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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
8/534

第二次イタリア統一戦争/ソルフェリーノの教訓


☆ ソルフェリーノの戦い(承前)


 戦闘の中核点は南、中央、北、それぞれメドレ、ソルフェリーノ、サン・マルティーノにありました。


 メドレでは午前4時、ニール将軍率いる仏第4軍団に一時派遣されていたエマニュエル・ドゥ・パルトゥノー少将率いる騎兵師団が部落に接近し微弱な墺守備隊を蹴散らし占領しました。

 パルトゥノー将軍はその後方を前進して来た第4軍団のフランソワ・ドゥ・ルジー=ペリサック少将率いる第4軍団第1師団と共に次の目標であるグイディッツォーロへ向かいますが、部落を出立した直後に墺第1軍第9軍団の強力な陣地線に衝突したことで本格的な戦闘が開始されます。

 仏軍でも有能で知られたニール将軍は即座にメドレ部落の東側に軍団を展開させました。


※6月24日・仏第4軍団戦闘序列

軍団長 アドルフ・ニール中将

○第1師団(ルイ・アンリ・フランソワ・ドゥ・ルジー=ペリサック少将)

○第2師団(ジョセフ・ヴィノワ少将)

○第3師団(ピエール・ルイ・シャルル・アシル・ドゥ・ファイー少将)

○騎兵旅団(クランシャン・ドゥ・カミール・ドゥ・ロシュフォール少将)

*第3軍団より派遣

○第3軍団騎兵師団(フランシス・モーリス・エマニュエル・ドゥ・パルトゥノー少将)


 ニール将軍は前線で部下を鼓舞し、明らかに敵墺軍の数が多いにも関わらずメドレ北東3キロ付近のクローチェヴィアからジグザグに南東3キロのレベッコまで正面5キロに渡る戦線を構築して双方攻守次々に入れ替わる激しい突撃と銃撃戦に突入しました。

 この戦いは結局墺第9軍団が後退した午後3時まで続き、双方戦死傷者合わせて14,279名に及ぶ損害を記録するのでした。

 このニール軍団の奮闘は、墺軍3個軍団(第2、3、5)が構える高地への墺第9軍団の増援を防ぐことになるのです。


挿絵(By みてみん)

メドレの戦い


 アシル・バラゲ・ディリエ将軍率いる仏第1軍団の前衛は、午前4時30分頃にカスティリオーネ(・デッレ・スティヴィエーレ。ソルフェリーノの西北西6.5キロ)の東郊グロレ(同西3キロ)付近でフォン・シュタディオン将軍率いる墺第5軍団の前哨陣地に遭遇し戦闘を開始しました。

 その30分後の午前5時頃、パトリス・ドゥ・マクマオン将軍の仏第2軍団もメドレ北東方3キロにあるカ・モリーノ農場でフランツ・フォン・リヒテンシュタイン将軍率いる墺第2軍団のハンガリー王国師団と衝突します。


※6月24日・仏第1軍団戦闘序列

軍団長 アシル・バラゲ・ディリエ大将

○第1師団(エリ=フレデリック・フォレ少将)

○第2師団(ルイ・レネ・ポール・ドゥ・ラドミロー少将)

○第3師団(フランシス・アシル・バゼーヌ少将)

○騎兵旅団(ニコラ・ジル・トゥサン・デヴァウ准将)


※6月24日・仏第2軍団戦闘序列

軍団長 パトリス・ドゥ・マクマオン中将

○第1師団(ジョセフ・エドゥワール・ドゥ・ラ・モット=ルージュ少将)

○第2師団(クロード・テオドール・デカン少将)

○騎兵旅団(アドリアン・ガブリエル・ゴダン・ドゥ・ヴィレンヌ准将)


 この時点でソルフェリーノ、カヴリアーナ(ソルフェリーノの南東4キロ)、ヴォルタ・マントヴァーナ(カヴリアーナの南東5.5キロ)に強力な前線を敷いた墺第2、3、5軍団は仏第1、2軍団との間で急速に総力を挙げる一大会戦となったのでした。

