オーストリア北軍オルミュッツへ退却す
「ケーニヒグレーツの戦い」(別名「サドワの戦い」と言いますが、実際は「クルムの戦い」と呼んだ方がしっくり来ます)での墺北軍の損失は、
戦死……士官・330名、兵士・5,328名
負傷……士官・431名、兵士・7,143名
捕虜……士官・509名、兵士・21,661名
行方不明……士官・43名、兵士・7,367名
計……士官・1,313名、兵士・41,499名
馬匹……6,010頭 砲……187門 馬車……641輌 舟橋車……20輌
一緒に戦ったザクセン軍は、
戦死……士官・15名、兵士・120名
負傷……士官・40名、兵士・900名
捕虜……不詳
行方不明……兵士・426名
計……士官・55名、兵士・1,446名
負傷や行方不明、捕虜を含めるとほぼ四.五万人・二個軍団の兵力に相当する将兵を失い、一時はケーニヒグレーツ要塞の西郊外、エルベの河畔でパニック状態となった墺北軍ですが、残された兵士たちはエルベ川を渡河し、ケーニヒグレーツ要塞都市を通過すると少しずつ落ち着きを取り戻して行きました。
会戦の日(3日)の深夜には、ケーニヒグレーツの南や東の郊外で野営し、離散した将兵がぽつぽつと集まって来るのを待ちながら、疲弊した各部隊はまんじりともせずに翌4日夜明けを迎えたのです。
墺北軍本営は3日夜、迷わずにケーニヒグレーツ要塞を捨て街道を南へ、ホリク(Holice・ホリツェ。フラデツ・クラーロヴェー南東17キロにある町で、北の「ホリク」Horice・ホジツェとは別の町)で一旦休息した後、更に南東20キロのホーヘンマウト(ヴィソケー・ミート)の町まで落ち延びました。その北西にある重要都市パルドゥヴィッツ(パルドゥヴィツェ)防衛など彼らの眼中にはありませんでした。
墺北軍は本営の後退に従い、ベネデックが前日(2日深夜)定めた「万が一敗退した場合の撤退方針」により、ケーニヒグレーツ=ホーヘンマウト街道に沿って全面南方への撤退に移ったのです。
結果、ケーニヒグレーツ要塞守備隊6千人は野戦軍から置き去りにされる形で籠城することになりました。同時に北のヨセフシュタット要塞(ヨセフォフ)でも1万人以上が籠城し、既に半月前から1万6千人が籠城している、ザクセンとの国境に近いテレジエンシュタット要塞(テレジーン)とあわせ、これら三つの要塞が未だ降伏せずに普軍占領地の中にぽつんと残されることになりました。
余談ですが、現在チェコ共和国の北西側、ラーベ(エルベ)川に近いテレジーンの町(人口3,000人)を衛星写真地図で見て下さい。フランス=ドイツ国境にも同様な遺構がありますが、なかなか興味深い光景(ケーニヒグレーツもほぼ同じ形でした)が見られます。
第二次大戦中、この要塞はユダヤ人ゲットーやナチス親衛隊の刑務所として使われ、悪名を高めてしまいました。
この三要塞はどれも交通の要衝に置かれていて、鉄道も要塞の脇を通っていたので、急進する普軍にとっては要塞に邪魔をされて物資を鉄路で送ることが出来ず、次第に厄介な存在となっていきました。攻めるにしても近代的な要塞は時間と人手を掛けた攻城戦でなければ落とすことが出来ず、その時間も人員も足りない普軍でした。
ベネデックはその辺りを見越し、普軍が休戦に乗るエサとしてこの三要塞を俎上にしたのです。
しかし、普軍はこれに乗らず休戦を拒否し、次第に追撃の速度を高めて墺北軍を追うことになりました。
これに対し、墺北軍は何とか戦力と戦意を取り戻すため、休養と補充を願っていました。それには敵から妨害されない大軍が駐屯出来る場所が切に必要でした。
