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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Danach(その後は……)
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モルトケの成果と罪(前)


☆ モルトケの改革と成果


 「大」モルトケは老年の域(57歳)に達した時に参謀本部を率いることとなりますが、そのきっかけはモルトケが死ぬまで距離を置き続けていた「政治」でした。


 モルトケが参謀本部という当時の軍の中で「おまけのような存在」の長となった19世紀中頃は、欧州の近代史でも一大転換期に当たります。1848年の「革命」は、それまでにも欧州に吹き荒れた様々な革命よりよほど大きな変革を求めたもので、しかもそれは現代に至るまで影響を及ぼすターニングポイントです。「社会主義」や「共産主義」はこの時期に「紙の上での夢想」ではなく「実現可能なもの」となり、「王様」や「貴族」という存在を「解体すべき悪」と見なす人々は加速度的に増えて行きました。それはまず「ブルジョワジー」という存在の誕生に始まり、やがてこの「ブルジョワジー」が力を付け「貴族」と同等か圧倒し出すと、それに使役される「プロレタリアート」がブルジョワジーも打倒せよと叫び出し、「革命家」たちは地下から表舞台、政治の世界に躍り出して来ました。


挿絵(By みてみん)

ドイツ3月革命(ベルリン1848.3.18~19)


 既得権というものは現代でも非常に厄介な代物で、これを持っている人々は当然ながらかわいい息子や孫にもその恩恵・利権を受け継がせようとしますし、他人の既得権によって自分が侵害されている・損をしていると気付いた人々はそれを廃止せよと叫ぶか、最悪実力行使で奪うことになります。

 いままで「当然の権利」と考えられていたモノが「力ずくで護らねばならないモノ」に変化すると、社会の上層にある人々(王族や貴族)は最大限の権力を行使して下層の人々を、権利拡大を訴える人々を抑圧しました。その反動最大の行為が「革命」であり、これが社会を大きく変え、貴族社会の終焉につながって行くのです。


 またもや歴史の授業となってしまいましたので、いつもの調子に戻しましょう。


 それまでの軍歴で、師団はおろか連隊や大隊ですら指揮したことがないモルトケが参謀総長という一見軍のヒエラルキーで最上層の一角に「見える」部門の長になった最大の「功労者」はエドウィン・フォン・マントイフェル、あの普墺や普仏で活躍した強面の将軍と言っても過言ではないでしょう。

 当時(1857年)、マントイフェルは陸軍省人事局から発展した国王の高級副官「国王直属総務部」*の部長であり、摂政となったヴィルヘルム皇太弟の強力なバックアップでその権力を高めて軍の人事権を掌握、その熱心な王権至上主義を剥き出しにして「王の一元管理下での軍隊強化」を目指しています。


※「国王直属総務部」

 これは筆者の造語です。多くの著作で「国王個人業務課」とされるセクションですが、一体何をする部署なのか分かり辛いのでこうしました。簡単に言えば「国王の軍事補佐官」です。本来は陸軍省の内局でしたが軍人の人事権は国王にあり、人事局長は高級副官として側仕えしたため国王と直接話すことが出来、ヴィルヘルム1世に気に入られたマントイフェルは国王からのお墨付きを得て、1858年に「軍事内局」との名称にして陸軍省から完全に独立し、何をするにも陸軍大臣の許可を要さない存在となりました。ヴィルヘルム1世を通じて軍部の人事権を握ったため、マントイフェルは当時の陸軍大臣グスタフ・フォン・ボニンと権力争いを演じました。


