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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
9/534

鉄血演説


 さて、時を同じくして……

 プロシア王国の政界でも大きな動きがありました。


 1858年10月7日、精神疾患に冒された国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に代わり皇太弟ヴィルヘルム親王が摂政に就任します(既述)。摂政ヴィルヘルム親王は1848年革命蜂起の際に鎮圧軍の指揮を執って「擲弾王子」の異名を取った方でしたが、比較的自由主義に理解ある妻アウグスタ妃の影響もあり超保守の国王取り巻き「カマリラ」から距離を置くようになり、カマリラの男爵オットー・テオドール・フォン・マントイフェル首相による親露外交(結果的に英仏墺と対立します)やカマリラの息が掛かる官僚主体の政治姿勢を批判していました。


挿絵(By みてみん)

テオドール・マントイフェル


 ヴィルヘルム親王は摂政に就任するとマントイフェル内閣を更迭し、王家ホーエンツォレルン家の分家ジグマリンゲン家のカール・アントン侯を首相に任命し、自由主義的保守派貴族による内閣を誕生させます。この内閣には立憲君主を希望する派閥からも閣僚が選出される一方、それまで無策の国王を操って来たカマリラは多くが政府中枢から追放され、残った者も殆どが更迭されてしまいました。これを「新時代内閣」と言いますが、更迭された前首相の従兄弟、軍事内局長官エドヴィン・フォン・マントイフェル中将は実直に王権神授を信じ摂政にも気に入られていたため無事に居残ります。


 しかし、ヴィルヘルム親王は立憲君主を目指そうとしたのではなく、融通の利かない旧弊な取り巻きを排除したかっただけで、その意向は王権神授説を奉じるガチガチの絶対王政維持だったのです。


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム1世(摂政時)


挿絵(By みてみん)

カール・アントン・ジグマリンゲン


 その新摂政が熱心に推進しようとしていたのは軍政改革でした。


 モルトケ参謀総長始め軍部が望んだ野砲の更新と増備を始めとする国軍増強案は、この1858年を端緒とする軍政改革の一環として記録されます。

 軍政改革は摂政たっての願いでその根幹となる改革は、3年義務兵役制の完全実施、増大人口を原資とする歩兵39個連隊・騎兵10個連隊の増設、軍備増強のための予算増額、そして「郷土兵」(ラントヴェーア)の後備兵化などです。


 摂政は、人口が増え続けるプロシアに旧来のままの徴兵制度は合わないと考えていました。人口に対する徴兵数が少な過ぎ、兵役年数も3年のところ財政事情などで当時は実質2年に短縮されていました。これでは一般市民を一端の兵士に育てるには短か過ぎで、ドライゼ銃やクルップ鋼鉄後装砲など急速に近代化する武器を教えるにも障害となります。

 この発達して行く武器の更新もスピードアップしなくてはなりませんし、大砲の威力と命中率が上がるにつれ存在感を増す砲兵部隊の数も増やしたいところです。参謀総長はもっと鉄道を、と訴えています。それには議会を通して決定される軍事予算が足りませんでした。


 また摂政は、郷土兵制度に頼っている今の国軍では、いざという時に頼りにならないと考えます。

 郷土兵とは独語で「ラントヴェーア」といい、いわゆる民兵制度で独語圏では軍隊の重要な構成要素としてどの諸侯も少なからず導入していた一般的な制度でした。

 郷土兵は徴兵される年齢にありながら徴兵から洩れた者や、義勇兵として戦った経験のある者が主体となり構成されます。普段は普通に生活し、いざと言う時に動員され正規軍の増援として軍に加わりますが、この郷土兵を他の独諸侯が義勇兵に近い扱いをしていたのに対し、当時のプロシア王国では正規軍と肩を並べるくらいの位置付けがなされていました。

 老婆心ながら付け加えますと、一度徴兵され兵役に付いた後に除隊した者は「予備役」と言い、市井に暮らし緊急時に動員されるのは郷土兵と一緒でしたが、こちらは原則再び正規軍に召集され除隊した時の部隊で元の任務に戻るので差は歴然としています。


挿絵(By みてみん)

