リッサ島攻防戦(後)
1730、アルビニ戦隊の各艦はカロベル湾の所定位置に着き、ここからサン・ゲオルクの砲台砲撃に加わりました。これで再び砲台の背後が脅かされますが、角度が悪かったのか砲弾は多くがツェッパリーナ砲台の背後や近くの谷に落ち、無駄弾となるものがほとんどでした。
しかしサン・ゲオルク湾側からの装甲艦の砲撃は熾烈で、昨日の損害を上回る損害を各砲台に与え始めたのです。1800を前にして湾岸の砲台で未だに砲撃を続けていたのは、ウェリントン砲台の6門(60ポンド臼砲2、30ポンド砲2、他小砲2)の他ベンティンクの30ポンド滑腔砲1門、ツェッパリーナの24ポンド後装旋条砲3門、そしてマドンナ砲台の8門(30ポンド砲4、24ポンド砲4)だけでした。
ここでもしイタリア側がマドンナ砲台を撃破し、装甲艦で港を押さえれば、アルビニ戦隊はカロベル港に陸戦隊を上陸させいることが出来るのです。
イタリア艦隊はここぞとばかり装甲艦を湾内に入れ、砲撃を激化させました。コスモ・アンドレア高地に陣を敷いていたオーストリア軍は直ちに高地の砲台から大砲を引き出し、湾を撃ち下せる高地の際まで進出させ、敵の上陸に備えて一個中隊の歩兵をマドンナ砲台の両翼に展開して散兵線を敷き、砲台直下の部落にも兵を忍ばせ狙撃の体制を取るのでした。
この時のイタリア艦の行動は今までと違って警戒しながら進み砲撃を繰り返すのではなく、一直線にその艦の最大戦速で突進するという勇敢な行動でした。
その突撃の先鋒は「フォルミダビーレ」で、ツェッパリーナ砲台へ数発を放った後は既にマドンナ砲台まで400m余りとなっていて、ここで碇を降ろして舷側をマドンナ砲台に向けると片舷斉射を行うのでした。ツェッパリーナ砲台は昨日の様に「フォルミダビーレ」を貫通すべく砲撃を繰り返しましたが、当りません。その内に「レ・ディタリア」がツェッパリーナ砲台に対するようになり、脅威に対抗するためこちらに目標を変えるしかありませんでした。
他の砲台も自分たちの戦いに忙しく、またひとつ、ひとつと大砲が沈黙して行くので、マドンナ砲台は「フォルミダビーレ」の後ろから砲撃を繰り返すヴァッカ戦隊の装甲艦3隻分の砲撃を独り受けることになってしまったのです。この3隻も転回し片舷斉射を行い、その砲弾は砲台の土堤を叩いて朦々と土煙を上げさせるのでした。
しかし、マドンナ砲台は屈しませんでした。まずは「フォルミダビーレ」に集中し砲撃を繰り返します。この砲台の指揮官だったヤヴォルニク砲兵中尉はその危険を顧みずに砲弾が炸裂する中、陣頭で指揮を続け、その鬼気迫る様子に砲兵たちも奮迅の働きをするのです。
砲台の30ポンド砲弾は装甲する敵艦に当っても砕け散り、中々貫通することが出来ませんでしたが、破片が小さな破孔を穿つことがあり、これにより水兵を傷付け、艦内を損壊しました。
コスモ・アンドレアの小型砲も次々に発砲し、幸運な一弾は装甲艦の砲眼から飛び込んで艦内で炎上し火災を発生させます。マドンナ砲台の一発もまた同様に火災を呼び込みました。
その内に「フォルミダビーレ」が突然転向しました。これは後ろの3隻に射界を開かせようとする行動でしたが、却ってこれが仇となります。3隻は少しでも砲台に近付こうと動き始めましたが、この辺りから湾は急激に幅が狭まっており、自在に動くことが出来ませんでした。逆に「フォルミダビーレ」が動いたことでマドンナ砲台からは3隻が丸見えとなったため、砲台の砲撃は3隻に向き、これにコスモ・アンドレアの砲も加わったため、遂にヴァッカ戦隊は順番に回頭して湾を脱出して行きました。
