ブルーメナウの戦い(後)
墺第2軍団のヴェルテンブルク旅団は、先鋒の一個歩兵連隊(第54連隊)が21日深夜に鉄道で到着し、本隊はこの22日早朝、馬車と列車でプレスツブルクに到着すると直ちに北上して、ブルーメナウの東、小カルパチア山脈を越えたところにあるラッツェルフドルフ(ラチャ/ブラチスラヴァ北北東6キロ)に至ります。
7時過ぎにはほぼ全部隊がラッツェルドルフ周辺に集合し、旅団長のヴェルテンブルク公は直ちにこの地を中心に陣を敷いて普軍の迂回を警戒し、自らはラッツェンドルフに先着していた第54連隊を率いて小カルパチア山脈に入り、モンデール旅団の右翼に連なるべく進撃して行きました。
続いて8時過ぎにはトーム旅団が鉄道でプルスツブルクに到着し、予備として敵に備えます。
一方、普軍の陣営では司令官のフランセキー将軍が渋い顔をしていました。この攻撃が始まった朝7時半頃、第一軍本営から重大な連絡が入ったのです。
それは、普墺両軍がこの22日正午をもって停戦する、というものでした。
「第一軍諸部隊に達する。本22日正午を以て、我軍と墺軍は一切の戦闘行為を停止する。因って本日正午以降は戦闘、行軍など一切運動を停止し、この停戦あることを敵に通知すべし」
しかしこれを知った時フランセキー将軍は既に、ボーズ旅団の遅れを心配して右翼(西側)部隊でマルヒ川沿岸に続く丘陵地帯(テーベン山)を突破させ、ボーズ旅団の進撃と合わせ両翼包囲とする作戦を命じており、攻撃が進行中にその進軍を止めると停戦を知らない敵の反撃を一身に受け、無駄な犠牲が生じてしまう恐れがあるとして、攻撃を中止させませんでした。
実はこれには裏話があります。
この四時間ほど前の午前3時15分、フランセキー将軍は第一軍司令官カール王子に対し「部下の兵のみでプレスツブルグに強行偵察を行い、敵の兵力が弱体ならば街を占領したい」と申し立て、許可されていました。
この明け方3時という時間には既に「この日正午を以て敵対行動を中止する」との普墺間の停戦が決定されており、布告が両軍各部隊に送付されましたが、カール王子の手元には届いておらず、フランセキー将軍の積極果敢な策が許可されたのでした。
この後停戦を知った王子は、急ぎ停戦合意と攻撃中止を命じた書簡を連絡士官に持たせてブルーメナウに向かわせましたが、既に第4軍団は攻撃を始めた後だったのです。
フランセキー将軍は何としてでも停戦発効の12時前にプレスツブルクに入り、停戦時に街を占領していなくとも普軍が街に居るという既成事実を既得権にしてしまおうと考え、攻撃を続行したのでした。
普軍中央を受け持っていた第14旅団長のゴルドン少将は、フランセキー将軍の命に従い中央の部隊で敵を引きつけ、左翼(東)の部隊で小カルパチアの森林に進みました。マルヒェックにいたハーン騎兵師団は川を渡って戦場の北に達し、予備砲兵部隊と並んで騎砲兵部隊も砲列を敷き始めました。
しかし砲撃戦は不活発で、これは6月来の雨で路が泥濘となっていて、陣を構えた墺軍砲兵から狙われる普軍の砲兵は砲の配置に手間取っていたことや、墺軍の補給状況に問題があり、特に8ポンド歩兵砲の砲弾がほとんど切れてしまって、墺軍砲兵部隊は軽い4ポンド砲の砲撃に依存していたからでもありました。
9時頃には戦線の西、テーベン山や東、フランツホーフ(ラマチの北400メートル・鉄道線路が西にカーブを描く辺り)に圧力を掛ける普軍の攻勢が勢いを増し、モンデール大佐は特に危うい自軍の左翼、カルテンブルンの部落に増援を送って西から迂回されることを防ごうとしました。
ここにテーベン山麓で激しい銃撃戦が発生し、お互い一歩も引かない戦いとなります。
更に墺軍側は戦線東側担当のシュッテ大佐が戦場に到着したばかりの一個歩兵大隊を西へ増援に送り、この部隊の到着でカルテンブルンの部落を死守させ敵の突破を防ぎました。この付近では墺軍砲兵が頑張って敵に有効射を繰り返し、普軍はなかなか前進することが出来ません。
しびれを切らしたフランセキー将軍はこの右翼部隊に「発破」を掛け、必ずテーベン山を越え戦線を突破するよう厳命します。猛将から叱咤された普軍右翼部隊は突撃を繰り返し、その攻撃を墺軍はよく耐え、よく守りました。
このブルーメナウ西側の戦闘は9時頃から11時過ぎまで続き、11時15分、墺軍が予備の一個大隊を投入したところで「時間切れ」となります。
墺軍のモンデール大佐の下にも停戦決議が報知されたのでした。
戦場の中央と東でも激戦が続きます。
普軍のゴルドン将軍は小カルパチア山中に入ったボーズ旅団の西に連なってブルーメナウを攻め続けました。
ゴルドン将軍は木々が多い地形を利用して部隊を散開させ、散兵戦を仕掛けます。戦場の中央では一進一退の戦いが2時間に及びました。
その東側の森の中では、ゴルドン将軍が直卒する一個大隊が敵を迂回すべく進みましたが、距離を誤って深く森を東に進んで遊軍と化してしまいました。誤りに気付いた将軍は森からの迂回突破をあきらめ、11時頃、残り部隊全てをフランツホーフ攻撃中の味方一個中隊に加勢として投入します。