プロシアのラントヴェーア(1845年)


 摂政は郷土兵を後方任務にだけ使い、正規兵(と予備役)による常設軍だけで第一線を維持出来るような軍隊を望みました。

 郷土兵は一皮むけば普通の民間人ですから自由・共和主義勢力や左翼勢力に影響されやすく、またその手の党員が深く入り込んでいました。1848年のドイツ3月革命では召集命令に応じなかった郷土兵も多数あり、召集に応じてもデモや暴動に対し発砲を命じられても動かなかった兵士が目立ちました。擲弾王子と陰口を叩かれたヴィルヘルム親王も反乱軍のバリケード前でその有様を嫌と言うほど見てきた訳で、現行制度では革命の道具とされる危険性もあると危惧していました。

 絶対王政を堅持したい摂政とすれば当然の改革なのです。


 しかしこの軍備増強予算案は、勢力を増大させる一方の自由主義勢力が多数を占めた当時の下院議会により否決されてしまいました。

 下院議会は次第にその本性を現し右傾化する摂政を警戒し、下院議会から軍事に関する影響力を排除する動きに抵抗、ヴィルヘルム親王が強く要望した兵役3年の完全実施と郷土兵を軍の一線から下げる法案に猛反対し、正規軍の増員を図る予算案を葬り去ったのです。


 これは後に「プロシア憲法闘争」と呼ばれる激しい論争の幕開けでした。


 下院議会は、軍備増強に係わる予算を承認するよう再度求める摂政に対し、それならば承認の引き替えにと軍に対する国王の統制権を制限するよう求めます。摂政・ヴィルヘルム親王は「軍こそ君主の聖域」と譲らず、それは59年に意見対立から辞任(11月28日)したグスタフ・フォン・ボニン陸相に対し言い放った言葉、「軍は国王が率いるものであり陸相が率いるものではない」にも示されています。

 ボニン将軍はヴィルヘルム親王が贔屓するマントイフェル将軍と人事権を巡る対立を顕在化させ、「郷土兵の独立性を奪えば国民の信頼を低下させる」と郷土兵制度の改革に消極的であり、また兵役3年制にしても現実問題として実施不可能なので、休暇を利用して実質2年半ではどうかと主張したため摂政の怒りを買い、結果辞任を強要されたもので、後任は信頼する右腕アルブレヒト・フォン・ローン中将となりました。


 新任の陸相ローンは下院議会と粘り強く交渉し、この時は「暫定案」ということで郷土軍の全面的後備部隊化を諦め数個連隊を解体するだけに留め、逆に正規軍数個連隊を増設すると減額された軍事予算を通過させました。ローンの政治家としての手腕が際立ちます。

 とは言え、これは妥協の産物で決定の先延ばしに過ぎませんでした。


 1861年年頭(1月2日)、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御しました。これにより即位したヴィルヘルム1世でしたが、状況は悪化するばかりで、下院議会との闘争は激化の一方を辿ります。


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム1世の国王戴冠式(1861年)


 同年12月のプロシア下院選挙(成人男子のみ普通選挙)は、自由主義左派政党のドイツ進歩党が109議席で第一党、旧派自由主義党(旧来からの自由主義政党で中間左派)が95議席、カトリック派(中間右派)が54議席、自由主義中央左派(自由主義党からの脱党派閥で元の党より更に左寄り)が52議席、ポーランド人党が23議席を獲得しましたが、保守党(右派・国王派)はわずか15議席しか取れないという惨敗でした。

 下院議会で第一党となったドイツ進歩党は、それまで第一党だったものの分裂した結果第二党に甘んじた自由主義党より先鋭で、比較的自由主義に寛容に見えていた国王とその「新時代」内閣に対しても立憲君主国家の成立を要求するのでした。

 軍人ながら政治に長けたローンは、ここでもうまく立ち回って進歩党や自由主義党と協議を続けますが、進歩党は62年の3月議会でそれまで詳細が発表されるためしがなかった予算の内容公表を求める議案を提出し、賛成多数で可決させます。これは国王が推進する軍制改革に対する明らかな「挑戦状」だったため国王ヴィルヘルム1世は激怒、下院議会の解散権を持つ国王は議会を解散すると自由主義勢力に甘く見られているとして「新時代」内閣を解体してしまいました。