単艦残った「フォルミダビーレ」は周辺の砲台からも射撃を浴び始め、これも耐えきれずに突然砲撃を止め、砲眼を閉じると錨を捨てて転回し始めます。
この砲撃戦の間に艦旗が2度旗紐を砲弾に切られて海面に落ちましたが、その度に水兵が飛び込み、旗を拾うと再び掲揚するということがありました。これには敵であるオーストリア砲兵も感嘆し、賞賛の歓声が砲声に交じって響いたそうです。
勇敢な「フォルミダビーレ」でしたが集中砲火を浴び続けたために装甲艦とは言え艦体は損傷が激しく、これを見たペルサーノ提督も旗信号で湾外へ撤退せよと命じるのでした。
「フォルミダビーレ」はマストが折られて無くなり、無数の着弾で装甲は凸凹になっていたのです。この砲撃の間だけで「フォルミダビーレ」は乗組356名中、戦死3名、負傷55名を出しています。
マドンナ砲台は頑丈な土と岩の堤で守られており、また海面とは高度差もあったため、着弾は少なく、死傷者は僅かに2名でした。
この「フォルミダビーレ」の撤退でこの日の戦闘も終息を迎えます。ペルサーノは2日連続で攻撃に失敗したのでした。
敗因は撤退したヴァッカ提督の指揮でも、ペルサーノの指揮でもありません。その責を負うとしたらアルビニ中将にあると言えます。
アルビニがもし2,600名の陸戦兵を揚陸することが出来たのなら、この戦いは間違いなくイタリア勝利となったはずです。
リッサ島にはオーストリア兵1,800名がいるとは言え、その3分の1は砲兵であり、また水兵でした。陸上で戦闘を行うことが出来る兵士は1,200名程度の大隊規模で、およそイタリア兵の半分でした。しかも各所に分散配置されており、サン・ゲオルクの砲台地帯には僅かな兵士しかいませんでした。それでもアルビニは2日続けて上陸に失敗するのです。
アルビニ提督がしたことは命令を無視して一隻の輸送船だけで島のあちらこちらに出かけ、偵察部隊程度の小兵力を上陸させようとしたことで、これは三度試み、全て現地の哨兵や砲台に邪魔をされて失敗します。最後にカロベル港へ上陸しようとしましたが砲台が沈黙しているにも関わらず、なぜか中止してしまうのです。
アルビニはペルサーノに会うとこう弁明しました。
「海が荒れており、船が安定しないので接岸出来ず、陸戦隊を上陸させることが叶わなかった」と。
この日は午後より確かに風が出ていましたがそれは南風であり、島の北側にあったカロベル港は比較的波は静かでした。また、港外に撤退した損傷艦も、別に波で浸水するほどのものではなかったと言います。
2000。昨日と同じ光景がリッサ島の北西8海里で見られました。イタリア艦隊が皆集合し投錨していたのです。
二日に渡ったリッサ島の攻防戦はこうして終わりました。
リッサ島の砲台は一部を除きどれも酷く破壊され、特にサン・ゲオルク湾の諸砲台は完全に沈黙する砲台だらけとなってしまいます。それでも火薬庫に直撃され破壊された「シュミット」砲台を除く砲台は、修復可能の状態でした。
しかし18日朝には88門あった大砲は19日夜には使用可能が30門程度、特にサン・ゲオルク湾岸の砲台では最初53門あった大砲が、この日戦闘終了後に発射可能だったものは僅か15門だったのです。
2日間合計で36時間に及ぶ攻防戦で兵士の疲労は極限に達し、また、戦闘が止んでいる間は砲や砲台の修理に追われていたため、ほとんどの兵士は一睡もしていませんでした。それでもこの夜、砲台を修復し始める姿は立派の一言でした。
このリッサ島攻防戦(18日と19日)での双方人的損出は、オーストリア軍が戦死24名、負傷70名。イタリア艦隊は戦死16名、負傷114名でした。