墺帝国外務卿のアレクサンダー・フォン・メンスドルフは、昨年(65年)の政変で後任の宰相が準備出来るまで一ヶ月だけ宰相を務めたほどの「皇帝の忠僕」で、普で言えば陸軍大臣のローン(彼も数ヶ月間「繋ぎ」で宰相を勤めました)に当たる政府の重要人物です。半面、墺軍中将を勤めた公爵の四男で年少より軍に奉職し、旅団長を経て地方総督(治安のため軍人がなる場合が多い)になり反乱の鎮圧に成功し、コネばかりでなく実績で中将まで昇進した人物でもあります。
その彼が、北軍の撤退先をブリュン(ブルノ)を経由してウィーン前面に築かれた首都防衛のドナウ川堡塁群と主張します。
対するベネデックと北軍本営の幕僚たちは、ケーニヒグレーツから南西にあるウィーンとは反対の南東側、モラヴィア最南部の要塞都市オルミュッツ(オロモウツ)へ向かうべき、と主張しました。
メンスドルフの主張はもっともで、ボロボロの北軍に人員補充や装備の補填を行うには帝国の中心地の方が都合がよく、また敵の狙いは間違いなくウィーン占領ということがはっきりしているので、首都防衛のため、ドナウ川に防衛線を築くのは理に叶っています。
しかし、ベネデックの考えは別にありました。それは、このボロボロの状態でウィーンまでの長い道程を行けば、途中で必ず追ってくる普軍に捕捉され、その時に墺軍が頼るべき自然の要害や人工の要塞・保塁などはブリュンを経てウィーンに至るまでドナウ川しかありません。そのため、北軍はウィーンの途上で必ず撃破されてしまい、そうなれば墺帝国に残された戦力は南軍以外、二線級の郷土兵や支配領域の後備兵だけとなり、下手をすれば反乱も考えられるだろう、オルミュッツは要害の地であり、そこに至るのはウィーンに向かうよりは簡単で、北軍はそこでなら安心して補充や休養を行える、ベネデックはそう主張しました。
意見は真っ向から対立し、退却を続けながら5日、6日と協議が続きます。
結局、外務卿も経験を積んだ軍人であり、最終的にベテラン軍人の心情としては現場の意見を無視することも出来ず、北軍本営のオルミュッツ撤退案が採用されることになります。
外務卿の顔を立てるためとウィーンを「ガラ空き」にしないための折衷案として、脚の速い騎兵たちを一元管理し軍団を構成してこれをウィーンへ向かわせ、また比較的戦力が残って秩序も戦意も高い、ガブレンツ将軍の第10軍団を鉄道でウィーン前面のドナウ橋頭堡堡塁群へ運ぶことに決します。
しかし後にオルミュッツへの退却もベネデックの失敗の一つとされ、北軍はわざわざ敵の進撃路を空けたことにより、後日ウィーン防衛に向かうため、しなくてもよい苦労をする羽目になってしまうのです。
墺北軍は最初(4日)大きく3つの梯団に分けられました。
第1梯団は第1、第3、第6、第10の四個軍団と軍直轄砲兵、弾薬廠、工兵など特技兵部隊。
第2梯団は第2、第4軍団に第2軽騎兵師団。
第3梯団はザクセン軍、墺第8軍団、第1軽騎兵師団と第1、第2、第3予備騎兵師団。
この梯団ごとに退却路を定め、街道が渋滞して普軍に追いつかれたり、秩序が乱れるのを防いだのです。
墺北軍は秩序ある退却行軍が出来るまでになると、無傷で残った最上級士官が各部隊を率います。会戦での指揮振りを問われ左遷された者もあり、若い中佐が旅団を率いたり、少佐が連隊を率いるなど、その多くが階級から率いるにふさわしい部隊より上級の部隊を率いることになりました。
梯団はそれぞれ、第1がラミンク第6軍団長、第2がツーン第2軍団長、第3がザクセン・アルベルト皇太子が率い、長い縦列を作って南下して行きました。
また、7日にウィーンへ向かう部隊が発表されると第1梯団から第10軍団が離れ、準備のなった9日、鉄路ウィーン前面のドナウ川保塁へ向かいます。
