ケーニヒグレーツの戦い/午前9時・墺北軍の布陣
この「ケーニヒグレーツの戦い」は、大きく分けて次の三方面における同時進行の戦いです。
一・中央。サドワの南、モクロヴォース(モクロヴォウシ)からドハリック(ドハリツェ)を経てリパ(リーパ)・クルム(フルム)前面までの戦い
二・墺軍左翼(西側)。ネカニッツ(ネハニツェ)からプリム(プジーム)高地への戦い
三・墺軍右翼(東側)クルムの東、マスロウェード(マースロイェディ)とホレノヴェス(ホジニェヴェス)からトロチナ(トロティナ)方面の戦い
それぞれの方面で戦うのは、
一/普第一軍対墺第3軍団・第10軍団との戦い
二/普エルベ軍対ザクセン軍・墺第8軍団の戦い
三/普第一軍、そして午後からは第二軍対墺第2軍団・第4軍団の戦い
となります。もちろん、時間の経過と共に戦線が動いて行き、それぞれが相手を変えて戦うことになって行きますし、予備部隊の投入などもあり、クルム高地上は混沌としたことになって行きました。
この後、この戦記は時間の経過と場所によって段階的に見て行きたいと思います。
なお、この「ケーニヒグレーツの戦い」の項では一を「中央戦域」、二を「西部戦域」、三を「東部戦域」と呼ぶことにします。
最初に、墺軍全体の午前7時から9時前後における配置を見てみましょう。
「西部戦域」はザクセン軍が主体となり、第1軽騎兵師団がその南西側、第8軍団がその背後と命令され、日付が変わった頃から準備に入りました。
しかし、既に語りましたが、アルベルト=ザクセン親王が自軍の位置にこだわりを持って布陣を変えたので、自然と墺軍の配置も変わっていきました。
墺第8軍団はザクセン軍の予備とされました。
この軍団は6月末に指揮官を病気で欠き、ヨーゼフ・ウェーヴェル少将が臨時に軍団長を務めていました。ウェーヴェル将軍は開戦時は第8軍団付き少将(軍団の副指揮官格)でスカリッツの戦い後、指揮官を失ったクライサーン旅団を引き継いでいました。更に軍団長が病気でウィーンに帰ったため旅団長のまま軍団全体を率いることになったのです。
第8軍団に所属する三個旅団の内シュルツ、ロートの二個旅団とウーラン(槍騎兵)部隊は真夜中に順次野営地を出立してその先頭がシャルブシック(ハルブジツェ)に入ったのは午前8時30分。直ちに一参謀がザクセン軍本営に向かい、アルベルト親王の指示を仰ぎます。
既にザクセンの前哨がネカニッツから後退し、東のクルム方面からは激しい砲撃戦の音が聞こえています。アルベルト親王は第8軍団に対し自軍後方に布陣せよと命じました。
これによって、シュルツ旅団はプロブレス(プロブルス)のすぐ東に、ロート旅団(スカリッツで戦死したあのフラクナーン将軍が率いていた旅団です)はその北、ストレセティク(ストジェゼティツェ)に、軍団砲兵はプロブレスの南へ、騎兵たちはシャルブシックの西に布陣したのです。
なお、軍団長の部隊、ウェーヴェル旅団は夜が明けても前日の部署であるホレノヴェス(ホジニェヴェス)に留まっていました。これは部署を交代すべき第4軍団の到着が遅れたためで、おかげでウェーヴェル旅団は第4軍団の旅団に加わって戦う者あり、午後になりザクセン軍陣営へたどり着いて戦う者ありとバラバラになってしまいました。
ザクセン軍の配置がプリム(プジーム)高地周辺となった影響を最も受けたのは墺第1軽騎兵師団でした。積極果敢なエデルスハイム少将に率いられた伝統のユサール(驃騎兵。軽装備騎兵のこと)たちは、命令ではプロブレスからプリムにて待機するはずでしたが、正にそこへザクセン軍が居座ったため、少将はその南、オーベル=プリム(ホルニー・プジーム)の東側、街道を挟んで布陣することにしました。
