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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Danach(その後は……)
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モルトケの成果と罪(後)


 前段では「軍人の増長を招いたその発端」「独断専行の曲解を正当化させてしまう」との批判について、「リミッター」の有無からモルトケの「罪」を示しました。また、「フリードリヒ大王の作戦をなぞっただけ」との批判には「大王の作戦を我がものにして電信・鉄道・大砲などの発達を加味し、新たな戦術としてリニューアルしている」点を強調しました。

 最後に「普墺・普仏」において「相手側指揮官のオウンゴール」に近い批評と「幸運と偶然が招いた大勝利」について語ります。


挿絵(By みてみん)

「モルトケだ!」普仏戦争時ベルサイユで。(ルイ・ブラウン画)


☆ 評価(承前)


 ケーニヒグレーツ(フラデツ=クラーロベー)の大会戦にしても、グラヴロット/サン=プリヴァの会戦にしても、その鮮やかな結果にしてはモルトケの評価は今一つと言ったところです。

 中には戦術の極意と称して「ラミイ」(スペイン継承戦争/マールバラ公ジョン・チャーチルの片翼突破)「ロイテン」(7年戦争/フリードリヒ大王の斜行戦術)「アウステルリッツ」(ナポレオン戦争/ナポレオン1世の「罠」)を引き合いに出し、これに較べて「ケーニヒグレーツ」「グラヴロット」「セダン」には「戦術の才が見られない」とするなど、散々な批評もあります。

 これについても、今一度モルトケの擁護を試みます。


 「戦術の極意」等と言われる先の三大会戦と「モルトケの三会戦」を比較した論評ですが、これは作戦術のみを比較し「時代や背景」を無視した「的外れの極論」です。


 先の三大会戦はどれも勝者が「隙」を作って敵を釣る「欺瞞」を柱にし、敵の動きを読んで片翼側面や薄い部分などを集中攻撃する作戦で、これはまだ武器(大砲・小銃)の射程が短く威力も弱く着弾も安定しない代物、騎兵が戦場の華・勝利を決する要素だった時代の話です。

 武器の射程が短く威力や正確さもさほどでなければ、敵から「見えて」いても有利な位置に無事移動が完結出来ますし、騎兵は誰にも邪魔されず敵の弱点を襲うことが出来ます。同じ作戦行動を、例えば「ケーニヒグレーツ」で用いれば、普軍騎兵の犠牲を恐れぬ突撃や歩兵の規則正しい前進は、例え驚くほど早く行動したとしても有利な高地に展開する墺軍の砲列格好の目標となり早々撃破されてしまったことでしょう。


 非ミリの方が「何と酷いことを」とお怒りになるのを覚悟して少々荒っぽい言い方をすれば、武器の進化は「作戦・戦術を味気なくつまらなく」見せます。

 武器の射程が延び正確な着弾を得たことで敵の隙を突くにはこれまで以上のスピードが必要となり、この状態で同等の武器を双方が持てば膠着状態も頻繁に発生します。それまで「ブリキの兵隊」の様に機械的に行軍し片膝を突いて小銃を撃っていた歩兵は、広く散開して前進し這い蹲って射撃を行い、要地には塹壕や鹿柴・後には有刺鉄線が張り巡らされ、敵の側面を突くことなどそう簡単ではなくなります。

 これを打開するには更に「速度」を上げなくてはなりませんが、この要求に従って武器は益々進化し、装填速度や発射速度がアップ、そして射程も延びます。騎兵が陳腐となればそれを補うスピードを確保するための移動手段「自動車」が登場しこれは戦車に繋がって行きます。そして二次元から三次元へ、空へと戦場が広がり、そして宇宙、なんと電脳世界まで、こうなると「作戦・戦術」などにロマンはなく(度々失礼!)、ただの小難しい計算式・確率論になってしまいました。


 と、まあ、これは大きく行き過ぎましたので、大モルトケの時代に戻ります。


 敵味方双方、簡単に相手の隙を突くことが困難となれば、延々続く銃砲撃戦で単純な「我慢比べ」が起こります。つまり前述通り相手を出し抜く鮮やかな作戦は中々決まらなくなりました。

