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休戦と和議への道

 1835年のこと。

 プロシア親王のヴィルヘルム王子(当時38歳)は、ベルリンの社交場で20歳になったばかりの司法官助手と出会います。

 がっしりとした体格に眼光鋭いその青年に興味を持った王子が歩み寄り、

「君。出身は?」

 問われた青年は相手が誰かを認めたらしく、さっと直立不動の姿勢を取ると、

「シェーンハウゼンであります、殿下」

 聞けば、青年はユンカー出身で家柄も悪くない。王子は、

「君はなかなか良い体格をしている。軍人の道を歩んでも良かろうに?」

と尋ねます。

 当時の若き貴族は、一度は軍の門をくぐり出世の足がかりにするのが当り前であり(拙作・ミリオタでなくても軍事がわかる講座「貴族のボンボンが国民軍の指揮をする?」参照)、大柄で健康そうな男が法務官の卵であることは根っからの軍人気質だった王子にとっては意外だったのでした。


 その青年は、

「私ごときが軍で昇進するとも思えないものですから」

と答えます。ヴィルヘルム王子は、

「私には君が法律家として大成するとも思えないがね」

と不服そうに言うとその場を後にします。


 これが後のプロシア王ヴィルヘルム1世と宰相ビスマルクの出会いでした。


 ビスマルクという男は、そのいかつい容貌や保守・王権の信奉者という立場から見れば意外なことに若い頃から軍人が嫌いであり入隊しなかっただけでした。しかし、バリバリの軍人であるヴィルヘルム王と巧くやって行くには機嫌を損ねる訳に行かず、政治家として目立ち始めた後でも「なぜ軍に参加しない?」と王に問われれば「自分は軍で才能を発揮出来ない」などと言って常にやり過ごしました。


 このようにビスマルクはヴィルヘルム1世を煙に巻き、真実を隠して物事を自分の都合のよいように誘導するのを常套手段として来ました。


 因みに普墺戦争後の9月、戦勝による勲章や昇進の「大盤振る舞い」が行われた時、61年にヴィルヘルム1世が国王となった時に「名誉少佐」とされていたビスマルクも「名誉」が取れて正真正銘の「少将」とされてしまい、部隊の指揮こそしませんでしたが軍人としての階級を与えられ「年貢を納め」ています。


 そんな本当は軍隊嫌いのプロシア宰相ビスマルクが、ケーニヒグレーツ戦の直後にフランス帝国皇帝ナポレオン三世による普・墺・伊三国の講和斡旋を聞かされた時。

 彼の頭にはある光景が浮かんでいました。


 モルトケに劣らぬ愛煙家だったビスマルクは宰相になった後、度々プロシア軍の戦場を訪れて来ましたが、その時には必ずドゥブの丘でモルトケに開いた例のシガレットケースを持ち歩き、戦いの跡が生々しい戦場で一服するのが習慣でした。

 ビスマルクがケーニヒグレーツの戦いが終わった直後、激しい騎馬戦が行われたストレセティク近郊を視察すると、そこには未だに馬の死骸や斃れた兵士が横たわっていて、負傷兵が担架兵に集められて後送されているところでした。

 ビスマルクは馬から降りてその負傷兵たちを見舞おうと近付くと、担架兵からもう長くはないと後回しにされ、地面に横たわっていた一人の竜騎兵が弱々しく手を上げるのが目に止まります。

 宰相が横たわる兵士に膝を折り、顔を覗くと兵士は、

「何か、気付けになる様なものを頂けませんか」

 兵士は瀕死の自分に近付くのが宰相だと気付いたのかどうかは分かりません。ビスマルクは少佐の制服を身に付けていたので騎兵将校だと思ったのかも知れません。

 ビスマルクは頷くとシガレットケースを取り出しますが、蓋を開くと一本しか残っていませんでした。しかし躊躇わずその一本に火を付け、兵士の口に差し込んでやります。

 兵士はほっとしたように一服吸い込み、微かに笑うと、

「ありがとう……」

 そしてビスマルクの目の前で息を引き取りました。


 「あの騎兵の顔を私は一生忘れないだろう。あの時の一服は、私が今まで吸った葉巻の中で最も重い一服だった」

挿絵(By みてみん)


