終演
☆ 参謀総長ヴァルダーゼー
1888年8月10日。30年間その地位にあったモルトケは新帝より辞任を許され、赤小屋の総長執務室を次長ヴァルダーゼーに開け渡します。この日ヴァルダーゼーの日記は有頂天の喜びに溢れていましたが、こんなものは途中経過だと言わんばかりの自尊心と、彼がどういう人間であったのかを明確に示しています。
「私の総長就任は偶然ではなくしっかり準備されたものだ。私は順風満帆に人生を歩んでいる。世界は私のためにあると言っても良いだろう」
モルトケからヴァルダーゼーへ(ウィーンの新聞カリカチュア)
ヴィルヘルム2世皇帝が30歳を前に独の頂点に立ったことは(まだ大波ではないものの)様々な波風を国内にも海外にも及ぼしましたが、国内ではその帯冠以前から「立憲君主を望む父母とは正反対な思想を持つ皇太子がその極右の取り巻きを重用すれば戦争になるのではないか」との不安が穏健右翼から左翼までの間で幅広く漂っていました。特にガチガチの極右で予防戦争を望むヴァルダーゼー参謀本部次長が軍のトップに立ったらそれは現実になるだろう、と悲観する向きもあったのです。
普仏戦争で活躍し軍の中枢や有力軍団の長となった将軍や佐官の多くは、既に(好むと好まざるに関係なく)軍を去るか、中枢から遠ざけられたか、亡くなっていました。残ったのは未だヴァルダーゼーの力だけでは排除出来ないライバルか、ヴァルダーゼーの子飼いや日和見の追従か、参謀本部で世間の動きに無関心で研究に没頭する学者然とした「頭でっかち」だけでした。
フリードリヒ・カール、マントイフェル、ゲーベン、フォークツ=レッツ、キルヒバッハ、アルヴェンスレーベン、ストッシュと言った名は既に要塞や兵営、連隊の尊称となり、フォン・デア・ゴルツ、ブランデンシュタイン、ヴァルテンスレーベン、シュリヒティンクなどの名は軍の権力中枢から遠ざけられるか去りました。
飛ぶ鳥落とす勢いのヴァルダーゼーは参謀総長就任により騎兵大将となり、早速自身の権力構造強化に走ります。
ヴァルダーゼーにあれだけ協力的だった軍事内局長官のアルベディルはヴィルヘルム2世により辞任させられ、皇帝は近衛軍団で一時上官だった近衛第2師団長のヴィルヘルム・グスタフ・カール・ベルンハルト・フォン・ハーンケ中将を後任に選びますが、新参謀総長は一言も異議を挟みませんでした。
ハーンケ
ヴァルダーゼーが次の標的としたのは何かと利害が衝突するようになっていた陸相ブロンサルト・フォン・シェレンドルフで、「この際、陸軍大臣も交代して見てはいかがでしょうか」とのヴァルダーゼーの進言に「何でも切り裂く宝剣を手にして振り回したくなるような気分」だった皇帝はヴァルダーゼーの推す(あのモルトケの懐刀だった)アドリアン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ユリウス・ルートヴィヒ・フォン・ヴェルディ・デュ・ヴェルノワ歩兵大将を後任に陸相も交代させるのでした。
ヴァルダーゼーとは同年齢(1832年生)・士官候補生時代から仲の良かったヴェルノワ将軍は、ヴァルダーゼーと並ぶ天才域の頭脳を待つ参謀でしたが、軍政(というより権謀術数)においてはヴァルダーゼーに到底及ばず、軍拡や予防戦争を主張するという点で参謀総長と意見が一致していたため「組易し」と考えたヴァルダーゼーによりストラスブルク総督から引き上げられたのでした。
この陸相交代時、頭が良過ぎるヴェルノワの就任に気乗りしなかったのか、皇帝は何とも恐ろしいことに参謀総長に対し「あなたが陸相も兼ねてはどうか」と尋ねますが、ヴァルダーゼーは即座に断ります。これにはビスマルクも猛反対(当たり前です)しており、あらゆる意味で頭の良い参謀総長は「権力を急速に一手に引き寄せ注目を浴びる(=足を引っ張られ易くなる)より今は謙虚に時を待つ」ことにするのでした。