 そこでモルトケは両軍が集合して対峙し始まる会戦の前、戦場への行軍移動を重視し、これが「分進合撃」となっていたのです。

 分進合撃作戦では多くの場合、フリードリヒ大王や戦争後半に比較的大軍を率いるようになったナポレオン1世時代の会戦のような「両軍対峙」の壮大な歴史絵巻の時間が出来ません。内線にある敵が集合し防備を固めていればそれはそのまま包囲戦となりますし、広く展開していれば両翼攻撃か遭遇戦が発生します。

 この合撃に参加する軍は移動中に偵察や諜報により敵の布陣を確かめ、出来るだけ包囲を狙いそれが無理なら敵の側面を突き易い地点に進むか、敵の注意を多方面に散らして敵を疑心暗鬼に陥れ混乱させるように進み、会戦前に自軍優位な状況へ持って行く様にするのでした。

 そこには「作戦のマスターピース」と呼ばれるような要素はなく、戦いが始まればそれはナポレオン時代までの「チェスや将棋」(考える時間もあります)の世界ではなく「ラグビーやゴルフ」(考える時間は相対的に短く即断を要します)の様に「総指揮官の命令をそのまま忠実に行うのではなく、現場指揮官の臨機応変、その場面場面で素早い決断の連続」つまりコーチだけではなくプレーヤーの能力も試されることとなります。そこに総大将が介入しようとしても、ナポレオン時代とは違い武器も一般戦術も「高速化」しており、また集団も細かく分散して中央の命令など即座の実施が困難となっているのでした。


 ですから、モルトケの作戦術を先の三大会戦の時代と比べても余り意味はありません。モルトケは作戦の妙を狙うことで勝利を得ようなどとは考えてもいなかったはずです。既述通りモルトケは「勝利を得るための方程式」否定派で、「戦場の霧」を意識して臨機応変をモットーとし、フリードリヒ大王の信奉者でしたが、大王の作戦術を我が物にすると共に、これを「現代風にアレンジ」、それは分進合撃に砲兵の積極的活用と「委任命令」の実行でした。


 普墺でも普仏でも、敵方の指揮官が明らかな失敗をし、その軍も欠陥が見え隠れするものだった事は確かな事実です。しかしこれも結果を知っている後世の者だからこその「神目線」であり、当時の墺軍は負け戦は多いものの侮れない大軍であり、仏軍に至っては自他共に世界最強と思われていた事も事実でした。

 この強大な軍事力に対抗、否、勝利するためモルトケは事前準備に全力を尽くしました。


 モルトケは、戦争に至る迄の事前準備を重視し、平時の研究と演習で勝利の種を撒き、実戦で開花させたのです。


「戦争指導(作戦)は各時代における技術上の成果を手足(重視)とするべきだ」 大モルトケ


☆ 事前準備の天才・モルトケ


 さて、モルトケが参謀総長だった時代(1858年から1888年)は正にこの「将棋からゴルフ」への転換期でした。


 将棋も普段からの猛練習や精神などの鍛錬を必要としますが、そこに天才の要素が加われば「ナポレオンや藤〇聡〇」が登場します。その「駒」に自分の考えは必要なく、また疑念を差し挟まず危地へも堂々と進み勝利のため平然としたまま斃れる者もあります(正に捨て駒)。


 しかし19世紀中頃になると状況は大きく変化します。

 この変化の要因は武器やインフラの革新的な進化とスピードアップばかりではありません。重要な要素がもう一つ。それは前述した社会の変化、貴族支配から現代の民主主義に至る「平民の地位向上」です。


 平民(この時代はまだブルジョワジー全盛)の声が無視出来なくなると貴族ら権力者たちはこれを渋々迎え入れ、ブルジョワジーもまた貴族然として支配層の仲間入りをします。そして成功者たちに続けとばかり中産階級から続々と「考える人々」が様々な社会構造の中へ進出して行きました。軍隊もその一つで、まだまだ「フォンの付く」人々が上層を占める過渡期ではありますが「学」のある兵士や下士官が増えて行き、その中から多くの優秀な士官も登用されました。モルトケがクライザウで行っていたような「農民や下層の人々にも学問を」与えることが珍しくなくなって来ると、モルトケが90才の誕生日に感動した「一兵卒が美しい詩を書く」ように社会は変化していたのでした。