 戦場から急報を受けたナポレオン3世は早くも予備としていた近衛軍団の投入を決め、敵の戦線右翼となるソルフェリーノ方面へ送るのです。


※6月24日・仏近衛軍団戦闘序列

軍団長 オーギュスト・レニョー・ドゥ・サン=ジャン・ダンジェリ中将

○第1師団(エミール・アンリ・メリネ少将)

○第2師団(ジャック・カモ少将)

○騎兵師団(ルイ=ミシェル・モーリス少将)


 この凄惨な戦闘にようやく変化が見えたのは午後になってからで、仏本営は敵戦線右翼ソルフェリーノの街に集中砲火を浴びせ、片翼突破を図る作戦を発動します。

 仏軍には正式採用され間もない新式野砲ライット砲があり、これは青銅製前装式というこれまでと変わらない形状だったものの砲弾に瘤状の突起を設け、これが砲腔内に刻まれた施条(ライフリング)にピタッと填まることで発射時に砲弾が回転し直進力が高まって命中率が高くなるという代物でした。

 正午過ぎ。この新式砲の砲列は一斉に火を噴き、その正確な着弾はソルフェリーノの墺第5軍団陣地にたちまち大損害を与え、遮蔽に伏せたままの墺軍将兵は接近する仏の近衛兵を狙い撃つことが出来ず、それでも一部の墺砲兵は対抗射撃を受けつつも果敢に迫る仏軍に砲撃を加えて損害を与え続けましたが、仏近衛兵は遂に戦線の一角だった丘陵を奪取し、これを機会に砲撃の止んだ市街へ突撃を敢行、激しい白兵市街戦が発生するのでした。

 一方、戦線中央となったカヴリアーナでは墺第2軍団と仏第2軍団との間で激戦が続き、マクマオン将軍は市街地を確保すると逆襲する墺軍の抵抗を排除し続けますが、午後早くに墺軍増援、クラム・グラース将軍率いる墺第1軍団が到着し市街地を奪還され、マクマオン将軍は劣勢となり殲滅の危機に遭遇してしまいます。しかし夕刻、それまでニール将軍の仏第5軍団を助けてメドレ南方で戦っていたカンロベル将軍率いる仏第3軍団が増援として到着し午後6時、疲弊した墺軍は体力を温存する仏第3軍団の突撃で市街地を追い出され、仏軍はカヴリアーナを完全に確保するのでした。


※6月24日・仏第3軍団戦闘序列

軍団長 フランシス・マルセラン・セルテン・ドゥ・カンロベル大将

○第1師団(ピエール・ヒポリット・パブリウス・ルノー少将)

○第2師団(ルイ=ジュール・トロシュ少将)

○第3師団(シャルル・デニ・ソテ・ブルバキ少将)

*ドゥ・パルトゥノー少将の騎兵師団は第4軍団に派遣中


 一方のソルフェリーノでは仏第1軍団と近衛軍団の犠牲を厭わぬ猛攻により墺軍は次第に浮き足だって行き、午後2時前後になると天候も悪化し始め、市街の墺軍はこれを機に撤退を開始します。間もなく仏軍は市街地から墺軍将兵を追い出し完全占領に成功、この戦線開いた穴は南方の墺軍戦線に動揺を呼びました。

 しかし風雨が強まったことで両軍共に砲兵の使用が困難となり、また兵士の小銃も不発が増えて銃撃も緩慢になって行きました。一大会戦の勝利が見え始めたナポレオン3世は攻撃の手を緩めるなと檄を飛ばしますが、泥濘の中での白兵戦は両軍将兵の最後の体力を奪い、至る所に遺体が転がる光景は正に地獄絵図の様相を見せていました。

 この有様を望見し恐怖を覚え耐え切れなくなったフランツ・ヨーゼフ1世は全軍総退却を命じます。

 墺軍は激しい風雨の中、四角要塞地帯への撤退を始めますが、それは程なく壊走状態となってしまい、秩序のない撤退は捕虜ばかりでなく逃亡兵多数を生んでしまうのです。


挿絵(By みてみん)

ソルフェリーノ部落に入る仏軍


 ソルフェリーノからメドレに至る戦線で仏墺両軍による激闘が繰り広げられていた頃、ガルダ湖を北に望むサン・マルティーノ(・デッラ・バッターリア。ソルフェリーノの北8キロ)でも激しい戦いが行われていました。