 この頃、参謀総長だったカール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ライヘア歩兵大将が死去し、1857年10月19日、後任はライヘア将軍が重用していた次長のモルトケ少将となります。これは陸軍人事を握っていたマントイフェル少将が推薦し決定したもので、もしマントイフェルが他の人間を推していたら、歴史は確実に別の方向へと進んでいたことでしょう。一見、死去した人間が後任に有望と見ていた人間に主命が下った訳で、何もおかしな点はありません。しかし、権力構造的に陸軍省と参謀本部より上に居たいマントイフェルとしては、今のところ自分の下位に甘んじ大人しくしている組織の長が、どれだけ有能だろうが野心的な人間(後のヴァルダーゼーのような)になって貰っては厄介な訳で、初老(57歳)で無名、寡黙でひょろりとして学者然とした(数年経てば引退する可能性が高い)人物を推したのは当然といえば当然と言えます。モルトケは少将だったため(参謀総長は当時中将以上が就きました)先ずは代理となり、翌58年9月18日、正式に参謀総長となりました(中将昇進)。


挿絵(By みてみん)

モルトケの先代参謀総長ライヘア


 モルトケの参謀総長就任時、プロシア軍には64名の参謀士官がおり、参謀本部で研修に励む参謀の「卵」が30名在籍していました。この研修中の参謀は多くが陸地測量部(地図課)に配されており、地図課は優秀な参謀の「ゆりかご」となるのでした。普墺、普仏で活躍する参謀の殆どはこの時期にこの学級のような小所帯でモルトケの指導を受けているのです。

 正しくモルトケは前任者ライヘアが行っていた陸軍省や旧・国王直属総務部、今や「軍事内局」と誰もが間違いようのない名前となった組織との政争に巻き込まれぬよう、参謀本部を「目立たず静謐でアカデミックな」、まるでミッションスクールのような組織に保とうとするのでした。

 この「沈黙」はマントイフェルやボニン陸相にとってもありがたいことで、無害であれば幸いと参謀本部は権力の茅の外に置かれ続けますが、それはモルトケにとっても変貌中の参謀本部にとってもありがたいことでした。


 この外野に煩わされない環境でモルトケは自身の考える参謀の姿を「弟子」たちに教え、頭の良い弟子たちはそれまでにない新しい時代の参謀へと成長して行くのです。


 その参謀の姿とは、知的・博識であり与えられた範囲の中で誰に示唆されるまでもなく自分で考えた最良の答えを導き出す「副指揮官」でした。

 参謀は新時代の武器にも精通し、敵味方双方の能力(出来ること・出来ないこと)に通じ、目まぐるしく変わる状況にも素早く対応出来、それでいて冷静・なおかつ謙虚、指揮官の決定に素早く重要なインパクトを与えるものの自らは目立つことなく裏方に徹する、というものでした。

 これにより指揮官は上からの訓令や催促を待つまでもなく、信頼する参謀の知恵を利用し自信を持って作戦を実行することが出来、これは正しくあのシャルンホルストが生み出しグナイゼナウが軍に浸透させようとした「委任命令」の完成を目指すことにつながったのです。


挿絵(By みてみん)

シャルンホルスト


挿絵(By みてみん)

グナイゼナウ


 そして偶然か必然か、時代が正にモルトケ(=プロシア)に味方をしました。


 青年時までは貧乏であったもののユンカーではない本物の貴族だったモルトケ。寡黙であったため目立ちませんでしたが、彼もまた絶対王権を支持し平民が政治に口出しする世の中を憂いました。そんなモルトケには気に入らないことだったのかも知れませんが、この19世紀中頃という時代、「フォン」の付かないブルジョワジーから多くの者が入隊を許され、後ろ盾が無くても参謀本部や陸軍大学入りする秀英が続出するのです。彼らは概して勤勉で向上心があり、何より謙虚でいて貴族階層にも受けが良かったのです。

 この下手をすると閉鎖的に過ぎる参謀本部がブルジョワジー士官の参加によって「貴族仲間の秘密クラブ」に終わらなかったことで、モルトケが行いたかった変革は急速に効果を発揮するのでした。