 ナポレオンの時代はまだ18世紀を引き擦っており、兵士はまだ魂のない「ブリキの兵隊」のように動き死にましたが、学のあるモルトケの兵士たちは違いました。彼ら下士官兵も士官たちと同じように考えることが出来、それは戦術が武器の進化によって「戦列」から「散兵」・「集団」から「個々」に変わりつつある時代、命じられなくとも次に何をするかを学び、そして考え、準備をし、命令一下素早く行動を起こすのでした。

 しかし、その相手となった墺軍と仏軍は違います。この古い帝国・墺と新しい帝国・仏は軍の上下関係が厳しく、下達された命令は既に時を逸していても遵守されました。そして指示待ちは当たり前で、自ら考えて行動することは「規律違反」に問われる可能性があり、下手をすれば反逆と思われてしまいました。命令に「ない」行動を起こせば、それは即「命令違反」に問われたものです。


 この「兵士も考える指示待ちのない軍」を育て上げるには相当な時間が必要でした。普軍はこれをグナイゼナウとクラウゼヴィッツが軍の内面を変えようとした時から始め、途中頭の固い旧態然とした古風な軍隊を堅持しようとしていた一派と戦いながらゆっくりとその土壌が出来上がったのです。ライヘア参謀総長が政争に巻き込まれぬよう努力していた参謀本部内でこの考えは成熟し、そしてモルトケに手渡されたのでした。


 普墺戦争の緒戦。モルトケ(普軍)が三つの軍(左翼西からエルベ、第一、第二)をザクセンとオーストリア(ボヘミア地方)国境に展開し、わずか3個師団(戦闘員4万8千名・全軍の六分の一程度)で残りの独連邦諸侯軍(バイエルン、ハノーファー、ヴュルテンベルク、ヘッセン、バーデンなど約12万)と対戦させるという大胆な兵力展開を行いましたが、これだけでモルトケ率いる参謀本部の能力を普王国首脳陣が信頼し任せていた証拠となります。


 いくら普軍が精強であっても自国の西側を「スカスカ」の状態にすれば王室(ヴィルヘルム1世)と政治(ビスマルクやローン)が不安となり介入するはずでした。否、実際に介入し、エルベ軍に参加予定だった1個軍団(ヴェストファーレン州の第7軍団)を西方に残すよう要求します。これに対してモルトケは強固に抵抗し、第14師団とヴェストファーレン州の歩兵連隊2個をエルベ軍に残すことに成功、王室はゲーベン中将の第13師団(ミュンスター在)だけを西方担当のマイン軍(残りはマントイフェル将軍のシュレスヴィヒ師団とバイヤー将軍の西方混成師団)に残すだけで我慢するのです。それでもモルトケ以外の人間には大きな不安が残ったことでしょうが、王室と政治はこれ以上対オーストリア作戦には口を出しませんでした(但しハノーファー王国との交渉については介入し問題となります)。

 この結果は大きく、普軍はオーストリア側(北軍24万)が予想していたより相当大きな兵力(同等の25万)でボヘミア侵攻を始めたのでした。


 普墺戦争でのオーストリア(墺)帝国北軍司令官、ルートヴィヒ・アウグスト・リッター・フォン・ベネデック元帥について、本編でもその指揮ぶりを批判して来ました。しかし彼を初めとする墺軍首脳陣は前述の通り、「普軍は西方諸侯12万とも対戦する二正面作戦のため、総軍30万の内最低でも四分の一・7、8万程度を西方に残さざるを得ないだろう」と考えていたと思われ、数の優位を安心材料としていましたが、それがいきなり同数となれば焦るというものです。


 ベネデック元帥は第一次イタリア独立戦争、1849年のハンガリー動乱、クリミア戦争、そして第二次イタリア独立戦争と歴戦し、特に第二次イタリア独立戦争で墺第8軍団を率いたベネデックは、負けたとはいえイタリア(サルディニア)軍に対して善戦し、敗北した墺軍でも目立つ活躍を見せました。ベネデックは一般に知られる「優将」と目されるようになりますが、そんな彼を「買った」皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、普墺戦争で普軍と直接対戦する主力・北軍司令官に任ずるのです。しかし彼は二度戦ったイタリアに詳しく、どちらかと言えばイタリアと戦うことになる南軍司令官の方が適任で、逆にボヘミアで戦う北軍司令官は、領地が墺領シュレジエンにあってボヘミアに隣接し、戦場となったラベ(エルベ)川沿岸地域にも詳しかったテシェン公、アルブレヒト・フリードリヒ・ルドルフ・フォン・エスターライヒ=テシェン将軍が率いていた方が自然だったと思われます。