 この日、ルートヴィヒ・フォン・ベネデック将軍率いる墺第8軍団は墺軍前線の北端に前進し、万が一連合軍がガルダ湖畔へ迂回してミンチョ川に接近する場合にこれを阻止し墺軍主力が到着するまで持久する任務を与えられ、ベネデック軍団はポッツォレンゴ(サン・マルティーノの南南東4キロ)を中心とする戦線を構築していました。

 ここに接近したのはサルディニア王国(伊)軍で、事前にナポレオン3世と協議したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は夜明け前に偵察を東方へ放ちますが、各偵察隊は協調なく勝手に前方を探っただけで、墺軍の前線がどのような形であるかがよく分かりませんでした。

 伊軍の作戦では、主力3個師団がそれぞれ縦列で東進することとなっていました。左翼(北)がドメニコ・クッチャーリ少将の第5師団、中央がフィリベルト・モラード少将の第3師団、右翼(南)がジョヴァンニ・ドゥランド少将の第1師団でしたが、この内、最も南を進むドゥランド師団が黎明時にロナートの野営を出立し、午前5時30分、マドンナ・デッラ・スコペルタ(ソルフェリーノの北2キロ)に接近し、ここで初めて墺軍に接触しました。この部落にいたのは墺第5軍団の右翼前哨でしたが、倍する伊軍に怯まず勇戦し、ドゥランド師団をこれ以上先に進ませず、将軍は一旦兵を街道筋まで後退させるしかありませんでした。


 一方、伊軍残りの2個師団は午前7時にロナートを出立、ドゥランド師団を追いますが、その目標は更に北のサン・マルティーノで、ドゥランド将軍への増援はマドンナ・デッラ・スコペルタに至るまでおよそ10キロの道程に5時間掛けるというのんびりしたものでした。その間ドゥランド師団の擲弾兵たちは次第に高まる墺軍の圧力に孤軍奮闘するのでした。


 クッチャーリ将軍の第5師団前衛は午前7時30分、墺軍前線に衝突し、急報を受けたベネデック将軍は自軍団6個旅団中4個旅団を前線に投入、これを直率してサン・マルティーノの前面でクッチャーリ師団を迎撃しました。この時の兵力は伊軍25,000に対し墺軍20,000で、ベネデック軍団が不利でしたが数的優位は地形の不利で打ち消され、ベネデック将軍は高地際で坂道を登って来る伊軍を痛撃すると、4キロ余りも伊軍を押し戻しました。その坂道には多くの戦死者や呻く負傷者が横たわり、高地の斜面は血で赤く染まったと伝わります。

 それでもクッチャーリ師団に後続したモラード将軍の第3師団前衛旅団は午前9時にサン・マルティーノの高地に取り付くことに成功します。しかしここでも機会良くベネデック将軍が1個旅団に銃剣突撃を命じ、伊軍は高所から駆け下りて来る墺軍将兵の圧に屈して市街南方に走る鉄道線路まで後退したのでした。


挿絵(By みてみん)

ベネデック(1859年)


 その後、態勢を整えた伊軍は正午に至るまで猛烈な攻勢を仕掛け続け、サン・マルティーノ西方の農場など幾つかの拠点を奪取しましたが増援が中々到着せず、戦線を東に押し上げることが出来ません。

 午後1時にはベネデック将軍の逆襲が始まり、クッチャーリ師団は猛砲撃に屈してガルダ湖畔のリヴォルテッラ(サン・マルティーノの北西3.5キロ)まで後退するのでした。

 この時モラード将軍は鉄道に沿って2個旅団を展開し、増援が到着次第再び高地に突撃を敢行しようと持久・待機を続けます。

 ここまで数で劣るも優位に戦うベネデック将軍でしたが、この頃になると墺軍の左翼側ソルフェリーノで戦線が崩壊し始めており、ベネデック将軍も戦況が気になって積極的な反撃に入れないでいました。ベネデック将軍は貴重な1個旅団を墺第5軍団との連絡を切らさぬようポッツォレンゴに送り、軍団の境界を連合軍に破られぬようするしか手がありませんでした。

