ケーニヒグレーツの戦い/ドゥヴの昼下がり
※この一節では作者の脚色が入ります。会話や人物の行動などは史料と異なる部分がありますのでお気を付け下さい。
午前11時。
サドワの北、ドゥヴの小部落前方の丘陵では、普軍首脳が時折思い出したように降りしぶく雨に打たれたまま南方をにらみ佇んでいました。
第一軍司令官・カール王子は頻繁にサドワへ出かけてはビストリッツ川を渡り前線に向かう部隊を督戦し、ドゥヴへ戻って来ては参謀と協議を繰り返していました。その表情は曇りがちで、幕僚たちも自軍の苦戦に焦りを感じている様子が窺えます。
カール王子の督戦
普国王ヴィルヘルム1世は、この本営へやって来た最初こそ落ち着いて観戦していましたが、第一軍担当の中央戦域の戦いが膠着し始めると、落ち着きが次第になくなり、じれた様子が窺えました。
10時過ぎに第7師団がシュウィープ森で戦い始め、敵の右翼を拘束すると本営にも安堵した空気が漂いますが、これも一瞬で、ホラ林へ投入した第8と第4師団の攻勢が敵の第3軍団によって阻まれると、密かに悪態を吐く者や自然と吐息が漏れる者など、普段は厳格で物怖じしない普軍士官たちの矜持も揺らいでしまっていました。
若手の参謀たちはお偉方の後ろでヒソヒソと話し、この苦境の原因と対策を論じ合います。しかし、結論は同じで、彼らは思わずつぶやくのです。
「ビッテンフェルト殿は何をしている」
「殿下の軍は一体どこで何をしているんだ」と。
エルベ軍司令官ビッテンフェルト将軍は、ドゥヴの本営から何度も連絡士官が来ては戦況を尋ねるので辟易していました。
将軍はアルト=ネカニックで使者を迎える度、ビストリッツ川を望める高台へ誘うと、
「貴殿はあれが見えるかね?」と尋ねます。使者が頷くと将軍も頷いて、
「ならば本営にそのままを伝えなさい」
そこではエルベ軍の工兵が必死で仮橋を架けており、工兵ばかりでなく、普段は輜重を運ぶ人夫や非戦闘員が総出で資材を運び、壊れた橋の残骸を片付け、残った橋桁や柱などを利用して橋を渡そうと苦戦する様子が手に取るように分かったのです。
本営では西のエルベ軍より遙かに多く、東の第二軍に向かって伝令や連絡士官が送り出されました。しかし、彼らは戻ってくると一様に「未だ皇太子の軍は戦場に到着せず」と繰り返します。
第一軍の前線部隊からは次々と伝令がやって来て、援軍や砲撃を求めます。しかし、カール王子は考えられる手は尽くしており、残るは予備部隊の投入でしたが、これは第二軍の参戦に併せて使うつもりでしたので、じっと我慢の王子でした。
最初に想定していた、第一軍の攻撃で墺北軍を北へ拘束し、エルベ軍と第二軍で両側から合撃する、というモルトケの作戦は足下から揺らぎ出していました。
しかし、焦り浮き足立つ者までいる本営の中で、当の参謀総長モルトケ大将だけは表情を変えず、いつもの怜悧な態度で国王の背後に騎乗し、じっと前方を見つめていました。副官たちはたまらずに「何かご命令はありますか?」と尋ねますが、その都度モルトケは黙って首を横に振るだけでした。
11時半過ぎ、カール王子は自軍の参謀長フォークツ=レッツ将軍を傍らに呼ぶと、
「参謀長、ご苦労だがひとつ殿下の軍の様子をその目で確かめて来て貰えまいか」と命じました。
モルトケが特に選んでカール王子に付けた才能豊かなフォークツ=レッツは馬上の参謀総長をちらりと見やりますが、尊敬する「モルトケ親父」がそ知らぬ顔をしているのを認めると「直ちに」と命令を受け、副官と共に愛馬の首を巡らせ、ドゥヴの丘から東へと駆け下りて行きました。
焦りは禁物だとは誰もが知っています。この手の大会戦の最中では、本営の乱れがそのまま余波として麾下の部隊に伝染し、戦意は低下し混乱が増長されるものです。古来より戦史はそれを記し強く戒めますが、実際に現場でそういう状況に直面すれば、経験豊かな指揮官といえども自制など簡単に出来るものではありません。
普軍の本営では少しずつ会話の声が大きくなり、しまいには乱れ飛び、「皇太子を待たずして予備を含めて全軍突撃すべし」やら「一端後退し、敵を高地から降ろさせてホリックの周辺までおびき寄せ、そこで反撃に転じるべき」などと戦術を声高く述べる者が多くありました。
カール王子も遂に疲弊し始めた第2軍団(第3、第4師団)と第8師団のサポートとして軍の予備、第3軍団(第5、第6師団)を投入することに決め、サドワより高地へと向かわせます。
カール王子はどうだ、とばかりモルトケの方を見やりますが、またもや参謀総長は涼しげな顔を向けるだけで何も言いませんでした。
