リッサ島攻防戦(前)
7月16日1500、イタリア艦隊はリッサ島に向けアンコナ軍港を出港して行きました。
艦隊は装甲艦11隻(装甲フリゲート7隻、装甲コルベット2隻、装甲砲艦2隻)、汽帆走フリゲート4隻、コルベット3隻、哨戒艦や輸送船他6隻、総計24隻です。
上陸用の兵員は16日午前中に到着した海軍歩兵大隊を中心とした1,500名の海兵を中心におよそ2,000名が輸送船や戦闘艦に分散し乗艦していました。大本営が約束した追加の1,500名は出航に間に合わず、追ってリッサへ来ることになったのです。
更に夜になると航行中の艦隊を追いかけ、砲艦3隻と輸送船1隻が加わりました。
後に戦闘艦艇の数は増え、汽帆走フリゲート「ガリバルディ」が整備不良で遅れて18日に、装甲砲塔フリゲート「アフォンダトーレ」汽帆走フリゲート「プリンチペ・ウンベルト」「カルロ・アルベルト」コルベット「ゴヴェノーロ」が19日にリッサにて合流します。
このアフォンダトーレは艦隊司令長官ペルサーノ大将が熱望していた最新鋭艦でした。
この日ペルサーノ提督は旗艦「レ・ディタリア」には乗艦せず徴用汽船「フラビオ・ジオア」に乗って先行し、ガルガーノ港(イタリア半島を長靴に見立てると拍車のようなコブ状半島の基部にある)に寄ります。ここから電信を打って半島の最南、ブリンディジに寄港している「アフォンダトーレ」をアンコナではなく直接リッサ島へ寄越すよう命じるのでした(当時電信は数キロから20キロ程度の距離しか送れず中継局を介したので、船で近くまで行って送信した方が早かったのだと思われます)。
ペルサーノがこの新鋭艦に寄せる異常とも思える期待や執着が、この後艦隊の運命に大きな影響を与えることとなります。
艦隊は、万が一スパイや商船などに目撃されている場合を想定し行き先を欺くため、まずはロシン(ロシニ)島を目指し、アドリア海中程に出ると17日の昼間一杯その海上で停留漂泊し、この日夜を迎えるとリッサに向けて進発します。そして18日の0830、リッサ島の北西32キロに達するのでした。
ところでペルサーノは出撃したものの、出発までに戦場となるリッサ島の最新情報を受け取ることが出来ませんでした。海図だけでは上陸も危ういので、まずは偵察を行うことにします。
旗艦に戻ったペルサーノは17日の朝、参謀長のデ・アミコ大佐を呼び寄せると、哨戒偵察艦「メッサジェーロ」に乗って先行しリッサ島を偵察せよ、と命じました。大佐は早速「メッサジェーロ」へ移乗しリッサへ先行します。
「メッサジェーロ」は島から見えない場所で転回し南側からリッサに接近しました。島が見えると海岸砲の射程外をゆっくりと西から北へ時計回りに巡り、東海岸を偵察した後で再び南海岸へ出、島を後にしました。
この「正体不明船」は当然島からも見えており、リッサ防衛の駐屯部隊本営は艦隊司令部に当てて通報をしました。そう、これが「英国旗を掲げた偵察艦」の正体なのでした。
デ・アミコと「メッサジェーロ」は17日深夜、北西から島に近付く艦隊と合流します。デ・アミコは島の海図に観察した砲台や堡塁の位置を記入して直ちに旗艦に戻りペルサーノへ報告しました。この地図は実際のオーストリア軍の配置を全て記載しているわけでなく概略程度のものでしたが、ペルサーノにとっては大いに参考となりました。また、アミコ大佐は島の防衛兵力を合計2,500名と推測し報告しますが、実際は1,800名で、少々盛った見積もりとなっていました。
リッサ島はアドリア海南東部、ダルマチア諸島の一番南側で少しイタリア側に突き出した場所にあります。ダルマチア海岸より30海里、イタリア半島からは70海里となり、面積は90平方m。島の最高峰はフム山で標高587m、島は全体が断崖で囲まれた海岸線、砂浜は少なく、切れ込んだ湾に港がいくつか作られていました。
最も大きな街はリッサ(ヴィス)で長方形をした島の北東側、深く切れ込んだサン・ゲオルク湾の奥にあります。島の反対側(西)には広いコミサ湾があり、ここに島第二の街、コミサ(コミジャ)がありました。