 しかしその恐れは午後3時過ぎに現実となります。

 それまでマドンナ・デッラ・スコペルタでがんばっていた墺第5軍団の一部が墺軍のソルフェリーノ喪失で急ぎ撤退し、伊ドゥランド師団は息を吹き返したように攻勢を再開します。

 これによって孤立し三方からサン・マルティーノに迫られたベネデック将軍は、それでも味方の後退を守るため砲兵を中心としてサン・マルティーノを防衛し、再び高地際は2人の連隊長を含むイタリア人の血で染まることになりました。

 しかし伊軍も粘って墺軍の猛攻を凌ぎ、やがてサン・マルティーノ北東側から墺軍戦線を迂回したクッチャーリ師団が攻撃を始め、これは伊軍の総攻撃に繋がって午後7時過ぎ、遂にベネデック将軍も後退を命じるのです。サン・マルティーノでは午後9時になってようやく銃声が途絶えたのでした。


挿絵(By みてみん)

サン・マルティーノの戦い


 ベネデック軍団は他の墺軍諸軍団とは違って整然と後退行軍を行い、翌朝午前3時、無事ミンチョ川を渡河するのでした。


 この「ソルフェリーノの戦い」で連合軍側は戦死2,492名・負傷12,512名・行方不明(捕虜含む)2,922名を記録、墺軍は戦死3,000名・負傷10,807名・行方不明(捕虜含む)8,638名を出すという恐ろしい結果となりました(お互い軍団クラスの将兵が「消えた」こととなります)。


 墺軍のミンチョ川を越えた完全撤退を見たナポレオン3世は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と共に「大勝利」を喜びますが、翌朝、戦場を視察したナポレオン3世は余りの惨状に驚愕し顔面蒼白になった、と伝えられます。


 双方驚くほどの犠牲(参加総兵力の15%から20%)は、オーストリア皇帝とフランス皇帝、サルディニア王がそれぞれ直接軍を率いて戦うという「皇帝会戦」の華々しさとは裏腹の「軍事面の才能は全くと言って無い絶対権力者が指揮を執った場合の恐ろしい結果」だったのです。

 また、この「ソルフェリーノの戦い」は産業革命以来、加速度的に技術革新が進み武器もまた進化を続け、兵士も「国民兵」(一般徴兵)が当たり前となったこの時代、「殺傷力と精度が著しく増した兵器」と「傭兵とは違い逃げずにとことん戦う国民兵」の組み合わせが恐ろしいほどの惨状を生む、ということを図らずも実証してしまいました。

 即ちこの戦いは後の20世紀初頭の戦争(日露戦争から第一次世界大戦)を予感させる、背筋も凍るおぞましいものだったのです。


☆ イタリア統一


 ジュゼッペ・ガリバルディはイタリア統一最大の功労者とも言えますが、特にこの1859年から60年の戦争における活躍は文字通り超人的と言えます。

 ガリバルディは59年の戦争で同志と共に義勇部隊「アルプ師団」を創設し参戦、ロンバルト北方スイスとの国境近くで墺軍と衝突しました。

 アルプ師団はヴァレーゼの戦い、次いでサン・フェルモの戦いと連戦して墺軍を撃退しロンバルト北西部を確保します。

 一方、フランスとサルディニア海軍はアドリア海に面する墺領ダルマチア沿岸に旅団クラスの兵を強行上陸させると、ルッシーノ島とチェルソ島を占領しました。


挿絵(By みてみん)

ガリバルディ(1860年)


 ソルフェリーノの戦いに勝ったナポレオン3世でしたが、この辺りでそろそろ中欧に不穏な動きが見られ始め、特に墺の背後で活発な動きを開始したプロシア(後述します)を恐れた皇帝は急ぎ墺との休戦・講和を画策します。


 ナポレオン3世は元よりイタリア統一は望むものの強力な統一国家が誕生しても将来の心配事が増えるだけと考えており、サルディニアには適当なところで我慢してもらい、また「敵」を残すことで牽制することも出来ると考え、この講和にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を交えないことにしました。

 墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世としても敗戦続きで帝国内、特に東半分のハンガリー王国内で不穏な動き(革命反乱)が見られ始めたため、急ぎ和平に動きたい思惑はナポレオン3世と同じでした。