ヴェルディ・デュ・ヴェルノワ
※19世紀末のプロシア参謀本部(グローサー・ゲネライスタブ)組織の例
(但し年次により部や課の番号、担当が相当変わっています)
◯参謀総長
*中央課(総務・人事)
*陸地測量部
*第8課(陸軍大学)
・3B課(情報操作・諜報)
◯第Ⅰ部
*第2課(ドイツ国内・動員展開)
*鉄道課
*第4課(海外要塞)
◯第Ⅱ部
*第1課(ロシア、スカンジナビア、トルコ、他東欧)
*第3課(フランス、イギリス)
◯第Ⅲ部
*第7課(オーストリア=ハンガリー、イタリア)
*第9課(オランダ、ベルギー、スイス、スペイン、他西欧)
◯第Ⅳ部
*第5課(情報・作戦研究)
*第6課(演習)
◯第Ⅴ部
*戦史課
・第1係(古代~中世)
・第2係(近代~現代)
*資料室
・図書館
1871年の参謀本部主要参謀
しかし、権力の階段を確実に登って来たヴァルダーゼーでしたが、その凋落もまた早くに始ます。
それは皇帝の「視線の先」がヴァルダーゼーの望む方向では無かったことで、ヴィルヘルム2世は閉鎖的な参謀本部のように「陸上のみに視点を置く」のではなく、英仏や米のように海の支配と海外への植民地展開を望んでいたのでした。これは最早政治的にも経済的にも無視出来ない存在となった国内の大企業経営者や資本家たちと同じ方向を向くことであり、つまりは「更にモノを売るためには海外へ展開し市場や資源(=植民地)を確保し、そのためには海上交通の強化と海軍力の増強が必須」という帝国主義では当たり前の方向性なのでした。
モルトケが関わった三つの戦争、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン・普墺・普仏で普軍があれだけ思い知ったはずの「海軍の貧弱さ」は陸上での鮮やか過ぎる大勝で目立つことがありませんでしたが、当然、海軍自身や先見の明がある参謀や軍事関係者は声高に海軍強化を訴え続けていました。
モルトケは普仏戦争後、海軍についても強化を図ることが大事とは考えていたものの、既にそれを強力に推し勧める気力もなく、強力な後盾がない海軍の強化はゆっくりと進むだけでした(関係あるとは思いませんが、モルトケは必ず船酔いするタチで船が苦手でした)。
しかしここに強力な「スポンサー」・海の向こうの世界を目指す新世代の皇帝が登場し、海軍増強の政策はたちまち国家の一大プロジェクトとなったのです。皇帝は海軍力強化のため軍事内局(ミリティアビネッツ)の海軍版「マリーネカビネッツ」(長官は男爵グスタフ・エルンスト・オットー・エゴン・フォン・ゼンデン=ビブラン海軍大佐*)を設け、また海軍長官職も陸軍大臣と同格の「海軍大臣」(初代大臣はカール・エデュアルト・ホイウナー海軍少将)となり、海軍本部は陸軍省と並ぶ海軍省に昇格・拡大して行くのでした。
※フォン・ゼンデン=ビブランは当時42歳。15歳で海軍入隊、普仏戦争中にはオルレアンのロアール河畔で鹵獲された仏の河川砲艦の1隻を指揮しています。その後アジア・太平洋を始め世界一周も体験し、独の植民地や停泊地獲得に貢献しています。88年には装甲艦のザクセン級二番艦バイエルンの艦長からヴィルヘルム2世皇帝により皇帝附海軍武官に召し上げられ89年、海軍内局初代長官となり健康状態が悪化した1909年まで同職を続けました。
ゼンデン=ビブラン
また、ヴァルダーゼーにとって強力なライバルも現れ、それは皇帝の「大親友」、外交官のフィリップ・フリードリヒ・アレクサンダー・ツー・オイレンブルクでした。
