ブルーメナウの戦い(中)
プレスツブルクの北郊外に当たるブルーメナウ(ラマチ)村付近の地形は、マルヒ川に沿った丘陵地帯(デヴィンスカ山)と、遙かルーマニアまで断続弧状に続くカルパチア山脈の西端(小カルパチア山脈)とに挟まれ、スロヴァキアの首邑を守る自然の関門となっていました。
北のスタンプフェンからプレスツブルクに至るには、このブルーメナウ村を通る街道を直進するか、テーベン・ノイドルフ(デヴィンスカ・ノヴァ・ヴェス)部落から西側の丘陵に入り、テーベン村(デヴィン/マルヒ川とドナウ川合流点東)を経て西からドナウ川沿いに街に入るか、の二ルートがありましたが、西側のルートはテーベン(デヴィンスカ)山腹とマルヒ、ドナウの両河川に挟まれた狭い山道を6キロ余りも行くルートで、ここを敵が行軍すればドナウの対岸から容易に射撃を行うことが出来、大軍が行軍するには相当厄介な道となります。
また、スタンプフェン東側の小カルパチア山脈にも数本の狭隘な山道があり、これも山地を蛇行しながらプレスツブルクに至りますが、普軍がこの厳しいルートを選択した場合は行軍に手間取るのが明白で、その間に墺軍は易々とスタンプフェンに進出して退路を絶ち、プレスツブルクにも続々と部隊が到着して普軍を包囲することも可能になる恐れがありました。
マルヒェックで先発した北軍後方部隊の退却を援護した後、マルヒ川を渡りプレスツブルクを守るよう命じられたモンデール大佐はこの数日間で騎兵を中心に増強された旅団を率い、ブルーメナウに布陣して普軍と対峙します。
モンデール
大佐は増強された騎兵を使って盛んに偵察を行い、敵の大部隊がマラツカからすぐ北のスタンプフェンに至り、その東側にある小カルパチアの山地にも浸透して行くのを確認していました。
モンデール旅団はブルーメナウの村を通る鉄道の踏切を陣の中心として東西に広がり、右翼(東)は小カルパチアに広がる深い森まで、左翼(西)は鉄道を経てテーベン山の登山口カルテンブルン(ドゥブラヴカ)の部落まで、としました。部隊はその西側にそびえるテーベン山まで警戒を怠らぬように哨兵を展開し、敵の侵入に備えました。
この防衛線に待ち望んだ増援がやって来たのは21日です。
墺第2軍団のシュッテ旅団(ヘンリケッツ旅団。旅団長ヘンリケッツ将軍が中将に昇進したため旅団を離れ、昨年まで旅団の半分、第14連隊を率いていたシュッテ大佐が旅団長に就任)が続々とブルーメナウに到着し、モンデール旅団では手薄となっていた東側に布陣しました。
この間にも普軍はプレスツブルクへの行軍を続け、一部はブルーメナウを迂回するため小カルパチア山脈に入り、本隊はビステミッツ(ザホルスカ・ビストリカ)付近まで前進、砲兵部隊がその近辺に展開するのが墺軍の前進拠点からも見えました。
この21日の午後には、普軍の首脳が将校偵察を行いました。大胆にも墺軍砲兵の射程内までやって来たのは第4軍団長のフランセキー中将、第8師団の代理師団長ボーズ少将、そして第一軍参謀次長スチュルプナーゲル少将でした。彼らはブルーメナウの敵情を自らの目で確かめ、作戦を練ったのです。幸いにも墺軍砲兵はこの格好の目標に砲撃を加えることはありませんでした。
この日、普軍はマルヒ川に架かる多くの橋や渡船場を修理し、砲兵部隊や騎兵、輜重などが渡河するのが墺軍斥候に発見されています。
墺軍側も負けていません。墺第2軍団長ツーン中将は、この続々と投入される墺軍を統一指揮させるため、同軍団付き将軍(副司令官)フィリポヴィック中将(少将から昇進)を指揮官に指名、将軍はプレスツブルクに急ぎ司令部を構えました。
フィリポヴィック
この日(21日)の夕方には、第2軍団旅団長のヴェルテンブルク少将が自部隊参謀長と共にブルーメナウを訪れて前線で視察を行い、ツーン軍団長に状況を電信で報告しました。
この報告を受けてツーン軍団長は麾下部隊に対し、既にモンデール旅団と合流した部隊には詳細な防御配置を、プレスツブルクに急ぐ行軍途中の部隊には到着次第プレスツブルグに迫る普軍と戦うよう命じました。
この21日夜の時点でプレスツブルク周辺に展開していた墺軍は以下の部隊でした。
ブルーメナウ周辺にモンデール大佐旅団(歩・猟兵七個大隊)、シュッテ大佐旅団(六個大隊)、ペーテルス大佐支隊(猟兵二個大隊)、槍騎兵三個連隊強(十三個中隊)、砲兵三個中隊24門。プレスツブルク至近にシュッテ大佐とペーテルス大佐の部隊以外の第2軍団(歩兵二十個大隊・砲兵七個中隊56門)が集合しつつあり、他に補充兵や郷土兵の部隊がありました。
対する普軍の第4軍団は以下の通りです。
第8師団はビステミッツに陣を敷き、その後ろマスト(現・同)及びスタンプフェン部落には第7師団が待機します。第一軍から派遣された予備砲兵部隊はツォホール(ゾホー)に至り、ハーン将軍の第2騎兵師団はマルヒェックから対岸を狙っていました。これら普第4軍団は歩兵十八個大隊と一個中隊、騎兵二十四個中隊、砲兵十三個中隊(78門)、工兵二個中隊と強力でした。
軍団長フランセキー中将は自らの偵察の結果、本隊をブルーメナウ正面に置いて墺軍主力を拘束し、自軍左翼を小カルパチア山脈に分け入って南下させ、モンデール旅団を側面と背後から脅かして動揺させ、隙を突いて主力が中央を突破しプレスツブルクに突入するという作戦を立て、翌日早朝から決行させようとしていたのです。
明けて22日早朝。普軍のボーズ第8師団長が元の指揮部隊第15旅団(歩兵六個大隊)を直卒し、ブルーメナウの北東、小カルパチア山脈の谷間に工業用の動力水車が並ぶワイドリッツ渓谷(ヴィドリカ川)へ侵入すべく動き出しました。
この渓谷からモンデール旅団主力が踏ん張るブルーメナウ村の南へ迂回する作戦の第一段階でしたが、なんとボーズ旅団は出立に手間取り、午前4時15分の出発予定が6時となってします。この間、中央の本隊前衛が前進を始め、ボーズ旅団は完全に後れを取ってしまいました。
プレスツブルクのフィポヴィック将軍は午前4時、モンデール大佐に電信を発し、騎兵の偵察隊をノイドルフ及びビステルニッツに複数出して偵察し、あわよくば敵兵を二三名捕らえて尋問し情報を得ること、と命令しました。これに応えて槍騎兵第6連隊から偵察隊が発し、途中ビステルニッツ南方で普軍騎兵の斥候と遭遇、これを撃破して命令通り捕虜を得ます。
その捕虜の尋問から、普軍はおよそ二個師団でブルーメナウを襲おうとしていることが判明しました。
6時半になると双方の動きは活発となり、普軍の砲兵部隊の砲撃に墺軍歩兵部隊が応戦、後に「ブルーメナウの戦い」と呼ばれる戦闘が開始されたのです。




