テゲトフ提督登場
イタリア海軍大将で艦隊司令官のカルロ・ペリオン・デ・ペルサーノ伯爵は、オーストリア帝国との開戦間近となった1866年6月8日、王国政府のラ・マルモラ首相(直後に大本営参謀総長兼ミンチョ川方面軍参謀長・司令)より「開戦に至ると同時にアドリア海へ出撃し、オーストリア艦船を探してこれを撃破、ダルマチア海岸からトリエステ沿岸地方までの港湾を封鎖せよ」との命令を受けます。
イタリア王国は四年前に北西部のサルディニア王国と共和派のガルバルディ率いる義勇軍「赤シャツ隊」により、中南部のナポリやシチリア王国などを併合して誕生したばかり。明治維新直後の日本と同様、未だ国は一つになったとは言えず、陸軍では南部の主要国家だった旧ナポリ王国出身の将兵による反抗が相次ぎ、不穏な空気に包まれていました。
海軍でもその傾向は変わらず、元はイタリアでも辺境の地からのし上がったサルディニア王国(この傾向、日本の長州・薩摩藩にそっくりです)に上層部を占められたナポリやシチリアの水兵たちの不満は陰に日向に現れて、士官たちの指揮権・主導権争いも諍いのレベルを越えた物がありました。
とは言うものの、イタリアは周囲を地中海に囲まれた半島と島の国家であり、ローマ帝国やヴェネチア共和国の全盛時代に海運で財と力をつけた地域。船を扱うのはお手の物で、特に造船デザインには目を見張る物があり、この後、艦船デザイン分野で世界の最先端にのし上がって行きました。
王国が成立すると、各国の海軍はまとめられ、その最新鋭の艦船はそのまま統一海軍の主力となり、また各地の造船所は急速に力をつけて王国海軍用に最新の艦船を造るようになります。二十世紀に入ると地中海ではフランスと並び無視出来ない勢力となっていきました。
しかし今は普墺戦争当時1866年。
イタリア王国は生まれたばかりであり、重工業も発展し始めたばかりでしたので、艦船もほとんどが外国に発注されて完成したものばかりでした。それでも完成した艦艇は、後装旋条砲やコンパクトになったスクリュー推進石炭ボイラーエンジンなど、当時の最新装備を搭載する世界の最先端を行くものが見られました。
当時、艦船は石炭燃料による動力エンジンを装備した汽船がほとんどとなっていましたが、現在に続くスクリュー推進によるものが次第に外輪船にとって替わる変革の時代にあり、またエンジンは未だ一千馬力以下の非力なものなので補助として操帆マストを装備した艦船がほとんどです。
また艦船の構造も木製から鋼鉄で装甲した鉄船が増えていましたが、これも従来の木造船殻に百ミリ程度の装甲を張り付けた「見かけの甲鉄鑑」が主力となっています。
今回の敵であるオーストリア海軍ですが、その装甲艦は全てオーストリア領イストリアのトリエステで完成したもので、また、装備は旧式の物が多く特に大砲と装甲鑑の数で顕著となっていました。
装甲艦の数はイタリアが12隻に対し、オーストリアは7。大砲もイタリア艦艇が後方砲尾装填・ライフル(旋条)を刻んだ大砲を広く導入、当時世界最新である艦の中央軸線上に置いた旋回式砲塔を備えたものまで登場していたのに対し、オーストリア海軍は昔ながらの旋条なし・滑腔短砲身で、舷側に並べた前方砲口装填式砲が主力となっていました。最新の装甲フリゲートにはプロシアのクルップ砲が予定されていましたが、戦雲立ち込める情勢でプロシア政府が妨害し供給が得られなかった、という事態も起きていたのです。
このオーストリア海軍の圧倒的に不利な状況は、イタリア将兵が新興国家故に未だひとつに団結していない士気の面で帳消しか、と見えます。しかし、オーストリア海軍なるものは、実はこの百年ほどの間にトルコやヴェネチアから得たアドリア海沿岸地域を根拠地にしたもので、この地は厳密には帝国内の有力諸侯ハンガリー王国の領土でした。
