。
リッサ島はおよそ4キロ南にありました。そして敵イタリア艦隊はその沖合、島の2キロ北で縦列を作り、ちょうど左舷をこちらに向けようと転回の最中でした。その装甲艦の灰色の艦体が白波を蹴る様が目の当たりになったのです。
テゲトフは信号士官に命じ、旗艦マストへ次々と信号旗を揚げました。
「霧晴れたり。艦は戦を開け」
「距離発射よろしい(射程内に入り次第発射せよ)」
「監察艦位置に就け(戦隊の先頭にいる先導通報艦は隊列を外れて観戦し、海戦を記録せよ)」
「全艦突進せよ」
そして1035、戦い直前にこう信号しました。
「第1戦隊(装甲艦)敵中に突入し各個敵に体当たりせよ」
艦隊から歓声が上がってこれに応え、第1戦隊は目前に迫った敵装甲艦へ突撃して行くのでした。
ところで史書の中には、この時テゲトフ提督が「リッサに向け一勝を賭せよ」又は「リッサにおいて勝たざるはなし」という暗号旗流(Z旗だったかどうかは調べられませんでした)を掲げ突撃した、というものがありますが、旗は揚がらなかったという説もあり、オーストリア側の史料に従えば、準備はしたものの敵に迫る速度が速く信号係士官が揚げる間もなかった、というのが真相のようです。
テゲトフはトラファルガル海戦でネルソンが「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」との意味でZ旗を掲げた故事にあやかろうとしたのでしょうが、適わなかった模様です。
この後20世紀に入り、日本海海戦において東郷提督が秋山参謀の発案でこれをしっかりモノにしているのは誰もがご存じのお話。
さて、その頃イタリア艦隊では。
テゲトフ艦隊発見を知らされたペルサーノ大将は、アルビニ中将の上陸部隊を引き揚げさせると島の北岸から西へと移動させて待機とし、自らはサン・ゲオルク湾攻撃のため直卒していた装甲艦艇を直ちに転回させます。
装甲艦列はヴァッカ少将の戦隊3隻を先頭に縦列となり島の北岸に沿って西へ進み、1000過ぎ、敵の煤煙が北北西方向に見えるともう一度転針し、ちょうど敵と「T字」で対するように北北東へ一列のまま突き進みました。これは61年前のトラファルガル海戦で敗者となったフランス・スペイン連合艦隊の司令官ヴィルヌーブ提督と同じ「T字の横棒」となる形でしたが、ペルサーノは出来るだけ多くの砲口を敵に向けることが出来るこの形の優位さを疑いはしなかったのです。
ところでこの時、イタリア艦隊で海戦に参加したのはわずか9隻の装甲艦のみでした。
12隻あった装甲艦のうち、装甲コルベット「フォルミダビーレ」は島の砲台との戦いの損傷が大きくこれ以上戦うことが出来ず、この日、アルビニ戦隊の先頭に就いて海戦を見守った後、海戦の決着がついた午後、単艦アンコナに向かいました。
装甲コルベットの「テリビーレ」と装甲砲艦「ヴァレーゼ」はコミサ湾攻撃から引き上げると、ヴァレーゼは戦闘開始の直後、装甲艦隊縦列の最後尾レジーナ・マリア・ピアに付け、リボッティ戦隊に参加しますが、敵と戦う機会は無く、テリビーレは島の北トラヴァナ湾の沖に集合していたアルビニ戦隊の護衛となり、艦隊戦には参加しませんでした。
この敵艦隊を目前にして、ペルサーノ大将はレ・ディタリアを棄て艦隊司令部ごとアフォンダトーレへ移乗します。
その理由はアフォンダトーレの性能にありました。
この新造艦の乾舷上装甲は最大127ミリ(水線下は衝角攻撃に備えて254ミリありました)とイタリア艦では二番目に厚く、艦型も乾舷が低く衝角(艦首水線下に設けられた体当たり攻撃用の鋼鉄突起。これで敵舷側水線下を破り穴を開ける)も鋭く長く突き出し、何よりその新式装甲砲塔には最新のアームストロング砲、それも25.4センチ(口径10インチ、砲弾重量300ポンド)という重砲が収められていたのです。
