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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
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「内線」より「外線」を(ドライゼ「針」銃)


 モルトケはプロシア軍の強化に自信を深めて行きました。

 特にヨーロッパでもトップクラス(即ち世界のトップクラス)になって来たプロシアの工業技術とその発展に大いに励まされたことでしょう。


 現在に続くドイツの優秀な工業技術は、モルトケが生きた19世紀に花開きました。特にクリミア戦争(1853年10月~1856年3月/英仏参戦は1854年3月)でイギリス、フランス、ロシア、トルコなどの大国が火花を散らしていた時期、プロシアは中立だったため戦争特需が発生し、疲弊する英仏露を横目に工業生産力は飛躍的に伸びて行きました。


 この革新のただ中にモルトケが参謀総長になった事は、彼にとってもプロシアにとっても幸運だったと言えます。

 既述通りモルトケは技術革新によって戦術や兵器の使用方法が劇的に変化する予兆を捉えており、これを動員や作戦術に利用する「柔らかな頭」と「先見性」を持っていたからです。


 この技術革新の中で、彼が最も頼りとしたのは「ドライゼ銃」だったのではないでしょうか?


 旧マインツ大司教領ゼンマーダー(ライプツィヒの西南西90キロ)の鍛冶屋、ヨハン・ニコラウス・ドライゼ(1787-1867)は、22歳の時、スイス人サミュエル・ヨハン・パウリのパリ工房で働きます。この人物は、世界で最初に拳銃や小銃の「実包」を発明し飛行船や後装銃の研究を行っていた発明技術者で、ドライゼ青年はナポレオン1世から依頼されパウリが試作し特許を取得した「後装銃」に着目、実家に帰ると独自に研究を始めました。パウリの発明した後装銃は構造が複雑で当時の技術では量産出来ず、ドライゼは大量生産可能で安全な後装銃を目指したのです。

 因みに、前装銃・砲に対する後装銃・砲自体は15世紀に登場しており、弾丸が飛び出す銃砲口から装填するより後ろに装填専用の口を作って装填した方が便利、という感覚は中世からありました。しかし、後装銃砲の問題は弾丸を前に押し出す火薬のガス圧が後方にも口があるため減衰してしまい射程や威力がかなり落ちてしまう点、そしてその発射時に漏れる高温のガスが後ろにも漏れるので操作する人間が負傷しやすい、という点でした。

 この問題はナポレオン戦争が終わっても解決せず、不完全な後装銃は試験的にほんの一部で使用されるだけでした。


挿絵(By みてみん)

  ドライゼ


 ドライゼ銃の開発は1827年、この頃に発明された銃用雷管(拳銃や小銃の発射薬に着火するための部品)が打ち金による打撃で発火するだけでなく鋭い針状の金属を突き刺すことでも発火することに着目し、これがドライゼ「針銃」開発の起点となりました。

 このメカニズムを実用性のあるものにするため様々な試作が行われ、最初は前装式で試されるとドライゼはプロシア軍に持ち込み開発援助を求めますが相手にされませんでした。しかし、出資者を探して粘り強く交渉を続けた結果、王族の一人に認められるのです。これが後にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世となる王太子で、王太子と数名の出資者に対し29年、試作品を見せることが出来たのでした。

 この時期はまだ前装形式だったドライゼの試作小銃は、それでも斬新な撃針式発火装置と弾丸と装薬そして雷管が紙のカートリッジで一体化した全く新しい「実包」によりこれまでのマスケット銃より装填作業が安全で素早くなることが評価されるのでした。


 ドライゼは銃の将来性を認めた王太子らの援助で1833年、ドライゼ銃の前段階となる「ブドウ型小銃」を1,100挺試験的にプロシア軍へ納品することが出来ます。軍はこれを2個大隊で試験させますが結果は散々、「不合格」となりました。しかしドライゼは屈せず35年に発展型の「シリンダー式小銃」を開発します。ブドウ型では大きくコブ状に膨らんでいた銃後部の発火装置(これがブドウに似ていました)がシリンダー式ではコンパクトになっていましたが、これもブドウ型から問題だった「装填時に実包を槊杖で押し込むため、ライフリングなどに雷管が刺激され実包が誤発する可能性が高い」という課題をクリア出来ていませんでした。実際に装填時の事故で何人もの兵士が負傷しドライゼ自身も実験中に手を怪我しています。


 ここでドライゼは元からのアイデアであった実包を槊杖で突かずに済む後装式に転換し試行錯誤を重ね1836年、ボルトアクションの原型となる可動ボルトの原型を設計しました。更に実験と試作を重ねたドライゼは軍に試作品を納品し、これに満足した軍と国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は1840年、60,000挺の大量発注をします。