フィリップは叔父がプロシア内相を務めたフリードリヒ・ツー・オイレンブルク(エムス電報事件にも一枚噛みます)で、後にプロシア首相を務めるボート・ツー・オイレンブルクが「はとこ」と言う政治家一族で、皇帝とは最初ケーニヒスベルクの学校で出会いました。ビスマルクとは古くからのユンカーとして家族ぐるみの付き合いで、外相だったビスマルク首相の息子ヘルベルトとも親しくしていましたが、後にビスマルクはヴィルヘルム2世を操り出したオイレンブルクを「プロシアのカリオストロ(詐欺師)」と呼ぶようになり敵対関係となります。
また68年(21歳)にカッセルの士官候補生学校に入った後、近衛「ガルド・デュ・コール」(親衛教導胸甲騎兵)連隊に少尉として入隊しますが、一般の大学入学のために休職したりしたため軍の覚えは悪く、普仏戦争後、上官と口論の末に軍を去り、法律家の道に入り直します。そのため軍人に対しては辛辣な思いを抱いていました。その後77年にプロシア外務省勤務となり、外交官としてヨーロッパ各国で書記官として働き、やがてヴィルヘルム親王と再会し急速に「親しい仲」となり取り巻きの一人となるのです。
フィルップ・ツー・オイレンブルク
極右より穏健な右翼で皇帝に反対しない勢力と組んでおき、海軍力が整うまでは外国と事を起こしたくない皇帝は、秘書のようにオイレンブルクを手近に置いて重用し始めます。
「軍人嫌い」のオイレンブルクは明確にヴァルダーゼーの「敵」でしたが、最初は共通の「敵」に対し共同戦線を張ります。
その敵・ビスマルク首相に引導を渡す時がまもなく訪れるのでした。
即位前のヴィルヘルム2世とビスマルク(1888年ビスマルクの邸宅にて)
☆ ビスマルク解任とヴァルダーゼーの辞任
ヴィルヘルム2世は、父がまだ皇太子だった頃から自分を持ち上げ「ホーエンツォレルン家の真の後継」と褒め称え、母后とのいがみ合いも「真正なる後継者とイギリス女の対立」と煽り、常にヴィルヘルム1世皇帝の「愛孫」を支持するビスマルクを尊敬していました。しかし、いざ自身が皇帝となると、「ビスマルクのような剛腕で高名な者が宰相であったら陛下は偉大なフリードリヒ大王のような皇帝になれません」と、早く親政を行いたいヴィルヘルム2世を煽るオイレンブルクを始めとする取り巻きの囁きに耳を傾け始めます。元よりオイレンブルクはヴィルヘルム1世とビスマルクのコンビを「眠れる英雄皇帝と偉大な政治家」と皮肉っており、文字通り愛する皇帝に早くビスマルクを降ろすよう焚き付け、皇帝も「2、3年は彼も必要だがその後は……」と首相交代を示唆するのでした。
寛ぐヴィルヘルム2世とオイレンブルク(1990年)
ビスマルクとヴィルヘルム2世の意見相違は皇帝の即位直後から始まりますが、ビスマルクは(以前からそうでしたが)体調不良を理由に度々長期にベルリンを離れ、領地のフリードリヒスルー(ハンブルクの東23キロ)やヴァルツィーン(現・ポーランドのヴァルチノ。コシャリンの東44キロ)で過ごしたため益々皇帝とは疎遠になりました。
1890年になると、ビスマルクは皇帝と社会主義者鎮圧法の強化と労働者保護勅令発動を巡って激しく対立し、皇帝は抵抗するビスマルクを「反逆者」と感じ、機会を見て引退に追い込む決心をするのです。
