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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
7/534

第二次イタリア統一戦争/マジェンタ


☆ 第二次イタリア統一戦争


 そしてモルトケが改革の真価を試す時はすぐに訪れました。

 イタリア統一戦争の勃発です。


 始めにお断りしておきます。このイタリアでの戦争はプロシア軍やモルトケら参謀本部が直接関与した戦争ではありませんが、後に戦争の相手となったオーストリアとフランス両国陸軍が大規模に参戦し、またその将星たちが普墺・普仏の戦いで敵将となっているので、その戦い振りを取り上げて行きたいと思います。

 正に冗長なので興味のない方は一気に「モルトケとプロシア王国の対仏戦準備」まで飛ばしてお読み下さい。


挿絵(By みてみん)

1815・ウィーン体制のヨーロッパ


 当時のイタリアは北部に有力なサルディニア王国、南部に両シチリア王国があり、その間に小国や貴族領、そしてローマ教皇領が点在する、ちょうどドイツと同じ様な状態でした。

 中でも北東部には北から大きくオーストリアの支配領域が張り出していました。既述通りイタリア北部が神聖ローマ帝国の一部だったことから、過去の遺産を受け継いだオーストリアがイタリア北部を支配していたのです。

 サルディニア=ピエモンテ王国(伊・サルデーニャ。首都トリノ)はこのオーストリア領・ロンバルト=ヴェネト王国(1815年のウィーン会議でオーストリアが獲得した属国。国王はオーストリア皇帝)をイタリア人の手に取り戻そうと考え、隣のフランス帝国にフランス隣接地(現在のニースやサヴォイ地方)を割譲させる条件で味方に付けようとします。これに乗ったのがあのナポレオン3世でした。


 サルディニア王国は48年革命に端を発した第一次イタリア統一戦争においてこのイタリア人が大半のオーストリア領を奪取すべく戦いますが、態勢を立て直したオーストリア軍に敗れ夢が果たせませんでした。

 単独では勝てないと考えたサルディニア王国の首相カヴール伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(以降カヴール伯爵)は「仲間」を得るべくクリミア戦争に参戦、イギリスと隣国フランスと共にロシアと戦い、特にフランスの気を引こうとしました。しかし、カヴール伯爵の真意を知るイギリスとフランスは同情こそするものの中々同盟を組むまでには至りません。それでもカヴール伯爵は皇帝になったばかりでクリミア戦争にも勝利し功名心が見え見えとなったナポレオン3世に接近し、皇帝の野心をかき立てイタリアに眼を向けさせようとするのでした。

 ナポレオン3世は青年期にイタリアの統一運動「カルボナリ運動」に共鳴し参加していたこともあり、元よりイタリアの民族運動には同情的だったのです。


挿絵(By みてみん)

カヴール伯爵


 1858年1月14日、ナポレオン3世はイタリア人のカルボナリ党員フェリーチェ・オルシーニ伯爵一味による暗殺未遂に遭遇します。

 オルシーニは皇帝になった途端イタリア問題に冷淡となったように見えるナポレオン3世を「裏切り者」と断じ、仲間と共に皇帝暗殺を計画するのでした。

 パリ・オペラ座に観劇に訪れた皇帝夫妻を狙った暗殺は正面玄関で3発の擲弾を同時に投げて爆発させるというもので、これは死者18名・負傷150名という大惨事となりますが肝心の皇帝夫妻は軽傷で助かりました。

 オルシーニらは逮捕されますが伯爵は獄中皇帝宛に「自分は死刑となることを厭わないが、ぜひイタリア統一に力をお貸し下さい」と手紙を書き、これを読んだナポレオン3世はかつてのカルボナリ運動同士の姿に深く感動して手紙を公開、仏国民も同情し皇帝自身も参加する助命嘆願も起きますが、結局オルシーニ一味は死刑判決を受け3月13日断頭台の露と消えました。

 これによりフランスもイタリア統一に対し積極的関与を進めることになるのです。


挿絵(By みてみん)