これを防衛するのは海軍歩兵部隊を中心とした約1,800名で、大砲は大小合わせて88門が配備されています。
ペルサーノ提督は最初、島の東側の主要港、サン・ゲオルク湾を艦隊主力で攻撃し、その間に別働隊を島の反対西側のコミサ湾へ向け、ここから兵士を上陸させ、背後からリッサの街(サン・ゲオルク湾の奥)周辺にある砲台群を襲撃するという作戦を立てていました。艦長や幕僚の中には「リッサは『小ジブラルタル』(イベリア半島突端の要塞ジブラルタルに例えて堅固だと言うこと)なので、完全に戦力が集まるまで攻撃を待つべき」という反対の声もありました。デ・アミコ参謀長の偵察の結果、コミサ湾には砲台が複数あり、兵士の姿も見えたのでペルサーノはコミサ上陸こそ諦めますが、小ジブラルタルとの意見は「大げさである」と否定して上陸地点をコミサ湾より防備が手薄そうな島の南東側にあるマチゴ港に変え、尚も上陸作戦を決行することにしました。
ペルサーノは艦隊を大きく4つに分け、17日深夜、翌18日早朝実施の命令を発します。
「ジョヴァンニ・ヴァッカ少将は『プリンチペ・カリニャーノ』を旗艦とし、他装甲フリゲート2隻、コルベット1隻を率いてコミサ湾に向かい、その堡塁・砲台を攻撃せよ。この理由は敵を欺いてコミサに上陸すると見せかけることにあり、また、砲台を破壊して使用不能とし、後に上陸可能な環境を整えることにある」
「ジョバン・バチスタ・アルビニ中将は『マリア・アデライデ』を旗艦とし、他汽帆走フリゲート3隻、コルベット1隻を率いてマチゴ港に向かい、そこにある砲台を攻撃して破壊し、モナーレ大佐指揮の上陸兵部隊(およそ2,000名)をマチゴ港に上陸させること」
「艦隊本体は司令長官が直卒し、サン・ゲオルク湾に向かい、ここでアウグスト・アントニオ・リボッティ大佐の別働隊(旗艦『レ・ディ・ポルトガロ』以下装甲艦3隻)で湾の東側を攻撃、残りは湾の西側を攻撃する」
「『モンテベッロ』艦長アントニオ・サンドーリ中佐は砲艦戦隊(砲艦3隻と汽船1隻)を率い、リッサの東、ダルマチア海岸に近いレシナ(フヴァル)島に向かい、リッサとレシナを結ぶ海底電信線を切断し、通信施設及び港湾施設を破壊せよ」
「『エスプロラトーレ』はリッサ島の北東からダルマチア海岸まで、『ステラ・デ・イタリア』はリッサ島の北西から南西側を哨戒し、敵艦隊接近を警戒せよ。敵を見たら直ちに信号にて警報を送ること」
「他、輸送糧食、病院船は島から離れブシ島(ビシェヴォ島/リッサ島すぐ南西)近海で待機せよ」
この命令は筋の通ったなかなか良い命令だったのですが、残念ながら発令が真夜中では信号旗も使えず、また信号弾は敵地に近いために使用が躊躇われたため、結局各艦に送られ確認されたのは翌18日1000過ぎとなってしまいます。この間0900には汽帆走(木造)フリゲート「ガリバルディ」が現れて、直ちにアルビニ戦隊に加わりました。
各戦隊は命令を受け取るや急ぎリッサに向け動き始めたのです。
さて、リッサ島ではオーストリア軍守備隊がこの様子を逐一観察していました。前日、不審船が島を一周してから戦闘が間近に迫ったことは守備隊の誰もが知っていました。
島で一番高いフム山の観測所では18日の日の出直後に北西側にこの艦隊を発見し、第一報として「二十海里の距離、艦船9隻旗を揚げず島に向かっている」と報じます。その後、艦影は22隻まで増えて急接近し、0900には高台にあるコミサ湾北のマグラレミ砲台からも見えるようになりました。この直後、島には警戒警報が発令され、守備隊は堡塁や陣地へ急ぎ、砲台は砲撃準備を始めます。
艦隊はまず1000過ぎにリボッティ戦隊の装甲艦4隻が南西に回り込む形でコミサ湾に侵入、マグラレミ砲台(砲8門)の射程内に入り、砲台は射撃を始めます。ここで初めて各艦はイタリア国旗を揚げて転進、隊列を組んだまま砲台の北西側に回り込み、ここから射撃を開始しました。