 国王は新首相に貴族院議長の公爵アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲンを指名し、閣僚はローン陸相に新時代内閣から実力者だった蔵相の男爵アウグスト・フォン・デア・ハイト、そして伯爵アルブレヒト・フォン・ベルンスドルフ外相など国王に忠誠を誓う大貴族らで固め、自由主義者への対決色を露わにするのでした。

 しかし、解散に伴う下院選挙(同年5月)は国王にとって衝撃的と言える結果となります。

 ドイツ進歩党は更に議席を増やし135議席、自由主義中央左派も96議席を獲得し、旧派自由主義党やカトリック派は惨敗、そして唯一絶対王政を支持する保守党はたった11議席、内閣は国王が選任するので当落は関係ないとは言え立候補していた閣僚も全員が落選と言う体たらくだったのです。


挿絵(By みてみん)

ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公爵


挿絵(By みてみん)

フォン・デア・ハイト男爵


挿絵(By みてみん)

ベルンスドルフ伯爵


 この結果、下院議会との交渉は困難となり、もはや政府は機能するだけでもやっと、という有様。議会勢力を前に王の側に立つのは今やホーエンローエ=インゲルフィンゲン首相をお飾りに政府の実権を握ったローンと軍部のみ、という状況になりました。

 それでもローンは国王の意を汲み議会と交渉を続け、自由主義政党側でもこれ以上国王を追い込んでは国王がカマリラに似た強硬保守側近ばかりの内閣を発足させ兼ねないと考え、双方は妥協に妥協を重ねてなんとか合意に漕ぎつけます。ローンはそれを持ち帰り閣議了承の上国王を説得しますが、軍事予算こそ多少の減額で済んでいたものの兵役については「2年」を譲らなかった自由主義者に憤懣遣る方ない国王は首を縦に振りません。ついには、完全な軍政改革が出来ぬのなら自分は退位する、とまで言い出しました。


 折しも自由主義者たちはヴィルヘルム1世の長男で王太子、モルトケがついこの間まで侍従武官として仕えていたフリードリヒ親王を国王に、と騒いでいます。

 フリードリヒ王太子は既述通り英仏二ヶ国語に堪能で国際感覚があり、立憲君主国の祖・イギリス王女ヴィクトリア(ヴィクトリア女王の娘)を妃とし、この妃が自由主義を標榜していたことから皇太子も自由主義に理解があると思われていたのです。


 今、弱気になった国王が王太子に譲位してしまえばプロシアは一気に自由主義者の天下となり、王家の威厳は地に堕ち、軍隊は郷土兵が主体となって弱体化してしまう、軍部の中にはそう考え下院議会に対するクーデター(解散ではなく議会を武力で従わせる)を唱える者(王弟カール親王や侍従武官長のグスタフ・フォン・アルヴェンスレーベン中将、マントイフェル軍事内局長官など)も現れていました(とは言え、王太子自身は父王の譲位に反対で諫めていました)。


挿絵(By みてみん)

エドウィン・マントイフェル


 クーデターは問題が深刻になるだけで、さすがに国王も認めませんでしたが、こうなると最後に残された手段は、憲法違反承知で議会を開かず国王と政府のみで政権を維持する「無予算統治」でした。ローンは国王を慰撫しつつ無予算統治もやむを得ない、と考え始めます。

 しかしこの案を示されたフォン・デア・ハイト蔵相ほか数名の大臣は、予てから無予算統治に異議を唱えていたため、「そのような違憲内閣に身を置くことは出来ない」と辞任してしまい、実質政務を取り仕切っていたハイト男爵を失った内閣は機能不全に陥りました。


 王権が絶体絶命となったこの時、ローンの頭に一人の人物の姿が浮かびます。内政の危機に際し絶対王制を護りつつ武力ではなく「知恵」で乗り切り、外政ではプロシア念願の小ドイツ主義を推進するという離れ業を成す可能性がある男。


 ローンはビスマルクを首相にしたいと国王に申し出るのでした。


挿絵(By みてみん)