 モルトケが参謀本部の組織自体を簡素に分かりやすく改変したことはずいぶん前に記しました。

 ロシア(東欧)、ドイツ(オーストリアなど中欧)、フランス(西欧)の3課が中心となり、それまで任務毎(たとえば軍事情勢や地誌など)に分かれていた部門を地域毎にして、更に深く仮想敵国を研究させたのです。これに新機軸の鉄道課と電信を加えて動員と作戦展開をスピーディにし、当時の軍事常識的に不評だった「分進合撃」に命を吹き込んだのでした。


挿絵(By みてみん)

元帥軍装姿のモルトケ(レンバッハ画)


☆ 評価


 一般的に「大」モルトケと言えば「ドイツ統一立役者の一人」とか「参謀本部の名声を神の如くにまで高めた天才」とか「普墺・普仏両戦争で独の勝利を鮮やかに演出した名指揮官」のような評価と、「クラウゼヴィッツの戦争論を曲解して後の世に禍根を残す」とか「参謀本部の価値観を高めたのは良かったが後々参謀の増長を招いた」とか「委任命令を追求し過ぎて後の世で軍人の独断専行を正当化させてしまった」などの悪評が同時に出て来る「歴史上の偉人」です。

 特にモルトケを「作戦の天才」と呼ぶ風潮に対し否定的な評論家の方々の中には普墺・普仏での作戦計画を実際の戦闘に絡めて「相手の指揮官が余りにダメであったので勝利を拾った」とか「幸運と偶然が続いて勝利を得た強運の持ち主」とか「作戦は殆どがフリードリヒ大王始め過去の事績をコピペしたもの」等々散々なものもあります。


 ここからは普墺・普仏両戦争の純粋な戦闘状況を記して来た筆者が、これらの批判が果たして正しいのかどうかを考察してみます。

 但し、あくまでシロウトの個人的見解であることをお許し頂ければ、と思います。ご不快な方は回れ右をお願い致します(ビビリですので批判・反論はご勘弁頂き、またお答えは出来ませんので悪しからずお願い......草草草草)。


 まず、フリードリヒ大王などの事績をなぞっただけ、という批判ですが、これには「そうでしょう、その通りです。それが何か?」と開き直りましょう。

 この手の批判を行う方々は、モルトケは「戦争には勝利の法則など存在ない」という「勝利の方程式」否定派(モルトケ以外でもサックス将軍などが有名です)なのに「その割にはその作戦は過去の名将のマスターピースをなぞることが多いじゃないか」と仰りたいのかも知れません。


 モルトケはその前半生で参謀として戦史編纂を行ったり参謀演習旅行などで実際の古戦場に赴き検証を行ったりを繰り返し、特にフリードリヒ大王の戦歴と会戦の経過等はそらんじることが出来たと思います。

 戦闘には「戦場の霧」があり、それは時に歴史を変えるほどに深く見通せないもので、これを常に意識していたモルトケは普仏戦争後に教本として著した「作戦について」(1871年)の中で、「敵主力との最初の会戦後を見越した作戦計画など作ることは出来ない」と述べています。

 筆者はモルトケが「敵主力を拘束し撃破する一大作戦を練ることは出来るが、『戦場の霧』がある限りその会戦結果は誰にも予測出来ず、つまりは結果を想定した次の段階の作戦など練っても時間の無駄」と言っているように思うのです。更に先が見通せないからこそ、最初に立てる作戦は出来る限り完璧に近付けるべきで、そのためには歴史を紐解き「作戦の珠玉」と言われるような作戦や展開を「模倣する」のは当然だと思うのです。

 先に述べたようにモルトケはフリードリヒ大王の作戦術をかなり深掘りする機会に恵まれており、これに発達中の武器や鉄道、電信など新機軸の効果を加味して「我がもの」とした訳で、モルトケにすればその作戦術は「大王の作戦とは前提も違う別物」だったはずなのです。

