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ルンデンブルク、ニコルスブルクの陥落

 7月15日、オルミュッツでは去る10日にウィーン行きを命令されていたザクセン軍が、ようやく用意された列車に乗車し移動を開始していました。

 ザクセン軍は鉄道での移動が困難な騎兵師団(馬匹やそれに伴う大量の水や飼い葉の問題による)を墺北軍に移管し、歩兵師団と砲兵旅団が鉄路ウィーンを目指しました。しかしこの日、鉄道は各所で普軍によって破壊され分断されてしまい、先発した第1師団(シンプ中将)はスロヴァキアへと脱出出来ましたが、後発の第2師団(スティーグリッツ中将)は敵の進出と鉄道破壊により、先行出立した第1旅団(ワグナー大佐)はプラセク(プルジェロフ)で、残りはオルミュッツ(オロモウツ)にて乗車したところで鉄道運行が中止されてしまいます。

 スティーグリッツ将軍の部下たちは仕方なく全員下車し、以降は徒歩行軍でウィーンを目指すこととなりました。


 オルミュッツに残留することを命令された後に大本営から命令を取り消され、改めてウィーン行きを命じられた墺第6軍団は、この日の早朝4時、第1軍団に続きオルミュッツを徒歩で出立します。敵が既にオルミュッツ至近に迫り、南方にも一部前衛が侵入していることは前日14日、第一悌団の戦いから知られていましたから普軍との戦闘覚悟の出立となりました。

 猛将ラミンク将軍に率いられた軍団は前衛のローゼンツヴァイク旅団に続き輜重縦列、ヘルトウィック旅団、軍団砲兵、ワルドステッテン旅団の順番で行軍列を作って進み、後衛は槍騎兵部隊を従えたヨナック旅団でした。彼らは警戒を厳重にして密集隊列で南下を続け、予定通りライプニッツ(リプニーク・ナト・ベチュヴォウ)に到着、イエッセルニック(イェゼルニツェ)とボッスウエラク(ボフスラーヴキ)の間に野営しこの日の行軍を終えます。この日第6軍団は幸いにも敵と出会うことはありませんでした。


 この15日に発生した戦いの結果、墺北軍は行軍計画を大幅に改めなくてはならなくなり、ベネデックはウィーンのアルブレヒト親王の裁可を得て、普軍との衝突を避けるためマルヒ(モラヴァ)川右岸を行く計画を破棄、川から更に東寄りへと行軍ルートを変更し、スロヴァキア領に入ってからはヴァーグ(バーフ)渓谷に沿って南下、テルナウ(トルナヴァ)からプレスツブルク(ブラチスラヴァ)に至るルートを定めました。

 これは当初計画された二本の行軍路のうち東寄りルートで、マルヒ川を行くルートより数日余計に掛かることとなりますが、他に方法はありませんでした。

 鉄道輸送が間に合わなかったザクセン軍のスティーグリッツ師団についてはワグナー旅団がプラセクで墺第1軍団に、師団の残りは第6軍団を追ってそれぞれの行軍列に迎えられました。

 また、敵の追撃を阻むため、行軍ルートの西に当たるマルヒ川に掛かる橋は片端から落とすこととなり、これは第2、第4軍団の後衛と軽騎兵第2師団が全軍通過を待ち、担当範囲を決めて行うことになりました。


 それぞれの軍団は他の軍団との距離を十分に取って行軍し、もし敵に攻撃された場合は全力で敵に立ち向かい、その間に他の軍団が先へと進めるようにしました。

 16日午後には全ての軍団がマルクを渡河し、計画通り後衛たちは橋を落とし始めます。この先はモラヴィア=スロヴァキア境界の山岳地帯で、山地の道は細く険しく、行軍は難渋を極めることとなりました。


 一方、墺北軍のオルミュッツ出発を知った普国大本営は、第二軍に追わせると同時に第一軍に対し、敵がウィーンを目指す場合に通るであろうルンデンブルク(プジェツラフ)付近のマルヒ川渓谷において待ち伏せし、ウィーン行きを阻止せよ、と命じます。モルトケはカール王子にルンデンブルクへ行軍するように命じ、ビッテンフェルト将軍のエルベ軍にラー・アン(・デア・ターヤー)から南西のヴラースドルフへ進み、味方第一軍とは離れた西方に出ることで、既にウィーン方面にいる墺軍が北上して第一軍の後背を突く場合に備えるよう命じました。


 また、フリードリヒ皇太子の普第二軍本営は16日、シュタインメッツ将軍のオルミュッツ偵察の結果、オルミュッツ要塞の守備兵力は大きくなく、また北軍の野戦軍はほとんどがオルミュッツを立った後であることを確認します。皇太子は既に墺軍と交戦して、結果当初の命令より東側に出てしまったボーニンの第1軍団に命じてこれをオルミュッツ要塞の監視とし、シュタインメッツ指揮下の第5・騎兵軍団に対し、墺軍と並進して行軍を邪魔するよう命じました。


 しかしこれはまずい命令でした。位置的に見れば既に墺軍至近にいた第1軍団がこれを追って並進し、要塞に近かったシュタインメッツ「軍」がオルミュッツを監視すべきでした。これはトラテナウでの指揮振りとケーニヒグレーツ戦での参戦の遅れなど失態を続けるボーニン将軍への不信感、逆に緒戦で独り勝利を重ねたシュタインメッツ将軍への期待の表れだったのでは、と想像します。

 案の定、この命令で第二軍の半分に当たる第1、第5、騎兵の各軍団はお互いの位置を「交換」するため丸一日を費やしてしまい、その間、墺北軍はマルヒの橋を易々と破壊し南下を続けて行きました。お陰でシュタインメッツが墺北軍を追ったのは明け17日からで、墺北軍との間には丸1日の行軍差が付いてしまったのです。


