オルミュッツ南方の戦い
墺北軍の本隊(第1、第2、第4、第6、第8の各軍団と第2軽騎兵師団、ザクセン騎兵師団)は墺大本営の命により7月11日ウィーンを目指し出立することとなります。
未だオルミュッツ在の兵力指揮を任されていたベネデック元帥は、オルミュッツに第6軍団と一個騎兵連隊を残し、要塞守備隊と共に敵第二軍に備え、その他の各軍団は直ちにウィーンへの行軍準備に入れ、と命じました。
ベネデックは事後承諾を受けようと、第6軍団のオルミュッツ残留を認めてもらえるようウィーンに掛け合いますが却下、命じた通り全軍ウィーンへ向かうよう重ねて命令されてしまいます。ベネデックは仕方なく行軍経路を策定し直しました。
その結果、歩兵は極力鉄道にて運搬、騎兵はプロツスニッツ(プロスチェヨフ)=アイスグリューブ(レドニツェ)を経てオーストリア領へ入りウィーンへ行軍、輜重を含むその他部隊はマルヒ(モラヴァ)川を渡りグーデング(ホドニーン)=マラツカ(マラツキ/スロヴェキア)を経るルートとナパイエドル(ナパイェドラ)=オストラ(オストロ)=テルナウ(トルナヴァ/スロヴェキア)を経由してプレスツブルク(ブラチスラヴァ/スロヴェキア首都)へ至るルートの二本でウィーン近郊まで進出することに定めます。
ケーニヒグレーツ敗戦後、第10、予備騎兵、第3、ザクセンと櫛の歯を梳くように軍団をウィーンへ持って行かれたベネデックもこれで年貢の納め時となりそうでした。ウィーンへ至れば先に帰った三人の将官(クラム=グラースなど)と同じく軟禁状態にされ、ここまでに至った責任を問われることは必至です。かれがオルミュッツへ行軍しウィーンを避けたのは案外これが原因かも知れません。
いずれにせよ未だ10万の兵力をもつ北軍本隊が一気に移動するには無理があり、かれらは経路の鉄道の安全を調べながら翌7月12日より輜重部隊を先に送り出し、14日からは戦闘部隊の行軍が始まって第4軍団を先頭に順次オルミュッツを出立することとなりました。
この間、13日には全軍の総指揮官に就任したアルブレヒト親王から重ねて北軍のウィーン移動を命じる電信が寄せられ、それによれば歩兵十個大隊、騎兵一個連隊、砲兵一個中隊をオルミュッツに残す以外、全ての部隊がウィーンへ向かうこととされ、先頭部隊の行軍経路も輜重部隊と同じく、全てマルヒ川を越えた「スロヴァキア経由」とされました。
この行軍予定によると、北軍本隊は再び三つの悌団(行軍などで臨時に組まれるグループ)に分かれ、第一悌団は第2、第4軍団と、ザクセン軍から分割され第4軍団に属することとなったザクセン騎兵師団、第二悌団は第1、第8軍団と第2軽騎兵師団、第三悌団は第6軍団となりました。
前述の通り第一悌団は第4軍団を先頭に14日オルミュッツ周辺から出発し、第二と第三悌団は15日に出発予定でした。
計画では、第一悌団は17日夕刻グーディングに、21日にプレツスブルクに到着し、第二悌団はちょうど一日遅れで同じルートを辿り、ドナウ河畔に達することとされます。この行軍では事前計画通り歩兵は安全に乗車出来る場所(マルヒ川に沿った路線のモラヴィア南部各駅)まで徒歩で行軍し、列車が用意出来た場所から鉄道で運ばれ、騎兵はその後を追う形で後衛となって続くこととされていました。
そして首尾よくプレツスブルクに達したなら、第4軍団はそのままドナウ右岸に前進して展開し、第8軍団も遅れてドナウ防衛線に入る予定でした。輜重や軍砲兵、弾薬廠など後方部隊は遅れて24日プレツスブルクに至ることとされます。
この行軍開始直後の14日、オルミュッツの南で墺北軍と普・第二軍との間に幾つかの小さな遭遇戦が発生しています。
○クラリッツの戦い
7月14日、ザクセン騎兵師団と普軍ブッデンブロック(第4)旅団所属のフォン・ケーレル大佐(擲弾兵第5連隊長)率いる支隊(歩兵三個大隊・騎兵二個中隊・砲兵一個中隊)の騎兵部隊がクラリッツ(クラリツェ・ナ・ハネー/プロスチェヨフ郊外)付近で衝突した戦い。ザクセン軍の損害は19名。普軍の損害は22名でした。
○ビスクピッツの戦い