続いてアルビニ戦隊の木造フリゲートが砲台の前方(西)へ、また、ヴァッカ戦隊が続いてコミサ湾に侵入しました。この時点でコミサを守る砲台は一時14隻もの艦船から砲撃を受けてしまいます。しかし、砲台は撃ち下す形で砲撃を行いますが、イタリア艦の方は全て急角度で撃ち上げる形となり、その弾道はどうしても上方に逸れてしまい、砲台に落下した砲弾は僅か2発でした。
また、湾の南、ペルリク山砲台(砲2門)も射程に敵を捉え始め、砲撃に参加しました。イタリア艦隊はヴァッカ戦隊がコミサ湾に到着すると、命令通り後は任せて湾を離れ、島伝いに南から東へ向かいます。
こうしてアルビニ戦隊はマチゴ港に到着し、リボッティ戦隊はその沖を直進してリッサ島で最重要なサン・ゲオルク湾に入ります。
マチゴ港に侵入したアルビニ戦隊は直ちに砲撃を始め、港を守るナドポストランジェ砲台を砲撃し始めますが、この砲台にはたった6門の大砲しかなく(18ポンド砲4門、12ポンド旋条砲2門)攻撃力は小さかったのですが切り立った断崖の上という有利な位置にあり、下から撃ち上げるイタリア艦の大砲では弾丸が届きませんでした。逆に砲台は俯瞰する形なので狙いやすく、戦隊は数発の命中弾を受けてしまいました。特に「マリア・アデライデ」に命中した一弾は水兵5名を殺傷するのです。
一方、ペルサーノ提督直卒の本隊も1100、北西より姿を見せました。ちょうど東から回り込む形でリボッティ戦隊もやって来て、作戦通り本隊がサン・ゲオルク西側の砲台群を砲撃し、リボッティ隊が東側砲台を砲撃しました。
サン・ゲオルク湾はコミサやマチゴと違い、まるで要塞のように砲台が連なっています。ここは本土側に向いて口を開いた天然の良港で、切り立った崖からそのまま海となるので水深も十分にあり、古来リッサの中心地となっています。
東側でリボッティ隊と戦うのは北から「シュミット」(3門)「ウェリントン」(6門)「マドンナ」(8門)の三砲台。西側は同じく北から「ゲオルク」(17門)「マムーラ」(7門)「ロベルトソン」(1門)「ツェッパリーナ」(4門)「ベンティンク」(7門)と続く五つの砲台でした。
戦い始めるとイタリア艦隊は直ぐにオーストリア砲台の大砲は小型で威力が小さいこと(最大が60ポンド臼砲でこれはウェリントン砲台に2門だけありました。主力は12から24ポンド砲です)に気付きます。装甲艦なら多少の打撃は防げると踏んだペルサーノは艦を湾の奥まで侵入させ、砲台の直下から砲撃を繰り返しました。
延々と続く砲撃は次第にイタリア有利となって、1400、旗艦「レ・ディタリア」の放った一発の砲弾が「シュミット」砲台の火薬庫に命中、大爆発を起して砲台はがれきの下に埋もれてしまいました。これを見た艦隊の諸艦からは歓声が巻き起こり、俄然砲撃も激しさを増したのです。
西側の砲台も次第に防壁が崩れ、砲弾が砲列にまで及ぶようになり、特に「ゲオルク」砲台の被害が目立ちます。それでもオーストリア砲兵は規律を維持し、正確な砲撃に努め続けました。
その頃、島の南ではアルビニ戦隊がたった一つの砲台に手を焼いていました。いくら砲撃を繰り返しても高台にある砲台にはなかなか命中しないのです。島の西で砲撃を繰り返すヴァッカ戦隊の方も同じで、逆に敵の砲弾が諸艦の艦体を傷付けていました。
ヴァッカ少将は「ギュスカルド」をサン・ゲオルクに送ってペルサーノに報告します。
「戦隊は砲撃を繰り返すも湾内の砲台はみな高台にあり、砲弾が逸れて当たらないため損害を与えられず。よって戦隊をアルビニ戦隊のいるマチゴに向け、アルビニ提督を援助する」
ヴァッカ少将は1200過ぎ、コミサ攻撃を中止し、戦隊は南回りでマチゴに向かいました。
ところが、ほぼ同時にアルビニ中将の方も「サン・ジョヴァンニ」をペルサーノの下に送り、「戦隊奮戦するも砲台を破壊出来ず。我が方に損害がおびただしい。今後の指示を請う」と報告したのです。