この夜もペルサーノ提督は深く悩みます。艦の多くは大小様々に破損し、石炭も後二日分しか残っていません。連日戦ったのに成果は少なく、敵の艦隊も現れません。
それならば策は二つに一つ、とペルサーノは考えました。
ひとつは、翌朝早々に島へ三度目の攻撃を掛け砲撃と上陸とを同時に行って一気に島を占領する。
もうひとつの案はあまり考えたくはない案で、アンコナへ帰還し燃料弾薬を補給したら直ぐに戻る、というもの。
結局日付が変わる前にペルサーノは三度目の正直とばかりに明朝リッサを急襲することに決し、陸戦隊のモナーレ大佐に対し、明朝、装甲艦が砲撃を開始するや否や直ちに上陸作戦を開始せよ、と命令しました。
ところが日付が変わる頃になって状況が怪しくなりました。海が荒れ始めたのです。風が次第に強くなり、上陸するには最悪な朝となりそうな気配となりました。
旗艦「レ・ディタリア」では上級将校や司令部属員の間で自然に上陸をどうするかの議論が始まり、観戦乗艦していた国会議員のピア・カルロ・バッジオ議員(イタリア王国誕生の貢献者の一人)は口を極めて明日必ず上陸すべきだ、と力説しました。この王国黎明期に活躍した闘士は、普段より海軍の敢闘精神の低さを非難していましたから、当然と言えば当然です。
しかし、デ・アミコ参謀長はこれに真っ向から反対します。黎明時に旗艦へやって来たヴァッカ少将も上陸に反対し、これを聞いたペルサーノ大将もアンコナ帰還案に傾き始めますが、運命は再びペルサーノの心を反対側へと傾かせるのです。
この20日、日の出直後に一隻の船が艦隊の前に現れるのです。それは徴用汽船の「ピエモンテ」で、大本営が約束した1,500名の残り1,000名余り、海軍歩兵一個大隊を乗せていたのでした。
こうなればもう、戦うしかありませんでした。増員が着いたのに引き返したとなれば、厭戦疑惑が起こって当然で、下手をすれば軍法会議ものです。
ペルサーノ提督はこの20日もリッサ島を攻撃するとして、アルビニ中将に対し、非装甲艦を率いて今日こそ必ずカロベル港より陸戦隊を上陸させよ、と厳命したのでした。
作戦は昨日と全く変わらず、装甲艦「テリビーレ」と「ヴァレーゼ」2隻にコミサ湾砲台を攻撃させ、ペルサーノは残りの装甲艦でサン・ゲオルク湾に突入するのです。
0800。アルビニ提督は大所帯となった非装甲艦艇を率いてカロベル湾沖に達し、上陸準備を始めました。
「テリビーレ」と「ヴァレーゼ」の2装甲艦はコミサ湾に迫り、残りの艦はサン・ゲオルク湾へ進撃する合図を待ちました。
昨日激しく損傷した「フォルミダビーレ」は負傷者を病院船「ワシントン」に移乗させ、「レ・ディ・ポルトガロ」と「カステルフィダルド」の2隻は応急修理が間に合わず、「ワレ機械損傷」の信号旗を揚げっぱなしにしていました。
すると突然、北西方向から監視任務に出ていた「エスプロラトーレ」が全速力でやって来ます。そのマストには「正体不明艦船見ユ」との信号旗を揚げていました。
ペルサーノは直ちに敵が、テゲトフ率いるオーストリア艦隊がやって来たことを確信しました。
提督は即座に命令を発します。
「敵艦隊現る。その方向西北西なり。全艦船西北西に面して展開せよ」
既に上陸準備を始めていたアルビニ中将には「上陸を中止せよ」と信号を送りますが、戦隊は静止したまま部署を動かないので重ねて信号「敵、至近にあり」を送り、島を背後に北西に向けて戦闘密集隊形を取らせます。
ペルサーノは更にコルベットの「ギュスカルド」と「ゴヴェルノロ」に命じ、「機械損傷」の旗を揚げている2艦を曳航させます。結局この2艦、「レ・ディ・ポルトガロ」と「カステルフィダルド」の故障は艦の運航や戦闘能力に影響せず、海戦に参加することとなります。