 1859年7月11日。ヴィラフランカ(・ディ・ベローナ。ベローナの南西15キロ)で墺と仏「だけ」による講和条約が締結されます。

 これにより墺はマントヴァとペスキエーラの両要塞周辺地域を除くロンバルト王国をフランスに割譲することと、以降イタリアへの不干渉を約束します。また、戦争直後に革命が発生し「共和国」が成立していたパルマ、モデナ、トスカーナの各国君主は復位することになりました。

 条約成立後、ナポレオン3世はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対し、墺から割譲を受けたロンバルトを全てサルディニア王国に渡すことを通告しますが、自分たちを無視し勝手に和平を結んだナポレオン3世に対するイタリア人の怒りは簡単に収まりません。しかし大国で隣国のフランス帝国と本気で対決することも出来ず、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はフランスの提案を受け入れました。弱腰の国王にも失望したカヴール首相は抗議の意を込めて辞任してしまうのです。


 ヴィラフランカの条約は11月にスイスのチューリヒで行われた関係諸国の会議で追認されますが、この時までにサルディニア王国はパルマ、モデナ、トスカーナの全域を占領しており、その国主の権利を剥奪したままにしていました。サルディニアを怒らせたままにしておくと、約束されたサヴォイやニースを得られないナポレオン3世は、今度はサルディニアにすり寄って中央イタリアに対するサルディニアの攻勢を見て見ぬ振りにすることとしたため今度は墺帝国に怒りが沸きましたが、もう一度戦争をすることも出来ない墺はただ指をくわえて見ているしかありませんでした。


 翌60年。サルディニア王国に占領されたパルマ、モデナの両公国とトスカーナ大公国では国民投票が実施され、圧倒的多数でサルディニアへの併合が決定されます。サルディニア王国ではヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に懇願されてカヴール伯爵が首相に復帰し、彼は早速イギリスとフランスに対し中央イタリアへのサルディニア進出を認めて貰うよう交渉を始め、手際よく両国からの承認を勝ち取ります。カヴールには不満は残っていたものの、ヴィラフランカ条約を半分反故にしたフランスに対しサルディニアは約束していたニースとサヴォイの割譲を実施するのでした。


 これに対し不満を爆発させたのはニースが出身地のジュゼッペ・ガリバルディでした。

 旧来の同志(千人隊や赤シャツ党等の渾名で有名です)と共にイタリア南部へ転戦したガリバルディは、48年の革命以来王権と軍が弱体化していた両シチリア王国をあれよあれよと言う間に倒して首都ナポリを占領、ローマより南のイタリア半島を制圧します。

 カルボナリ党以来共和派に属すると見られていたガリバルディがイタリアの「半分」を制したことで、教皇領の一部を含むイタリア北部を制したサルディニア王国とイタリアの覇権を賭けた「国王派対共和派」の決戦が始まろうかという危機が訪れますが、ガリバルディは同60年10月26日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とテアーノ(ナポリの北北西47.5キロ)で会談し、有名となった台詞「ここにイタリアの王がいらっしゃる」を叫ぶと王の手を取り、占領地を全てサルディニアに献上し、更なる内戦を防ぐのでした(「テアーノの握手」と呼ばれます)。

 この結果、教皇領と残された墺領ヴェネト地域を除くイタリアは統一され、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は初代「イタリア国王」となったのでした。


挿絵(By みてみん)

テアーノの握手


☆ モルトケとプロシア王国の対仏戦準備


 このイタリアにおける戦争勃発は、ちょうどモルトケが正式に参謀総長となった半年後に当たりました。既述通り当時の参謀本部総長は直接国王に奏上することが出来ず、それどころか陸軍大臣に意見を開陳するにも一々軍事内局を交えねばなりませんでしたが、1859年2月、イタリア情勢が緊迫の度を深めたことで時の陸軍大臣フォン・ボニン将軍はモルトケ参謀総長に直接意見聴取を行うことにしました。この背景には、摂政となったヴィルヘルム王太弟とその右腕ローン将軍の「仏墺が衝突するなら墺側を応援する用意を」との思惑があり、そのための動員計画をモルトケに確認するための諮問でした。この機会を捉えたモルトケは「墺が仏と対決している最中では仏はプロシアに対し積極攻勢を掛けることが出来ない」と自身の意見を示しました。その上で、各国の動きを以下のように予測するのです。