ペルサーノは将官たちの報告を聞いて失望し、また怒りました。ヴァッカ提督の方はまだしも、アルビニ提督には上陸という重要な任務があるのです。ペルサーノはアルビニを譴責し艦隊に合流せよとの書面を「サン・ジョヴァンニ」に持たせ、また、ヴァッカ宛に「少なくとも装甲艦一隻をコミサに残し艦隊に合流せよ」との書面を「ギュスカルド」に持たせます。
ところが程なく、「ギュスカルド」が出航する間もなくヴァッカ戦隊が現れました。ヴァッカ提督は、マチゴに着いて見るとアルビニが砲台に手を焼いており、またこの砲台は艦船からの砲撃では沈黙させることが出来ないと判断し、戦隊をそのままサン・ゲオルクに進めたのでした。ヴァッカ提督への命令は取り消され、その戦隊はリボッティ戦隊と合流し、東側で根強い抵抗を続ける「ウェリントン」砲台への攻撃に加わりました。
それから30分ほどでアルビニ戦隊も到着し、ペルサーノはアルビニに改めて「サン・ゲオルク湾の西にあるカロベル湾より陸戦隊を上陸させよ」と命じました。
カロベル湾に上陸するには隣接するサン・ゲオルク湾岸の砲台を沈黙させるしかありません。ペルサーノは、装甲艦を更に砲台近くまで迫らせ砲撃を行うよう命じます。これで全ての力がサン・ゲオルク湾に集中し、砲撃戦は最高潮を迎えたのでした。
昼前から続く砲撃戦はついに連続6時間を超え、オーストリア側では弾薬庫が空に近付いた砲台も出始めます。特に5月頃に増設された砲台の中には弾切れで沈黙する大砲がありました。
被害も出始め、「ゲオルク」「マムーラ」の2砲台は兵士を多く失っていて、手が足りなくなった大砲は沈黙するしかなくなりました。
午後5時、砲撃が弱まりつつあるのを見たペルサーノは、敵の砲台が力尽きる寸前だと信じ、一気にサン・ゲオルク湾奥のリッサ港を奪取することに決し、装甲艦を単縦陣で湾の奥へと進めました。「フォルミダビーレ」を先頭に「レジーナ・マリア・ピア」「サン・マルティノ」が続きます。「レ・ディタリア」は激しく抵抗するツェッパリーナ砲台と一騎打ちとなり、三艦の突入を助けました。
しかしここでツェッパリーナ砲台は必死の応射を繰り返し、抵抗を続けるのです。ツェッパリーナが抜かれたなら港まではベンティンク砲台の7門以外に大砲が無く、港に上陸される恐れが増すからでした。
すると装甲艦の先頭を行く「フォルミダビーレ」に大きな衝撃音と火花が散ります。砲台が発射した24ポンド砲の砲弾が装甲を貫通し艦内で爆発したのです。たちまち速度が落ちた「フォルミダビーレ」は遅れ始めます。勢いが上がったオーストリア側は、沿岸のマドンナ砲台と港の背後、コスモ・アンドレア高地の砲台(合計10門)も砲撃戦に参加し始めました。この砲撃も熾烈で、港の水面は砲撃の着水で泡立ち、危険を感じた装甲艦3隻は転回して退却するのでした。
この時、リッサの街では警護の歩兵中隊をコスモ・アンドレア高地へ後退させ、本土との連絡を行っていたロイド船籍の徴用汽船「エギット」は拿捕を防ぐため海水弁を開いて甲板の高さまで水没させました。後退した歩兵中隊所属の歩兵砲は、港を防護するマドンナ砲台の応援として砲台に配置し、敵艦隊への砲撃に加わっています。
1600になるとリッサからザーラへ戦況を次々に送信していた電信局の装置が突然送信不能となってしまいました。
これは1600にイタリア艦隊の別働隊サンドーリ戦隊の砲艦が対岸のレシナ島レシナの街を襲い、港湾当局の官吏を脅し、電信技師を捕まえてリッサに至る海底電信線の端末を切断したからで、その後、イタリア水兵が夜を前に撤退するのを確認したこの電信技師は、夜を徹して電信線を島の山へと引き上げ、翌19日はその山頂からザーラへ戦闘の詳細を送信するのでした。
リッサ海戦参加艦艇・2
イタリア海軍戦闘序列
艦隊司令官 伯爵カルロ・ペリオン・デ・ペルサーノ大将
参謀長 エドアルド・デ・アミコ大佐
艦隊次席指揮官 ジョヴァンニ・ヴァッカ少将
フリゲート戦隊指揮官 ジョヴァン・バチスタ・アルビニ中将
装甲フリゲート
○レ・ディタリア
