ニコルスブルク仮講和条約(二)
普墺戦争開戦前。プロシア国王ヴィルヘルム1世はオーストリアとの全面戦争に乗り気ではなく、皇太子妃エリザベスの母親、英国女王ヴィクトリアに仲裁を頼んだ位でした。ですからこの戦争は宰相ビスマルクや陸軍大臣のローン、参謀総長のモルトケらに乗せられて起こしてしまった、という感慨をぬぐい去ることが出来ませんでした。
元よりプロシア王家ホーエンツォレルン家では宰相ビスマルクの覚えがめでたくありません。
国会との衝突でヴィルヘルム1世が退位をほのめかした62年危機の際、ビスマルクがローンから至急ベルリンへという電報を受け取った時にも王妃による帰独の妨害があったほど、ビスマルクは国王以外に王家からの信頼がありませんでした。
「あの男は何の原則も持たず、何をしでかすか分からず、万人から恐怖の的となっています」と言ったのは、夫の国王とは不仲で自由主義に理解を示す王妃アウグスタでした。そして国王になった際には開明君主になりたいと願っていた皇太子フリードリヒ王子も、その英国人后エリザベスも当然のようにビスマルクを忌み嫌っていました。
皇太子以外、軍属の親王たちは別でしょうが、プロシア王家でビスマルクの外交・国政を擁護する声は皆無に等しかったのです。
人気のないビスマルクがそれでも自由に行動出来たのは、全て国王ヴィルヘルム1世の信任によるものですから、ビスマルクも本気で国王と戦う気はありません。しかし、いざドイツ統一の件になると、そのビスマルクも国王をチェスボード上のキングとしか見ていないような場合が多く見られました。
先述のように、この主従が7月22日の休戦直後からニコルスブルク城に置かれた大本営で激しい論戦を繰り広げます。
これはお互いを必要としながらも信念で対立し続けた王権神授信者の頑固な国王と、策士で目的のためには国王すら道具となる宰相の対立でもあったのです。
10歳の頃より軍人で、王宮より軍隊の野営地の方が落ち着けた国王は、ケーニヒグレーツ戦の勝利に舞い上がる将兵の気持ちが痛いほど理解出来ました。我が子のような国軍将兵が皆ウィーン入城を夢みている。国王は将兵の夢をかなえる、ただそれだけでも敵の首都に乗り込みたかったのかも知れません。
しかし現実の世界情勢はそんな中世ロマンを許すような甘いものではありませんでした。
急速な産業の近代化はインフラの普及を促進し、それまでは存在しなかった「中流層」を産み出します。彼らは貴族ではなく元はただの庶民ですが、産業の発展と共に力を付け「金」で貴族となったり商売の成功で富裕層に食い込み、国政にも口を出せるようになって来ます。軍国と呼ばれるプロシアさえ貴族・富裕層だけでない男子普通選挙が行われていたのです。
ところがこの普墺戦争により情勢は大きく転換していました。
この戦争前の5月9日。ビスマルクは国王と謀って自由主義者と社会主義者が多数を占める議会を解散していましたが、新しい議員を決める選挙(男子のみの普通選挙でした)が偶然にも7月3日だったのです。
この解散は、戦争中に選挙が行われれば世論は国王と政府になびくと考えたビスマルクお得意の策略でしたが、天はビスマルクに微笑み、これ以上もない日に選挙を行わせたのです(3日はケーニヒグレーツの戦い当日)。結果は政府支持の保守派が大躍進、中道と合わせ過半数確保に成功したのです。
とは言え、戦争が長引いたり勝利の果てにも苦難が待ち受けていたりしたら、移り気な世論はすぐに政府批判に転換するでしょう。
国王の言いなりにウィーン入城・領土割譲など行っていたら近い内に外交が破綻する。そうなればプロシアはあっという間に革命状態となるに違いありません。
何せ兵士らのほとんどが下流層から新興の中流層で占められています。士官の中には「フォン」の付かない庶民出身の者も増え、今でこそ勝利と栄誉によって国王への忠誠が揺るぎないものですが、敗戦が続き「国王の犬」などと出身地の人々に後ろ指を差され出したらどうなるか分かりません。