議会も保守系より中道左派が優勢にあり、皇帝は議会もビスマルク退陣を求めている事を確信し、辞表を出させようとビスマルクを追い込みますが、ビスマルクは閣僚が反旗を翻して皇帝に上奏するようなことがないよう(プロシア国王=皇帝に意見する者には首相が臨席すると言う誰もが忘れていたような昔の閣議決定を持ち出します)に手を回したため、遂に皇帝は激怒して「朕の進路を妨害する者は誰であろうと撃破する」として、ビスマルクに政党代表者との接触を禁じ、先の「閣僚の上奏には首相が臨席」という1852年の閣議命令を廃止せよと迫り、またかつてヴィルヘルム1世王と行った議会無視の勅令による軍事法案施行も「朕は議会を通して行う」と宣言したため、ビスマルクはここまでと辞表を提出(1890年3月18日夜)、2日後皇帝は辞任を許可し、ビスマルクは皇帝から慰撫として「ラウエンブルク公爵に叙する」との申し出を断り、3月下旬ベルリンを後にしたのでした。因みにビスマルクの息子で外相のヘルベルトは父の2日後に後を追い辞任します。皇帝はヘルベルトを買っており(オイレンブルクとも交友があったためか)辞任に反対しましたがヘルベルトの意志は固く渋々認めました。
ヘルベルト・フォン・ビスマルク
こうして参謀総長が想い描いていた未来が訪れますが、「利口者」のヴァルダーゼーは「直ぐにでも自分を首相に」との進言は行わず、憎々し気にビスマルクの外交を非難し仏露との関係が悪化しているのもビスマルクのせいだ、と皇帝の英断を称えるだけに留めました。物欲しげに自分をアピールし過ぎ熱く望んで頂点に立てば敵もまた熱して攻撃し易くなる、と考えたのかも知れませんし、共通の敵を倒した今、皇帝が寵愛する「プロシアのカリオストロ」が機先を制して自分を貶めるかも知れません。それは当のオイレンブルクも同じだったようで、ここでもヴァルダーゼーと共同戦線を張った形となったオイレンブルクは、ここで誰もが思いもしなかった名を上げて首相に推薦するのでした。
ゲオルグ・レオ・フォン・カプリヴィ・デ・カプレラ・デ・モンテクッコリは当時59歳。正式な名前にイタリアの地名が入りますがイタリア半島が出自ではなく、先祖はオーストリア帝国南端・現スロベニア南西部からシュレジエンに出て来たと伝わり、父はプロシア王国の判事で国会議員も勤めた人物で、レオは正にプロシア王国の「中流の上」家庭に生を受けました。
18歳(49年)で陸軍に入隊し、近衛擲弾兵第2連隊に配属されると直ぐに士官学校へ入学、卒業すると少尉として原隊に戻りました。優秀だったカプリヴィは29歳で中尉昇進、参謀本部に出向し参謀の登竜門・地図課に配属となり、この頃に将来有望な参謀とモルトケから認められるようになります。1864年の第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争では第5師団付参謀(大尉)として、続く66年の普墺戦争ではフリードリヒ・カール親王の第一軍本営の一参謀(少佐)としてそれぞれ従軍しました。戦後は近衛軍団付参謀として勤務すると70年春の異動で第10軍団参謀長(中佐・39歳と早い昇進)となるや間もなく普仏戦争が始まります。
カプリヴィはそのまま第10軍団参謀長としてフォークツ=レッツ将軍に仕え、マルス=ラ=トゥール、メッス攻囲、ボーヌ=ラ=ロランド、そしてル・マンと転戦し参謀としての能力を十分に発揮して大本営でも認められ、プール・ル・メリットを授けられました。
戦後は陸軍省に入省して部長職(大佐~少将)を歴任し、特に戦闘における小銃の使用方法の検討や新式小銃の正式化(モーゼル小銃の登場)に重要な役割を果たしています。その後、数個の師団長を歴任した後、最後(82年)にメッツ駐留の第30師団長になりますが、83年3月20日、72年1月から勤めていたアルブレヒト・フォン・ストッシュ海軍大将(兼陸軍大将)の辞任による後任として帝国海軍本部長に海軍中将(副提督)の階級で就任しました。
