ニコルスブルク仮講和条約(四)
翌27日。この協定を仮条約とし、後日正式な条約を締結することを約束して代表が条文に署名しました。これが世に言う「ニコルスブルク仮条約」です。
以下、簡単に条文を記しましょう。
一・オーストリア帝国はヴェネト地方を除く領土を維持する。プロシア軍は正式な講和条約締結後、速やかに占領体制を解き撤退すること。
二・オーストリア皇帝は従来のドイツ連邦を解体し、新組織をプロシア国王が創設することを妨げない。これをマイン川を境とし以北に限り、以南の地では別に連邦を組織するのを許す。両組織の関係は両者の協議に任せる。
三・オーストリア皇帝は64年10月30日にウィーンで交わされた条約によって得た一切の権利を放棄し、これをプロシア国王に委譲する(ホルシュタインの放棄)。但し、シュレースヴィヒ北部に居住する民に関しては自らデンマークに帰属を求めた場合、プロシア国王はこれを認め、北部をデンマークに割譲すること。
四・オーストリア皇帝はプロシア王国が今次戦争に掛る戦費の一部代償としてプロシア国王に四千万ターレルを償うこと。しかし、オーストリア皇帝が前記するところのウィーン条約第12条によってシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国より得るべき軍費千五百万ターレルと、正式な講和条約締結までオーストリア領に留まるプロシア軍の糧食給養費五百万を免除し、実際に支払う金額を二千万ターレルとする。
五・オーストリア皇帝の請願を以てプロシア国王は後日のドイツ連邦組織変更の際、ザクセン王国の領土安泰を保障すること。ザクセン王国はその代償として今戦争の戦費幾分かを支払い、北ドイツ連邦に加盟すること。詳細は後日ザクセン国王とプロシア国王とによる講和条約によって決定する。また、オーストリア皇帝はプロシア国王が後日北ドイツにおいて行う領土変更に関し、一切の異議を唱えないこと。
六・プロシア国王はイタリア国王に勧め、フランス皇帝よりヴェネト地方をイタリア国王の領有とするとの宣言が下され次第、直ちにこの仮条約及び付属する休戦協定に賛同し同意させること。
七・この仮条約の批准は遅くとも二日以内にニコルスブルクにおいて交換すること。
八・この仮条約批准の後、両国皇上は直ちに全権委員を任命し、この仮条約に基く講和条約を締結し、詳細を議定すること。
九・両締結国は仮条約批准の後、一方をオーストリア帝国・ザクセン王国とし、一方をプロシア王国・イタリア王国とする休戦協定を結ぶこと。詳細は別に行う軍事上の取り決めにより定める。この休戦は8月2日を開始日とする。その日に至るまでは現在7月27日正午までとする休戦協定を継続すること。
他・バイエルンとの休戦は西ドイツ戦闘地において結ぶこと。ヴェルテンブルク、バーデン、ヘッセン=ダルムシュタットとの休戦会談はプロシア軍フォン・マントイフェル男爵に委任し、三国と協議して8月2日を開始日として休戦協定を結ぶこと。
この仮講和条約と並行して行われた休戦協定の方は、オーストリア陸軍大臣デゲンフェルト中将とモルトケの間で話し合いが持たれ、仮条約と共に決定、批准されます。
この仮条約批准を以てイタリアでも7月26日の「ヴェンザの戦い」を最後に休戦が発効、西ドイツ、マイン川の戦線でも27日までに休戦が発効しました。
8月23日。ボヘミアの首府、プラーグ(プラハ)に於いて普墺戦争の講和本条約「プラハ条約」が関係各国の間で締結しました。開戦日6月15日からニコルスブルク仮条約締結の7月27日までちょうど七週間。
ドイツの行方を決定付けた普墺戦争を別名「七週間戦争」と呼ぶのはこのことが理由です。
こうしてドイツの統一は、オーストリアを抜きにして小ドイツ主義に基き、プロシアの力で達成される事となります。
まずはその一歩として翌67年4月「北ドイツ連邦」がスタートしますが、その時にはエルベ川流域の地図は大きく塗り替えられており、この連邦での有力国はプロシア以外、ザクセン王国しかなく、後は小邦や自由市が寄り集まっただけの実質プロシア「帝国」となっていました。
そのザクセン王国は国境線を譲ることなく独立こそ許されますが、この後はプロシアの目が光る中、忠実な部下の立場に終始することになります。精強なザクセン軍はプロシアにとって頼もしい戦友となり、次の戦争で活躍するのでした。