 ビスマルクは考えます。彼がこの戦争を進めるに当って考えた目標は、ドイツという将来の国家枠からオーストリアを取り除くこと、そしてプロシアが北部ドイツを統一支配することにありました。そのためにオーストリアを「懲らしめる」こと。それが彼の考える「普墺戦争」だったのです。

 そのために必要なプロシアの「勝利」はケーニヒグレーツだけでも充分過ぎるほどで、本心は一刻も早い講和です。

 これ以上、あの竜騎兵のような犠牲を出す無駄な戦いは将来の「敵」を利するだけ、彼はそう思っていたのでした。


 ケーニヒグレーツ戦の直後から、オーストリアでは首都防衛の陣地構築を始め、支配領域を含めた国内の防衛強化のため追加の徴兵や自衛のための郷土兵を募集したり、イタリアから南軍の半分に当たる兵力を引き抜いて首都に送ったりしましたが、首脳部は逆転の望みは薄いと考えており、また各地に反乱を誘うような不穏な空気が醸成されていました。


 一方のプロシアではウィーン進撃の可能性が高くなり士気は高まりましたが、占領地域が拡大し軍が本国から離れたことで補給状態は最悪となり、占領地での現地徴発が徹底強化されていました。

 その結果ボヘミア、モラヴィア、オーストリア領シュレジエンなどで地元住民との摩擦が増え、各地で占領軍に対する蜂起が始まっています。このままの状態が続けば、せっかく反オーストリアの反抗気分が高まっている墺領各地も反プロシアに逆転し、あのナポレオンが手を焼いたスペイン戦争(ゲリラの誕生)のような泥沼の闘争と化す怖れが高まっていたのです。


 普墺両国とも内心はこの辺りでの講和が望まれていたのでした。


 7月4日深夜、フランス帝国政府よりプロシア、イタリア両王国に対し「戦争中止の議」が発せられました。

 これに対し普伊両国共に国際儀礼に則り一旦これを受理しますが、まずはイタリアが翌5日パリ駐在のディ・ニゲラ駐仏公使を通じ、

「イタリアにはプロシアとの協定遵守の義務があり、またこの戦争はヴェネツィア地方の民衆が外国統治を免れるための戦いでもあるので簡単に止める訳にはいかない」

とフランス政府に答えます。

 更にイタリアは9日フランスに対し、もし次の三点を保障してもらえればプロシアと協議して休戦してもよい、と通達します。その三点とは、

一・オーストリアが直ちにヴェネツィア地方(墺領ヴェネト)をイタリアに譲渡すること

二・イタリアは後日の講和会議でトリエント地方の譲渡を議題とするので、フランスはこれを支援してほしい

三・同じく講和会議で「教皇領問題」を取り上げること

 これに対しフランスはなかなか返事が出来ません。何故なら二や三の問題はイタリアの更なる領土要求に発展するからで、特に三は現在フランスが実質支配している教皇領の問題ですからうかつに返事が出来なかったのでした。


 またイタリアに対するプロシアの圧力も高く、プロシア政府はイタリア政府に対し11から13日に掛けて「単独講和はこれを許さない」との内容の通知を連発し威嚇を行っています。

 イタリアもここが踏ん張りどころと軍を動かし、ポー川を渡河させてヴェネト領へ入り、南チロルでは救国の英雄ガルバルディが志願兵を率いてオーストリアのチロル兵団と戦っていました。同じく海軍もアドリア海で攻勢を強めて墺領リッサ島を砲撃、海戦に発展しますが惨敗します(20日)。


 敵の弱みに付け込んで反撃を喰らったイタリアに対し、プロシアは自らの状況も考えて休戦に応じる条件を練り、9日に決定、これを11日フランスに通達します。これはビスマルクの独断とも言える行動で、国王や軍部は後からこの事実を知り、激しい論戦となりました(後述)。

 しかしフランスはその講和条件をオーストリアに直接伝えようとはせず、ナポレオン三世の「思惑」として12日、パリにて仏外務大臣よりオーストリアへ伝えられます。

 反プロシアで知られるフランス外相エドゥアール・ドルアン・ド・リュイスが駐仏大使メッテルニヒを呼んで伝えたその内容は以下の通りでした。


「プロシアは休戦協約を締結すると同時に仮講和条約を話し合いたいと言っている。この仮条約の内容は未だ定めていないが、その第一項はオーストリアをドイツ連邦から外すこととしたいと言っている。ナポレオン三世はこれを呑んだ方が貴国(オーストリア)のため、と思っている。因みにフランスはこの戦争に介入する気はない。この際貴国は徹底的に戦うか即座にプロシアが出す条件を呑んで講和するかどちらか一つに決めなくてはならない。ナポレオン三世は貴国の決意を直ちに知りたいと思っている」