陸軍の高官が海軍を仕切るという帝国中枢のやり方は海軍軍人に屈辱を与え、その協力的でない雰囲気の中での執務は様々な抵抗や反対を抑える軍人としての「政治力」が試されましたが、カプリヴィは前任者のストッシュ同様、様々な抵抗に会いながらも海軍の地位向上に貢献し、特に組織の強化と魚雷挺の発展に寄与しています。しかし、モルトケ愛弟子の一人と言われていた彼もまた外洋へ乗り出す「攻めの」海軍ではなく、北海とバルト海など沿岸・内海で防御を中心とする「護りの」海軍が念頭にあり、ヴィルヘルム2世が帯冠すると今後の海軍増強に対して意見の相違が際立っていたため、88年7月5日、示唆されたカプリヴィは辞表を提出(後任は海軍生え抜きのアレクサンダー・フォン・モンツ海軍中将)し、ハノーファー在・懐かしの第10軍団長(歩兵大将)に転出しました。
ところが、90年3月にビスマルクの辞任という大事件が勃発し、カプリヴィは突如宮廷から呼び出されてベルリンに向かい、皇帝は訝しがるカプリヴィの前で「貴官を宰相に任ずる」と達したのでした。
カプリヴィ(首相時代)
前・海軍本部長で有能な軍政家として知られていたカプリヴィでしたが、有力な候補者を差し置いて「あのビスマルクの後任」に「一軍団長」が就任したことは内外共に驚きを以て迎えられます。これは現在でも政治の世界に見られる「妥協の産物」で、軍と宮廷、そして議会のバランスを考えたオイレンブルクとヴァルダーゼーの「先を見通した一手」でした。
ヴァルダーゼーとしては1歳年上のカプリヴィはヴェルディと同じく「頭は良いが分かり易く与し易い正直者」との認識があり、海外からの人物評も「皆が思い描く普軍士官典型的な男」「未婚の59歳でタバコを吸わない」「友も敵も少ない男」「英語と仏語に堪能で歴史好き」「他人には穏やかに接し、親し気でオープン、言葉もうまい」等々「中々悪くない」男でした。
カプリヴィとしてもいきなり「ビスマルクの後釜」にされたことは驚きと同時に不本意であり、「どんなバカでもあのビスマルクの後を継ぐなどするものか」と周囲に零していました。そのビスマルクさえ自分の後任がカプリヴィだと聞くと首を振り「あのような優秀な軍人を政治の世界に放り込むとは」と悲観するのです。
状況から楽観していたヴァルダーゼー(カプリヴィを操り数年後自分が後釜に)でしたが、雲行きは直ぐに怪しくなります。
カプリヴィ新首相が先ず行ったのは、「独露再保障条約」を更新しないことでした。この条約は87年6月に3年間の期限付きで独露間で結ばれたもので、ビスマルクの置き土産でした。内容は露の西方進出(バルカン半島やブルガリアなどの利権)を黙認する代わりに独(露も)が第三国と戦う場合は友好的中立国に立つ、というものでした。つまり、仏と戦う場合に露が背中を襲わないという「保障」を得るためのものでしたが、カプリヴィ首相と外務省をビスマルク派から受け継いだフリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタインは、「ビスマルクのような複雑な外交など無理」としてあっさり露を袖にしてしまうのでした。この裏には親しくなった墺と伊に対する信用に関わる(両国とも露とバルカン、アドリアで利害が衝突します)からで、この結果、露は仏に接近し91年仏露軍事協定が成立、これは94年の仏露同盟へと進みます。これについてはこの協定が対独ばかりでなく対英(仏露ともアフリカと中央アジアで英を相手に利害衝突中でした)にも向いていたため、ヴァルダーゼーとしても「利害半々」でしたが、やがてカプリヴィは皇帝の後ろ盾を得て公然とヴァルダーゼーの望む「予防戦争」や「陸軍中心の軍増強」を拒絶し始めるのでした。
