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ニコルスブルク仮講和条約(三)

 休戦の一日前、21日。オーストリア政府は全権代表団を組織しニコルスブルク城へ出発します。メンバーは前プロシア駐在大使でオーストリア外務省のエース、ハンガリー人外交官のグラーフ・アロイス・カーロイ・フォン・ナジカーロイ伯爵、枢密院顧問官で経験豊富な外交官のアドルフ・マリア・フォン・ブレナー=フェルシ男爵、そして軍を代表して陸軍大臣で中将のアウグスト・フランツ・ヨハン・クリストフ・グラーフ・フォン・デゲンフェルト=シェーンブルク伯爵の三名でした。

 三人は22日の停戦を待って、その日午後、ニコルスブルクに入ります。


 講和会議は翌23日と25、26日の三日間行われることになりました。

 プロシアの全権はもちろんビスマルクとモルトケ。24日にはバイエルン王国からフォン・デア・プフォルデン臨時全権公使もやって来ることになります。


 会議初日の23日。未だ国王ヴィルヘルム1世から講和条件の承諾を得ていないことなどおくびにも出さないビスマルクたちは、ナポレオン三世の提案とされる(その実ほとんどビスマルク発案の)講和条約案の検討に入りました。


 まず最初に「オーストリア帝国はヴェネト領を除く領土を保持する」件、「現在のドイツ連邦を解体する」件、この二点が普墺両国から確認され承諾されました。初手から既に国王の意向(相手領土の割譲)を無視するビスマルク、やはり王権絶対主義でも国王を盲信せず、己が正しいと信じれば、そしてひいては国王のためになるのなら躊躇せず突き進む男でした。

 続いて「ドイツ北部マイン川以北に『北ドイツ連邦』を創設する」件、「マイン川以南の南部ドイツ各邦は独立を認められ別個に『南ドイツ連邦』を作っても良い」件、そして「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン両公国はプロシアに併合される」件も問題なく承諾されました。ここまでは順調です。


 しかし次の「賠償金」で双方は初めて衝突しました。


 ビスマルクは戦費の総額を一億ターレルと換算し、オーストリアにその半額五千万ターレルを請求しました。ちなみに「ターレル」とは別名フェアアインスターラーと言い、関税同盟でも使われたドイツ圏の統一銀貨です。1ターレル一枚が銀18.5g。純度0.900で、一億ターレルといえば銀十六万六千五百トン!ビスマルクも思いっきりふっかけたものです。ターレルはこの普墺戦争後に廃止されました。

 さて、これを聞いたオーストリア代表側は即座に不服として反対します(当然でしょう)。それでは、と涼しい顔のビスマルクは、前年の「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の戦費をそこから抜きましょう、と提案します。両公国がプロシア領に確定したのでオーストリアに「ご足労願った」分はお返ししましょう、と。この戦費を千五百万ターレルと見積もり、五千万引くことの千五百万で三千五百万、これででどうですか、と迫ります。


 オーストリア全権アロイス伯爵はビスマルクを良く知っていましたから、彼の様子からこれはまだ割り引けるぞ、と考えて首を横に振り、高過ぎる、と決めつけました。この後しばらくの間論戦が続きますがビスマルクが折れ、では、現在プロシアが占領しているオーストリア領からプロシア兵が調達している糧食の分を五百万ターレルとしてこれも引き、三千万ターレルでどうですか、と尋ねます。

 これも払いたくないオーストリアが即答しないでいると、ビスマルクは攻勢を開始します。

「ではこうしますか?国境線整理の名目でボヘミアとオーストリア領シュレジエンの国境線を南へ動かし、面積二十平方里、人口およそ十万人を我が国へお譲り頂ければ戦費賠償はいりませんが?」

 アロイス伯爵は顔色を変え、

「我が帝国は一寸たりとも領土は渡しません。例え国境線整理などという名目にしてもです」

 そして付け加えました。

「ただし、貴国も同じ面積、同じ人口をお渡し頂けるなら本来の意味で国境整理となるので、それでしたら受けますが」

 さすが大帝国の全権、アロイス伯爵も中々強かでした。

 これにはビスマルクも内心苦笑して、その後は三千で、いや千だ、等と応酬が続き、結局、「オーストリアは戦費賠償金として二千万ターレルをプロシアに支払う。また、休戦中、オーストリア領に留まっているプロシア軍の糧食を賄う」として決着しました。


 続いてはザクセン王国の件です。この23日ではまだプロシア王ヴィルヘルム1世はザクセンを許さないという姿勢を崩していませんでしたし、その頑なな態度をビスマルクも崩すことが出来ていなかったので、プロシア全権としての彼はまず、