イタリア半島・1843年


 同年7月21日。ナポレオン3世はカヴール伯爵とナポレオン一族が保養地としていたフランスはヴォージュ県のプロンビエール(=レ=バン。ストラスブールの南西117キロ)で会談し「フランスはサルディニア王国がロンバルト=ヴェネト王国、パルマ公国、モデナ公国、ローマ教皇領北部のレガツィオーネ地域を併合することを認める代わりにサルディニアがオーストリア帝国から攻撃された場合、フランスはオーストリアに宣戦し、サルディニアはその代償としてサヴォワ地区(現・サヴォワ県とオート=サヴォワ県)とニース地区(現・アルプ=マリティーム県)をフランスに割譲する」という密約を結ぶのでした。


 ここでカヴール伯爵は一計を講じます。仏との密約ではオーストリア(以下墺とします)が「先に」サルディニア(以下伊とします)を攻撃しなくてはならなかったため、墺を挑発して戦争になるようし向けるのでした。

 1859年3月になると、カヴール伯爵は伊軍をオーストリアとの国境付近に向けて行軍させ、派手なデモンストレーションを行わせます。同時に義勇兵を募集しジュゼッペ・ガリバルディらが大挙参加すると遂に動員令が発せられました。只でさえ緊張が高まっていたイタリア北部の墺領(ロンバルトやヴェネト)では墺軍が増強されウィーンで伊に対し軍の運動を止めるよう声明が出されました。しかし元から先に戦争を仕掛けさせようとする伊ですから軍の挑発を益々エスカレートさせて行き、ヒートアップに何とか現状を留めようとする英露の仲裁も失敗すると墺帝国は伊に対し最後通牒を発し(4月23日)、伊が軍を退かせないことを確認すると1859年4月26日、墺は戦争に踏み切りロンバルトの墺軍にピエモンテ侵入を命じます(正式な宣戦布告は29日)。

 既に動員を開始させ、前衛をピエモンテのサヴォイ地方に入国させていたナポレオン3世は墺に宣戦布告、軍の半数に及ぶ派遣軍を組織して戦争に乗り出したのでした。


挿絵(By みてみん)

ロンバルト=ヴェネト(1853年)


※第二次イタリア統一戦争における両陣営の戦力


○サルディニア=ピエモンテ王国

*総指揮官 国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

*野戦軍司令 アルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラ将軍

*参謀長 エンリコ・モロッツォ・デラ・ロッカ将軍

*歩兵70,000名・騎兵4,000騎・野砲90門

*編成

第1師団 アンジェロ・ボンジョヴァンニ・ディ・カステルボルゴ中将

→ ドメニコ・クッチャーリ少将

第2師団 マンフレード・ファンティ少将

第3師団 ジョヴァンニ・ドゥランド少将 → フィリベルト・モラード少将

第4師団 エンリコ・シャルディーニ少将

第5師団 ドメニコ・クッチャーリ少将 → ジョヴァンニ・ドゥランド少将

騎兵師団 カリスト・ベルトーネ・ディ・サンブイ少将

義勇兵2個師団(アルプ猟兵、アペニン)


挿絵(By みてみん)

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世


○フランス帝国

*総指揮官 ナポレオン3世

*参謀長 ジャン=バティスト・フィリベール・ヴァイヤン少将

*歩兵170,000名・騎兵2,000騎・野砲312門

*編成

近衛軍団 オーギュスト・レニョー・ドゥ・サン=ジャン・ダンジェリ中将

第1軍団 アシル・バラゲ・ディリエ元帥

第2軍団 パトリス・ドゥ・マクマオン中将

第3軍団 フランソワ・セルタン・ドゥ・カンロベル大将

第4軍団 アドルフ・ニール大将

第5軍団 ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(ナポレオン3世の従弟・父はナポレオン1世の末弟ジェローム)