(艦長;伯爵エミリオ・ファ・ディ・ブルノ大佐・乗組員600名)
5,791t、12ノット、20cm(72ポンド)アームストロング砲2門、20.3cm(72ポンド)滑腔砲4門、16.4cm施条砲16門、16.4cm滑腔砲14門、最大装甲120ミリ、1865年完成(アメリカ建造)
○レ・ディ・ポルトガロ
(艦長;アウグスト・アントニオ・リボッティ大佐・乗組員550名)
5,791t、12ノット、25.4cm(300ポンド)アームストロング砲2門、16.4cm施条砲12門、16.4cm滑腔砲14門、最大装甲120ミリ、1864年完成(アメリカ建造)
○レジーナ・マリア・ピア
(艦長;侯爵エバリスト・デル・カレット大佐・乗組員484名)
4,527t、13ノット、20.3cm(72ポンド)施条砲4門、16.4cm滑腔砲22門、最大装甲120ミリ、1864年完成(フランス建造)
○サン・マルティノ
(艦長;アミルカレ・ロベルテ大佐・乗組員484名)
4,600t、12.6ノット、20.3cm(72ポンド)施条砲4門、16.4cm滑腔砲22門、最大装甲120ミリ、1864年完成(フランス建造)
○アンコナ
(艦長;アレサンドロ・ピオラ=カゼッリ大佐・乗組員484名)
4,619t、13ノット、20.3cm(72ポンド)施条砲4門、16.4cm滑腔砲23門、最大装甲120ミリ、1866年完成(フランス建造)
○カステルフィダルド
(艦長;ラファエロ・カカセ大佐・乗組員484名)
4,580t、12.1ノット、20.3cm(72ポンド)施条砲4門、16.4cm滑腔砲23門、最大装甲120ミリ、1864年完成(フランス建造)
○プリンチペ・ディ・カリニャーノ
(艦長;コラード・ヤウク大佐・乗組員484名)
4,086t、10.2ノット、20.3cm(72ポンド)施条砲10門、16.4cm滑腔砲18門、最大装甲220ミリ、1865年完成(国産)
装甲砲塔フリゲート
○アフォンダトーレ
(艦長;フェデリコ・マルチーニ大佐・乗組員290名)
4,540t、12ノット、25.4cm(300ポンド)アームストロング砲2門(単装砲塔2基)、8cm青銅滑腔砲2門、最大装甲127ミリ、1866年完成(イギリス建造)
装甲コルベット
○テリビーレ
(艦長;男爵レオポルド・デ・コサ大佐・乗組員356名)
2,700t、10.2ノット、20.3cm(72ポンド)施条砲10門、16.4cm滑腔砲18門、最大装甲115ミリ、1865年完成(国産)
○フォルミダビーレ
(艦長;男爵デ・サン=ボン中佐・乗組員356名)
2,756t、10ノット、20.3cm(72ポンド)施条砲4門、16.4cm滑腔砲16門、最大装甲115ミリ、1865年完成(国産)
装甲砲艦
○パレストロ
(艦長;アルフレッド・カッペリーニ中佐・乗組員250名)
2,559t、8ノット、20cm(72ポンド)アームストロング砲2門、20.3cm(72ポンド)施条砲2門、12cm滑腔砲1門、最大装甲120ミリ、1866年完成(フランス建造)
○ヴァレーゼ
(艦長;ルイージ・フィンカッティ中佐・乗組員250名)
2,559t、8ノット、20cm(72ポンド)アームストロング砲2門、20.3cm(72ポンド)施条砲2門、16.5cm滑腔砲1門、8cm後装施条砲2門、最大装甲115ミリ、1866年完成(フランス建造)
汽帆装フリゲート
○マリア・アデライデ
(艦長;アウギュスト・デ・モナーレ大佐・乗組員550名)
3,543t、12ノット、16cm(20ポンド)滑腔キャノン(長砲身)砲36門、25cm(40ポンド)滑腔カロネード(短砲身)砲14門、8ポンド速射砲4門、80ポンド臼砲1門、1861年完成(国産)
○ドゥカ・ディ・ジェノヴァ
(艦長;アルフレッド・デ・クラベサナ大佐・乗組員580名)
3,515t、12ノット、16cm前装旋条砲8門、16cm(20ポンド)滑腔キャノン(長砲身)砲32門、20cm滑腔カロネード(短砲身)砲10門、8cm青銅滑腔砲4門、1861年完成(国産)