ローン陸相


☆ 1848年から62年までのビスマルク


 オットー・フォン・ビスマルクは1848年革命が鎮圧され、フランクフルト国民議会解散後にドイツ連邦議会が復活すると、この議会へ派遣されるプロシア王国全権公使に任命されます。


 当時のビスマルクはプロシア国会でも熱心に絶対王政を説き、国王の側近たち(カマリラ)の一員として目立ち始めており、屈辱的と言われても反駁出来る状態ではなかったオルミュッツ協定(既述)を擁護し支持を表明していました。プロシア王国としてはこの連邦議会で自国の立場を確実に護り、革命に対する反動でオーストリア帝国と手を結ぶことが必要で、当時のビスマルクは他国はおろか国内でも知名度が低かったため「色目で見られない」こともカマリラ上層部からの推挙の決め手となったものと思われます。

 ビスマルクは御前に召されると、先ずは一ランク下の枢密参事官として連邦議会へ赴くことを告げられるのでした。

 しかしこの任命には王家やカマリラ内でも異論があり、王弟ヴィルヘルム親王は「単なる郷土兵の少尉如きが国を代表する者になるとは」と嘆き、マントイフェル首相らも「下級公務員の経験しかない男が重責ある外交官に任命されるとは」と疑心暗鬼になっていました。


 しかしビスマルクはその重責に圧し潰されることなく議会で堂々プロシアの利権を訴え、7月中旬に正式な全権公使となると、協調しなくてはならないとは言えその「風下に立つ」のではなく「肩を並べる」ことが必要だったオーストリア代表始めドイツ連邦の親墺国家と論争を繰り広げました。


 当時のオーストリアは「親墺サークル」として連邦を維持したいところ、プロシア(普)が連邦の絆を破壊し、親普国家の集団を分裂させようとしているのではないかと疑っており(正確な認識です)、普墺両国が本心から連携することなど不可能な状態でした。連邦の各国も強権発動が目立ち軍国の様相を強めるプロシアより多民族国家でアメとムチを使い分けるオーストリアの覇権が続けば自国は安泰との考えが主流であって、ビスマルクは常に孤立を感じつつ四苦八苦しながら自国の弁護に追われたのでした。


 この頃の議会で対立が最も先鋭化したのはドイツ関税同盟の存続問題で、今まで通り一定の関税を維持し保護貿易で旧弊な自国産業を守りたいオーストリアと、急成長する自国産業を背景に貿易拡大を狙いたい(=関税引き下げ・自由貿易)プロシアとの対立は深刻でした。

 ビスマルクはこの議会を通じて自身カマリラの強権的保守主義では「道」を切り開くことは出来ないと痛感し、プロシア王国の威厳を高めるにはオーストリアの顔色を窺っていてはいけないと考えるのでした。


 1853年10月開戦のクリミア戦争についてはプロシアの国論は真っ二つに分かれ、自由主義に理解ある貴族や閣僚たちは親英・親仏で反露の立場を、カマリラは旧来の神聖同盟(露・墺・普を中心とするウィーン体制の緩い同盟関係)を持ち出して親露の立場を主張します。この論争は権力側にあるカマリラ側が勝利し、プロシアは戦争に不参加・中立となりました。ビスマルクはカマリラの立場としては親露を推奨するしかありませんでしたが、56年3月に戦争が終了すると公然と親仏・反墺の立場を主張するようになって行きます。それはプロシアによる「小ドイツ」を目指す方針を表明する事に他なりませんでした。


 1858年10月。ヴィルヘルム親王が兄王の摂政になると、前述通りカマリラは更迭され、連邦全権公使のビスマルクも「新時代」内閣から忌避され、59年1月末、駐ロシア大使に左遷されてしまいます。


 ロシアでのビスマルクは東ヨーロッパを巡る利害で次第に反墺となるロシア政府と宮廷に対して積極的に関わり、特に外相のアレクサンドル・ゴルチャコフとは親友と呼べるほどの仲となり、親仏・反墺の姿勢は強力になって行きました。