 ドライゼは国の融資を受けてゼンマーダーに大量生産に適う工場を建造し生産を開始しました。しかし斬新な機構を持つこの小銃の生産は困難で月産500挺前後しか納品出来ません。それでも完成品は少しずつベルリンの武器弾薬庫に納められ、軍は「軽量打撃(雷管)銃M/41」(Leichtes Perkussionsgewehr M/41)と命名し、革新的なこの小銃の秘密を護るため尽力しました。

 ところが、小銃の納品が45,000挺に近付いていた48年、例のベルリン暴動が発生して混乱の中武器庫が襲撃され、ドライゼ銃も一部奪われ、その内の何挺かが海外へ流出してしまい画期的な「針銃」の秘密はヨーロッパ各国軍の知るところとなってしまうのです。

 それでもこの48年にプロシア軍は「M41小銃」として正式採用、最初は機動性が高く求められる各フュージリア歩兵*大隊に支給されました。


※フュージリア(フュージリエ)とは「フリントロック式の小銃を使用する兵士」の意味で、「軽装備の歩兵」を示します。フリントとは火打石のことで、従来の火縄式と違い火を使わない撃発装置を装備したこの手の小銃は砲兵部隊の護衛や騎兵に使用され、次第に先鋒として最前線で散開して戦う「軽歩兵」にも使用され出しました。なおプロシア軍では19世紀中期から歩兵連隊がフュージリア大隊1個とムスケディア(マスカット銃兵・戦列歩兵と言います)大隊2個から構成されています。


挿絵(By みてみん)

  ドライゼ銃の図解


 ドライゼ銃の「初陣」は1849年の革命鎮圧期と言われ、ドレスデンの5月革命鎮圧に出動したフュージリア兵が使用しました。その後バーデンやプファルツの革命鎮圧や第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争で使用されます。この実戦経験でその有用性がはっきりしたため、国王は全軍にドライゼ銃を導入するよう命じ、量産体制も整えられたのでした(1853年から各地に工場が建てられます)。


 1860年代に入るとドライゼ銃は全ての歩兵大隊に行き渡り、騎兵も同じドライゼ銃で銃身を短くした騎兵銃を使用、普墺戦争の頃にはフュージリア兵も少々銃身が短く銃剣が歩兵銃とは違う「フュージリア銃」(フュズィリーアゲヴェア)を使用しました。


 この世界初のボルトアクション銃(実包を素早く装填する機構)は時代の一歩も二歩も先を行く小銃で、前装小銃を一気に過去へと葬り去ります。

 この銃がプロシア軍に行き渡ると設計者ニコラウス・ドライゼ(1864年に貴族となり「フォン」が付きます)の名を取った「ドライゼ銃」や撃針装置から「ニードルガン(針の銃)」と呼ばれるようになりました。


挿絵(By みてみん)

  ドライゼ「針銃」の機関部


 ただ、革新的なものには故障や短寿命が付き物です。ドライゼ銃も例外ではなく大きな利点もありますが欠点も数多く見られました。


 軍人の多くが利点として上げたのは意外にも銃腔の清掃が簡単という点でした。それまでの前装式では25発から30発で銃腔内に黒色火薬の燃焼滓や弾丸押さえなどの残留物がこびり付いて撃てなくなるのが普通で、その都度銃口から槊杖などを使って清掃しなければなりませんでした。しかし後装のドライゼ銃は煙突掃除の要領で簡単に銃腔を清掃出来、実包のおかげで銃腔自体にも前装式と比べ残留物が少なかったのでした。


 後装式であるため誤発や不発が少ないことも大きな利点でした。同じく雨天における射撃でも撃針式発火装置は前装式より低い不発率となります。戦闘中に不発の怖れが高ければ士気も下がるというものです。

 

 しかし何より最大の利点は、装填が横たわったまま可能になり、しかも素早く装填出来るという点でした。


 前装式は装填時に射手は立ち上がり最低でも片膝を突いた状態で身を晒さなくてはならず、しかもその動作は非常に大きなものだったため、格好の的となるか安全な場所まで後退して装填する必要がありました。そのため、前装銃での隊列射撃では最低でも二組の射撃列を作り、射撃と装填交互に入れ替わって一斉射撃を行う方法が一般的となっていました。

 これが後装式となれば、各自射撃姿勢のまま装填が可能で(相手からすれば的が小さい)しかも素早く次の射撃が可能でした。


 ドライゼ銃の装填速度は射撃の性質(一斉か自由か)にもよりますが、戦闘中で1分間に3~5発、演習では最高1分間で12発という記録があります。これは当時(1860年前後)の前装式ミニエー小銃に対して約3倍のスピードでした。