 ですから筆者にはこのモルトケの作戦術は「模倣であっても正解を求めた結果そこに至る」式であったように思えるのでした。

 そして、モルトケの作戦に沿って(この後記します委任命令により)指揮官と参謀は自らの力で敵と戦い、戦場の霧によって流動する戦況でも臨機応変に対応し、結果が勝利か敗退か、どちらにしてもモルトケは次の段階・作戦を速やかに決定し目標を麾下に発するのでした。


挿絵(By みてみん)

フリードリヒ大王(カンプハウゼン画1870年)


 しかし、この「先を見通せない」との確信は、また別の批判に繋がって行きます。


 戦争(だけでなく人の有様全て)は「一寸先は闇」の状態で、突発事態や異変に素早く対応する(今で言うところのダメコン)には上意下達を可能な限り素早く行うことが大切です。シャルンホルストやグナイゼナウからモルトケとその純粋な弟子に至るまでがその解決方法としていた「委任命令と共同責任」とは、貴重な時間を無駄しないため(=敵より素早く行動するため)この上意下達を最初から止めてしまおう、と言うものです。しかし、後の世の小賢しい野心家たちは、その真意をねじ曲げ、結果「独断専行」を後世に「悪しき方法」と認識させてしまいました。


 本来の「独断専行」とは、純粋に組織が同じ方向(目的)を向いてその実現に注力する、という「目的の原則」を大前提にしていることを忘れてはいけません。

 上層部(本営)も下部組織(現場指揮官とその参謀)も「目的はひとつ」で、下部は上部の目指す目的(=結果)を得るために行動しますが、下部は上部からの命令を待っていると「戦場の霧」や「報告~命令の間の時間経過」のため流動的な戦況に対応出来ず、そのため上部は下部の行動を縛らぬよう余計な口を挟まず自由に行動させ、下部(現場指揮官と参謀)は目的達成のためであれば上部に謀らずとも自分たちの考えた方法で行動し、指揮官と参謀はその行動に伴う責任を負う、これこそが本来の意味の「委任命令と共同責任」です。


 この純粋で、ある種無垢な参謀職の「父祖」たちの理想を打ち砕き、今では参謀と聞くとネガティブな印象も纏うことになるという悪行を行ったのは、権力の魔力に取り付かれ余りにも自信過剰だった「頭の切れる者たち」であって、シャルンホルストやモルトケではありません。その批判は歴史を後ろから眺める、つまりは結果を知っている「神の目線・後出しじゃんけん」を過去の人々に強要するという間違った歴史の見方だと思うのです。


 それを批判するのであれば、これこそが「モルトケの功罪」の「罪」のひとつ、次世代が「理想」を自分たちの都合のよい方向へどんどんねじ曲げて行くかも知れない、という恐れを軽視したか考えず、これを止める「リミッター」を設けることを怠った、という点でしょう。


 「偉大な沈黙者」と称されたモルトケは、たとえ自分の考察と異なる結論をビスマルクやローン、もちろんヴィルヘルム1世が下しても正面から反論せず、何か言うにしても穏やかに要点だけを述べて持論を展開しました。押しの強い政治家に囲まれていたため、その声は軍事以外目立つことはなく、特に普仏戦後には静謐な赤小屋の中で次長が豪腕を振るっても叱責することはありませんでした。

 自分が理想としていた「外部に煩わされないアカデミックな参謀本部」が身内(ヴァルダーゼー)ばかりでなく外部(ヴィルヘルム2世と取り巻きたち)によって都合の良い「井の中の蛙」になっていったことにまさか気付かなかったとは思いたくありませんが、それに対して何か手を打つ訳でもなく「沈黙」を貫いていたのでした。


 「アカデミックな参謀本部」はモルトケの薫陶を受けた「次の次」、男爵アルフレッド・フォン・シュリーフェンによって維持されますが、もはやその姿は普仏戦直前の姿とは似て非なるもの、勤勉、忠誠心、探求心は推奨されたものの、「木を見て森を見ず」の頭が固いロボットのような参謀の他、ヨルクやビューロウ、小モルトケにヒンデンブルクという後の大戦で名を残す者の中には、シュリーフェンを尊敬しつつも頭の中に「別の考え」を持っている者もいました。