 61年1月にヴィルヘルム親王が国王になると、ローンら側近から外交官として成功を収めるビスマルクを国王側近として重用すれば、との声が上がりますが、自由主義や立憲君主制に理解を示す王妃アウグスタは強硬な国粋主義者に見えるビスマルクを毛嫌いし、国王に「かの男は何の原則も持たない危険な男」と訴え、ヴィルヘルム1世も、カマリラとも自由主義者とも違う立ち位置と腹の内が読めない態度に不信感を抱いており、政府中央に置くのは躊躇っていました。

 ビスマルクは5月10日、ベルリンに召喚され、国王から長時間に渡って諮問されます。国王の鋭い眼差しにも落ち着いて持論を語るビスマルクに、国王も信頼感を芽生えさせますが、反墺の姿勢がはっきりしているビスマルクを重用するには時期が早いと考えた国王は、先ずは駐フランス大使に任命して様子を見ることにするのです。


挿絵(By みてみん)

アウグスタ王妃(1861年の肖像)


 フランス首都パリに赴任したビスマルク大使は赴任直後の6月26日、フランス皇帝ナポレオン3世に謁見し着任を報告しますが、皇帝は気難かしそうな顔をした男が近々プロシア首相になるという情報を得ており、翌日も呼び出して話を聞きました。

 ビスマルクはこの会談の報告書の中で「ナポレオン3世はイタリアでの戦いによりオーストリアが旧弊な態度を崩さず民族主義の流れに逆らっていることに不信感を抱いている」「皇帝はプロシアとの友好関係を望んでおり本官もフランスと我が国との協調について提案をした」「フランスとの同盟までは考える必要はないものの、フランスと敵対してしまうことでプロシアがオーストリアとドイツ連邦に頼らざる状況になってはいけない。同じくオーストリアが自らプロシアの利益に手を貸すなどという幻想を抱いてはならない」と自説を国王に訴えるのでした。


 ビスマルクのフランス大使時代の出来事として覚えておきたいのは62年7月、ロンドン万国博覧会への出席で、ビスマルクは当時のイギリス首相パーマストン卿にラッセル外相と会談を持っています。ここでビスマルクはヴィルヘルム1世宛の報告で「イギリスは我が国が置かれた状況を熟知しておらず、我が国が推進する小ドイツ主義への協力も得られそうにない」とかなり悲観的に伝えています。これはビスマルクが思い描いていた「先ずはオーストリアとの対決を制し、次はフランス。ロシアとイギリスには中立を願う」という小ドイツ完成まで彼なりの「ロードマップ」から出て来たイギリス回避の狙いで、どうやら「国王の周りでうろちょろする自由主義に被れた連中」がイギリスへの接近をヴィルヘルム1世に説いている状況への反発・牽制のためと言われています。


 この正に「自由主義に被れた連中」の中心人物がアウグスタ妃で、王妃はビスマルクの報告書を見て国王に宛てて書簡を出し、ここで「B(ビスマルク)氏はドイツ連邦議会で我が国を信頼する各国に不信感を抱かせ、対立する諸国には同胞の国ではなく危険な国との印象を与える発言ばかりを行って来た」と痛烈に批判しています。

 この書簡によりビスマルクを政府中枢へ戻そうとした国王は思い止まったと言われます。


 しかし状況はビスマルクを政府中枢に戻す流れとなって行きました。

 

 前述通り1862年9月のプロシア下院議会は軍政改革予算が盛り込まれた一般予算審議で紛糾し、ローンが苦心した妥協案についても国王は「統帥権の侵犯」として応じず「無予算統治」をほのめかします。下院議会は国王の頑なな態度に怒り、この妥協案も葬り去られました。

 ここに至り、政府は混乱の極に達し、軍部や王室の絶対王政維持派では下院議会に対するクーデターが囁かれました。無予算統治に手を貸すことは出来ないと閣僚の一部は辞任し、妥協もクーデターも嫌がったヴィルヘルム1世は遂に退位を決意してしまいます。


 「このままではプロシアは自由主義者に席巻されてしまう」

 こう考えたローンは混乱の中、パリのビスマルクに宛て短いものの端的に現状を示す電報を送るのです(9月16日)。


「遅延は危険 急ぐべし」(Periculum in mora Depechez-vous)