○カルロ・アルベルト
(艦長;カルロ・プッチ中佐・乗組員580名)
3,400t、8ノット、40ポンド滑腔キャノン(長砲身)砲16門、40ポンド滑腔カロネード(短砲身)砲20門、20ポンド滑腔カロネード(短砲身)砲14門、15ポンド滑腔キャノン(長砲身)砲2門、80ポンド臼砲1門、1853年完成(イギリス建造)
○ヴィットリオ・エマヌエーレ
(艦長;アントニオ・イムベルト大佐・乗組員580名)
3, 300t、9ノット、16cm(20ポンド)滑腔キャノン(長砲身)砲40門、25cm(40ポンド)滑腔カロネード(短砲身)砲16門、40ポンド青銅砲20門、80ポンド臼砲1門、1861年完成(国産)
○プリンチペ・ウンベルト
(艦長;男爵グリエルモ・アクトン中佐・乗組員260名)
4,086t、11ノット 、16.4cm滑腔キャノン(長砲身)砲32門、16.4cm滑腔カロネード(短砲身)砲8門、20cm滑腔カロネード(短砲身)砲10門、1863年完成(国産)
○ガエタ
(艦長;カルロ・セルッティ大佐・乗組員580名)
3,980t、11ノット、80ポンド滑腔砲54門、1865年完成(国産)
○ガリバルディ
(艦長;ルッジェーロ・ビタグリャーノ大佐・乗組員580名)
3,980t、11ノット、20cm滑腔カロネード(短砲身)砲12門、30ポンド滑腔キャノン(長砲身)砲42門、12ポンド速射砲4門、1861年完成(国産)
スクリュー推進コルベット
○サン・ジョヴァンニ
(艦長;フェリーチェ・ブローネ=レルカリ中佐・乗組員190名)
1,780t、9ノット、16cm(40ポンド)滑腔キャノン(長砲身)砲14門、16cm(40ポンド)滑腔カロネード(短砲身)砲6門、8cm青銅滑腔砲4門、1861年完成(国産)
外輪推進コルベット
○ゴヴェノーロ
(艦長;アントニオ・ゴゴーラ中佐・乗組員260名)
2,279t、11ノット、20cm滑腔カロネード(短砲身)砲12門、1861年完成(国産)
○ギュスカルド
(艦長;ロベルト・ペピ中佐・乗組員190名)
○エトーレ・フィラモスカ
(艦長;フランシスコ・バルディセロット中佐・乗組員190名)
1,452t、10ノット、16cm(20ポンド)滑腔キャノン(長砲身)砲6門、1861年完成(国産)
スクリュー推進砲艦
○ヴィンツァリオ(艦長;ヴィンセンツォ・フォスコロ中佐・乗組員63名)
○モンテベッロ(艦長;アントニオ・サンドーリ中佐・乗組員63名)
○コンフィエンツァ(艦長;アンジェロ・コンティ大尉・乗組員63名)
262t、12cm後装旋条砲4門、1861年
外輪推進偵察哨戒艦
○メッサジェーロ
(艦長;エドアルド・ガルバルディ中佐・乗組員108名)
1,080t、15.5ノット、12cm後装旋条砲2門、1863年完成(イギリス製造)
○エスプロラトーレ
(艦長;パオロ・オレンゴ中佐・乗組員108名)
1,080t、17ノット、12cm後装旋条砲2門、1863年完成(イギリス製造)
病院船(スクリュー推進)
○ワシントン
(艦長;フェリーチェ・ジカーボ大尉・乗組員98名)
1,408t、9ノット、16cm(20ポンド)滑腔キャノン(長砲身)砲4門、1861年完成(国産)
糧食船(外輪推進)
○インデペンデンツァ
(艦長;ディオニシオ・リパラッチ大尉・乗組員98名)
600t、12cm後装旋条砲2門
徴用商船
○フラビオ・ジオヤ
(艦長;モロー大尉・乗組員108名)
2,000t、非武装
○ステラ・デ・イタリア
(艦長;エドアルド・ベルリギエーリ大尉・乗組員108名)
2,000t、非武装
○ギグリオ
(艦長;デ・ニゲリ大尉・乗組員26名)
250t、非武装・外輪推進
○ピエモンテ
(艦長;ルイージ・メルト大尉・乗組員?名)
1,512t、非武装・外輪推進
他にも輸送船あり