同じくウィーン行きを命じられた第1軽騎兵師団と予備騎兵の三個師団は「騎兵軍団」を作り、第3梯団から出て独立してウィーンへ向かいます。この騎兵軍団長には第1予備騎兵師団長だったホルシュタイン公が就任し、ソルムス将軍が旅団長から第1予備騎兵師団長に昇進しました。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公
外務卿は8日午後に普軍の休戦拒否を聞き、北軍が退却を秩序立って行うのを確認した後の9日、第10軍団と同じ鉄路でウィーンへと帰ったのです。(メンスドルフ将軍はこの戦争後の11月に外務卿を辞任して政界を去り、一軍人に戻って重要戦区の軍団長を歴任し、軍歴を全うしました)
一方、追う立場の普軍は……
「ケーニヒグレーツの戦い」における普軍の損失は、
戦死……士官・100名、兵士・1,835名
負傷……士官・260名、兵士・6,699名
捕虜……不詳
行方不明……兵士・278名
計……士官・360名、兵士・8,812名
馬匹……939頭
墺軍ほどではありませんが、この戦争で一つの戦いにおける最大の損失でした。
大会戦の翌日4日。さしもの普軍も前日の激戦と損害でこの日は墺軍を追うことが出来ませんでした。第一、第二、エルベの各軍は野営地にて休養し、補給を得て進撃の準備にこの一日を費やします。
同時にヨセフシュタットとケーニヒグレーツの要塞に対し降伏勧告がなされますが両要塞共に籠城を決し、門扉は閉ざされたままでした。
ケーニヒグレーツでは普第6軍団による要塞への砲撃が夕方に行われますが、堅固な要塞は精々12ポンド野砲程度の砲撃ではびくともしませんでした。
第6軍団はこのまま翌日以降もケーニヒグレーツとヨセフシュタットを囲み、万が一にも要塞守備隊が後方を騒乱する事のないよう監視を続けました。
その夜、ホリク(ホジツェ)に移動した大本営は命令を起草、翌5日、第二軍はパルドゥヴィッツ(パルドゥビツェ)を経てクルーディン(フルディム)を目指し、第一軍はプレラウク(プジェロウチュ)、エルベ軍はクルーメック(フツメツ・ナト・ツィドリノウ)を目標に進撃を開始するよう命じました。
また、ここまでのボヘミア占領地を警護する予備軍団の中から近衛後備師団がポデブラード(ポジェブラディ/プラハ東方45キロ)からプラーグ(プラハ)に向かい、万が一プラーグ駐屯の墺軍が後方を攪乱することのないように差配しました。
翌5日から普軍の追撃は本格化します。
西側、ボヘミアの首都プラーグが気になる普大本営は、近郊まで迫った近衛後備団に命じてプラーグを占領させました。守備兵に対するため砲兵二個中隊を増強された師団はプラーグの街に入城しますが、墺軍守備隊や官憲はとっくに町を脱出しており、ボヘミアの首都は無血占領されます。
一方、全軍の先鋒としては第二軍のハルトマン騎兵師団が先頭を行き、ホーヘンマウト街道をライトミッスル近郊まで進撃し、墺軍の後衛を遙かに見やるまでに至ります。
この後、6日から12日にかけて普軍はオルミュッツ目指して退却する墺軍を追いますが、騎兵が敵の後衛と幾度か小競り合いをするだけで、大きな戦いが起きることはありませんでした。
普王ヴィルヘルム一世は敵主力がオルミュッツに入ると、これを皇太子の第二軍に任せ、エルベ軍と第一軍でブリュン(ブルノ)を抜いて、これらの軍を一気にドナウ川へ突進させようと考えます。
普軍首脳は、墺軍が未だ敗戦のショックから立ち直れないうちに一気に敵首都へ攻めのぼり、仏皇帝の仲裁が本格化する前に墺政府に白旗を上げさせることを狙っていたのでした。
ケーニヒグレーツ後のフリードリヒ皇太子とブルーメンタール参謀長