こうして午前9時頃には西部戦線の墺・ザクセン連合軍は普エルベ軍を迎え撃つ態勢が調ったのです。
「中央戦域」を担当したのは墺第3軍団と第10軍団です。ケーニヒグレーツの戦いで最も熾烈な戦場となりました。
ガブレンツの第10軍団はこの日、三個旅団を主力として戦いました。
その担当地域はサドワのすぐ南、ドハリック(ドハリチェ)からザクセン軍の最右翼がいるトレソヴィック(トジェソヴィツェ)の東側まで。
クノーベル旅団はあのノイ=ログニッツで消滅したグリブヴィック旅団の生き残りを吸収してウンター=ドハリック(ホルニー・ドハリチェ)を中心に布陣します。
その南東、ランゲンホーフ(ドロウヘードヴォリ)の西高地にはモンデール旅団がいました。
また、ウィンプフェン旅団は主力をドハリックとその南、モクロヴォース(モクロヴォウシ)に展開し、軍団予備として数個大隊を後方に置きました。軍団の砲兵はモンデール旅団に並んでリパ部落の西南に砲列を敷いています。
これは概ね命令通りの布陣でした。彼らは普第一軍の第2軍団(第3、第4師団)と衝突することになって行きます。
第3軍団は既に記しましたように、リパとクルムのラインに布陣していました。しかし、既述の通りクルム高地の玄関口であるサドワを易々と敵に渡してしまう配置に軍団長のエルンスト親王は不安を覚え、配下の四個旅団の内、プロチャッカ大佐旅団をサドワ周辺に配置しました。
残りは命令通りサドワの南、高地上に布陣して、キルヒベルク旅団はリパ西南、ベネデック旅団はリパ、クルムの両部落とその部落の間、アピアーノ旅団はシストヴェス(チスチェヴェス)部落の北に、それぞれ布陣しました。
また、軍団砲兵は北軍工兵たちが設営した砲台や陣地に入り、普軍を苦しめる事となります。
このサドワの南東一帯は森林が点在しており、特にベネデックとアピアーノ旅団の区域は林が多く、部隊の一部は林の中にいました。中でもシストヴェスの北にあるシュウィープの森は1キロ四方と大きな森で、ここではまもなく凄惨な戦いが繰り広げられることになります。
「東部戦域」。東からの「脅威」、普第二軍に備えて配置された墺第4軍団と第2軍団、そして第2軽騎兵師団が敵を迎えました。
第4軍団長、フエスティス将軍がベネデック司令官からの合戦準備移動命令を受けたのは朝の4時以降で、ネデリスト(ネジェリシュチェ)周辺の野営地から移動を始めた時には既に中央戦域で戦いが始まっていました。
移動とは言ってもネデリストから南へ、東を向いて布陣していた形を、ネデリストを軸に部隊の向きを北西に変えるという布陣で、距離はないものの部隊が錯綜しやすく、慎重に事を運ばねばならない難しい移動です。
また、運の悪いことに早くも午前8時には第4軍団の担当地域にも敵が来襲し、ベナテック(ベナートキ)周辺で軍団所属のブランデンシュタイン旅団が戦闘を開始しました。
この混乱の最中にフエスティス将軍は決心します。
当初の移動命令ではホレノヴェスからマスロウェード(マースロイェディ)を経てクルムで第3軍団右翼と連結せよ、となっていたものを、左翼を前進させ、第3軍団の担当域でアピアーノ旅団が展開していたシストヴェスにフライシュハッケル旅団を送り、ヨーゼフとペークの二個旅団をマスロウェード(マースロイェディ)の両側へ展開させました。
一見、命令通りに見えますが、命令を防衛戦闘として杓子定規に捉えれば、部隊は左翼を北西、中央は北、右翼は東向きと円弧を描いて置くところ、将軍は左翼(西)を北西(サドワ)向き、中央と既に戦い始めた右翼を北に向けたのです。
これは、北方より押し寄せる普第一軍と戦うためには仕方のない采配ではありました。