※フランス軍の将軍階級は「職域制」で元は全員が少将(師団長格)、軍団や軍を率いる場合に「中将」(軍団長)「大将」(軍司令)の格が与えられ、任を解かれれば少将に戻ります。また、元帥は名誉称号です。


挿絵(By みてみん)

ナポレオン3世(1868年)


○オーストリア帝国(ロンバルト=ヴェネト王国派遣軍)

*総指揮官 フェレンツ・ギュライ元帥 → フランツ・ヨーゼフ1世

*参謀長 フランツ・クーン・フォン・クネンフェルト大佐 → ハインリヒ・フォン・ヘス大将

*砲兵司令 フランツ・フォン・ウィンプフェン砲兵大将 → 「第1軍司令官」に

*歩兵220,000名・騎兵22,000騎・野砲824門

*編成

□ ロンバルト方面軍

第2軍団 エドゥアルト・フランツ・フォン・リヒテンシュタイン元帥

第3軍団 エドゥモント・レオポルト・フォン・シュヴァルツェンベルク元帥

第5軍団 フィリップ・フランツ・フォン・シュタディオン・ウント・タンハウゼン元帥

第7軍団 フリードリヒ・ツォーベル元帥

第8軍団 ルートヴィヒ・フォン・ベネデック元帥

□ ヴェネト方面軍

第1軍団 エドゥアルト・クラム=グラース元帥

第9軍団 ヨハン・フランツ・シャフゴッチ・フォン・キナスト元帥

※墺軍の将軍は全員「元帥」(FMG)となっていますが、これも「名誉称号」で、戦時にのみ与えられました。


挿絵(By みてみん)

フランツ・ヨーゼフ1世


 しかし宣戦布告時にはまだ仏軍の動員展開は始まったばかりでサルディニア(伊)本土ピエモンテに一兵もおらず、仏軍は大規模な軍用列車を何編成も仕立てるとカンロベル将軍の第3軍団を乗せ、ピエモンテへ送り込みました(世界初の大規模軍用列車使用と言われます)。

 墺軍主力のロンバルト方面軍指揮官ギュライ元帥は仏軍がピエモンテにやって来る前に伊を屈服させようと軍を前進させますが、その行動は非常にゆっくりでピエモンテとロンバルトとの国境ティチノ川(スイス・ゴッタルド峠付近を水源にマッジョーレ湖を経て南へ流れパビア付近でポー川に注ぐ支流)に到達すると時間を掛けて渡河準備を行わせますが、ここで大雨が降り川が増水し街道筋が泥濘に沈んだため、その行軍は益々遅くなってしまいました。

 墺軍と遭遇した伊軍は田畑を水没させティチノ沿岸地帯を水浸しにすると各所で遅延作戦を実施、仏軍の本格参戦を待ちました。

 それでも数に勝る墺軍はピエモンテもう一つのポー川支流セージア河畔のヴェルチェリ(トリノ北東64キロ)まで侵入し伊首都を脅かしますが、ここで到着した仏軍が伊軍と共に首都防衛線を張り、ミラノ東方を流れるポー川(イタリア北部を横断するイタリア最長の大河)に架かる二つの重要な橋(ヴェルチェリの南21キロのカサレ・モンフェラートとその南東20キロのバレンツァにある)をしっかり押さえ、この付近に大軍を集合し始めたため、墺軍は側面攻撃を憂慮し一旦後退して態勢を整えるのでした。


挿絵(By みてみん)

ギュライ


 5月20日、墺軍は再び南方からトリノを目指し、モンテベッロ(・デッラ・バッターリア。ミラノの南52キロ)付近で戦闘が発生、これが第二次イタリア統一戦争中「オーストリア=サルディニア戦争」の初戦となります。