ペルサーノは目前に自軍の最強艦がいるのに、それより劣る艦に将旗を翻し一大決戦の指揮を執るのは我慢がならなかったのでしょうか。
しかし残念なことにこのアフォンダトーレ、ペルサーノが憧れていた様な最良最強の軍艦とは程遠いものがあったのです。確かに最大装甲は5インチ(127ミリ)でしたが、これはチーク材に鉄板を貼り付けた疑似装甲板で、この厚さは喫水線前後でしかなく砲甲板(水線から3.3m)までで、それ以上の舷側には38ミリ厚の装甲板しか張り付けてありませんでした。また当時の一般的な装甲艦と同じく艦内には多くの木製品が使われており、簡単に引火することがありました。
ここまで艦を指揮して海戦に参加した初代艦長のマルチーニ大佐は、後にこう語っています。
「最大積載をすれば設計上の数値と大きくかけ離れて艦が沈み、強装甲になった部分はほとんど水線以下となってしまった。この薄い舷側や、チーク材に25ミリ鉄板を2枚敷いただけの甲板に砲弾が当たれば貫通される恐れがあった。また、舵は中央艦橋より操作することが出来たがそれは極めて重く、艦が非常に長かったので効きも悪く、転回するのに8分半もかかったものだ」
ペルサーノは海戦中にこの事実を知り、愕然としたと思いますが、既に後の祭りだったのです。
艦隊司令官が戦闘直前に旗艦を変更すると言う海戦の歴史でも珍事と言えるこの事態、ペルサーノは前日に心に決めていたのかどうか分かりませんが、参謀長始め司令部属員も艦隊の提督や艦長たちも事前に知らされてはおらず、この突然の移乗に属員は混乱し、司令部に去られた側のレ・ディタリアでは艦長のディ・ブルノ大佐が「後続のパレストロを含めて統一指揮せよ」と言われて戸惑い、また突然司令官に乗艦されたアフォンダトーレ艦長、マルチーニ大佐も驚きを隠せませんでした。
なにしろペルサーノは自身の大将(司令官)旗を持って行かず、代わりになる旗を、ということでアフォンダトーレに備えてあった最上級将官旗の「少将旗」を掲揚して済ませてしまい、結局、レ・ディタリアはこの大将旗を降ろさず戦ったものですから、海戦中は他の装甲艦長やヴァッカ少将、それどころか敵であるテゲトフも旗艦変更に気付かなかったのです。
当然、他艦が注目していたのはレ・ディタリアでした。ところが、レ・ディタリアは信号旗を掲げず海戦中沈黙したまま。逆にアフォンダトーレは各艦の周りを激しく往復しながら命令信号旗を次々に掲揚しましたが、これは敵を欺くための計略と見た艦長たちに完全に無視されてしまうのです。
しかもこの突然の旗艦変更は指揮官の所在が不明になる以上に重大な「穴」を開けてしまうのです。
司令部が移乗するため、ペルサーノはブルノ艦長に命じ短艇を用意させ、またアフォンダトーレに対しては停止を命じる信号を送るとレ・ディタリアとそれ以降の艦にも衝突を防ぐため停止を命じました。このボートをアフォンダトーレへ送り出す作業は十分程度掛かり、その間、先頭を行くヴァッカ戦隊は進み続けたので、前の3艦とレ・ディタリアまでの間がおよそ1キロ離れてしまったのです。
しかし考え様によっては、これはイタリア側にとって良い出来事だったと言えないことはありません。何故なら、この停止がなく艦隊全部が接近した縦列のままオーストリアの集中攻撃を受けた場合、その何艦かは味方の衝突を防ぐために身をかわすことが出来ず、テゲトフ捨て身の衝角攻撃の餌食になったことでしょう。
これは横合いから突進する牛の手前でフェイントの急停止をした様なもので、オーストリア第一戦隊は砲撃しながらその鼻先を突っ切って行き、最初の衝角攻撃は空振りに終わるのでした。
しかし、このお陰で先行するヴァッカ戦隊3隻が離れてしまい「遊軍化」し、オーストリア側は数的不利を一気に有利へと転じることが出来たのでした。