また、この地方にはイタリア系の住民も多く、海軍もイタリア系の将兵が多数を占めており、今次戦争の争点となっていたヴェネト地方の出身者も無視出来ない数が含まれているため、これは海軍上層部が心配の種とする不穏な材料となっていました。
この問題だらけのオーストリア艦隊を率いたのが男爵ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ少将でした。
テゲトフ提督
マーブルク・アン・デア・ドナウ(現在のスロベニア共和国マリボル)にオーストリア陸軍軍人の父と名門貴族出身の母から生まれた彼は、幼少より両親の反対を押し切って海軍軍人をめざし、13歳でヴェネチアにある海軍学校に入学、五年後には立派な海軍士官として海上に出ています。
彼は聡明であり、海軍士官の資質ばかりでなく政府役人としても優秀で、海外経験を積む内に外交官としての才能も垣間見せました。
このため上層部にコネがないのに昇進は早く、61年に大佐へ昇進、64年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では小艦隊を率いてデンマークへ遠征、小規模だったプロシア海軍を助けて強豪のデンマーク海軍と渡り合い、ヘルゴラント海戦という小戦で善戦し(テゲトフは旗艦のスクリュー推進フリゲート「シュワルツェンベルク」を敵砲火で炎上させてしまい撤退したので戦術的にはデンマーク勝利)、37歳にして提督(少将)へ昇進、艦隊を指揮する身となったのです。
プロシアと同じく海軍に理解者が少ない大陸軍国、オーストリア帝国にあってテゲトフ提督は世界に誇れる人材でした。
この普墺戦争の南側戦線、オーストリア対イタリアの「第三次イタリア独立戦争」にあって、圧倒的に不利かと見えたオーストリア海軍は、このテゲトフ提督の存在と敵性住民(イタリア人)が多いにも関わらず旺盛だった士気により海軍国イタリアと互角以上に戦うのでした。
さて、そのテゲトフ提督は6月20日に宣戦布告が隅々まで行き渡ったとの報告を得るや、敵艦隊の動向を知ろうと1,400トンの非武装外輪式の木造偵察艦「シュタディオン」をイタリア半島アドリア海沿岸に偵察派遣、当時のイタリア海軍主要基地だったバリからアンコナにかけて巡航させました。
しかしシュタディオンはオーストリア艦隊母港のファザナ(現・クロアチア、プーラの北8キロ)に23日帰着すると「半島沿岸に敵艦隊を見ず」と報告し、テゲトフは未だイタリア海軍が本格始動していないことを知りました。
これを受けてテゲトフは敵の重要拠点であるアンコナ港に対し、示威行動を兼ねて艦隊による強行偵察を行うことに決し、24日、将旗をデンマーク以来慣れ親しんだ木造フリゲート「シュワルツェンベルク」から新造装甲艦「フェルディナンド・マックス」に移し、オーストリア南軍司令官親王アルブレヒト大将に「帝国艦隊はこれよりイタリア海岸に積極果敢なる偵察を行いたいがいかがか?」との電報を打ちます。
ちなみに陸軍国であるオーストリアでは海軍の指揮権も現地の陸軍最高司令部にありました。ちょうど「クストーザの戦い」直後であり、勝利者となったアルブレヒト親王もテゲトフの積極策を認め、全てを提督に委任すると許可の返電を送りました。ただし思慮深い親王は条件を付けることも忘れず、「艦隊はリッサ島方面に別動隊を設ける以外は一つにまとまって行動し、特にポー川河口付近やヴェネチア海岸方面にも目を配るように」と注意を促しています。
テゲトフはこうして戦争第一回目のアドリア海巡航を行います。
その艦隊は装甲フリゲートが旗艦「フェルディナンド・マックス」「プリンツ・オイゲン」「カイザー・マックス」「フアン・デ・アウストリア」「ドラッヘ」「ザラマンダー」の6隻とスクリュー推進木造フリゲート「シュワルツェンベルク」、砲艦が「フム」「シュトライター」「レカ」「ヴェレビッチ」の4隻、他に外輪偵察艦が「カイゼリン・エリザベート」「シュタディオン」2隻でした。