 とはいえ、発射速度の早さは「弾薬消費も早め高める」として軍から要注意事項とされます。ある実験では兵士が12分間で60発(歩兵の携行弾数)を撃ち尽くした、とあるため指揮官達は兵士に対し常に実包の残数に注意を払うよう教え込むのでした。


 ドライゼ銃の欠点としては先ず、他の小銃に比べ射程と威力に劣ることが上げられます。

 ドライゼ銃の最大射程は600mほどで、有効射程はその半分、確実にしとめるなら200m以下と言われていました。当時プロシアの仮想敵国オーストリア帝国の正式小銃だったローレンツ銃(前装式ライフル小銃)の最大射程は900m、有効射程も750mありました。

 これは銃の構造から来る欠陥で、未だ発展途上の技術ゆえ銃の発射機構が壊れやすく、同時にボルト装填の閉鎖機構と銃身との間に僅かな隙間が開いており、燃焼ガスがここから漏れて射手に火傷を負わせてしまう危険性がありました。この問題を解決するためドライゼ銃は他の銃に比べて実包の発射火薬の量を少なくして燃焼ガスの圧力を弱めてあり、このため射程が低かったのでした。この欠点を出来るだけ弱めるため、ドライゼは銃身を長くし弾丸の初速を高めることで補おうとしましたが、この長銃身は銃の扱いを難しくしていました。


 また、紙で出来た実包の精度も低めで、軍への納入品の10%に不良品(実包の中心線からずれて弾丸が置かれている場合が多くありました)が発生し、更に弾丸が実包から離れず飛んでいってしまう例もあって、これらはとんでも無い方向へ弾丸を飛ばしたり弾丸が直ぐに落ちてしまったりの原因でした。

 戦闘中、連発により銃身が熱くなると熱膨張によりボルトのスライドが固く動き辛くなるのも欠点で、これは力任せにボルトを引く動作を誘発し、焦った兵士が手近にあった石やレンガなどでレバーを叩くなど無茶な動作で銃が壊れることがありました。


 そして兵士にとって面倒だったのは針銃という名の由来となった「撃針」で、この長い「針」は実包の中程にあった雷管を叩くためのものでしたが、発射薬とその燃焼ガスによって腐食しやすく、交戦中に折れたり曲がったりしたため、一定数の射撃後に必ず交換することが決められていました。兵士は予備の撃針をいつも携行しなくてはならず、交換は交戦中でも発生し、運が悪ければ命取りになる欠点でした。


 しかし、プロシア軍は臆することなくこの銃を使いこなします。前述通りモルトケが参謀総長になった頃にはこの銃は部隊に行き渡り、兵士はこの銃の欠点を熟知し、その優れた速射性を利用した戦術にも慣れ親しんで行きました。

 そしてこの銃がこの後、プロシアの勝利に貢献して行くのです。


挿絵(By みてみん)

  ドライゼ銃と記念撮影するプロシア兵

  (銃の長さが分かります)


 さて、機構や新技術を取り入れると共に、モルトケは作戦面でも新機軸を打ち出します。それは「内線」よりも「外線」を重視する、と言うものでした。


 作戦術には「内線」と「外線」があります。

 簡単に言えば「内線」とは一つとなった部隊が周囲の敵と対する、というもので、部隊が後方と一本の鉄道や道路(後方連絡線・兵站線)で結ばれた状態を言い、

 「外線」とは二つ以上の集団が敵を挟み込む形に運動・展開し、後方とはそれぞれが独自の連絡線で結ばれている状態を言います。


挿絵(By みてみん)

    外線

挿絵(By みてみん)

    内線


 内線を基にした作戦は、一つに集合した部隊を複数の敵の間に置き、一つずつ順番に敵の撃破を狙う(各個撃破)作戦で、

 外線を基にした作戦は、味方を複数の部隊に分けて敵を挟み込み、挟撃するか包囲を狙う、という作戦です。


挿絵(By みてみん)

   内線の各個撃破

挿絵(By みてみん)

   外線の包囲


 この19世紀中頃までの作戦は「内線」優勢を基に考えるのが一般的でした。

 これは、ナポレオンやロシア軍の作戦担当幕僚だったアンリ・ジョミニの考えが当時各国の参謀や指揮官にもてはやされていたからでもあります。


 アントワーヌ=アンリ・ジョミニはスイスの人で、ナポレオンもその才能をほめたたえた逸材でした。

 ナポレオン戦争中、フランス軍のミシェル・ネイ将軍に見出されて幕僚となったジョミニはウルムやアウステルリッツの会戦に参加しスペインとの戦いで活躍しますが、ベルティエ参謀長らと仲たがいして敵方ロシアに転籍するというユニーク?な経歴の持ち主です。