 その意味するところを正確に読み取ったビスマルクは急ぎベルリンへ向かいますが、これを知ったアウグスタ妃は最後の抵抗を試み、様々な理由を付けてビスマルクの国王への謁見を遅延させました。


 しかし9月22日、ビスマルクはベルリン西郊外のバーベルスベルク宮殿(国王の離宮のひとつ)でようやく国王に謁見することが出来ました。

 ヴィルヘルム1世は「軍政改革を断行しようという閣僚が存在しないのなら朕は退位する」と述べ、ビスマルクをじっと見つめます。

 その視線を受けたビスマルクは「本官はこれまで王権を守ることに尽くして来ました。直ぐにでも入閣する準備は出来ています。下院議会の多数派が反対しても軍政改革を断行し、多くの辞職者を出して汚名を着ようが怯みません」と言い切ります。

 ヴィルヘルム1世は厳しい顔のままこう答えます。

「ならば貴官と共に戦うことが朕の義務である。退位は撤回する」


 この時ビスマルク47歳。65歳の国王からプロシア王国首相に任命され、外相も兼務することとなったのです。


挿絵(By みてみん)

ビスマルク(1862年)


 国王はビスマルクの首相就任を聞いて怒る王妃に次のような書簡を送りました(9月23日)。

「必ず成さねばならない軍政改革に抵抗する下院議会は軍と国家に対して破滅を命じるに等しい。彼の鉄面皮に対抗するには同様な鉄面皮を登用するしかないが、朕はそれを躊躇わないし、今は躊躇っていてはいけない時だ」

 元より馬が合わない国王と王妃との仲は、このビスマルク登用で更に悪化してしまいますが、ヴィルヘルム1世はこの後四半世紀に渡って王妃より遙かに長い時間を首相と過ごすことになるのでした。


☆ 鉄血演説


 自由主義者からはカマリラの「生き残り」で超保守と見なされていたビスマルクが首相になったことは、左翼ばかりでなく保守党以外の政界全般に衝撃を与えます。これでクーデターが確実となったと考えた自由主義者も多く居ましたが、ブルジョワジー(中産階級)なくして国は成り立たないと確信している下院議員たちは「やれるものならやってみろ」とばかりに強気の態度でビスマルクを迎えました。


 9月30日。下院議会の予算委員会に出席し、初めて下院議員の前に立ったビスマルク首相は、おもむろに発言を求め演壇に立ちます。


「ドイツ諸邦が我がプロシアに期待しているのは自由主義の進展ではなく武力の行使であります。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンの如きは勝手に自由主義を奉ればよろしい。南ドイツの諸国に我がプロシアと同様の役割を期待する者などいる訳がありません。我がプロシアは過去に幾度も(ドイツ統一の)機会を逸してしまいましたが、再びの機会到来を期して力を蓄えなくてはなりません。ウィーン会議によって定められた現在の国境は、健全なる国家運営の障害となっています(飛び地が散在しています)。この問題(ドイツ統一)は弁舌や多数決、つまりこれこそが48年から49年にかけての最大の過ちでありましたが、そのようなものではなく、鉄と血(Eisen und Blut)によってのみ解決されるでしょう」

(ビスマルク「鉄血演説」・筆者意訳)


 鉄とは兵器を、血とは兵士を表します。


 ビスマルクとしては、軍政改革を国内問題として政治闘争に使うのではなく、切迫しつつある小ドイツと大ドイツの解決法、つまりはオーストリアとの闘争に勝つために必要なものとして捉えて欲しい、と訴えたのです。

 これは自由主義者が唱えていた民族主義に基付く小ドイツの完成に訴えたとも言えました。


 しかし、この余りにも実直な訴えは、多くの自由主義者議員の反発を招いてしまいます。新首相は暴力で外交問題を解決しようとし、内政問題を外征により覆い隠そうとしているとの非難が相次いだのです。