これが災い転じて福となり、攻撃が突如激烈になったためフランツホーフを守っていた墺軍中隊は潰走し、その西側に連なり戦っていた中隊もたまらず後退、ここに戦線の「穴」が生じたのです。
ゴルドン将軍はすかさず麾下第14旅団の二個連隊をこの穴から突進させ、一気にブルーメナウ村の前面になだれ込みました。
一方、遅れをとってしまったボーズ将軍の第15旅団は二本の縦列でカルパチア山中を南東に向けて行軍し、途中9時過ぎにはワイドリッツ渓谷で前衛が墺軍の哨兵と衝突、これを数を頼みに押し切って後退させ、渓谷を越えて進みました。
ここから部隊は分かれて進み、一個大隊の兵は更に南下して山を越え、プレスツブルク東郊外の停車場を目標にして急進しました。
一方ボーズ将軍の本隊はワイドリッツ渓谷に残った部隊と合同すると、計画通り渓谷を下り、ブルーメナウ南方に出てモンデール、シュッテ両旅団の後方連絡を絶つべく動き始めますが、ここで12時に停戦すべしという命令が届きました。
ボーズ将軍はこの渓谷に止まるより敵(ブルーメナウの墺軍)の裏に出て包囲し、併せてプレスツブルク市街に突入して停戦を迎えた方がよいという判断に決し、急ぎ兵を南西へと進めます。
この渓谷でボーズ旅団と墺第2軍団の戦いが勃発し、短いながらも激しい攻防戦がここでも繰り広げられました。
この普軍の急進を知ったプレスツブルクのピリポヴィック将軍は、トーム旅団の第40連隊を渓谷に送り出し、同じく第69連隊を停車場に向け、それぞれ侵入する敵に対します。ツーン軍団長も停車場に砲兵とサフラン旅団の第64連隊を送り出しました。
ブルーメナウの東にはシュッテ大佐の部隊が張り出しており、この守備範囲へ侵入したボーズ旅団と戦い始めました。ところがちょうどこの時、ツーン将軍の下にアルブレヒト親王から電信が届きます。
「本日22日正午から27日正午まで、我が軍は普軍との間に五日間の休戦を合意した。ただし警戒を怠ってはならず、敵のどんな行動も見逃してはならない。ただ抗戦を止めるだけで、プレスツブルクの街は絶対に堅守し敵に渡してはならない」
これを受け、将軍は麾下部隊に対し直ちに停戦を命じました。時間はちょうど12時になろうとしていました。
普・ゴルドン旅団による強襲時、ブルーメナウではおよそ一個連隊の墺軍歩兵や猟兵が守っていましたが、この倍近い敵を落ち着いて迎撃し、村へ一歩も入れじと奮戦します。
村の真ん中を南北に走る鉄道の堤に陣取った墺軍砲兵部隊も、ゴルドン旅団から猛烈かつ正確なドライゼ銃の射撃を受けますがひるまずに直射し続け、敵の前進を阻みました。
やがて時間が11時半となり、ここで墺軍のモンデール大佐から停戦命令が発せられ、射撃は次第に止んで行きました。
モンデール大佐が両軍の停戦決定を知ったのは停戦発効45分前の11時15分でした。
この後12時直前にツーン第2軍団長が受け取ったのと同じ、ウィーンのアルブレヒト親王からの直電報でした。
モンデール大佐は急ぎ四方に騎馬伝令を走らせ停戦を知らせます。墺軍側の停戦は素早く実施され、11時半には全ての砲撃が止み、砲兵部隊はおよそ200メートルほど後退し、敵意がないことを敵に知らせると同時に敵が停戦を守らない場合直ちに反撃を加える用意をします。
この時点で停戦を「故意に」知らされていなかった普軍騎兵も、度重なる行軍と偵察行動に疲れ切っていて、この撃たない砲兵という餌に突撃を掛ける部隊はありませんでした。
この11時半の時点では、普軍がブルーメナウ村の直ぐ外、そしてプレスツブルクの東郊外へ迫ったものの全般の状況は墺軍有利でした。
モンデール大佐のブルーメナウ防衛は完璧に機能していて、その右翼(東)に連なるシュッテ大佐旅団も敵と北・東の二面で戦い突破を許しませんでした。
その東側カルパチア山中ではボーズ旅団が苦労しながら行軍し、途中の敵を排除しながら一部はプレスツブルクの東に至っていましたが、墺第2軍団のヴェルテンブルク将軍が防戦に努め、市街地は安泰でした。その東では墺北軍部隊が続々とプレスツブルク目指し行軍しており、この22日中には更に一個軍団程度の部隊が到着する予定でした。
停戦がなければ墺軍勝利の可能性も高かったのです。
十二時を廻っても銃声は中々収まりませんでしたが、やがてそれも収まります。6月15日に始まった戦争は一ヶ月余りを経て終わろうとしていました。
この「ブルーメナウの戦い」における墺軍の損害は士官18名、下士官・兵451名でした。
また、普軍の損害は士官8名、下士官・兵199名でした。
墺第2軍団のツーン中将は12時の停戦開始時間に至ると軍使を仕立てて向かい合う普軍へ送り、12時半までに停戦を通知しました。
概ね午後1時半には両軍とも敵対行動が終了し、第2軍団参謀長ヨーゼフ・フォン・デブネル大佐は偶発的な交戦を避けるため白旗を立てて向かい合うボーズ将軍の下へ向かいます。二人は当座の境界線をワイドリッツ渓谷に定めました。この北にあるブルーメナウ村は普軍支配地とされたため、一歩も下がる事のなかったモンデール、シュッテの両旅団将兵は堂々とプレスツブルクへ行軍して行ったのです。
この22日午後遅く、ウィーンのフランツ=ヨーゼフ皇帝からブルーメナウで戦った部隊に対し敢闘を讃える勅語が下されるのでした。