ビスマルクは敬愛する国王を何としてでも言い含めねばならないのでした。
この論戦は非常に激しく、二人がやり合う王の執務室からはテーブルを叩く音や物が叩きつけられる音が聞こえたり、大声で怒鳴りあう場面もあったようです。
この主従、以前にも同じようなことがありました。
1863年8月には、オーストリア主導の「ドイツ諸侯」会議に「招聘」された国王に会議をボイコットしろと迫るビスマルクと、政略結婚の閨閥ではありますが親戚筋の多い「国王会議」に出たくてたまらない国王との間で激しい論戦となります。
国王は激して物を投げて泣きわめき、ビスマルクはそれなら私は辞職すると脅し、あまりの怒りに国王の部屋を退出した後で自室に帰ると、そこにあった花瓶を叩き割ったりしています。
この時は国王が折れ、出席を取り止めることでオーストリアに泥を塗ることが出来ましたが、こうなってしまうともう子供の喧嘩で、この先は冷静な仲介者が登場となります。
こういう時、冷静な参謀総長も役に立ったかもしれませんが、ビスマルクはもっと良い仲裁者に目を向けていました。
二日続きの激しい論戦の後、国王の執務室を退出したビスマルクは、ある「将軍」の部屋のドアをノックします。どうぞの声に中へ入ると、大将の軍服を着用した人物が迎えました。
すると後ろ手にドアを閉めたビスマルクはオイオイと泣き出したのです。厳つい髭を蓄えた男、しかも一国の宰相が感情露わに泣く姿は哀れと言うしかありません。国王を敬愛する宰相が、その国王から心ない罵詈雑言を叩きつけられ、我慢出来ずに泣き出した、そういう構図でした。
「騎兵大将」は肩を落として泣きじゃくる宰相の肩を叩いて慰めます。
将軍も二人が激しい論戦を繰り広げていることは知っていましたし、どちらを支持するかは明白でした。
「私はもう、陛下の下へ戻り説得を繰り返すことが出来ません」
強気で通す男の弱気は痛々しい限りです。
「私は陛下に嫌われてしまいました。もう、陛下にお会いするのが怖くなったのです」
「そう気を落とさないで欲しい。私が一緒に行って陛下を説得しよう」
皇太子フリードリヒ王子はそう言いながらビスマルクを慰めるのでした。
開明派で自由主義に理解のある皇太子は、絶対王権を支持する宰相が嫌いで、これ以前にも以降もビスマルクと親しく交わることなどありませんでしたが、この時はビスマルクの進める講和に賛成であり、プロシアはオーストリアに対し寛大でなければならないと考えていました。
その生涯を通じ二人の意見が一致することなど滅多になく、皇太子はこの戦争も反対を表明していた位でしたが、いざ戦争と決まれば軍国の皇太子として軍の半分を率い、全力で戦い勝利を得ました。
そんな皇太子ですが、戦争開始直後の6月18日には三男のジギスムント王子を髄膜炎で亡くしています。戦争のため医者が動員され王宮にいなかったのでろくな治療を受けられなかった、とも伝えられており、エリザベス妃の嘆きは大きなものでしたが、国軍の半数を率いていた皇太子はベルリンに帰ることはありませんでした。
そんな皇太子の務めを立派に果たすフリードリヒ王子をビスマルクは誉め讃え、ケーニヒグレーツ戦で国王が皇太子と握手した折りにも感謝と労いの言葉を掛けています。
この両名はこの後も仲が悪いままでしたが、この時が彼らの生涯で一番友好的な瞬間だったのです。
二人はヴィルヘルム1世の部屋を訪れ、今度は二人掛かりで説得、国王は皇太子から堂々と訴えられた挙げ句の果て、遂に24日に折れて「勝手にするがいい」と言い放つや、深々と頭を垂れる二人の前でドアをピシャリと閉じたのです。
将来に禍根を残さず、次に必ずや起こるであろう対フランス戦に備え、速やかな講和を考えていたビスマルクは、こうして勝利を勝ち取ったのでした。