 この演説によりビスマルクは以降「鉄血宰相」と呼ばれますが、このあだ名、当初は力強い演説に比して弱々しい政府を揶揄したものだったのでしょう。

 事実ビスマルクを取り立てた張本人のローンでさえ、この演説を聞いて皮肉混じりにこうつぶやきます。「たいそう機転の利いた無駄話だな」と。


 この「鉄血演説」のあった9月末。ヴィルヘルム1世はビスマルクを憎むアウグスタ王妃を伴ってバーデン・バーデン(ストラスブールの北東41キロ)で静養中でした。

 ビスマルクは下院議会の反発を見て初手から少々やり過ぎたと感じており、このままでは国王の信任も失うかも知れないと恐れ、国王がベルリンへ帰還する10月9日、ユーターボーク(ベルリンの南62キロ)まで国王を迎えに出ます。

 この時、国王はビスマルクの煽動により革命が起きてしまうのでは、と不安になっていましたが、ビスマルクが毅然と「神の恩恵による王権を守るための戦いで死すのであれば本官は恐れません」との言葉に共鳴し、王妃からしつこく迫られていたビスマルクの解任を引っ込めたと言うことです。


 結局、ビスマルクの鉄血演説を以てしても下院議会は国王になびくことは無く、状況は何一つ変わりません。ビスマルクは「予算が不成立となった場合の規定は憲法にない。とは言ってもそのために国家の運営を止めてしまうのは責任ある政府のすることではない。この場合、主権者である国王の負託により政府は議会を無視してでも国家を運営しなくてはならない」と無予算統に踏み切るのでした。


 この軍制改革を求める憲法闘争の最中にあっても、モルトケと参謀本部は全く「蚊帳の外」にありました。しかしモルトケは無策でいた訳でなく、プロシアが抱える問題の整理と戦争に至る可能性の検討に費やします。


 1858年次の参謀本部作戦計画では、これまで通りフランスを第一の仮想敵として捉えていたものの、戦争状態となってもこちらから攻勢に出ることをせず、ライン川の線で迎撃することを計画しています。既述通り1859年のイタリア統一戦争におけるフランスとオーストリアの戦い振りは参謀たちに「生きた教材」を与え、モルトケは両軍の戦闘状況をつぶさに研究する機会を得ます。特に両軍の鉄道輸送に関しては徹底的な検証を行いました。


 そしてモルトケはプロシアが小ドイツ主義によるドイツ統一を目指す時、フランスは必ず妨害に出て戦争になるに違いないと考えます。この時、プロシアは単独で戦うべきか熟考したモルトケは、イギリスやロシアと同盟を組み、二正面作戦にならぬよう政府に勧めることにするのです。ここでオーストリアとの同盟を外しているのは小ドイツ主義に重きを置いているからですが、オーストリアは元より反仏で、しかもプロシアがロシアと組めばオーストリアが動くことはなく、またイギリスとプロシアとの同盟はフランスが背後に敵を抱えることになるからでした。

 とは言え、ヴィルヘルム1世やビスマルクが立憲君主国のイギリスと同盟まで組むとは信じられず、ロシアとの同盟はオーストリアは当然、親墺のドイツ領邦に北欧やトルコまで広範囲に反感を買うため非常に困難であったと思われます。


 しかし、この対フランス戦とは別にモルトケが最も恐れていた事態は、民族主義が更に高揚した結果、ゲルマン民族がラテン族(フランス始めイタリアやスペインなど)やスラブ族(ロシア他東欧)を相手に戦う羽目になる悪夢でした。この場合、プロシアとの同盟に足るのは最大のライバル、オーストリアだけとなってしまい自動的に大ドイツ主義が勝利を収める結果になってしまいます。これだけは何としてでも避けたいモルトケでした。


 国内が政情不安となり政府の支持率が沈む時、時の権力者が考える最も簡単な方法は、自分より大きな敵を作り出すことです。

 内政不安には外国との敵対、という悪魔の特効薬は今も昔も変わりません。


 今や内外共に孤立無援のヴィルヘルム1世と政府は、ビスマルクの「鉄血演説」の実現化を謀ります。

 即ち、プロシアを中心とするドイツ統一=小ドイツ主義ための行動です。


 この小ドイツ主義実現のための第一ラウンドが「第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」でした。



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