 戦闘はシュタディオン将軍の墺第1軍団とエリ・フレデリック・フォレ将軍率いる仏第1軍団第1師団に伊軍騎兵隊との間で行われ、墺軍は仏軍の三倍近くの戦力だったにも係わらず精悍な仏軍と勇敢な伊騎兵に痛打された墺軍が退却する羽目に陥り、更に5月31日、パレストロ(ヴェルチェリの東南東9キロ)の戦いで数に劣るシャルディーニ将軍の伊軍第4師団と仏ズアーブ第3連隊に墺第7軍団が敗れ、この敗戦の報を受けたギュライ将軍は益々慎重・消極的になってしまいます。

 6月に入ると、ギュライ将軍はロンバルトの主邑ミラノを守るため街道が集中するティチノ東岸のマジェンタ周辺に軍を集合させるよう命じ、バラバラに散ってしまっていた墺軍各軍団は中央からの統率なく思い思いに行軍したため、伊と仏にとって格好の戦機が訪れました。


挿絵(By みてみん)

モンテベッロの戦い


☆ マジェンタの戦い


 1859年6月4日。「マジェンタの戦い」が発生します。

 マジェンタはロンバルト王国の主邑ミラノの西方24キロ、サルディニア王国(伊)ピエモンテ地方とロンバルト国境ティチノ川に近い要衝で、郊外には小川や灌漑水路が縦横に走る果樹園が広がり大軍の運動を妨げていました。この日の朝、墺軍はクラム=グラース将軍の第1軍団をマジェンタとその周辺、シュヴァルツェンベルク将軍の第3軍団をその南方7.5キロのアッビアテグラッソの街に置き、その東からはシュタディオン将軍の第5軍団が接近中でした。その兵力総計は62,000名と伝わります。

 クラム=グラース将軍はマジェンタ周辺の農家や市街地に防御を施し拠点としたため、この地域を占領するには激しい白兵戦を覚悟しなくてはなりません。


 ここで墺軍と対峙したのは、ティチノ川を一昨日2日にトゥルビーゴ(マジェンタの北西13.5キロ)で渡河したマクマオン将軍率いる仏第2軍団と伊軍マンフレード・ファンティ将軍率いる第2師団に、西側ノバラ(同西20キロ)を越えてティチノ沿岸に接近する仏近衛軍団(総計59,100名)で、最初に投入されたのは未だナポレオン1世時代の制服を纏った仏近衛軍団の擲弾兵第1旅団およそ5,000名でした。


挿絵(By みてみん)

マジェンタの戦い・開戦前両軍布陣図


 4日早朝ティチノ川を渡河して襲撃する仏近衛兵に対し防御に徹した墺第1軍団は激しく抵抗し、有名な仏外人部隊も増援で参戦しますが橋頭堡を確保するのが精一杯で市街に突入することが出来ませんでした。その後方ノバラからはカンロベル将軍の第3軍団も進みますが戦線に到着するまではかなりの時間を要します。

 その後北方から進撃するマクマオン将軍は隊を分割し、一方を元内務大臣のシャルル=マリエ=エスプリ・エスピナス将軍が、片方をジョセフ・エドゥアール・ドゥ・ラ・モット・ルージュ将軍が率いてマジェンタへ突進しクラム=グラース墺第1軍団と激闘になりました。


 しかし南から増援(墺第3軍団)が到着し墺軍は戦力をほぼ倍増させたため、一時は仏第2軍団が壊滅するのではと思われるほどの劣勢となりましたが、午後に入ると西から攻撃する近衛擲弾兵旅団は再びマジェンタへの突進を開始、アフリカ出身の兵士からなるズアーブ兵を先頭に銃剣突撃を幾度も繰り返し、旅団長のジャン・ジョセフ・ギュスターブ・クレア准将も壮絶な戦死を遂げる中、遂にマジェンタの西を南北に走るナヴィーリオ・グランデ運河に架かるヌオーヴォ橋(現・ポンテ・ヌオーヴォ。マジェンタの西2.5キロ)を占領し市街地への突破口を開くことに成功します。墺軍は他の運河に架かる橋を爆破していましたが、この橋だけは連絡のため残されていたのでした。


挿絵(By みてみん)