 まず、プロシア王国は墺と同盟を結ぶのではなくあくまで自国防衛の名目で動くこと。そのため墺に援軍を送るのではなく最大限の兵力を仏国境・ライン沿岸地域に送り込む。

 プロシア王国の東となる露は現在露土戦争の直後であって積極的に動くことは考えられない。しかし干渉されぬよう警戒しつつ友好関係を保つ必要がある。

 オランダやベルギー、スイスが中立でいられるよう注意する。ベルギーやルクセンブルク地区にプロシア軍が入れば仏の干渉を招く。

 ほか独諸侯、特に南独諸国との関係を悪化させないようにして味方に付ける。


 この前提の上でモルトケは動員について以下のように提案を行いました。


 ○「ライン軍」

  防御を主務とする一軍をライン川下流域(ルール地方)に配備。

 ○「マイン軍」

  攻勢を主務とする主力軍をマイン川流域(バイエルン地方から西へ流れるライン支流)に配備。

 ○「モーゼル軍」

  予備・助攻を主務とする一軍をザール地方に配備。

 ○「東方警戒集団」

  後方防御のためロシア(ポーランド)国境に1.5個軍団を配備。


 この答申を行った後、モルトケは自身が仲間に入れて貰えず真意を明かされていない上層部の意向を想像しつつ、命令一下速やかに動員に応じ前進待機陣地に軍を送り込むため鉄道輸送の準備を部下に命じます。

 イタリアで戦争が勃発する直前の4月中旬には各軍団に割り当てる鉄道線を決定し、兵員物資を輸送した後に回送となる下り列車が上り列車の邪魔をして本線を渋滞させぬよう、西部国境に向けて5本ある単線鉄道線全てに至急複線化工事を行うようボニン陸軍大臣と商務省へ要望しました。

 これはイタリア統一戦争が勃発する4月下旬になって陸軍省・商務省双方から認可され(結局は間に合いませんが工事は続行します)参謀本部には「西部方面輸送連絡委員会」が設置されます。更に仏サルディニア連合と墺との間で実際に戦闘が始まると鉄道輸送に関する計画も加速され、ベルリン~ハノーファー~ケルン、ベルリン~カッセル~マインツ、ベルリン~ホーフ~カールスルーエの主要三線の統括運行指揮が決定され、沿線各国との協議も始まり動員兵力・物資の各国通過や途中の給養が決定されました。

 この時、参謀本部の鉄道課では秀英の伯爵ヘルマン・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーヴェン大尉率いる任務班が計画作成に大いに寄与していたのです。


 こうしてプロシア王国と(墺帝国を支持する)ドイツ連邦諸国の動員計画が着々と進んだ6月下旬、「ソルフェリーノの戦い」が発生しました。

 この戦いに勝利した仏軍は損害も大きく、後退した墺軍を追撃するためにも仏本国から当然増援が派遣されるものと思われます。

 プロシア首脳部はこのまま仏に思うがまま墺を叩き続けさせる訳にはいかないと決心、7月4日、摂政ヴィルヘルム王太弟は勅令を発し「第3、4、5軍団の動員開始、第7軍団の動員即前進待機」を命じました。

 既に6月下旬、秘密裏に近衛、第1、2、6、8軍団に対する動員が命じられており、中でも近衛軍団は動員完了を報告していたのです。

 前述の「西部方面輸送連絡委員会」と参謀本部鉄道課には「7月14日に鉄道輸送を開始するよう」命令が下りました。


 7月11日。対フランス戦の総司令官に任ぜられたヴランゲル元帥は対仏戦の主力・第3、4、5、7、8軍団に対する前進陣地への集合を命令し、参謀本部は宿営地の整備と後方連絡確保に奔走するのでした。