カプリヴィは内政で社会主義勢力(穏健左派)との融和を図ると「反露」の立場を取る皇帝に乗じて英に接近し、90年7月に英と「ヘルゴランド=ザンジバル条約」を結びます。これで英はアフリカ東岸ザンジバルの利権を得、独はヘルゴラント島を領土に加え、更に独領南西アフリカ(現・ナミビア)からアフリカ東海岸へ通じるアクセス権を得て、英保護領ベチュアナランド(現・ボツワナ)の北辺部でザンベジ川への到達ルートとなる細長い土地を獲得しました。これが現在「カプリヴィ回廊」と呼ばれるナミビア北東の「角」です。
状況が次第に自分の思い描く方向ではないことがヴァルダーゼーを焦らせますが、この焦りや憤りからか参謀総長は大失敗を冒します。
それは1890年秋の陸軍総演習で起きました。
演習終了後の講評時、皇帝がある将軍の行った作戦に対して幾分見当違いな批判をしたことに対しヴァルダーゼーは反論し、軍事的には全く歯が立たない皇帝はものの見事に論破されてしまいます。ここで止めておけばまだ傷は浅かったかも知れませんが、ヴァルダーゼーは更に居並ぶ将軍たちや招待された外国の駐在武官たち、そして帝国諸侯の親王たちの前で幾分声高に皇帝の軍事知識不足を叱責してしまうのでした。
ヴィルヘルム2世が皇帝になる1年前、親王(少将)は同じ秋の総演習で第3軍団の指揮を執りますが、演習後に軍団長の伯爵ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーベン歩兵大将(普仏戦争では南軍参謀長)が批評を始めると、親王は「もういい」とばかりにこれを遮りますが、モルトケの薫陶を受け誇り高いヴァルテンスレーベンは諸官の前で「殿下!今は軍団長が話しているのです」と親王を叱責しました。ヴィルヘルム2世はこれを恨みに思い、皇帝になると早速ヴァルテンスレーベンをベルリンの王宮に呼び出し、控えの間にずっと待たせて置くという、子供じみた仕返しをしました。将軍は身動ぎせず待っていましたが1時間を超えると皇帝付武官を呼び、「陛下にお伝え願う。大元帥閣下(皇帝・王)がお命じになるからには軍団長は待つ。しかし伯爵ヴァルテンスレーベンは待たない、と」
そして将軍はそのまま辞表を書いて領地へと去っていったのでした。
秋の演習での出来事は政敵にチャンスを与えます。オイレンブルクら取り巻きとカプリヴィは参謀総長の解任を奏上し、皇帝もヴァルダーゼーを呼び出すと「第13軍団を引き受けて貰えまいか」と伝えます。この軍団は帝国の一角・ヴュルテンベルク王国の軍団で、皇帝は「領邦国の軍団長はいわば副王(ヴァイスロイ)のようなもの」とまで言いますが、ヴァルダーゼーは「折角のお召しですが」と断ります。そして引退しクライザウに引っ込んでいて、この度90歳の誕生日に行われるセレモニー(後述)のためベルリンに出て来ていたモルトケ(赤小屋の邸宅はまだ使用出来ました)に事の次第を告げ、愛弟子の本性を最後まで推察出来なかったモルトケ老は皇帝に謁見を申し込むと「わずか2年で参謀総長を交代させるのは無茶に過ぎます」と告げ、この時は皇帝も間を置くことに決めるのでした。
しかし、モルトケの讒言も数ヶ月しか持ちませんでした。91年1月27日、皇帝32歳の誕生日の諸官受勲で、参謀総長はホーエンツォレルン星付大十字章を授けられますが、同時に皇帝副官から「皇帝陛下は総長のような秀英には1個軍団を預けるのが相応である、とのお考えです」と耳打ちされました。モルトケ老が諫めても皇帝の心は変わらない、と落胆したヴァルダーゼーは参謀本部で彼に次ぐ位置にあったアルフレート・フォン・シュリーフェンとオーベルホーファー両部長を呼び、「私は辞任しようと思う」と告げ、後を任せると皇帝に拝謁願い辞表を提出するのでした。