ボッファローラの戦い


 ほぼ同時にラ・モット・ルージュ将軍の兵団がボッファローラ部落(マジェンタの西4キロ)で墺軍を敗走させ、戦いの焦点は市街地北縁にあるマジェンタ鉄道停車場の攻防に移ります。駅と市街の戦いは完全に一軒一軒の家屋の争奪、そしてメートル単位で攻守が入れ替わる激しい白兵戦となりますが、ここでもエスピナス将軍が瀕死の重傷を負う(その後死亡)壮絶凄惨な戦闘の果て、仏軍の衰えない闘志に墺軍は次第に劣勢となり、ファンティ将軍のサルディニア・ベルサリエーリ(精鋭の軽歩兵)が参戦したことでも戦線から離脱する墺軍部隊が増え、日が西に傾く頃には完全に連合軍が有利となったため、墺軍総司令官ギュライ元帥は態勢を整えるため一斉後退を命じます。しかし銃砲声が止むまでは午後8時まで掛かりました。


 この戦いで連合軍側は戦死657名・負傷3,045名・行方不明(捕虜含む)735名を出し(殆どが仏軍です)、墺軍は戦死1,358名・負傷4,358名・行方不明(捕虜含む)4,500名を記録しています。

 戦いに勝利したマクマオン将軍はナポレオン3世から「マジェンタ伯爵」を授けられ元帥の称号を獲、同じ頃(1859年)に発見された赤色系染料は、この戦いにちなんで「マゼンタ」と命名されます。


挿絵(By みてみん)

マジェンタ停車場のマクマオン将軍


 勢いに乗ったナポレオン3世はティチノ川沿いに兵力を展開し墺軍を牽制すると主力を北部に向けて墺軍主力の「横腹」を狙います。攻撃を受けたギュライ元帥は自軍をロンバルト東部にあり、北部イタリア防衛の要で世界的にも名高い「四角要塞地帯」(伊・クアドロデッラ。レニャーゴ、マントバ、ヴェローナ、ペスキエーラ・デル・ガルダの四要塞とそれを結ぶ四辺にある堡塁などの防衛施設群)に一斉後退させ戦力の回復を謀るのでした。


挿絵(By みてみん)

マジェンタの戦い・終盤


 指揮が冴えないギュライ元帥に苛立った若き墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、士気を回復するためにもギュライを更迭し自らが総指揮官となってヴェネトにやって来ます。

 フランツ・ヨーゼフ1世としては先ず、四角要塞地帯前面(西)に流れるミンチョ川(ロンバルトとヴェネト境界のガルダ湖南端からマントバ南東まで流れ大河ポー川に注ぐ支流)で持久し、時間を掛けることでイギリスやロシアの介入、そして反仏の先鋒で機会を窺うプロシアの動きを誘発して終戦を計ろうと考えました。

 ナポレオン3世やサルディニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とすれば、プロシアがちょっかいを出す前に何とか墺軍に致命的な打撃を与えようと東へ進もうとしますが、ロンバルトの主邑ミラノこそ占領したものの仏・サルディニア連合軍(以下「連合軍」とします)の動きは慎重で鈍く、これが墺軍の反撃を企てるきっかけとなります。


挿絵(By みてみん)

マジェンタの戦い


☆ ソルフェリーノの戦い


 墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はギュライ更迭後、ヴェネトに入り軍の直接指揮に当たります。まずはヴェネトにあった予備戦力を合流させ、軍の再編成に着手しました。これにより、派遣軍は「墺第1軍」と「墺第2軍」に分割されます。

 「墺第1軍」はフランツ・フォン・ウィンプフェン砲兵大将が指揮し、第2、3、9軍団とオーストリアから皇帝と共にやって来た第11軍団(フォン・クリーグスローン将軍指揮)、そして本国で出征準備中の第10軍団が配下となり、「墺第2軍」はフランツ・シュリック騎兵大将が指揮し、第1、5、7、8軍団が所属しました。