艦隊は26日午後にファザナを出航、27日0200時頃、アンコナ沖に達します。テゲトフは「カイゼリン・エリザベート」を偵察に送り、0300時、港外に達した「エリザベート」はイタリア海軍の哨戒艦「エスプロラトーレ」(排水量981t・速度17ノット・12ポンド後装施条砲2門・乗組員108名)と遭遇、海軍旗を掲げて堂々と所属を明らかにした「エリザベート」は砲撃を開始します。驚いて港内に逃げ込んだ敵哨戒艦を、応援に駆けつけた砲艦「レカ」「ヴェレビッチ」と共に追った「エリザベート」でしたが、港内に敵艦隊がいるのを見て港外に留まります。
テゲトフは夜が明けた0530、艦隊をアンコナ港の沖2海里半(およそ4,630m)まで接近すると戦闘陣形で待機させますが、0730まで待ってもイタリア艦隊はなかなか出て来ませんでした。
このイタリア艦隊はペルサーノ提督が率いて22日にイタリア南部の要港タラントを発し、25日にアンコナへ入港した装甲フリゲート7隻を含む装甲艦11隻、木造フリゲート4隻、哨戒汽船2隻という堂々としたものでした。数隻の煙突から黒煙が立ち昇っていましたが、埠頭に係留されるままの艦がほとんどで艦隊として出航する気はなさそうです。その煙を上げていた装甲艦3隻は0700に碇を揚げ、動き出しますがこの脅しにもテゲトフは屈せず、出て来るなら来いとばかりに戦闘準備を開始したので、例の3隻は港口で停止し、にらみ合いとなりました。
テゲトフとしても陸上砲台に守られ、港内に機雷も敷設していそうなアンコナ港へ侵入する危険は犯せず、0800、オーストリア艦隊は装甲艦を後衛にして転回し、アンコナを後にしました。艦隊はその日の夕方、ファザナ港へ全艦無事に帰投したのです。
帰ってみると「フェルディナンド・マックス」の同型艦「ハプスブルク」が待っていました。この艦は新造で艤装中に戦争開始を迎えた新鋭艦でしたが、この度整備が終わりファザナに駆けつけたのでした。
これで主力の装甲艦は7隻全部が揃い、今日こそイタリア艦隊は出て来ませんでしたが、ヴェネト地方では陸上で大敗したイタリアは優勢な海軍でヴェネチアを襲うのではないか、との憶測が流れていたので、テゲトフは各艦のエンジンボイラーの火を落とさず蒸気を半分だけ貯めて置き、短時間で全力発揮にもって行けるようにして待機に入りました。
こうしてオーストリア艦隊は次こそ艦隊決戦だと気勢を上げるのでした。
リッサ海戦参加艦艇・1
オーストリア海軍戦闘序列
艦隊司令官 男爵ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ少将
艦隊副官 カール・フォン・リンドネル中佐
艦隊副官 フェルディナンド・アットルマイヤー少佐
司令官付副官 男爵フランツ・フォン・ミヌッチーロ大尉
装甲フリゲート
○エルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス
(艦長;男爵マクシミリアン・ダブレブスキー・ステルネック・ツー・エーレンシュタイン大佐・乗組員489名)
○ハプスブルク
(艦長;カール・フォン・ファーベル大佐・乗組員478名)
5,130t、12.5ノット、17.8cm(48ポンド)滑腔砲16(ハプスブルクは18)門、6cm(8ポンド)滑腔砲4門、4.7cm速射砲2門、最大装甲123ミリ、1866年完成
○カイザー・マックス
(艦長;グスタフ・リッター・フォン・グレーレル大佐・乗組員386名)
○プリンツ・オイゲン
(艦長;アルフレッド・バリー大佐・乗組員386名)
○ドン・フアン・デ・アウストリア
(艦長;アントン・リッター・フォン・ウィプリンゲル大佐・乗組員386名)
3,588t、11.4ノット、17.8cm(48ポンド)滑腔砲16門(デ・アウストリアのみ14門)、15cm(24ポンド)前装施条砲14門、4.7cm速射砲2門、最大装甲110ミリ、1863年完成
○ドラッヘ
(艦長;ハインリヒ・フォン・モル大佐・乗組員343名)