 シュリーフェンはモルトケと違い部下に厳しく高い能力を求め辛く当たることが多かったそうですが、同じ部下から「神」同等に崇められていた、とはいえ、モルトケに心酔して付いて行ったヴェルノワやブロンサルト、ブランデンシュタインとは違い、シュリーフェンの課長たちは表にこそ出さなかったものの、シュリーフェンに心酔し崇めるような者は少数だったといいます。


挿絵(By みてみん)

シュリーフェン


 モルトケ「派」のブロンサルトやヴェルノワ、カプリヴィたちもやがて中枢権力の座(首相、陸軍大臣や軍事内局)に就くと政争に身を投じてしまいますが、それはモルトケが引退状態となった後・要は「リミッター」が無くなった後のことで、ここに「頭の良い者たちに権力を与えた場合」に陥り勝ちな「自分より上だろうが下だろうが自分より頭が悪いと思った人間を小馬鹿にして意見を聞かず」「自説を押し通して失敗しても自分に瑕疵はなかった」と思う傲慢な人間が「歴史を作らんと張り切る」状況が生まれました。

 つまりは「委任命令」を「自身が信じる行動を許可を得ずに行ってもよい・目的を勝手に立てて実行してもよい、白紙委任状」と都合良く捉え、「共同責任」は一方的に指揮官のせいとして自身は逃げてしまう、参謀総長には「帷幄上奏権」があり、陸軍大臣や軍事内局にも止めることが出来ない権力がある、という、参謀にとって実に都合の良い状態となって行くのです。


 モルトケも頭が良く権力も得ていました。もし、彼にヴァルダーゼーやマントイフェルのような「野心」があったら歴史は大きく変わったでしょうか。しかしそうなったとしてもモルトケには多少違う歴史となっても大事に至らなかったであろうと思われる、暴走を防ぐ「3つのリミッター」がありました。


 一つはモルトケ自身。彼には政治は政治家に任せるとの信念があり、それは参謀本部が政争に右往左往した時代を見て来たからでもありましたが、あのクラウゼヴィッツの戦争論にある「軍事行使は政治の一手段」という大前提を信奉していたからでもありました。自身の清貧な性格も相まってこれは相当に強いリミッターでした。


 二つ目はビスマルク。彼はモルトケを信頼していましたが友達ではなく、どちらかと言えば相性が悪いと言っても過言ではない程度でした。

 ビスマルクは政治と軍事の切り分けを軍国プロシアであってもはっきりさせており、モルトケが政治に少しでも口を出す(当然戦争中や軍事関連で、ですが)とヴィルヘルム1世を通じてでも必ず口出しを止めさせました。それが端的に現れたのは普墺戦争で、軍部(この時は王も)がウィーン侵攻を望んだ時、これを強い信念を持って止めさせ、普仏戦争ではパリ砲撃を包囲だけで片付けたいモルトケや皇太子を押し切って実行させました。どちらも早期に戦争を終わらせる結果に繋がっており、政治が軍事を制する例です。


 三つ目はヴィルヘルム1世。モルトケも当時の高級軍人と同じく絶対王政の維持を大切に思っており、年の近いヴィルヘルム1世に対しても「父」のような感情を持って使えていました。