しかし、存在が赦されたザクセンはまだよかったのです。この「北ドイツ連邦」が成立した時にはもうハノーファー、カッセル、ヘッセン、ナッサウ、自由都市フランクフルトといった国や自由市はプロシア領となっていました。あの盲目のハノーファー最後の王ゲオルク5世を筆頭に、小邦の悲劇の王たちは失意の内に退位させられ歴史の中へ埋没して行きました。
ドイツという枠から追い出され、国際的地位も地に堕ちてしまったオーストリア帝国は、この帝国の危機を「妥協」で乗り切ります。
「アウスグライヒ=妥協」と呼ばれたこの「改革」は実に中身の薄い帝国延命策でした。
ドイツ人が東方の諸民族を支配する構図は、その特権階級であるドイツ人が帝国人口の二割強しかいないのでは崩壊は時間の問題でした。そこで特権階級であるオーストリア本国ドイツ人は東方支配民族の中で最も力を持つマジャール人(これも人口の二割を占めていた)と結び、特権を維持しようとしたのでした。
北ドイツ連邦成立の翌月5月、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が成立しました。このハンガリー人との妥協(ハンガリー=マジャール人をドイツ人と同じ特権待遇とする)により、老帝国はもう半世紀だけ生き延びるのでした。
一方、少数先鋭のプロシア「マイン軍」にコテンパンに叩きのめされた南ドイツ諸候たちは、息をひそめてプロシアの出方を見ていましたが、ビスマルクは彼らにも寛大な条件で戦争を終わらせます。
領土の割譲も国主廃位も併合もない。その代わりと言っては何だが戦費賠償を承諾し、我が国と「攻守同盟」を結んで欲しい。ビスマルクにこう言われた諸候は喜んでプロシアと「攻守同盟(相互援助条約みたいなもの)」を結ぶのでした。
この時、時のロシア帝国外相ゴルチャコフもドイツ統一を妨害するためチャンスを窺っていましたが、ビスマルクはいち早くこれを察し、オーストリアとの二重帝国になった直後で不安定になっているハンガリーの独立運動を煽って革命を起こさせようと思うがいかがですか?(ロシア帝国が一番怖がったのは隣国で起きる独立革命=自国農奴の反乱革命でした)などと脅してこれを退けました。
この講和を苦々しく思っていた人物は間違いなく二人いました。
その一人、ナポレオン三世は結局ビスマルクがビアリッツでほのめかしたライン川左岸を貰えませんでした。講和あっせんからプラハ条約、そして北ドイツ連邦成立までナポレオン三世は手を変え品を変え、領土要求を出したり引っ込めたり、南北ドイツが統一を達成出来ないようにあれやこれやと暗躍しますが、いずれもビスマルクにいなされて巧く行きませんでした。
ドイツが一つになってフランスに襲い掛かると言う悪夢はナポレオン三世としても避けねばならなかったため、強く出ることが出来ず、再三の領土要求にはビスマルクは暗に日向に「ドイツの民族主義を一気に解き放ったら貴国はどうなるのでしょう?」などと脅迫まがいなことを言って阻止するのでした。
ナポレオン三世はプロシアの「オルミュッツの屈辱」になぞらえ、これを「サドヴァの屈辱」(ケーニヒグレーツの戦場サドワ村のことで、この戦いから自身の対ドイツ計画がうまくいかなくなったことを示す)と呼んで何時か必ずプロシアに、そしてビスマルクに煮え湯を呑ませてやる、と誓うのでした。
そしてもう一人、講和を忌々しく思っていたのが当の戦勝国国王ヴィルヘルム1世でした。
国王はプラーグ(プラハ)条約の批准を求めるビスマルク宰相からの建白書余白に「軍と国家が望むに足るであろうもの(オーストリア領土と充分な賠償金)を敗者から奪えぬのなら、その勝者はウィーンの門外で青いリンゴ(不十分な賠償金)をかじるだけで、後世の歴史家からもの笑いの種にされるだろう(筆者意訳)」と落書きし鬱憤を晴らすのでした。
この戦争の性格をものの見事にまとめているのはプロシア参謀総長モルトケ大将でした。
彼は後にこう書き残しています。
「普墺戦争とは何であったのか。彼の戦争はプロシアの防衛戦争ではなく、世論が激して起こした戦争でもない。領土への野望や金銀財宝を狙った戦いでもなかった。この戦争はドイツにおける覇権と統一の理想を目的に王国政府に必要とされ軍が静かに用意した戦争である。敗戦国オーストリアは勝者プロシアに対し寸分の領土すら失わなかったが、ドイツへの影響を永遠に失ったのである」