時刻は12時を回ります。早朝、皇太子第二軍がクルム高地に達するであろうとモルトケの参謀本部が「予言」した時刻(11時)から既に一時間ですが、東からは一向に友軍がやって来たという報は届きませんでした。
唯一、第7師団に報告を求めて送り出した士官が戻って来て言うには、「第7師団長フランセキー将軍は、北東側よりホレノヴェス方面に接近しつつある第1近衛師団に対し、盛んに援助を申し入れている」
とのことであり、近衛軍団がこの1、2時間以内に到着するとの予感を皆に与えますが、では具体的にどの程度の部隊が「何時に」戦場へやって来るか、となると伝令の誰もが首をひねるばかりで答えられる者は皆無だったのです。
墺軍が予想と違う位置にいたお陰で予定が狂い、このクルム高地で戦う羽目になり、モルトケは急遽、中央で拘束し両翼からの「合撃」で敵を殲滅する作戦を命じました。
皇太子の第二軍は離れた位置から駆け付けねばならず、エルベ軍も有利な位置に陣取る精悍なザクセン軍と戦わねばなりませんでした。このまま時が過ぎれば、第一軍はやがて擦り減ってしまい、墺軍にその気があれば総攻撃を掛け、普軍を高地から追い落とすことも可能になるでしょう。
「もう我慢がならん!」
ヴィルヘルム1世国王はついに叫びます。
「皇太子に強い督促をせよ。とりあえずは一個軍団でよろしい、直ちに戦場へ到着させよ。一刻の猶予もならん、とな」
その横では、ずっと馬上観戦を続けていたビスマルク宰相が王の苛立ちに顔をしかめていました。王は馬上から周辺の取り巻き連中に当たります。
「世は皇太子に12万の兵を預けたのだ。それが王国危急の折り、只の一兵もやって来ないと言うのはどうしたことなのだ、参謀総長!」
国王の怒りは次第に大きくなりますが、問われたモルトケはやんわりと国王を諫めました。
「陛下。ご立腹は皆を不安にさせます。殿下の軍は必ずや参りますので、どうか」
信頼する参謀総長は寡黙であり、王は説明が足りないと感じることも多々ありましたが、その常に冷静で落ち着いた態度には一目置いていました。騎乗した国王はモルトケを睨みつけますが、モルトケはその視線を正面から受け止め、目を逸らせません。王は唸るとぷいっとそっぽを向き手綱を引いて馬首を巡らせ、怒りを静めるためか離れて行きました。
モルトケは軽く頭を下げて国王を見送ると、ポケットからスナッフ(嗅ぎタバコ)の小袋を取り出し、ひとつまみ嗜みます。
それを見ていたビスマルクは乗騎をモルトケの傍らに寄せます。
二人が並ぶと、知らない者が見たらお互いの役割が全く逆に見えたことでしょう。
片や文芸を嗜み、7ヶ国語を操る学者然として軍人には珍しく髭を生やしていないモルトケ。
片や年齢以上に威厳を湛え、厳めしい髭と容貌に険しい表情のビスマルク。
普王国宰相は十五歳年長の、決して馬が合うとは言えない参謀総長に声を掛けました。
「モルトケ殿。どうですか、一服」
ビスマルクはシガーケースを取り出すと蓋を開け、モルトケに差し出します。モルトケは無言で頭を軽く下げると、うっすら微笑みを浮かべて箱を覗きこみました。
宰相の手渡す箱を受け取ると、参謀総長は葉巻の品定めをし、葉がしっかりとして形の整った一本を選び、箱を丁重に返しました。そして吸い口をナイフで丁寧に切り落とすと匂いを嗅いで頷き、黄燐マッチを擦ると葉巻に火を付けました。
満足げに一服吸い込み、ゆっくりと吐き出す様は、まるで自宅の居間でくつろぐかのようです。
モルトケは大の葉巻好きであり、愛する歳の離れた妻を傍らに聖書や文学を読み、高級葉巻を燻らすのが趣味と言えば趣味でした。
そんな戦場でも普段と変わらない態度を示し、ゆっくり葉巻を選ぶモルトケにビスマルクは内心舌を巻いていたのです。
(この男はこんなにも落ち付いている。作戦を考えた男がこれだけ冷静でいられるのだ。この戦いは大丈夫だ)
ビスマルクは自分も葉巻に火を点けると、モルトケを真似てゆっくりと紫煙を吐き出すのでした。
午後1時を過ぎると、もう本営では撤退を進言する参謀まで現れました。今ならまだ撤退が可能だが、これ以上ぐずぐずすると墺軍が逆襲に転じるだろう、そうなってはもう遅い、と論じます。
するとそこへ東部戦域に偵察に出ていた第一軍参謀長フォークツ=レッツ将軍が馬を駆って帰着し、声高に国王とカール王子に報じました。
「殿下の軍がやって参りました。既に三十分ほど前、ホレノヴェスからセンドラシックにおいて墺軍と戦い始めております!」
「おお!」
「ウォー!」
ドゥヴの丘陵に本営の幕僚たちや兵士たちの歓声が響き渡ったのでした。