また「メッサジェーロ」には、コミサ湾に向かった「テリビーレ」と「ヴァレーゼ」を呼び戻すよう命じました。
そして提督自身は装甲艦を率いて、まずは水平線に見え始めた幾筋もの煤煙立ち昇る方角、北西に向け、続いて定石通り片舷斉射をするため北北東へ転回しながら進路を北東へ向けるのでした。
実はリッサ島はこの日濃霧に覆われていて、イタリア艦隊の動きを捉えることも後手となっていました。駐屯部隊本営にイタリア艦襲来の報告が届いたのも遅く、詳細も不明でした。ただ、北西沿岸のキアベ湾近くの高台に置かれた観測所からのみ、敵は木造船の集団により上陸する行動を見せている、との報告があったのです。
このため、イタリア艦隊がどこを襲うのか誰にも判断出来ず、万が一に備えコスモ・アンドレア高地の部隊に警戒態勢を取らせ、砲台としては役に立たなくなったゲオルク砲台には歩兵の一個小隊を送り込みました。更にカロベル港とキアベ湾にも歩兵と12ポンド砲を緊急配備するのでした。
こうしてリッサ島の守備兵は寝不足と疲労に重い体に鞭打って戦闘3日目を迎えるのです。
霧は深く、音は平板に聞こえて距離感を失います。いつ敵が来るか、どこから来るか不安になり、兵士たちは霧を透かして何かが見えはしないか、緊張していましたが、1000になると霧は薄れ、夏の太陽が顔を覗かせました。すると霧はあっという間に晴れ、リッサの守備兵たちが海上を見やると……
そこには兵士たちが驚愕し息を呑む壮観が広がっていたのです。
大きなイタリア国旗をマストに翻した敵艦が多数、四方より島の北西沖に集まって来ていました。その先の海上には遥かに黒い艦影がポツポツと見えています。それは陸兵が見ても分かるほど白波を立ててこちらに猛進しているのが分かりました。目の良い兵士にはそのマスト上に白と赤の旗が翻るのが見えています。オーストリア海軍旗でした。
島の兵士たちは初めこの光景を見ると一斉に歓声を上げ、狂喜乱舞します。あのデンマーク海軍と対等に渡り合ったテゲトフ率いる艦隊がやって来た!リッサは見捨てられていなかったのです。
しかし、その歓声も次第に消えて行き、重く垂れ込めるような緊張感が湧き上がって来ます。これから彼らの目前で一大海戦が始まるのです。これだけの艦船が互いに己の海軍力のみでぶつかり合うのはナポレオン戦争中、あのネルソンがフランス・スペイン連合艦隊を破った1805年のトラファルガル海戦以来でした。およそ60年振りに発生する主力艦同士の海戦であり、史上初めての蒸気機動艦船、そして装甲艦同士の海戦が今まさに、辺境の地で守備に就く兵士たちの目前で始まろうとしていたのです。
果たして我らがテゲトフ提督はこの世紀の海戦に勝てるのか?ごくりと唾を呑む音まで聞こえそうな静寂の中、静かな祈りの声が聞こえました。母国の勝利を願い、兵士たちは自然と祈りを捧げたのでした。
シモーネ・アントニオ・パコーレ・デ・サン=ボン(1828~1892)
「フォルミダビーレ」艦長だったサン=ボン中佐は、ジェノヴァの海軍学校を卒業後サルディニア海軍の士官としてクリミア戦争に従軍、第一次イタリア独立戦争で頭角を現し、新生イタリア海軍の俊英として63年には「近代海軍の考察」という装甲艦に関する論文を書き、海軍の「装甲艦」推進派論客として有名になります。
リッサの戦闘では装甲艦の強靭さを自ら示し、海戦こそ参加出来ませんでしたがその勇気で戦後勲章を授与されました。
73年、少将昇進後に海軍大臣となり、イタリア海軍を刷新、魚雷を導入します。政治家として上院議員にもなり、近代イタリア海軍の父と目されています。