 オーストリア政府は困惑しながらも13日、ナポレオン三世に答えます。

「オーストリアはプロシアの言う『連邦離脱』の条件を呑む前、必ず他の条件を提示して貰わなくてはならない。もしその条件に土地割譲の条件があれば、オーストリアは屈辱に屈するより名誉ある滅亡を選び徹底的にプロシアと戦うものである」


 ナポレオン三世はこのオーストリアの決意を聞いた後の14日、プロシアから聞いていた講和条件に自身の案を付け加えた以下の講和条件をプロシアとオーストリアに示しました。


一・墺領ヴェネトを除くオーストリア領土はこれを保全する

二・オーストリアは一旦ドイツ連邦を解散することに賛成する。またプロシア主導による新たなドイツ連邦を起こすことを認め、これに加わらず介入しない

三・プロシアはマイン川以北の諸邦を集め北部ドイツに一つの新しい連邦を設立し、この新連邦の軍隊はプロシア軍が統括指揮する

四・マイン川以南の諸邦は、これとは別に他国の支配が及ばない独立した連邦を創設する

五・南北ドイツの連邦が合同し一つとなる場合はこれを武力によらず自由な協議によって行う

六・エルベ川流域の諸邦は全てプロシアが併合する。但しシュレースヴィヒ公国北辺の民衆は自らの意思によりデンマークに属することを妨げない

七・オーストリアとその同盟諸国は戦費の幾分かをプロシアに弁償すること


 二日後の16日、ナポレオン三世は普墺両国が条件をよく吟味した頃合いと考え、従弟の政治家でイタリア国王の義理の息子(娘の婿)ナポレオン公(ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト)をヴェネトとの境界にあるフェラーラの街に送り、イタリア政府に普墺両国の和議条件を知らせ、ヴェネトを譲渡する際の方法などを協議させています。


 この少し前、この講和条件協議とは別に戦闘行為を休止するための休戦協議がフランスを介して普墺両国間で密かに始まっていました。

 12日、プロシア大本営に派遣されていたフランス軍武官からオーストリア大本営に連絡が入り、「プロシア軍はオーストリア軍が即日ターヤー川以北の兵を引き上げ、南北両軍の行軍を停止し、更にケーニヒシュタイン(ザクセン王国内)とテレージエンシュタット両要塞によって遮断されているドレスデン=プラーグ鉄道の安全運行を保障すれば三日間の休戦に応じる」との休戦条件を提示しました。

 オーストリアとすれば8日に拒否された休戦を敵から再度持ち掛けられた訳ですが、北軍の後退とウィーン防衛線構築が同時進行する中、簡単には応じることが出来ません。

 これから長い休戦協議が続きます。この協議の間にも戦線は動いて行き、プロシア軍は遂にオーストリア領まで至ります。


 フランスの講和あっせんと休戦協議は白熱し、先ずは20日、休戦協議が先に決定し、五日間の休戦を行う事が決します。これは普墺間の講和条件をイタリアが吟味するのに六日は要するとのイタリア高官からの回答によるもので、戦闘が流動的にならないよう、一旦停戦することが必要と双方が納得したからでした。


 この休戦は22日正午から五日間、即ち27日正午までと定められ、直ちに相互の兵力展開境界線をどこに引くかの話し合いが普墺両軍の間で行われます。

 これもぎりぎりの難しい話し合いでしたが何とか停戦発効寸前までにまとめ、22日午前11時45分(休戦発効なんと15分前)、オーストリア総軍参謀長フランツ・ヨーン中将とプロシア軍参謀本部次長ポドビールスキー少将との間で書面が取り交わされ署名され確定しました。


 イタリアは普墺両軍が停戦したことを知ると、全権委員団を和議会談の行われるニコルスブルクに送り、25日、オーストリアとの休戦に応じました。


 これで普墺戦争は和議会談の最終段階に掛かったのです。


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