「我が国王陛下においてはザクセン王国を許さず、戦争の責任を取ってもらうためライプツィヒとバウツェン地方をプロシアに割譲してもらいたい、と申しております」

 と要求を切り出しました。これにオーストリア代表団は色めき立ち、

「我々はザクセン王国に対して領土を保全する約束でここに来ている。その要求は受けることが出来ない」

 と突っぱねました。同席していた仲裁役フランスのヴァンサン・ベネデッティ公使もオーストリア側に同調し、元よりその約束で講和会議が始まっていることをビスマルクに思い出させます。

 ビスマルクもザクセン領などどうでも良かったのですが、国王を説得出来ていなかったので、

「この件は後回しにしましょう」

 と一旦矛を収めたのです。


 この議題は一日置いた25日の講和会議二日目に再度取り上げられますが、この時までには国王を説得することに成功していたビスマルクは、ザクセン領土要求をきっぱり諦め、撤回しました。

 逆にウィーンから指令が出ていたアロイス伯爵は、

「ザクセン王国はこの後にプロシアが召集する北ドイツ連邦には参加せず、バイエルンなどの南ドイツ連邦に参加すべきだと考えます」

 と発言しました。今度はビスマルクが大いに怒り、

「オーストリアがこの件を強く押すならこれ以上話すことはありません。ザクセンが南ドイツ諸侯と組む等と言うことには私は絶対に賛成しません。それでも貴国がこれを押し、我が国王陛下が呑まれたとしてもそれに私は反対し宰相を辞任するつもりです」

 ザクセン王国は「マイン川以北」にあるので、この後プロシアが組織する「北ドイツ連邦」に参加すると定められています。これが覆ると、再びザクセンがプロシアに刃向かう土壌(後ろ盾)が形成されてしまうので、ビスマルクとしては絶対に認るわけには行かなかったのです。

 ビスマルクの固い決意にオーストリア代表団も折れ、このザクセンの件は後日、プロシア=ザクセン間で話し合われることとなりました。

 

 次はシュレースヴィヒ北部の住民の帰属問題でしたが、彼の地の住民がデンマーク人でいたいという願いが強いことは周知の事実だったので、これにはフランスが動議してこの条約案に盛り込むことで一致を見ました。

 因みに、フランスが何故ここに拘ったのかは、デンマークに影響力を及ぼしたいからという理由の他に、ハノーファーを手に入れるプロシアがユトランド半島西側、北海に面した土地に海軍基地を設けることが確実で、今後プロシア海軍が増強されることになるでしょうから、プロシア海軍主力がいるバルト海から北海に出るための通路であるカテガット海峡付近を、出来るだけデンマーク領にしておきたかったものと思われます。


 前日の24日にはバイエルン全権フォン・デア・プフォルデン臨時公使がニコルスブルクに来着していました。この時オーストリア代表団はバイエルン王国もこの講和会議に出席させたがりますが、プロシア側はこれを拒否、この講和はプロシア=オーストリア間で行うべき、とします。

 ビスマルクは重ねるようにしてバイエルンに対する要求を発しました。

「バイエルン王国はプロシアに対し戦費賠償として千五百万ターレルを支払い、クルムバッハ市をプロシアに割譲すべし」と。

 この要求に応えられるはずのないプフォルデン公使は講和参加を諦め、後日他の南部諸侯とプロシアの間で講和会談を持つこととなりました。

 無駄足だったプフォルデン公使は「クルムバッハを奪われるなら我が国はオーストリアにユングホルツ(バイエルン南部に飛び出した飛び地に似たオーストリア領)の割譲を求める」と言い残し、オーストリアが勝手にプロシアとバイエルン王国の処遇を話さないよう釘を差して去るのでした。

 「一度に複数国を相手にせず、敵は一つだけにする。謀略で対プロシアの同盟にひびを入れて各個に撃破する」ザクセンの件といいこれは正しくビスマルク外交の典型的な成功例といえます。


 これに関連し、イタリアも全権代表団がニコルスブルクに向かっていましたが、ビスマルクには待つ気などありませんでした。イタリアはヴェネトだけでなくトリエントや南チロルの併合も狙っており、そんな領土拡張の争いに巻き込まれ、講和が長引いたらたちまちお節介なナポレオン三世がおこぼれ欲しさに付け入ってくる、ビスマルクはそれを恐れ、「イタリアとは数日後この講和が決したら話し合えばよろしい」と、さっさと議事を進めるのでした。

 既にニコルスブルク城にはプロシア大本営駐在のバラール公使がいましたが、しきりに参加させてくれと懇願しても講和には参加させないビスマルクです。しまいにはフランスのベネデッティ公使に泣き付くバラール公使でしたが望みは叶いませんでした。


 こうしてオーストリアと一対一の直談判に成功したビスマルクは、26日、遂に双方同意で条文を練り上げ、その夜、オーストリア政府と皇帝が承諾し、ヴィルヘルム1世も不機嫌に承諾するのでした。



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