 このナポレオン戦争を両側中枢から見た彼は戦後、「戦争概論」という軍事研究書を出版し、天才的軍事学者の名をほしいままにしました。

 そのジョミニが説きます。戦争には古代より変わらぬ原則があり、ナポレオンはその「不変の原則」を適用していたから勝てた、と。戦場にある「決定的な決勝点」を狙う軍の行動が勝利を呼び、それには「内戦作戦」が有利であると。正に現代の「戦闘の原則」を匂わせる先駆性です。


 ナポレオンの数多い勝利を紐解けば、味方戦力を敵の所在に向けて急進撃させて一ヶ所に集中させ、敵が一つにまとまる前に、敵より多くの兵を集めて各個撃破して行く、というものが目立ちます。

 ジョミニが言うように、正に内線作戦のお手本、「戦闘の原則」にある「集中の原則」の成功例と言える作戦術で、各国の参謀たちはナポレオンの成功とジョミニの考察に感化されていたのでした。


挿絵(By みてみん)

  ジョミニ


 しかし、モルトケはこれを全面否定します。今後の戦争では「外線」が有利になる、と。

 「外線」有利というモルトケの考えは、当時の技術革新(特に鉄道と電信)に裏付けされたものでした。ナポレオン戦争当時より格段に進歩した軍隊の輸送力と通信連絡により、もはや一つに集中し相手に対する「内戦」重視より、複数に分かれて包囲の形で敵を攻撃した方が効果的だと見抜いていたのです。

 そしてナポレオンには「参謀本部」がなく、ただ一人、ナポレオン自身が全てを掌握し作戦の全てを考え実行させていたという事実、「強大なカリスマだけが成し得る奇跡」が「内線」を光輝かせていたという事実を知っていたからこそ、「ナポレオン(カリスマ性の高い天才)こそいないが共同責任と委任命令がある」プロシア軍が取るべき「道」を「外線」とするのでした。


 モルトケはこの外線作戦の基本戦法を「分進合撃」に定めました。


 分進合撃はモルトケが考えたものではなく古くからある外線戦法で、18世紀の戦争ではおなじみの作戦でした。ナポレオン戦争でもオーストリアやプロシア軍が何度か試みていますが、ナポレオン軍の素早い集中機動によって各個撃破を喰らっています。この記憶も「内戦」重視へとつながっていました。


 モルトケは当時とは全てのスピードが違い、鉄道(速やかな移動・大量輸送)と電信(素早く情報を得て素早く命令を発する)を利用すれば、各個撃破を受ける前に敵を包囲殲滅出来ると確信していました。


 重ねてモルトケは言います。

「戦争に普遍の法則など存在しない。どのような戦例からも、勝利の方程式など見出すことは出来ない」

と。

 これは18世紀フランスの偉大な将軍、モーリス・ド・サックスの「戦争とは、あらゆる法則に支配されない予測不可能なものである」という思想が根底にあるのかも知れません。

 しかし、戦史を研究し、地理を極め、トルコでは旧弊頑迷で変化を厭う軍の弱さを体験し、そして軍事論ばかりを声高に論じ合う同僚を見たモルトケが得た結論だったのではないでしょうか。


 この時代はまだ「戦闘の原則」は生まれていませんし、軍事研究も単なる戦史研究からジョミニやクラウゼヴィッツが始めた戦争の考察へと向かったばかり。

 それに引き替え、このモルトケの考え方は斬新でした。

 軍事の鉄則ともて囃される戦史や戦例から学ぶことは学び、しかし盲従はしない。先達の言葉に踊ることなく、自身の頭で考える。

 実戦ではクラウゼヴィッツの言うように「戦場の霧」があり、作戦は流動的に、臨機応変に実行しなくてはならない。先例や公式に捉えられた思考に従っていては、どう転ぶか分からない戦場ではあまりに危険だ、とモルトケは教えているのだと思います。


 そこには、「現在を戦うのは自分たちであり、どんなに偉くとも先達ではない」という気概も見え隠れしています。

 このモルトケの考察は少しずつプロシアの参謀達に浸透して行きました。自主的に考え、自主的に動く。あのグナイゼナウが規定した「共同責任」と「委任命令」というルールが、モルトケにより初めて意味あるものとなったのです。

 戦史・戦例に捕らわれない現状を見据えた作戦は、目的・目標さえ間違わなければ作戦を柔軟に解釈してもよいと指示された指揮官によって実行されて行く。これで分散し行軍する外線作戦でも現地部隊は上層部の「指示待ち」をしないで「ひとつの目標に向け個別に考え動く」ことが可能となるのです。

 正に新しい国王(ヴィルヘルム1世)による「新時代」に相応しい軍事理論でした。



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