 ヴィルヘルム1世という王様は面白い方で、幼少より軍人として育って来た関係で王族より軍人としての立ち振る舞いが多く、ただ軍人貴族にありがちな粗野で傲慢、冷酷な面は全くなく、感情を爆発させることもありましたが普段はユーモアもあって下層の民に暖かく、清貧で人の気持ちが分かる優しい方でした。ビスマルクとは再三意見が衝突し大喧嘩となりましたが、最後は必ず折れて、憎たらしいとはいえ国に大切な人間として扱い信頼を寄せました。気難しく堅苦しいローンや「時々何を考えているのかわからない」モルトケに対しても信頼を崩さず、自由にさせていました。対するビスマルク、モルトケ、ローンの3名はヴィルヘルム1世に対して「王様」と言うより、ある時は「同士」のように想い、そして何より「父」のように敬愛していたからこそ、独統一という偉業を達成したのだと思います。モルトケはヴィルヘルム1世の信頼を裏切らないために粉骨砕身し、そこには立身出世や参謀本部の栄達など二の次にあったのでした。


 モルトケの「後」にヴィルヘルム1世やビスマルク、そして何より「自分自身」というリミッターはあったのでしょうか。




 1871年2月11日。フランスで休戦が本格的になった頃、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国のパルヒム(ベルリンの北西144キロ)市議会では地元出身のモルトケ参謀総長に敬意を表して銅像を建立する決議が採択されます。同月14日にメクレンブルク=シュヴェリーン大公フドーリヒ・フランツ2世はパルヒム市の請願を受け入れ、モルトケの銅像建立が決定しました。

 これに従い建立プロジェクトが発足し委員会は予定される6万金マルク調達のため大々的に寄付を募り、寄付は大公国ばかりでなく独帝国全域とロンドン、モスクワ、サンクトペテルブルクでも募集され日を置かずに集まります。フリードリヒ・フランツ2世もポケットマネーから6,000マルク(約2,000ターラー)を寄付し、普仏戦争鹵獲品の青銅製大砲を原料として提供したのでした。

 銅像を制作したのは地元の若手彫刻家ルートヴィヒ・ブルーノで、71年にベルリン美術学校を卒業したばかりでした。彼は委員会へ熱心な手紙を書いて銅像を自分に作らせてくれ、と頼みます。幸いにも制作委員会に彼の元教師が複数参加していたことで、71年6月、ブルーノはモルトケのデッサンを描くことを許され、先ずは大理石で胸像を作ります。その後も運動を続けた彼は73年6月に銅像制作者として契約を獲得し、74年に3分の1サイズの銅像が作られた後、75年2月、遂に完成するのでした。銅像は75年10月2日に除幕式が行われ、式典には大公の他モルトケ家の人々が参加しますが、モルトケ当人は参加せず、手紙で祝意を送りました。


 銅像はパルヒム市の中心・モルトケプラッツに広場を眺める形で設置され市民に親しまれていました。第二次大戦中に金属供出に出されそうになりますが、地元最大の英雄であり反対も根強く、終戦まで残ります。しかし、パルヒムのあるメクレンブルクはドイツ東側・ソ連占領地区となり、反ファシズムの共産主義者が支配すると再び破壊される危機に晒されました。モルトケ像がある「モルトケプラッツ広場」は当時この周辺で戦死したソビエト軍士官の墓地にもなっており、破壊にはこの地区のソ連軍司令官だったグッソウ将軍の許可が必要でした。しかし将軍は破壊許可を与えません。グッソウ将軍は、「モルトケ像の作者は勝利者としてのポーズを取るモルトケ将軍を制作していない(無帽です)。モルトケ将軍は偉大なる沈黙者の綽名通り、彼の足元に広がるソ連軍将校の墓地を静かに見渡している。その姿は戦争と平和について思案しているように私には思える」と語ったのでした。

 当時、ソ連に占領され「鉄のカーテン」東側となり共産化した土地では、独の銅像や記念物が次々に破壊されていましたが、これは粗野と見られがちな共産側にも尊敬すべき先人の遺物には敬意を表する軍人がいたという逸話です。

 グッソウ将軍が守ったモルトケ立像は今も変わらずパルヒム市モルトケプラッツ西側にあります。


挿絵(By みてみん)

モルトケ立像(パルヒム)


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