 結局ベネデックは大敗し、南軍を率いて善戦していたアルブレヒト公(クストーザの戦い勝者)が後任となりました。もし、最初からアルブレヒト公が墺北軍を率いていたら墺軍も多少は頑張れたのではないか、と思いますがそれは歴史のIFを考える妄想でしかありません。


 普墺戦争での墺軍敗戦原因については「普墺戦争」の章で語っていますので詳細を譲りますが、この「墺が思いもしなかった兵力の集中投入」が先ず最初に上げられる普軍の勝因です。この背景は簡単で、平時モルトケが参謀たちの尻を叩いて急がせた鉄道路線の国境への延伸や電信網の整備、そして敵地と仮想敵国軍の熱心な探究がその成果として現れたのでした。


 モルトケは数が多くバイエルンやハノーファーという侮れない軍隊はあるものの結局は「寄せ集め」に過ぎない西方諸侯軍は「この程度で十分」と、当初西方辺境にあった要塞守備隊2万(バイヤー混成師団)とシュレースヴィヒ守備隊1万4千(マントイフェル師団)に騎兵や砲兵を付けた「ファルケンシュタイン軍」に任せようとします(政治介入で第13師団を加えられますが)。逆に残り全軍をボヘミア侵入に投入し、北西・北東・東の三方からボヘミア北部中央を流れるラベ(エルベ)川に向け突進し、その河畔へ墺北軍を圧迫するか包囲して三方から合撃しようとする壮大な作戦を考えるのでした。


 これは平和時に当時の墺領土を隈無く調べ上げ、直前の墺軍の戦い方(第二次イタリア独立戦争)を研究した結果であり、また「敵より有利な武器(ドライゼ「針」銃)・有利なインフラ(鉄道と電信)・有利な兵力(師団編成対軍団編成・ほぼ同一民族対多民族)・有利な政治力(背後の露仏を抑えたビスマルク)」を最大限に活用するような努力をした結果でした。

 ドライゼ銃が先込ローレンツ銃を圧倒し、鉄道と電信は(後半バテたものの)初戦の大切な二週間をしっかり支え、軽快な師団編成(2個旅団4個連隊制)は旧態然とした墺軍の軍団編成(軍団4個旅団制)による鈍重で窮屈な戦い方を圧倒、そして仏が火事場泥棒的に西方領土(ライン西岸)へ侵攻する心配をすることなく、また皇太子の第二軍が背後(露領ポーランド)を心配することなく戦えることでモルトケの大胆な「後方ガラ空き作戦」が可能となったのでした。


 一方、普仏戦争の初期段階を見てみると、これもビスマルクら政治と外交の力で仏以外を参戦させずに中立に止め、特に普(北独)と国境を接するデンマークやオーストリア=ハンガリーが復讐の念を抑えて中立に止まったのは大きな得点でした。普仏戦争は普側こそ「小ドイツ連合軍」でしたがこれも政治の力による独帝国への第一歩で、心情は様々でしたが歴史の流れは確実に独諸侯の一本化へ進んでいました。従って世界各国は独仏の戦争を一対一・ボクシングのメインイベントのような目で眺めることとなったのでした。


 初期の動員・展開でも独側の素早さが目立ち、その作戦も「いざとなればライン西岸を一旦放棄してもよい」と余裕があり、これは机上の作戦で無理矢理敵国へ侵入しようとしていた仏とは大きな違いでした。しかも仏は時間的にも兵力的にも独に及ばない、と察するや防御に回り、これも動員の展開時に発生していた大混乱を更に悪化させました。

 8月頭の危機・シュタインメッツ第一軍とカール王子第二軍が交錯し仏軍に先制チャンスを与えた時も、モルトケは「委任命令」を一旦取り上げる形で素早くヴィルヘルム王による勅令を発して展開整理を行い、事なきを得ています。

