大会戦の後~ナポレオン三世の影
「ケーニヒグレーツの戦い」が発生する二日前の7月1日。
墺北軍司令ベネデック元帥が「無条件で普王国と講和すべき」との電報をウィーンへ打電、墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はその忠告を拒否、会戦を行うようベネデックに命じたことで二日後大会戦が発生したことはこれまでお話しした通りです。
しかし実はこの時、墺政府は北軍司令官の「弱気」に衝撃を受け、密かに講和の道を探ることに決していたのです。
その目論みとしては、直ちにイタリア王国との戦いを止め、その戦力である墺南軍(野戦兵力3個軍団7万)を引き上げ、北軍と合流させて普軍に対抗、この戦争を普国との戦争のみに単純化して何とかボヘミア領内で普軍の進撃を押さえ戦線を膠着化し、これ以上不利な状態にならないようにしてから普国とも講和する、というものでした。
しかし、北部では連戦連敗、間もなく大きな会戦が予想されるこの状態では、いきなり伊国に講和を呼びかけても相手にされないのは目に見えており、それでも講和を呼びかけるには、どこか第三国に頼んで仲介してもらうと言うのが外交の常道です。
墺政府は、この戦争の行く末に関心を持ち、最も注意深く眺めているある国に仲裁を依頼することにします。
それはイタリア王国と友好関係があり、普国もその存在を無視出来ない大国、フランス帝国でした。
翌朝。フランス皇帝ナポレオン三世は駐仏墺国公使リヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒ(あの有名な元墺宰相の息子でナポレオン三世時代のパリで活躍)から講和の仲裁を頼まれた時、一日考えると即答を避けます。この7月2日という微妙な日に仲裁を頼まれたことが後々大きな歴史の渦を作ることになるとは、ナポレオン三世も想像出来なかったことでしょう。
墺国が仏皇帝に示したのは「伊との係争地、北伊の墺領ヴェネト地方(ヴェネチア一帯)を一旦仏に譲渡し、それを仏が伊へ譲渡するとのエサで講和を仲裁する」というものでした。
この条件、実は普墺戦争開戦直前に仏の中立を得るため墺が提示していた条件の焼き直しです。元よりヴェネト地方の放棄を考えていた墺国としては、失うと決まっていた土地の犠牲で他の条件(例えば残った伊との係争地南チロルやダルマチアなど)を伊から出させず、野心の強い仏皇帝のこと、ヴェネトの譲渡と引き替えにローマ周辺の教皇領(当時仏の保護領となっていました)の保全を目論んで講和のあっせんも頑張るはず、という裏の読みもありました。
しかし、ナポレオン三世の関心は伊ばかりではありませんでした。
彼は開戦以来のめざましい普軍の進撃が信じられず、また脅威に感じていました。しかしいくら軍事強国の普国といえども、ほぼ全ドイツの強国を敵に回して戦っている訳ですからこの辺で息切れするはず、とも考えていました。
情報ではここ一両日で墺普両軍主力がボヘミアで衝突するとのこと。この会戦に墺が負けるはずはなく、戦いは膠着状態となるだろう。そこに彼、ナポレオン三世が現れ、伊のみならず普とも墺と「仲直り」しなさい、と仲裁を申し出る。南北に敵を抱える墺ばかりでなく、有利なうちに引き際を、と考える普もこの辺で手を打つはず。
そしてナポレオン三世は伊からヴェネトと引き替えに教皇領の仏領認知を、墺には講和を仲裁した『貸し』を、普からは西部国境地帯の一部を、それぞれ得よう、と考えます。何せあのビスマルクが開戦直前、彼に「もし黙って見ていて頂けたら『ライン川流域』を差し上げることもやぶさかではありません」などと「ほのめかした」ことを彼も忘れてはいません(これを「ビアリッツの密約」といいます)。この際、仲裁を手際よく進め、ビスマルクを促してライン川左岸のドイツ領邦をせしめよう、と考えたのです。
ナポレオン三世は明けて3日、墺公使に回答します。「貴国の申し出を承りましょう。ただし、ヴェネトをただちに無条件で仏帝国に移管することと、伊王国ばかりでなく、普王国も一緒に和平のための話し合いに臨んで貰うよう説得することを条件としたい」
墺公使メッテルニヒは直ちにこの回答を本国に打診します。しかし、ここで仏・墺両国が凍り付く事態が発生したのです。「ボヘミアの地での一大会戦」ケーニヒグレーツの戦いでの墺北軍の完敗でした。
この第一報は3日夜更けにウィーンとパリに届きます。
墺皇帝は頭を抱え、仏皇帝は驚愕しました。
墺政府は直ちに話し合い、仏皇帝の案「伊普両国との講和」を承認することに決し、墺皇帝の裁可を経て直ちに仏皇帝へ承諾の回答をしました。
ケーニヒグレーツで大勝したからには、普が仏に講和仲裁を感謝し進んで西方領地を差し出す、などという夢は消え去ります。
また、仏宮廷の意見は二つに割れました。
普を脅威と考える仏外務卿一派は「直ちに普との国境地帯に軍を動員し、仏抜きでは講和もままならないことを憎きビスマルクに思い知らせるべき」と主張します。