 皇太子第二軍の残り半分、普第6軍団と近衛軍団は16日、カール王子の第一軍と協同するためブリュン郊外に向けて行軍します。一方のカール王子は大本営の命に従ってルンデンブルク目指し軍を動かしました。

 普第一軍本営はパウロヴィッツ(パヴロヴィツェ)に前進し、本隊はモラヴィア最南端・ニコルスブルク(ミクロフ)周辺に達し、第6師団がニコルスブルク市街に入って街を占領しました。

 前衛となったフランセキー第7師団はターヤ川に達します。この時一緒に行動していた騎兵第2旅団メクレンブルク公の前衛が渡河して第一軍の部隊としては最初にオーストリア領へ入ります。この後第7師団と騎兵の前衛は川の両岸に沿ってルンデンブルクへと進んで行きました。


 このルンデンブルクにはガブレンツ中将指揮・第10軍団の一員、モンデール大佐旅団が去る9日から駐屯していました。ガブレンツの信頼厚いフリードリヒ・モンデール大佐はウィーンからの命令で第10軍団がドナウ橋頭堡へ去った後もモラヴィア最南部に当たるこの交通の要衝に残され、墺北軍がモラヴィアを去る際に援護するためこの地に陣を構えたのでした。

 このルンデンブルクにはブリュンとオルミュッツからウィーンへ至る鉄道が走り、付近の川にはいくつかの重要な橋梁が掛かっていました。


 15日、騎兵斥候の報告によると敵の接近で昨日落としたシュヴァルツァ川の鉄道橋を敵の工兵が直しているとのことで、間もなくルンデンブルクにも敵の部隊が押し寄せるものと思われました。また、モンデールは、ウィーンへ行軍中の北軍総経理部(兵站司令部とその付属部隊)と軍直轄砲兵隊、弾薬廠などの後方部隊が無事にマルヒを渡河しスロヴァキアに入ったこと(実際にはまだ渡河中)を知り、ほぼ同時にオルミュッツとの電信線が不通となったことを知ります。辛うじて連絡が取れていたプラセクからの電信ではロケートニッツで大きな戦いがあったとのことで、オルミュッツからマルヒ川右岸(西)に沿ってルンデンブルクに至るオルミュッツ線や、1839年に開通したモラヴィアの主要鉄道ブリュン=ウィーン線は既に敵により分断されており、オルミュッツが敵の包囲下に入ったことが推察されました。西に放った騎兵斥候からは、ニコルスブルクも敵の手に落ちたとの報告が入ります。

 「敵は至近に迫っている」そう感じたモンデール大佐は部隊に警戒を強めるよう命じ、ウィーンへ警告の電信を送りました。


 ウィーンからの返事はその日(15日)夕方に届きました。そのアルブレヒト親王名義の電令では、

「モンデール旅団とそれに付属する部隊は直ちにルンデンブルク近郊の橋梁を破壊し、今夜鉄道により街を出てゲンゼルンドルフ経由でマルヒェックまで後退すること。途中にあるホーエナウ橋とアンゲルン橋は直ちに破壊してもよろしい。マルヒェックにてオルミュッツから後退する北軍の到着を待ち、北軍が無事に通過するまで付近の鉄道とマルヒェック橋、ノイドルフ橋の両橋梁を守ること。この両橋は北軍通過後破壊すること」

 モンデール大佐は命令を受領後直ちにルンデンブルクに架かるターヤ川の橋という橋を全て落とし、深夜鉄道で街を後にします。少数の後衛に残った騎兵が、兵の去った後の鉄道を諸処で破壊しながら本隊を追って行きました。


 途中で列車を止めて命令通りホーエナウ、アンゲルンの両橋を破壊後、深夜ゲンゼルンドルフに着いたモンデール大佐は、この鉄道分岐点の街に警戒用の小部隊を残して先を急ぎ、16日早朝マルヒェックに到着しました。

 このマルヒェックの街は、この辺りではオーストリア=スロヴァキア境界であるマルヒ川の最下流域にあり、スロヴァキアとの間に重要な橋と鉄道を抱える交通の要衝でした。

 旅団は徹夜の後でも精力的に活動し、マルヒェックを通る鉄道を援護し続け、次々に通過する北軍の輜重部隊などを見送りました。丸一日経過した17日朝には列車が途切れ、いよいよモラヴィア・マルヒ川の西岸が全て普軍の手に渡ったものと思われました。大佐はマルヒ川左岸に移り、ノイドルフ橋の近くで北西に面して陣を張り、橋を落とすタイミングを計るのでした。


 16日には普第7師団が墺軍の去った後のルンデンブルクに入城し、これでモラヴィアからオーストリアへ抜ける主要鉄道、主要な街道が全て閉ざされることとなります。

 またこの日、普第一軍の急進で一部の前衛が墺北軍後方部隊の退却に追い付き、ゲーディンク(ホドニーン)とホリク(ホリッチ/スロヴァキア領内)付近で攻防戦が行われました。

 この戦いでは墺軍経理部を守る少数の護衛部隊が普軍先鋒の騎兵と戦い、墺軍側が後備の新兵だったにも関わらず善戦、後方部隊の撤退を護り切りました。

 この防戦で墺軍は20名を失いますが、普軍の前進は丸一日押さえられてしまいます。補給線が伸び切って苦しんでいた普軍が、喉から手が出るほど欲しかった糧食輜重列と架橋資材はマルヒ川を渡ってスロヴァキアへと逃げ去ったのでした。


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