 直後に発生するヴルトとスピシュランの会戦でもモルトケら参謀本部と大本営は直接戦闘をコントロールせず、委任命令により三個の軍司令官に全てを託していました。最初に示した三個軍が達成すべき目標は、第一軍がメッス東郊、第二軍がポンタ=ムッソン周辺のモセル(モーゼル)沿岸、第三軍がナンシーと単純かつ間違いようがないもので、モルトケはこの機動によりマクマオン将軍の仏第1軍団を駆逐し仏軍主力・バゼーヌ将軍のライン軍とメッス付近で一大会戦を行おうとしていました。


 この一大目標がモルトケの全てで、その他は全て現地軍に任せたのです。

 この「戦闘中は口出しせずに好きにやらせる」式の普軍首脳について「軍の中央統制がなっていない」との批判が多くあります。特にスピシュランや続くコロンベイの会戦は普軍がもっと慎重であれば仏軍を史実より大敗させることが出来たはずで、そうなればマルス=ラ=トゥール会戦やグラヴロット/サン=プリヴァ会戦は、もっと犠牲が少なく楽に勝てたかも知れないのです。これは筆者も本編で何度か批判的に指摘している点です。しかしこれらの出来事も別の面・「委任命令」と「共同責任」が完成するための産みの苦しみだった、と考えて見たらどうでしょうか。


 当時、普墺戦争に勝利を収め、その時に露呈した自軍の弱点を洗い出して克服しようと努力した陸軍省と参謀本部(この時ばかりはお互い政争を忘れて「蜜月状態」でした)のお陰で、独軍の各級指揮官は「委任命令」を頭に叩き込まれており、その作戦行動中に上から口出しをすれば混乱が広がる可能性が高くなります。

 これは我々現代の者も立場を置き換え考えて見れば分かることで、「キミに任せた」と言われ張り切って行っていた営業活動に突然「こうしなさい」と横槍出されれば面白くないし、最悪様々な動きが止まってしまいます。上層部はいざ戦いが始まれば余程のことがない限り部下の行動の自由を制限しない、これを当時のモルトケらが行っていたとすれば、それは「部下への絶対的信頼」と「それまでに費やした訓練・研究を含む準備に対する絶対的自信」(現代なら「自分を信じて危機に慌てず。練習は嘘を付かない」でしょうか)だったと思うのです。

 結果、スピシュランやヴルトでは敵に損害を与えたものの殲滅ならずに逃げられ、自身の損害も敵に匹敵するかそれ以上、必ずしも満足出来るものではない「苦い勝利」でした。ところがモルトケは部下を責めることはしません。何故ならば結果的に「大前提である目標」へ近付くことに繋がっていたからで、モルトケの頭の中にある軍への「信頼と自信」は一切揺らぐことがありませんでした。


 同じことがモルトケが余り誉められることがないグラヴロット/サン=プリヴァ戦でも言えます。

 東側に不気味に存在する仏軍の前を粛々と進む各軍団の危険を一切無視したかのような態度。筆者は先の「自信」に裏付けされた行動だったと思っています。もし攻守逆で有れば普軍指揮官は目前を進む仏軍に気付けばその側面に一気果敢、躊躇せず突進して会戦が始まっていたことでしょう。


 確かにこの時、モルトケ初め独首脳陣の誰もがバゼーヌのライン軍主力がぐずぐずと未だ東側に展開しているとは予想せず、そこに居るのは「後衛」で「主力」は北か北西方向へ向けさっさと進んでいる最中、と思っていました。とは言え第一軍本営からの報告で「後衛」とは言っても侮れない数の敵が東側数キロという至近にあることは知っていた訳です。士官学校の机上演習でこのような行軍を士官候補生が行ったら教官から大目玉だ、と書きましたが、モルトケばかりか参謀総長を信頼しているとはいえ、独大本営や軍本営の誰も異議を唱えず行軍を続けたのには、やはりちゃんとした理由があると考えた方が自然です。


 筆者は、モルトケが東側に敵主力が構えていると考えていても、例えれば日本海海戦の敵前における東郷ターンのようなリスキーな行動、堂々軍を北上させ諸軍団を敵と平行に対峙させるような行軍を行わせたのではないか、と想像します。これは一見、敵を見くびり過ぎなように思えますが、これこそモルトケの「自信と信頼」の現れに思えるのです。