 対する仏皇帝ナポレオン3世(実質連合軍総司令官)は敵が四角要塞地帯に入る前に補足し会戦に持ち込みたかったところ、慎重過ぎた行軍で失敗し、墺軍の四角要塞地帯入りを許してしまいました。

 ところが四角要塞地帯で持久するはずの墺軍は6月23日ミンチョ川を渡河するのです。

 

挿絵(By みてみん)

1859年のオーストリア猟兵(左)と歩兵(右)


 フランツ・ヨーゼフ1世の作戦は自然の防塞であるガルダ湖の南端から南へ広がる丘陵地帯の縁に墺第1軍を展開し、西側に広がる平原からやって来る連合軍を迎え撃とうというもので、これは連合軍の進路上に横たわるキエーゼ川(ガルダ湖北端の西20キロ付近を源流に、途中イドロ湖を経て南へ流れマントバの西30キロ付近でポー川に合流する支流)の主要な橋を墺軍が破壊して落としていたため、連合軍が渡河に時間を掛けるはず、という墺軍参謀陣の予測から導かれた作戦でした。住民からの通報や偵察でも連合軍の一隊がキエーゼ川を臨むブレシア(ミラノの東80キロ)付近で停止したことが確認され、フランツ・ヨーゼフ1世はこれを受けて出撃命令を発したのです。

 一見積極的で有利な位置に自軍を置いた迎撃戦を企画した良い作戦とも思えますが、勘ぐれば「直ぐにもやって来ると思われた連合軍が現れず、軍も落ち着きを取り戻しつつあった墺軍が先手を狙って西へ出撃した」=「鉄壁の防御地帯を飛び出し自ら背水の陣を敷いた」、とも言え、フランツ・ヨーゼフ1世の「若気の至り」か負け続けで焦った墺軍首脳陣の悪手とも考えられるのです。しかもブレシアから連合軍が行軍を再開した後の位置は誰も把握出来ていませんでした。

 実際は連合軍が仏工兵の優秀な渡渉工作能力によりその主力は6月22日中にキエーゼ川を越えていたのです。

 連合軍側も偵察が不味く敵が出撃したことを発見出来ません。いずれにせよ墺第1軍が布陣した時には連合軍もミンチョ川まで至近に迫っていましたが、連合軍側首脳陣は墺軍が未だミンチョ川を防衛線としてその東岸にいるだろうと思い込んでおり、急ぎ川岸まで至ろうと東進を続けていました(常識的な考えと思います)。


挿絵(By みてみん)

ナポレオン3世のキエーゼ渡河


 6月23日の早朝。

 ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はサルディニア軍主力が集合し野営するガルダ湖を東に臨むロナート(ソルフェリーノの北西11.5キロ)で会合を行い、この際に皇帝の留守中パリで摂政として政務を行っていたウジェニー皇后から「ライン河畔にプロシア軍が展開し不穏な動きが始まっている」との情報が示されます。この書簡には「直ちに仏東部国境を守れるだけの軍を戻して頂きたく至急イタリアでの戦争を終結するよう」との要請も含まれていました。しかしこの時には仏軍を帰国させるとの申し合わせは行われず、単に目前に迫るミンチョ河畔での会戦の打ち合わせに終始し会合は短時間で終わるのでした。


 この23日にはミンチョ川前面で多くの偵察隊同士遭遇戦が発生し、双方ようやく敵の位置が確認出来ました。しかし連合軍側ではこの墺軍主力のことをミンチョの渡河の順番を待っている墺軍の「後衛」に接触したと思いこんでしまうのです。

 この時、連合軍は左翼(北)にサルディニア王国軍(伊)を置き主力の仏軍がその南に連なる形で行軍しており、総兵力は118,600名と言われ、合計およそ400門の野砲(仏軍は新式のライット式施条砲・伊軍は滑腔砲。両方とも青銅製前装式です)を持っていました。