 実際の鉄道輸送は予定より1日遅れで7月15日に始まりますが、これは参謀本部の秀英や商務省鉄道局が獅子奮迅の活躍をしたにも関わらず、事故や人的ミス、そして計画の「穴」による遅延と混乱が発生し、この予測出来なかった事態を解決するため参謀本部は精一杯対処しますが、計画遅延は如何ともし難く、また鉄道輸送以外でも動員自体で様々な問題が露呈してしまうのでした。


 結局、「ヴィラフランカの和約」が発表されたことでプロシア軍の動員は即時解除されました。一般にはプロシアの動員(最終的に132,000名が動員されました)が仏による和平への動きを誘発した主因の一つと解されますが、この時、プロシア首脳やモルトケが「脅しや実験」ではなく「本気」で仏に侵攻しようとしたのか、その「本気度」ははっきりしないようです。

 この時、11年早く「普仏戦争」が勃発したらどういう結果となったか、これは興味深い話となりますが、想像の域を越えないとは言え、11年後の本当の戦争のように「間違いようのない独側勝利」とはならなかったように思えます。とはいえ、これは歴史のIFを語ることとなるので、ここまでと致しましょう。

 ただ、モルトケは動員解除の直後、兄に対し「墺はプロシアの援護を受けることでドイツ連邦の主導権を弱体化させることを恐れ、ロンバルトを捨てる方がまし、としたのだろう。プロシアとしては一大戦機を失ったといえる」と未練がましいとの印象を与える手紙を送っていました。


 とは言え、このイタリアにおける戦いはモルトケ率いるプロシア参謀本部にまたとない研究機会を与えます。


 プロシア軍は実際に鉄道と電信を使った「本物の」緊急動員を行ったことで、将来必ず発生するはずの「本番」に備えた実地訓練となりました。前述通り動員では様々な弱点が見つかり、これを修正することが出来ることは大変有益でした。


 また、この戦争を観察することによって、モルトケはオーストリア、フランス両軍の実力をつぶさに研究することが出来ました。


 モルトケは「1859年イタリア戦役」と題する大部のレポートを著し(1862年完成)、その中でオーストリア軍を次のように評価します。


「墺軍は当時変革の最中にあり新たな編制の下、新兵の割合が大きくそれは様々な意味で今までの墺軍とは異なる。その兵は勇敢に戦うとは言え艱難辛苦に耐えられるかと言えばそうではなく志気に問題があった。墺軍は宣戦布告と動員が迅速だったにも関わらず機動に関しては遅く、戦場近くにあった利点を消し去ってしまった。つまり、いち早くサルディニアに侵攻し仏軍の展開を遮断すべきだったところそれが大いに遅延してしまった。これにより先手を取ることに失敗し攻勢計画を撤回せざるを得なくなった」(筆者意訳)


 動員は早かったのに行軍が遅かった理由。それは鉄道の利用にありました。本国やヴェネトへの移動には積極的に鉄道利用が可能でしたが、四角要塞地帯より西のロンバルトでは鉄道線が未達の場所が殆どだったのです。

 この戦史上初めてと言える鉄道を利用した大部隊の移動は仏軍も行っており、両軍共に行ったことでその問題点も浮かび上がります。それは両軍共せっかく早く動くことが出来たのに無駄に長い待機が多く見られたことで、その理由の多くが命令・指示待ちだったことにモルトケは注目しました。何故ならばこの「上からの指示待ち」はプロシアの動員でも散見された現象だったのです。


 モルトケはこの例を挙げて参謀を通じプロシア軍の指揮官たちに「委任命令」の徹底を呼び掛けます。

 目的さえ外さなければ命令は柔軟に行い、一旦作戦が始まったのならば上からの命令を待つ必要はない、と。

 モルトケの考えに賛同した一部先進的な指揮官たちは部下に「分進合撃」とその前段階である「分散進撃と戦闘集結」を繰り返し訓練させ、その上で自主独立の気運を育てて行きました。


 また、モルトケはこの戦争からもう一つ重要な鍵を見つけます。それはソルフェリーノの戦いで、オーストリア軍がフランス軍の「銃剣突撃」に敗れたと伝わることでした。


 フランスやオーストリア軍はこの戦いの勝因(オーストリア側は敗因として)を、フランス軍による素早い銃剣突撃と果敢な白兵戦(至近距離での戦闘)が理由と見ていました。

 そこで両軍とも敵との銃撃戦で戦線が降着する前に素早く銃剣突撃を行い、敵を精神的にも圧倒して優位に白兵戦へ持ち込む、という戦術を重視して兵を訓練して行きます。つまりは銃撃戦を早めに切り上げて短時間で戦闘を終わらせることを重視したのでした。