 モルトケはバゼーヌの(というより仏軍の)心理を読み、留まる場合は自ら仕掛けず防御に徹し、動く場合は戦いを避け逃げる、と読んでいたのではないか、と思います。

 これは後のパリ進撃・包囲でも感じられることで、一部識者はこの独軍の行動を無茶なギャンブルの様に批判していますが、筆者はモルトケらは仏軍の実力と動員力を知っていたからこそ堂々敵地深く侵攻を続け首都包囲を成し遂げた、と考えます。


 この普仏戦争におけるモルトケの作戦指導は、仏に対しても準備万端・自信があったからこそ出来た運用だったと考えます。

 参謀本部の第3「フランス」課内・クラウゼ少佐率いる「諜報班」は参謀たちが戦前、頻繁に仏への旅行を行い脚で稼いだ資料やおしゃべりな仏の新聞、そして協力者たちから送られて来た真偽様々な噂など軽重膨大な情報を整理して驚くほど正確な仏軍と帝政内部の詳報をモルトケに提出しました(この時代この部署はほんの数名で「情報解析班」といったところで、大々的なスパイ活動は始まっていません。謀略やスパイを含めた積極的な諜報活動は1889年ヴァルダーゼーによる3b課の正式設置から始まります)。


 モルトケの時代。

 それは「フリードリヒ大王からナポレオン1世」の時代と「日露から第一次大戦」の時代の間、武器ばかりでなく社会インフラ関連の様々な「道具」が急速に進化し軍事に転用されていた時代でした。


 モルトケはこの武器ばかりでなく「非武器」の進化も軍の「力」に加算し、進化の時代に必要な「速度」を得ました。それは敵も同じでしたが、モルトケの凄いところは、それを付け焼き刃ではなく平和な時にしっかりと考察し専門の人間に任せて「次のために」準備を怠らず自然と軍に馴染ませていったところでした。それは大モルトケを語るときに必ず登場する「鉄道」「電信」だけではありません。モルトケの時代に普軍が注目した「見やすく正確な地図」や「情報収集」から「保存糧食」に至るまで、軍事に有用な物なら柔軟に取り入れる先見性と固定観念に捉われない積極性で吸収していました。


「我が動くことにより、敵を思うように動かす」

 大モルトケ


挿絵(By みてみん)


☆「丘の向こう側」


 モルトケは軍人として元帥まで登り詰めますが、結局最後まで師団長や軍団長になったことがない珍しい軍歴の持ち主となりました。

 一軍を率いたことがない男が国軍を動かすこと、これはそれまでの軍隊であった試しがないことでした。当然ながら批判も嫉妬もありましたが、彼は軍政に興味がなく寡黙で清貧、嘘がなく人を陥れる等ということがなかったため、誰もが反駁出来ない「実績」だけで名声を得るのでした。

 そこには当然「運」もあり「偶然」もあります。敵を読み違えることもありましたが、その多くが敵を侮るのではなく「調べ上げた実力よりやや上」の行動を予測したり、さすがにこんな酷い行動を行わないだろう、と思った行動を敵が行った等の結果の失敗でした。

 しかしモルトケは常に「戦場の霧」を忘れず、発生した事象に対して即座に決断し、そして何より「何が起きても臨機応変に処理するであろう自軍を信じる」という確固たる信念がありました。

 これが何物にも動じない姿となり、この「オーラ」はやがてヴィルヘルム1世やビスマルクら政治の世界に影響を与え「ウチにはモルトケと参謀本部がある」との自信となって行ったのでした。


 しかし。

 普墺戦争と普仏戦争の結果による独帝国の成立、いわゆる「小ドイツ」の完成を見た時、モルトケは既に71歳を迎え、稀代の英雄となった元帥は健康で元気でしたが、衰えも見せ始めていました。小ドイツの完成・プロシア王国主導によるドイツの統一というビスマルクやローンと共に目指した「一大目標」は達成され、ビスマルクは帝国の首相として未だ情熱を失わず、国内政治に外交にと飛び回っていましたが、モルトケは次第にクライザウに引き籠るか「赤小屋」の執務室で書き物をして過ごすようになり、業務は部下に一任するようになります。

 貴族院では長老議員として何度か軍事情勢や予算に対する意見陳述を行いますが、それ以外目立つ活動を控えるようになります。正に引退生活に入ったようですが、参謀総長職を返上した訳では無く、それも職務にしがみ付いていたのではなく、辞めたいのに皇帝以下、辞めさせてくれない状態だったため、徐々に熱意を失っていったのでしょう。