7月14日夜、ビスクピッツ(ビスクピツェ・ナ・ハネー/クラリッツの東2キロ)でサフラン少将旅団(第2軍団)所属の一歩兵中隊が普・ハルトマン騎兵師団所属の胸甲騎兵連隊の来襲を撃退した戦い。墺軍の損害は3名。普軍の損害は20名で墺軍勝利です。
これらの戦いのほか騎兵斥候たちの報告などにより普・第二軍は、墺北軍本隊が既にオルミュッツを離れマルヒ川を渡河して南方スロヴァキア地方に向ったことを知ります。この情報は15日になってブリュンの大本営へと伝えられました。
ここに至り、既にケーニヒグレーツとヨセフシュタット両要塞の監視を後備部隊に任せて南下を始めた第6軍団を含め、行動の修正を求められた第二軍本営はフリードリヒ皇太子の名前で以下の命令を発します。
『報告によれば敵北軍の大半は既にオルミュッツを去ったとのこと。これにより既に発した命令はこれを取り消し、新たに以下の命令を発する。
第1軍団の任務はオルミュッツ=ブリュン間の街道守護とする。一隊をツェショー(ジェショフ)とワイシュコーヴィッツ(ヴィーショヴィツェ)間に派遣し、残りはその後方ウルチッツ(ウルチツェ)=オッタスラヴィッツ(オタスラヴィツェ/いずれもプロスチェヨフ南方)にて野営すること。またクラリッツ方面にも一隊を出して東側の警戒を厳重に行うこと。
第5軍団は前衛をプロスツニッツ(プロスチェヨフ)に置き、その後方プルメナウ(プルムロフ)より東の地域に展開すること。また、集成騎兵軍団(15日編成。ハルトマン騎兵師団など騎兵を集成した部隊)は第5軍団長シュタインメッツ将軍の指揮下に入ること。
この第5・騎兵軍団は明日早朝それぞれ偵察隊一隊をオルミュッツに向けて放ち、敵主力が既にオルミュッツ要塞を去ったとの報告を確認し真実ならばその理由を探ること。
近衛軍団は明日15日ボスコウヴィッツ(ボスコヴィツェ)に至りその周辺に展開すること。また、現在任務で各地に差配している諸部隊を集合させること。明日以降、集団で行軍する予定なのでその準備をして次の命令を待つこと。
第6軍団は明日朝クレーナウ(クジェノフ)街道を進みレットヴィッツ(レトヴィツェ/ボスコヴィツェ北西8キロ)に至ること。その後の行軍に関しては明日夕方ボスコウヴィッツに於いて近衛軍団長より受領すること。 皇太子フリードリヒ』
これを見ると皇太子は全軍を西のブリュン寄り、即ち第一軍の方向に近付け、墺北軍の南下を追いながらも少し西へ離れた形で接近し過ぎない様に距離を取って南下しようと考えていることが分かります。
また、軍の後衛となっていた近衛軍団と、遅れてエルベ河畔から南下を始めた第6軍団を、第1、第5の両軍団から分離してブリュンを目指す進路へと変更し、もし大本営からウィーン方面への進撃を命じられた場合でも対応出来るようにしています。
7月15日。墺北軍では第二梯団と第6軍団(第三悌団)が、前日出発した第一梯団を追ってオルミュッツ南方へと出発しました。
この日はこの第二梯団と普・第1軍団とハルトマン騎兵師団との間でケーニヒグレーツ戦以降では最も目立つ戦いが数ヶ所で繰り広げられています。
○トビッチャウの戦い
プロスチェヨフとプルジェロフの街のちょうど中間にあるトビッチャウ(トヴァチョフ)部落周辺で7月15日午前に発生した戦いです。
この日午前9時少し前、墺第8軍団のロートキルヒ旅団がトビッチャウ近郊で前方にかなりまとまった数の部隊を見かけます。先行するウェーベル旅団の後衛だと思って接近したところ、銃撃を浴びてしまいました。
ウェーベル旅団と思った部隊は普軍のトルゼビアトウスキー少将率いる第1軍団第2師団第3旅団の一部と、ハルトマン騎兵師団の支隊だったのです。これら普第1軍団の前衛は、前日皇太子の命により「クラリッツ(東)方面も警戒する」ために早朝4時に野営地を出発、この地へやって来ると偶然にも墺ウェーベル旅団の通過後、墺軍の行軍路に割り込むように入って来たのでした。
ロートキルヒ
現在、この付近にはいくつものため池が点在していますが当時は湿地帯で、モラヴァ(マルヒ)川とベクヴァ(ベッツワ)川の合流地点とその南にある樹林はほぼ当時のままです。ロートキルヒ旅団と普軍のトルゼビアトウスキー支隊はこののどかなモラヴィアの田園で死闘を繰り広げました。