 しかし冷静なモルトケは、このフランスの勝因よりオーストリアの「真の」敗因に注目します。

 彼は、オーストリア軍がフランス軍の突撃を受けた際、敵を引きつけて射撃を始めるという基本を忘れ、射撃自体もバラバラで統一感に薄く、効果的な弾幕を張る(連続射撃により射界を制圧する)ことに失敗した事が敗因、と考えます。


 この結果を受けてモルトケは、参謀たちに射撃の統制を確実に行うよう指揮官に促すことを求めました。

 ドライゼ銃なら、きちんと管制されて目標が重ならないような射撃術により、ソルフェリーノの様な乱戦にならず敵を退けることが出来る、と確信していたのでした。


 また、仏の勝因でもうひとつ大きなものは「大砲」で、フランス軍が使用していたライット式旋条砲はその優秀な精度が広く喧伝され、各国の軍隊が滑腔砲から旋条砲への転換を早める結果となりますが、プロシア王国は更に先を進んでいました。

 後に独有数のコングロマリットとなるクルップ社(当時は鋳鉄と鉄道製品製造が主力でした)が試作を重ねて実用化したばかりの後装鋼鉄製旋条砲の導入を決定し、摂政になったばかりのヴィルヘルム1世は最初から312門という大量発注をするのでした。



こぼれ話


挿絵(By みてみん)

アンリ・デュナン


 ソルフェリーノの戦い当日。一人のスイス人がナポレオン3世の本陣を訪れていました。外征中で会戦の指揮を執っているとはいえ本国人民の生活や経済にも留意しなくてはならない皇帝の本陣には日夜、様々な人間が訪問していましたが彼もその一人で、名をアンリ・デュナン、フランス系スイス人の銀行家でした。彼は仏帝国内で行う事業支援の承認を求めて訪れましたが、タイミングが実に悪く皇帝はそれどころではなく指揮に忙殺されており、デュナンは仕方なく皇帝の傍らで歴史に残る一大会戦を観戦することになります。

 最初は気乗りしない様子で観戦していたデュナンはやがて目前で繰り広げられる恐ろしい死闘に目を奪われ、生涯忘れることが出来ない衝撃を受けるのでした。


 戦闘が一段落し負傷兵が後方へ搬送されるようになるとデュナンは野戦病院が置かれたカスティリオーネの町を訪れますが、そこでは野戦病院となっていた教会に入りきれない信じられない数の負傷兵がろくに手当もされず路上で放置状態にあり、デュナンは自然と信心深い町の住民と共に負傷兵の手当てに加わりました。しかし手を施しようもない重傷者も多く、彼の目の前で多くの兵士が息を引き取ったのでした。

 この時彼は多くの人間が味方であるフランス兵の手当だけをする中、一部の住民と一緒に少なくないオーストリア兵の手当も行い、あるフランス人に「なぜフランス兵(味方)もオーストリア兵(敵)も一緒に救助するのか」と問われ、「人類はみな兄弟だからだ」と答えた、といいます。

 そう、「人類みな兄弟」という言葉を有名にしたのは彼だったんですね。


 カスティリオーネで4日間救援活動に従事した後ジュネーブに帰ったデュナンは、自身経験したカスティリオーネにおける救済の記憶とソルフェリーノの戦いに参加していた兵士の証言を元にして「ソルフェリーノの思い出」と題する書籍を出版しました。彼はこの書籍により「国家軍隊に縛られない負傷者救済・治療を専門とする国際組織の結成」を世に説いたのです。

 この「ソルフェリーノの思い出」は多くの人々の共感を生み、一大ムーブメントとなると、有力な篤志家たちが結集し1863年に「戦傷兵国際救済委員会」が結成され、これは後に赤十字国際委員会となって世界に広がって行くのでした。


挿絵(By みてみん)

ソルフェリーノの墺軍負傷兵たち



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