○ザラマンダー
(艦長;カール・ケルン大佐・乗組員343名)
2,750t、11.0ノット、18cm(48ポンド)前装カノン砲10門、22.9cm(60ポンド)滑腔砲18門、10.1cm滑腔砲1門、最大装甲115ミリ、1862年完成
汽帆装戦列艦
○カイザー
(艦長;アントン・フォン・ペッツ大佐・乗組員904名)
5,194t、12.5ノット、60ポンド滑腔砲16門、30ポンド滑腔砲74門、15cm(24ポンド)前装施条砲2門、1855年完成
汽帆装フリゲート
○ノヴァラ
(艦長;ヨハン・エーリヒ・アフ・クリント大佐・乗組員538名)
2,615t、12ノット、60ポンド滑腔砲4門、30ポンド滑腔砲36門、15cm(24ポンド)後装施条砲4門、1862年改装
○シュワルツェンベルク
(艦長;ゲオルク・ミロシュ大佐・乗組員547名)
2,614t、11ノット、60ポンド滑腔砲6門、30ポンド滑腔砲36門、15cm(24ポンド)後装施条砲4門、1854年完成
○ラデツキー
(艦長;ヨーゼフ・フォン・アウンハンメル大佐・乗組員398名)
○アドリア
(艦長;アドルフ・ダッファリク中佐・乗組員398名)
○ドナウ
(艦長;マクシミリアン・ピットナー中佐・乗組員398名)
2,198t、9ノット、60ポンド滑腔砲6門、30ポンド滑腔砲40門、15cm(24ポンド)後装施条砲4門、1854から57年完成
○エルツヘルツォーク・フリードリヒ
(艦長;マルクス・フロリオ大佐・乗組員384名)
1,697t、9ノット、60ポンド滑腔砲4門、30ポンド滑腔砲16門、15cm(24ポンド)後装施条砲2門、1858年完成
スクリュー推進砲艦
○フム
(艦長;ルートヴィヒ・エーバーレ中佐・乗組員139名)
○ダルマート
(艦長;ヴィルヘルム・フォン・ヴィッケデ少佐・乗組員139名)
○ヴェレビッチ
(艦長;ヴィクトール・ヘルツフェルド少佐・乗組員139名)
869t、48ポンド滑腔砲2門、15cm(24ポンド)後装施条砲2門
○レカ
(艦長;アドルフ・ネルチンク少佐・乗組員139名)
○ゼーフント
(艦長;ヴィルヘルム・カラファッティ中佐・乗組員139名)
○シュトライター
(艦長;ルドルフ・ウンゲヴィッター中佐・乗組員139名)
○ヴァル
(艦長;男爵アレクサンドル・キールマンセック少佐・乗組員139名)
852t、48ポンド滑腔砲2門、15cm(24ポンド)後装施条砲2門
外輪推進砲艦
○カイゼリン・エリザベート
(艦長;トビアス・エステーライヘーア中佐・乗組員166名)
1,470t、15cm(24ポンド)後装施条砲2門、12ポンド後装施条砲4門
○グライフ
(艦長;カール・クロノヴェッター中佐・乗組員102名)
1,260t、12ポンド後装施条砲2門
汽帆装スクーナー
○ケルカ
(艦長;エドゥアルド・マソッティ大尉・乗組員100名)
○ナレンタ
(艦長;フランツ・スピンドラー大尉・乗組員100名)
501t、30ポンド滑腔砲2門、15cm(24ポンド)後装施条砲2門
外輪推進偵察艦
○アンドレアス・ホーファー
(艦長;ウルリヒ・ヴィルヘルム・ルンド少佐・乗組員109名)
770t、30ポンド滑腔砲1門、15cm(24ポンド)後装施条砲1門
外輪推進偵察艦(非武装)
○シュタディオン
(艦長;ヴィクトール・グラーフ・ウィムペン大尉・乗組員33名)
1,400t、非武装
徴用輸送船(外輪推進)
○サンタルチア
(艦長ブラシウス・アドラリオ中佐・乗組員180名)
1,353t、30ポンド滑腔砲4門、15cm(24ポンド)後装施条砲2門
○ブルカン
(艦長ヨーゼフ・ラング大尉・乗組員84名)
720t、15cm(24ポンド)後装施条砲2門
○トリエステ
(艦長アルフォンス・リッター・フォン・ヘンリケッツ大尉・乗組員66名)
1,102t、6ポンド施条砲4門




