ケーニヒグレーツの戦い/王の握手
会戦は終わりましたが、墺軍の苦難は続きます。
ケーニヒグレーツ要塞はボヘミア東部最大の要衝で、現在のフラデツ・クラーロヴェー市の中心地、北から流れるエルベ川と東から流れるオルリツェ川の合流地点、三角形を作る北部分に楕円の形で存在していました。
1884年、この要塞は破壊され、街は軍事都市からチェコ文化の中心地へと変貌を遂げます(第一次大戦後のチェコ=スロヴァキア時代には「共和国のサロン」と呼ばれました)が、現在でも地図を見れば街の様子や街路の形から容易に1860年代当時を想像することが出来ます。川を横切る外周道路内側が要塞都市の中心地で、川に挟まれた三角形内側の内周道路が、ほぼ要塞本体の位置となります。
この要塞都市とヨセフシュタット要塞(ヨゼフォフ。こちらは現在でも遺構として残り、当時を偲ばせています)がボヘミア防衛の要で、このエルベ川のラインを突破されるとしばらくは平坦な土地が続き、その首都ウィーンの間にある障害はブリュン(ブルノ)の町とオルミュッツ(オロモウツ)要塞都市の間に広がるモラヴィアの山地とその先、ドナウ川のみとなってしまうのです。
ケーニヒグレーツ要塞司令官のヴァイゲル少将は、味方の野戦軍が街の郊外に殺到して来ても昨夜のベネデックの命令を遵守して要塞の門を閉ざし、野戦軍を要塞都市に入城させまいとしていました。
このベネデックの命令は表向きの理由として、要塞を開け放ちケーニヒグレーツの街を軍隊が通行可能としてしまうと、万が一北軍が撤退した時に街が大混乱となり、保安上好ましくないためであり、裏の理由としては北軍の秩序を保たせるためと、暗に不退転の意味がありました。
しかし実際に野戦軍が総崩れとなる中、この司令官の頑固さが徒となってしまいます。
ケニーヒグレーツの町を流れるエルベ川は、その郊外の部分で都市防衛のためわざと氾濫し易く堤防などが甘く作られていましたが、降雨の続くこの季節、川は目論見通り氾濫し、町の周囲は深い泥濘と水たまりだらけの劣悪な環境となっていました。早く町に入りたい敗残兵たちは門に殺到しますが、扉が開くことはありません。次第に数の増えた兵士は町の北西側郊外に溢れ、次から次へとやって来る墺北軍の部隊により周辺は大混乱となっていくのでした。
要塞に入れないことを知りパニックに襲われた兵士たちは、更に南へと泥の中を難渋しながら逃げ迷い、混乱が助長されます。残酷な戦場から犠牲を重ねてまで苦労して荷馬車を引いて来た部隊もこの渋滞と深い泥濘の中では動きが取れず、止むなく荷を捨ててしまうのです。
ここまでせっかく秩序を保ちつつ後退して来た部隊もこの混乱に巻き込まれ、すぐ後ろに迫る情け容赦のない普軍が頭を掠めると動揺が広がり、秩序は簡単に崩壊してしまいました。
それは後衛の犠牲により救われ、秩序を回復した部隊だけでなく、整然と後退した第10軍団や第3軍団本隊の兵士にまで及び、最早手の付けられない状態は深夜にまで及ぶのです。
さすがのザクセン軍ですら動揺が広がり、指揮官たちは躍起になって部隊の規律を保つべく奔走する羽目になってしまいました。
辺りがすっかり暗くなってから、ようやく命令が取り消されて要塞都市の門が開かれ、疲弊した部隊は続々と街に入り、また街を抜けて更に南へと撤退して行きました。こうして墺軍は徐々に秩序を回復して行くのでした。
午後5時を過ぎた頃、普第一軍と第二軍、そしてエルベ軍はロズベリックを中心とした半径5キロほどの円内にほとんど全ての部隊が集結し、クルム高地は普軍総計20万の兵士で溢れ返っていました。
墺軍は去ったといえ、未だ戦意の衰えないその砲兵部隊は、ケーニヒグレーツの北西郊外、ボーダネック(ボフダネチュスカ)=コビリー・ドリー(ドリーク)の周辺に集まり、その数は29個中隊(墺軍の一個砲兵中隊は平均8門の各種大砲装備)、その多くは戦場に大砲や弾薬車を遺棄していましたが、およそ120門前後が砲列を敷きました。彼らは残り少なくなった弾薬と傷だらけの大砲、そして疲労し負傷した砲兵で普軍の隊列に向け復讐の砲撃を開始したのです。
その射程2から4キロの範囲内には、撃てば必ず当たるほどの目標があり、墺軍は残弾を撃ち尽くすまで砲撃を繰り返しました。
こうして普軍兵士たちは混雑した村落や渋滞した街道、泥濘の田園で思わぬ砲撃を浴び、無視出来ない損害を受けてしまいました。
「普軍の三軍諸部隊は狭い地域に集合し、その大渋滞の最中へ墺軍砲兵の砲弾が炸裂するので、逃げ隠れ右往左往する兵士たちの姿は、同じ時刻にケーニヒグレーツ要塞へ逃げ込もうとエルベの河畔で右往左往する墺軍兵士たちの姿と何ひとつ変わるものではなかった」(『普墺戦史』オーストリア参謀本部編・筆者意訳)