逆に反墺派の重臣たちは「武力による威嚇は普のドイツ小邦に対する求心力を増すだけ」と反対します。
結局、皇帝はドイツ全体が普に靡き反仏に傾くのを避けるため、武力での威嚇を諦めるしか手がありませんでした。
しかし、講和については墺に返答したからには仲裁に乗り出さざるを得ません。仏政府は墺に講和仲介の開始を伝え、直ちに講和のための一時休戦を伊・普両国に求める書状を送付したのでした。
ナポレオン三世は、まだまだライン左岸流域を諦めず、講和の仲裁に成功すれば普墺伊の三国から「漁夫の利」を獲るチャンスがあるはずだ、と期待していたのです。
このニュースは公表され、瞬く間にナポレオン三世皇帝の講和あっせん開始が新聞を賑わせました。
このニュースで戦争終結の希望が各国で芽生えた7月4日の午後、普大本営がこの日から置かれているホリクの町に一群の騎馬が白旗を先頭に訪れました。その中から黒々とした頬髭が立派な将軍が降り立ち、直ちに普国王に謁見を求めました。彼は墺北軍第10軍団長ガブレンツ中将です。
彼はデンマークとの戦いで墺第6軍団を率いて普軍と一緒に戦い、戦後普王ヴィルヘルム1世から普軍人憧れの的プール・ル・メリット戦功勲章を墺軍人ながら授与されています。
ベネデックはそんな普王国でも知られるガブレンツに託し、一時休戦を普軍に申し入れたのです。
ガブレンツは国王やビスマルク、モルトケに自身の立場と休戦の条件を説明します。自分は軍を代表する者でなく、当然ながら政府を代表するものではない、としながらも、もし普軍が6週間の休戦を受けてくれるなら、現在普の占領地内に残っているテレジエンシュタット、ヨセフシュタット、ケーニヒグレーツの三要塞を開城し明け渡す、とのベネデックの休戦案を示します。
これに対し、普王ヴィルヘルム1世は「三要塞を直ちに開城するなら休戦を考えないでもない。ただしこれは今後の作戦を中止するということではない」と達します。ガブレンツはこれを持ってこの日ホーヘンマウト(ヴィソケー・ミート)に置かれていた墺北軍本営に帰りました。
この報告はウィーンの宮廷にも伝えられます。「勝手に」休戦を敵方と協議したことに宮廷は不快感を持ちますが、軍の状況を知るため、皇帝の信任厚い時の墺外務卿で陸軍中将、アレクサンダー・フォン・メンスドルフ=プイイ伯爵(父はフランスからの亡命貴族、母はドイツの名門貴族ザクセン=コーブルク=ザールフェルト家出身で、彼自身はエリザベス英女王の従兄にあたります)は皇帝より勅命を受け5日、副官と共にこの日はライトミッスル(リトミシュル)に後退した墺北軍本営を訪れます。
若い頃から軍に奉職していた外務卿は、軍人の目から見ても北軍の現状がウィーン宮廷の想像より遙かに悲惨なことを知り、これは直ちに休戦すべき、それもこのボヘミアだけでなく西方のマイン流域でも、と決心し、午後7時、ウィーンへ「普国との休戦は必至。休戦は西方も含むべき」と打電しました。
フランツ・ヨーゼフ皇帝もこのままではウィーンが危ないと感じ、時間稼ぎとナポレオン三世の仲裁を期待して、ベネデックの休戦案を実行してもよい、と追認の返電を外務卿に宛てました。
墺北軍の急速な後退が続き、普軍の南下が止まらない中、メンスドルフは外交的にも墺政府の意向を汲んだ休戦案を練り、これを使者となったガブレンツ中将に託します。8日朝、ガブレンツは既にパルドゥヴィッツ(パルドゥビツェ)にまで前進していた普国大本営を訪れます。今度は外務卿の親書を携えており、正式な墺政府と墺軍からの使者として迎えられます。
しかし、この数日で普国側も態度を改めていました。
ナポレオン三世が講和の仲裁を宣言し、その親書が普王の下にも届いています。墺の同意がなければ仏がヴェネトを確保出来るはずもなく、この講和は墺の発案であることが直ぐに分かります。これは墺が瀬戸際まで追い込まれた証拠でもあり、ケーニヒグレーツの敗戦によって墺の戦意は無きに等しく、東西両戦線共に優位に立つ普国とすれば、ここは抜け目のない仏皇帝に隙を見せず、もう少し占領地を広げ、あわよくばウィーンを陥落させて大目標である「普国のドイツ領邦盟主の座」を確定させるべきでしょう。
この時点では国王ヴィルヘルム1世、宰相ビスマルク、そして開戦当初から墺首都の占領を主張していた参謀総長モルトケは「継戦」で一致、休戦を拒否することに決しました。
ガブレンツは普国王への謁見を許されず、一人で現れたモルトケから休戦案拒絶を簡素に記した参謀総長名での書状を渡され、渋い顔で敵本営を後にし、ベネデックと外務卿の待つオルミュッツ(オロモウツ)へと去るのでした。
この休戦拒否により、戦争の継続は決定的となります。普国が戦闘続行なら伊国も続行するしかありません(そういう取り決めがビスマルクとの間に交わされていました)。既にケーニヒグレーツでの勝利を聞き及んでいた伊王国政府も継戦に賛成でした。
これにより、既にオルミュッツ要塞目指して三つの集団となって退却を続けていた墺北軍は、この後も満身創痍の状態で苦難の戦いを行わざるを得なくなったのです。




