ブリュン陥落
遡ること7月6日。
普軍大本営は敵北軍が南西・ブリュンからウィーン方面ではなく南東・オルミュッツからスロヴァキア方面へ移動していることを確認すると、フリードリヒ皇太子の第二軍にこれを追わせ、カール王子の第一軍とビッテンフェルト将軍のエルベ軍でウィーンに向かうことを決します。
この決定にはヴィルヘルム1世国王の意向が強く反映していると噂されますが、これは後の普軍の戦史すら「この時の決定は非常に冒険的だった」としている位、危ない決定でした。
墺北軍は徹底的に叩かれたとはいえ、未だ戦闘員12万以上の大軍であり、皇太子の第二軍はそれに数万足りない員数の軍です(本来なら12万を号する軍ですが、この時配下の第6軍団が割かれてエルベ川に残され、二つの要塞を監視中でした)。
しかも、守る側の北軍は強力な要塞と河川に守られた防衛地帯で待ち受け、攻める皇太子の軍の方が少ない員数という軍事常識としては非常識と言われても仕方のない決定でした。
通常、要塞に籠もる軍隊を攻囲するには、その数倍の数を必要とするものです。軍事で言うところの内線・外線で言えば、ベネデックの北軍は内線、皇太子の第二軍は外線であり、内線側の規模が大きければ薄い外線側の包囲網を破り、包囲を解いたり各個撃破すら可能な展開も予測されます。
この決定は正しくギャンブルに見え、いかにも激しやすいヴィルヘルム王が命じそうな命令でした。
しかし、よくよく考えてみれば、墺北軍がオルミュッツを動かなければウィーン防衛線は手薄となり、ウィーンを狙う普第一軍・エルベ軍が有利となり、また、もしベネデックが皇太子の軍に反撃しこれを追っても同じ結果であって、普軍によるウィーン占領の現実味が増すことにもなるのです。
国王の命令の裏には当然モルトケがおり、この一見勝ちに乗じて奢っているようにも見える作戦は、ベネデックの弱気(または捨て鉢な気持ち)を見抜いたモルトケの深い洞察から生まれたものと考えるべきなのでしょう。
とはいえ、皇太子の第二軍が危険な『囮』となるのは現実です。このため、普大本営の参謀本部は皇太子に対し以下の命令を下して念を入れました。
第二軍はオルミュッツ要塞を監視するに止め、積極的な攻囲戦を避けること。
もし敵がウィーン方面への移動を開始してもこれを追うに止め、命令があるまでは決戦を急いではならない。
万が一敵が本格的な北上反攻を仕掛けて来た場合、本軍(第一軍・エルベ軍)の方向に来てはならない。この場合第二軍はただちにメーリッシュ=トリュバウ(モラヴスカー・トジェボヴァー)を第一目標として待避、その後グラッツ(現ポーランド、ドルヌィシロンスク県クウォツコ市。オーストリア第二の都市、グラーツ市とは違いますので注意)を目指し撤退せよ。
移動中、第二軍とグラッツ間の交通網が維持出来れば、その他のリーゼン山脈並びにヒュースチャウァー山脈、アドラー山脈などシュレジエン国境方面よりモラヴィアへ通ずる他の交通網を破壊せよ。第6軍団も撤退させてグラッツまで引き上げ、本隊と合流すること。
モラヴィア占領地の各拠点守備隊も全て(エルベ川を越えてボヘミア北部へ)後退するが、パルズビックの町はエルベ川橋頭堡として残し、反撃の拠点とするので、この町の守備隊のみ反撃の後備部隊がやって来るまで町を確保、死守せよ。
この大胆な命令(それまでの占領地を捨て一気にスタート地点まで帰れという)を見てもモルトケが第二軍を囮に墺北軍をウィーンから引き離し、墺北軍をウィーン防衛戦において『遊軍』化させる気だったことが分かると言うものです。今までの占領地を捨てて逃げる敵。ケーニヒグレーツ敗戦の雪辱を図りたいベネデックとしては魅力的な餌と言えるでしょう。
ですが、やはりこれは危険な冒険と言うもので、もしベネデックが本気の攻勢と見せかけて皇太子の軍を攻撃し、皇太子が予定通りグラッツを目指し行軍するのを「見せかけの軍」で追って皇太子をどんどん戦場から遠ざけ、墺北軍本隊の方は速やかにウィーン目指して反転するとすれば、逆に普第二軍が遊軍となってしまい、これは正にナポレオンの終焉「ワーテルローの戦い」の再現となり、普軍は大変なことになるところでした。
しかし、モルトケの深謀(?)を見抜いた墺南軍のアルブレヒト親王が「動ける全軍はウィーンへ」と建議し、遅ればせながら墺軍もウィーン防衛を本格始動するのです。