普軍側も負けてはいません。会戦の最中では満足な活躍が見られなかった第一軍の直轄砲兵部隊は挽回しようと最前線に繰り出し、ブリザ西と南の高地に上がって砲列を敷き、ブリザの北高地には第1と第6軍団直轄砲兵と近2師砲兵が、そしてステジレック(スチェジールキ)西高地にエルベ軍直轄砲兵隊が、それぞれ砲列を南へ、南東へと向けたのです。
この34個中隊(普軍の一個砲兵中隊は平均6門の各種大砲装備)200門前後の大砲が墺軍砲兵と日没まで砲撃戦を繰り広げ、大会戦の掉尾を飾りました。
遡ること4時間。午後5時前。
一日中ドゥヴの丘で戦況を見つめていた普国王ヴィルヘルム1世とその幕僚の下に伝令がやって来ます。
その参謀士官は墺第1軍団の潰走を受け、クルム部落に向かった普第一軍司令官、カール王子の副官でした。
「第一軍は第二軍による助攻によりクルムを奪還後、敵を追い、ロズベリック、ランゲンホーフを占領せり」
これを聞いた幕僚たちの間にほっとした空気が漂います。参謀総長のモルトケ大将が考えていた分進合撃後の「包囲殲滅」こそ、思わぬ敵の反撃と第7師団や近衛第1師団以外の部隊による「慎重過ぎる行動」で不可能となったとは言え、これでクルム高地は完全に普軍の手へと落ちました。
国王は満足げに頷くとモルトケと宰相ビスマルクを傍らに呼びます。
「卿。これで決まりか?」
国王の問い掛けにモルトケは静かに答えました。
「御意。陛下はこの会戦に勝利されました。そして今回の戦争にも勝利されました」
一瞬おや、という顔をした国王ですが、モルトケの涼しげな表情を見つめると得心したのかゆっくりと頷きます。
「そうか。では宰相、君の出番だな」
王は宰相に目をやると、ビスマルクも重々しく頷きます。
「はい。一両日ウィーンの出方を見た後に、この先を考えるとしましょう」
その言葉とは裏腹に、既にビスマルクの頭には墺との講和、そしてその後の「筋書き」が形成されつつありました。
雨が止み、厚い雲の隙間から西に傾いた薄日が覗くようになったクルム高地。その中心地リパ部落の郊外にヴィルヘルム1世が宰相や参謀総長を引き連れやって来ます。
近衛の親衛騎兵に護られた一行はドゥヴから泥濘のホリク=ケーニヒグレーツ街道を南東へ進み、街道の端に打ち捨てられた車両や馬の死骸、そして所々に倒れ息絶えた双方兵士の遺体を横目にしながら、未だ硝煙と焼け焦げた臭いが充満する戦場へ視察に訪れたのです。
王の一行を目にした兵士や士官は、ピッケルハウベやドライゼ銃を打ち振って歓声を上げ、騎兵たちは素早く道を空けると一糸乱れず整列し、敬礼して見送りました。一方、俯いて重い足を引き擦りながら護送される墺軍の捕虜たちともすれ違います。
王を初めて目の当たりにした激戦を生き抜いた召集兵は感激の余り涙を浮かべ、後送される負傷兵の中には王の姿に手を合わせ喜びで咽び泣く者までいました。
この勝利に喜び沸き返る戦場で、更に感動的な場面が訪れます。
目立つ騎馬の小集団がクルム部落よりやって来て、その中から数騎が王の前まで進み出ます。クルム高地を騎乗して進む最中、周囲の惨状にも厳めしい表情を崩さなかった王の背中が微かに緩み、軽い吐息が漏れました。
「陛下。まことに遅くなり申し訳ございません」
背後に中世の騎士然とした自軍参謀長を従え、鍔付き制帽と頬髭がよく似合う中年の美丈夫が王に深々と頭を垂れました。
「我が軍はカール親王の軍と並進し、既にウェセスタル=シュウェティまで進軍しております」
この報告に王は頷くと、黙って愛馬を進ませるや自ら右手を差し出しました。不意を突かれて一瞬躊躇した皇太子はふっと肩の力を抜くと、それまでの堅い表情を僅かに歪めて王の手を取り、馬上の親子は強く握手をするのでした。
これを見た周囲の将兵は一斉に歓声を上げ、ちょうどその横を南へ向かって行軍していたある連隊は、戦場で奪取した白地に黄金の双頭の鷲が羽ばたくオーストリアの連隊旗を打ち振り、兵士たちから万歳の声が何度も上がりました。
「無事で何よりであった――」
兵士たちの歓声に打ち消されよく聞こえませんでしたが、皇太子に対しては滅多に優しい言葉を掛けない父が「よくやった」と続けたのを、息子は確かに聞いたのです。皇太子は目を潤ませ、言葉を返しました。
「大勝利、心からお祝い申し上げます」
後にこの場面は従軍画家(エミール・ヒュンテン)の手によりその瞬間が切り取られ、普王国皇太子フリードリヒ3世お気に入りの一幅となりました。