やがて双方とも援軍が加わると共に戦いも拡大し、墺軍は第8軍団全体が戦いに巻き込まれ、ウェーベル、キルヒマイア(旧シュルツ)、ロートの各旅団と軍団砲兵、槍騎兵第3連隊が順次戦いに参加し、普軍も第3旅団とハルトマン騎兵師団、そして昨日クラリッツで戦ったフォン・ケーレル支隊が全力でこれと戦いました。
結果、数は少ないものの勢いに勝る普軍が墺軍を押し、午後2時にトルゼビアトウスキー支隊を救おうと普第一軍団本隊(第1と第2師団)が続々と到着すると、墺第8軍団長レオポルト大公親王(病気回復でオルミュッツにて軍団長に復帰)は無理をせず、部下にマルク川を渡らせ東方のプレラウ(プルジェロフ)の街まで退避させるのでした。普軍はこれを追い、プレラウ付近でオルミュッツから行軍して来た墺第1軍団と戦うのです。
○ロケートニッツ=ドルホニッツの戦い
プレラウの西郊外、ロケートニッツ(ロキトニツェ)とドルホニッツ(ドルホニツェ)で7月15日午後に発生した戦いです。
15日早朝、墺第1軍団は第8軍団に続きオルミュッツ郊外の宿営地を出立、南下を続けて9時頃プレラウに至ります。軍団が集合を続けている最中に西側から砲撃音が聞こえ始め、彼らの西を行く第8軍団と普軍が戦っていると想像されました。
11時頃、西より潰走した墺軍兵士がやって来て「トビッチャウの戦い」を伝えます。第1軍団長ゴンドルクール将軍はホーフェンドルフ中佐旅団(前ポシャッハー旅団)とカッタネイ大佐旅団(前ライニンゲン旅団)に対し、ロケートニッツに陣を張って西より敵が来たら死守すべしと命じ、ハウスカ中佐旅団(前リンゲルスハイム旅団)にはプレラウの北方入口と東西に延びる鉄道堤に沿って布陣させ、ロケートニッツが敗れた時の予備とします。また、軍団後衛となっていたピレー少将旅団の行軍を急がせてプレラウに集合させました。
午後1時にはゴンドルクール将軍自らロケートニッツを訪ねて部隊を激励し、いまや北軍司令とは名目上となってしまったベネデック元帥もプレラウへやって来てこの地は絶対死守すべきと檄を飛ばしました。
午後2時、遂に普軍がやって来ます。先陣はハルトマン騎兵師団の親衛驃騎第2連隊と後備驃騎第2連隊でした。彼らは第8軍団を後退させた後でトラウベック(トロウブキ)を占領、ここで僅かな間休息すると前進を再開、騎砲兵をベッツワ河畔に展開し墺軍が待ち受けるロケートニッツに対し砲撃を開始しました。
この砲撃を皮切りにハルトマン騎兵師団と墺第1軍団との死闘が始まります。ロケートニッツの集落内で普軍騎兵の突撃と墺軍歩兵の方陣との戦いが繰り返されます。墺軍歩兵は頑張りますが次から次へと繰り出される普軍騎兵の突撃に次第に押され、やがてロケートニッツから東方の高地へと後退しました。
これでプレラウの北を護るハウスカ旅団の西側面が脅かされることになりますが、ここで第1軍団に送られていた第2軽騎兵師団所属の驃騎兵第12連隊が大活躍を見せます。
墺軍驃騎12連隊長のマールブルク大佐は、普軍の後備驃騎連隊がロケートニッツとドルホニッツの間に集合しつつあるのを見つけると、敵の不意を突いてプレラウを出撃、これに突撃します。短い間の戦いで墺軍驃騎兵は普軍驃騎兵を散々に痛め付け、普軍の連隊長グラスナップ大佐は斬られて落馬、重傷を負い捕虜となってしまいました。墺軍驃騎兵はそのまま戦場を駆け抜け、ちょうどプレラウに迫ってハウスカ旅団を攻撃しようとしていた普軍騎兵を後方から襲撃、これを撃退します。普軍は狼狽して全面潰走に移りました。
普軍のハルトマン将軍は部下が潰走するのを見て、直ちに踵を返し全軍トビッチャウへの後退を命じ、この日の戦いは幕を閉じるのです。
この日、墺第1軍団と第8軍団、軽騎兵第2師団の損害は、士官58名、下士官・兵が1,559名とケーニヒグレーツ以来の大きなものでした。
普軍の第1軍団とハルトマン騎兵師団の損害は、士官12名、下士官・兵233名でした。
これらの戦いや他の普軍偵察隊等により各所で鉄道が破壊されたため、墺北軍の行軍は変更を余儀なくされてしまいます。
また、普軍のウィーン進撃も第二軍ばかりでなく第一軍を含めて影響が出始めるのでした。