 モルトケに罪があるとすれば、既述した「リミッター」を後世に残すことが無かった点、そして自身余りにも清廉潔白で政治や俗社会から距離を置こうと努めたため、次第に「木を見て森を見ず」式の参謀を育てる結果となって行った点、そして人を見る目が次第に曇って行き、それが可能だった(参謀総長だった)時に、頭は良いが野心を秘めて「委任命令」や「帷幄上奏権」を悪用し権力を握ろうとする者たちを登用又は排除しなかった点でしょう。


 上司がヴァルダーゼーのような野心家であれば、部下もまた多くの者が媚びへつらいながら内心で出世栄達の道を探り汲々となるものです。また、上司がシュリーフェンのような厳しい研究者ならば、部下は表面上粛々と研究に勤しつつ、その目が届かないこと(熱心な研究者と言うものは得てして人の悪意を見抜けないものです)を良いことに好き勝手な方向へ物事を進めるものです。


 人は自身の成功体験を後継にも求めるものですが、モルトケもまた自身の歩んだ道を要求しました。

 しかしモルトケのような人物は世紀に1人いるかいないかの存在であり、歴史(信心深い方は神と呼ぶでしょう)はそんな人物に偶然と幸運を与え史書に名を残させます。

 大モルトケの後には第二のモルトケは現れず、名前を貰った甥は「小モルトケ」と呼ばれ、歴史に芳しくない事績を刻みます。また、強国ドイツを夢見て教官を呼び必死で学んだ東洋の一国も、次第にその「負」の部分を拡大させ、国のためと言いつつ国を弄ぶ結果となる「頭の良い者たち」を次々に生み出してしまいますが、この話は優れた研究・作品が多数あり、他に譲りましょう。

 結局、ヴァルター・ゲルリッツ氏の言うようにヴィルヘルム1世、ビスマルク、ローン、モルトケのような組み合わせは二度と現れず、ドイツはこの組み合わせが産み出した「成果」を守り育てることが出来ずに終わり、逆にその負の部分によって苦難の道を歩むこととなったのでした。


挿絵(By みてみん)

モルトケの国葬(運ばれる棺)


****************************************************


挿絵(By みてみん)

議会で演説するモルトケ


「揺るぎない決意と明快な計画を持続することが目標達成のための一番確実な方法である」

「攻撃を決するなら覚悟も決めよ(迷うな)」

1869年6月24日、高級指揮官のための訓令


「最優秀な将軍さえ予断の付かない戦闘のために失敗する。また、平凡な将軍が状況に流されるのは間々あることだ。しかし長い目で見てみれば運が良いのは優秀な将軍だけだ」

1871年「攻勢について」


「恒久の平和など夢であり、しかも美しいものでもない。戦争は神が与えた世界秩序の一つであり、戦争において人間は崇高な美徳、勇気と献身、義務と忠誠心、そして命をも厭わない自己犠牲を発揮する。戦争が無く物質主義だけであれば世界は必ず行き詰るだろう」

1880年12月11日、国民自由党の議員でバーデンの国際法学者ヨハン・カスパル・ブランシュリへの手紙


「ダモクレスの剣の故事のように、10年以上も本官の頭上から離れることがない来るべき欧州大戦は、ひとたび開戦すればそれが何年間続くのか、果てはその結末はどうなるのか、本官には全く想像することが出来ません。この戦いに加わる諸国は史上最強の軍隊を保持する強国たちであり、これらの国家はどの国においても(普仏戦争での仏のように)数度の会戦によって屈服し、完全なる敗北で講和を結び、また数年以内に再び戦争を行うことが出来ないまでに撃滅させることなど出来るものではないのです。この戦争は新たな『七年戦争』、あるいは『三十年戦争』(凄惨な長期戦)となるでしょう」

1890年5月14日、帝国貴族院での発言


挿絵(By みてみん)


(Ende)





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― 新着の感想 ―
[一言] お疲れ様でした。意外に日本では知られていない名将(というかアレキサンダーとかナポレオン関係が多すぎ)の功罪を紹介していただいた力作でした。
[良い点] 長きに渡る連載の完結、お疲れ様でした!&おめでとうございます! 詳細な内容と考察、豊富な画像、大変面白く、また興味深く読ませて頂きました! ありがとうございました!
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