しかし残念なことにこの後、普第7師団と軍団の北面に当たるシュウィープ森で激戦を行ったため、自然と軍団全体が北西へと動き、東側に対して横腹を晒してしまうという致命的な間違いを犯してしまうこととなってしまいます。
タシーロ・フエスティス
第2軍団も朝の4時に命令を受領し、トロチナからネデリストへ布陣するため移動を開始しました。
しかし、軍団長のツーン将軍は自軍団の左翼に当たるセンドラシック(センドラジツェ)の東にある高地が気になって仕方がありませんでした。敵の第二軍がエルベ支流、トロチナ川を渡ってセンドラシックの高地を奪えば、第2軍団は敵から俯瞰されて「丸見え」となってしまい、砲撃を受ければ大損害確実です。
ちょうど軍団が動き始めた8時頃、同じく動き始めたお隣、第4軍団の右翼が東ではなく北を向き、まもなく敵と戦い始め、また他の旅団がその後方マスロウェードに進んだのを知ったツーン将軍は、自軍団も命令より前進してホレノヴィスの高地を中心に陣を構えよう、と決心するのです。
これにより第2軍団の布陣はベネデックの命令よりずっと北寄りとなり、ヘンレケッツ旅団と槍騎兵連隊をセンドラシック東高地に置いて敵第二軍を警戒させて不安を払拭すると、残りの全旅団、トーム、サフラン、ウィッテンベルグの3個旅団をホレノヴェス周辺の高地に集中して布陣します。軍団砲兵は同じくホレノヴィスの東西両側の高地に展開し、直ちに(午前9時半)普第7師団に向けて砲撃を開始しました。
これは戦術的に見れば好判断だったと言えるでしょう。もし、当初命令通りに布陣したのなら、その左翼(北)の横腹から普第7師団に被られ、損害が出た可能性があり、また普第二軍が予定通り黎明から進撃していた場合、センドラシックを取られて窮地に陥っていた可能性もあったからです。
しかし、実際は普第7師団に釣られた格好でシュウィープ森の戦いに引きずり込まれ、第4軍団共々、北軍本営が考えていたより前に進み過ぎて東側の防衛が「お留守」となってしまったのです。
この東部戦域では、第2軽騎兵師団のみ本営の命令を遵守、ネデリスト西側に布陣しました。
墺北軍にはこの他に第1軍団と第6軍団、そして予備騎兵師団が三個と軍団砲兵集団がありました。
これらの部隊はベネデック総司令官直轄の軍予備としてケーニヒグレーツの北西郊外に展開し、出番を待ちました。
第6軍団はランゲンホーフ(ドロウヘードヴォリ)の南へ進み、第10軍団の後方で待機となります。また、第1軍団は最初、ロスニック(ロスニツェ)に向かいますが、途中で本営から命令が届き、クルムの後方へ第6軍団が動いて、その西側に並んで集中し待機となりました。同じくクルムの南には第1予備騎兵師団が展開します。
第2予備騎兵師団はブリザ(ブジーザ)へ向かい、部落の南西側に待機しました。
残る第3予備騎兵師団ですが、この部隊、7月2日の深夜にはビストリッツの川辺という最前線に位置していましたが、朝4時、プロシア軍の行軍を知って第10軍団の後方へ退却し、そこで敵を迎えることとなります。
軍の砲兵部隊は第6軍団の後方で待機に入りました。
全体的に見てこの北軍の布陣は、本営が描いたリパとクルムを頂点にした「円弧」ではなく、ザクセン軍(西)のみ曲がった「直線」になってしまいます。もし、普皇太子の第二軍が東からやって来なければ、この布陣で普第一軍を押し返すことが出来たかもしれません。しかし、出遅れたとは言え、皇太子の軍は出立しています。
後は墺北軍が普第一軍を撃破し北へ押し返すのが早いか、普第二軍がクルム高地にたどり着くのが早いのか、完全な競争となったのでした。