 対する墺軍は右翼(北)をガルダ湖に接するサン・マルティーノ(・デッラ・バッターリア。ブレシアの東南東32キロ)に、ソルフェリーノ(同南東32.7キロ)を経て左翼南端をメドレ(ソルフェリーノの南西6.7キロ)に置いた約20キロに及ぶ戦線を構築し、ここに100,000名・野砲およそ500門(前装式青銅滑腔砲。一部推進式ロケット砲)を展開させています。その中心地はソルフェリーノで、この地は先の丘陵地帯南端にあり規模こそ小さいものの中世からの城壁と城館を備えた防御の堅い部落でした。墺軍はこの丘陵地帯を利用して西側へ撃ち下ろす形で砲列を整えるのです。


挿絵(By みてみん)

ソルフェリーノの戦い戦場図


 6月24日黎明。連合軍はミンチョ川に到達するため一斉に東へ行軍を開始します。この日仏軍の作戦では午前の早い内にソルフェリーノを仏第1軍団が、カヴリアーナ(ソルフェリーノの南東3.8キロ)を仏第2軍団が、カステッラーロ・ラグゼッロ(同東5.5キロ)を仏第3軍団が、メドレとグイディッツォーロ(同南6キロ)を仏第4軍団が、そして最左翼を進む伊軍がポッツォレンゴ(同北東6キロ)を、それぞれ占領しミンチョ渡河の「足場」とすることになっていました。

 当然ながらこのラインには墺軍が展開しており、このような両軍の状態では一大遭遇戦が発生するのも当たり前といえ、仏軍が数キロ行軍しただけで両軍はほぼ同時に相手を発見します。

 午前6時、最初に口火を切ったのは仏軍右翼(南)で、銃砲撃を開始すると前線では至る所・ソルフェリーノ、カヴリアーナ、メドレ、グイディッツォーロ、ポッツォレンゴの各地でほぼ同時に戦闘が開始され瞬く間に全軍が衝突する形となってしまいました。

 この最初の戦闘は午前4時から午前7時まで激しい接近銃撃戦となりこれはそのまま以降6時間以上に渡る壮絶な戦いの幕開けになります。


 この時点で両軍共にその本営は前線付近にありません。

 フランツ・ヨーゼフ1世は第2軍本営が置かれたヴォルタ(・マントヴァーナ。ソルフェリーノの南東9キロ)に本営を構えていましたが伝令が「敵と遭遇・戦闘が開始された」と第一報を届けると幕僚と共に前線へ向かいます。

 一方のナポレオン3世も後方の本営で報告を受けると押っ取り刀で戦場へ向かいますが、前線に到着した時には午前7時30分になっていました。仏皇帝は伯父貴1世を真似て愛馬に跨がり戦線を往復して将兵の鼓舞に努めますが、その指揮振りと言ったら希代の英雄であった伯父の足下にも及ばず、ただ「前進!突撃!」を繰り返し叫ぶだけ、戦略も作戦もあったものではなく、天上から命令された将兵たちはいたずらに前進し墺軍の銃砲弾を受けて倒れて行くばかり。戦線はいっかな動かず午前中は死傷者が大地を赤く染めるだけに終わるのでした。


 相手のフランツ・ヨーゼフ1世と言えば、慎重に過ぎたギュライ元帥を更迭したにも係わらずその指揮振りは凡庸以下、部分部分の報告に反応するだけで全般の作戦や戦略を示すこともなく、半分は何をしていいのか呆然としているような状態でした。

 とはいえ、お互い何の作戦もなく10万の軍勢が正面から衝突したこの状態では、どちらか一方が能動的に行動しない限り前線では将兵が倒れて行くばかりで、両軍とも全く統一感を欠いた戦闘は誰にも止められないカオスの状態となって、只目前の敵を倒そうとする兵士個人の闘争本能だけが戦場を支配していたのです。


挿絵(By みてみん)

「ソルフェリーノの戦い」(アドルフ・イヴォン画)


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