結果的に普墺両軍ともウィーンを目指すことになり、墺帝国首都の攻防がこの戦争の終着点となるのは間違いのないところとなるのでした。
いずれにせよ、カール王子の普第一軍はビッテンフェルト将軍のエルベ軍と接し連絡を取り合い、墺北軍から分離しウィーンへ向かう「墺騎兵軍団」を追う形でブリュンを目指しました。また、皇太子第二軍は北軍本隊を追って南下します。
この7月7日から13日にかけて各地で小さな遭遇戦が続きます。主なものを上げれば、
7月7日 ツィッタウの戦い
ツィッタウ(スビタビ)で普ハルトマン騎兵師団前衛(第二軍直轄)が、オルミュッツを目指す墺北軍第三グループの第8軍団所属輜重兵を奇襲した小戦。墺軍の損害(以下「損害」は戦死・負傷後退・捕虜・行方不明の総計)103名(四分の三が捕虜)、普軍損害なし。
7月8日 アブツォルフの戦い
墺北軍第二グループ第二軍団の槍騎兵が普ハルトマン騎兵師団の斥候と戦った小戦。墺軍損害8名、普軍7名。
7月8日 ルーデルスドルフの戦い
墺第二軍団後衛が普ハルトマン騎兵師団本隊のルーデルスドルフ(ルドルティツェ)部落進出を退けた戦い。墺軍損害なし、普軍16名。珍しい墺軍の完勝です。
7月10日 サールの戦い
墺騎兵軍団の軽騎兵第1師団後衛が普第2騎兵師団前衛とサール(ジュジャール・ナト・サーザヴォウ)付近で衝突した戦い。墺軍損害48名、普軍18名。
7月11日 ティスチノウヴィッツの戦い
墺騎兵軍団の予備騎兵第2師団後衛他が普第2騎兵師団前衛とチィスチノウヴィッツ(ティシュノフ)周辺で戦った攻防戦。墺軍損害51名、普軍は不明。
なお、7月10日カルヨーテンドルフ、11日ポーレス(ボルショフ)、12日シルベルク(シュテルンベルク)、同日ホーヘンシュタット(ザーブルジェ)でも小さな遭遇戦が発生しますがいずれも直ぐに両軍は離れ、戦いらしい戦いには至りませんでした。
7月11日。ブリュンに近付いた普軍はこの日、エルベ軍の前衛を強化、全軍の前衛としてウィーンを目標に前進させます。
カール王子の第一軍は東寄りに進路を変え、まずはブリュン方面に向かい、エルベ軍はその西側を進んで墺騎兵軍団を追い、皇太子の第二軍はそのまま南東へ、オルミュッツ方面へ進み続けました。
ここでモルトケは守りが堅そうなブリュン攻略の可否を全面的にカール王子に委任しました。
参謀総長命令として、
「ブリュンの街を迂回してウィーンを目指すか、街を攻略するかについてはその決定をカール親王に一任する。もし攻略する場合、親王はこれをエルベ軍に通知し、エルベ軍は兵を集中して第一軍を助け、共にブリュンを12日中に占領すること。また回避する場合、エルベ軍はそのまま南下してツーナム(ズノイモ)へ至ること」
カール王子は7月12日早朝、ブリュン「攻略」を選びエルベ軍と大本営に通知しますが、エルベ軍のビッテンフェルト大将がこの連絡を受け取った時には13日になっており、既にエルベ軍本隊がブリュンへの機動を行っている最中でした。
普軍にとっては幸いなことに、ブリュンは墺軍にとって通過点に過ぎなくなっており、このモラヴィアの首邑には守備隊すら残されていませんでした。墺騎兵軍団はこの街の西側を遠く離れてウィーンを目指し行軍を続けていたのです。
未だカール王子からブリュンへ向かうとの連絡を受け取っていなかったエルベ軍は、およそ一日の遅れで追う前衛が墺軍騎兵を追い続け、この日マルティンコウ(マルティーンコフ。ブルノ西約70キロ)の部落付近で墺騎兵軍団の後衛と戦っています。
結局、第一軍だけでブリュン攻撃が開始されますが、先陣を切った第一軍の前衛部隊が見たものは多くの住民が避難し、残った住民が我が家の扉や窓を固く閉ざし、震えながら屋内に籠もる静かなモラヴィアの首府でした。
そのまま第一軍前衛は戦うことなく街に進入し易々とブリュンを占領します。
夕刻、無血占領されたこの街に、第6師団の前衛を供にしたカール王子が意気揚々と入城しました。第一軍の各師団はブリュンの周囲に野営します。
翌13日。ウィーンを目指すカール王子の軍勢は、ブリュンの周辺でオーストリア境界目指して南下の準備に入ります。
同じ頃、墺騎兵軍団は遂に帝国の本国、オーストリアとモラヴィア境界のターヤ川に達し、ツーナム周辺で渡河を始めていました。
戦争はいよいよクライマックスの「ウィーン攻防戦」に向かうのか、と思われたのです。