この時、皇帝は満面の笑顔で「これからの参謀総長は朕の傍に仕えて書記を行えばよい。だからもっと若い者になってもらう必要がある」と自説を唱え、ヴァルダーゼーには第9軍団(ハンブルク周辺)を任せるので、引退したとは言え何を仕出かすか分からないフリードリヒスルーのビスマルクを見張り、域内のメクレンブルクやプロレタリア多数のハンブルクを注意深く監視して貰いたい、と伝えました。この時、ヴァルダーゼーは軍からの退職を願いますが、皇帝は頑なに拒否しました。これは下手に引退させると極右の親友シュテッカーらと組んで国会を混乱に招くかも知れない、等と考えた皇帝取り巻き等の進言があったと考えられます。頭を冷やした後の1月31日、ヴァルダーゼーは再び皇帝に拝謁し、ここで主従の軽い応酬がありましたが、結局ヴァルダーゼーが「軍人としての義務(皇帝への軍旗宣誓)」を優先して第9軍団長を受け入れ、参謀総長を辞任するのでした。
1週間後の2月7日。参謀総長の後任は皇帝やカプリヴィ首相、オイレンブルクの三者が共通し「モルトケ信者で軍学者、政治など眼中にない」と太鼓判を押すシュリーフェン第1部長に決まるのでした。
☆ モルトケの死
自身の後継者が野心を見透かされ、方向性の違いから解任された時、モルトケは雪景色のクライザウにいました。
ローンが失意のうちにベルリンを去った時も、同じくビスマルクが去った時も、ただ無言で頭を振っていたモルトケは、今度も何も言いませんでした。
モルトケは総長退任後、大半をこのクライザウで過ごし、議会の季節に出席を求められた時のみベルリンの「赤小屋」邸宅に寝泊まりしました。クライザウでは読書と執筆、そして「庭いじり」を続けますが、その頃執筆していた普仏戦争の戦史では勘違いや的外れな論評、そして言い訳などがつらつらと続き、以前の鋭さはすっかり失われていました。
90年10月26日。モルトケ90歳の誕生日は正に国を挙げての盛大な祝典となりました。式典や晩さん会にはヴィルヘルム2世を筆頭に各領邦の国主や軍の高官たちに外国の大使や領事、武官なども多数訪れてモルトケに祝意を述べました。祝賀の手紙も多く寄せられ、その中には一般大衆からのものも多く、葉巻好きのモルトケのため、葉巻やかぎタバコを贈る者も引きを切らしませんでした。中でもモルトケの心を打ったのは一兵卒からの手紙で、そこには尊敬して止まない前参謀総長の長寿を祝う詩篇が記され、モルトケは家人に「兵士がこのような美しい詩を書くことが出来るのだから我が軍には不可能などありえんだろう」と語ったと言います。
ヴァルダーゼーが去った後の4月。モルトケは春の議会に出席するためベルリンの参謀本部に入りました。
4月24日。午前中にプロシア王国貴族院本会議に出席したモルトケは参謀本部の邸宅に帰ると一休みし、夕方からは親族が集まって楽しい夕食会となりました。
そこには弟アドルフ(1871年死去)や妹アウグステ(1883年死去)の姿はなく、愛する妻マリーの弟であり妹アウグステの息子「パンチ」ハンリ・ブルトの姿もありません。
しかしアドルフの三人の息子、クライザウ荘園を任せている長男ヴィルヘルムとその夫人に子供たち、参謀本部の小モルトケ、王国教育省に勤めるフリードリヒに夫人と子供(後のポーランド大使ハンス・アドルフ)など大勢が集い、賑やかな一夜となります。思い出話やベヒシュタインのピアノで歌う子供たちに微笑んでいたモルトケでしたが、やがて疲労感に襲われたか、独り食堂から隣の書斎へ引き上げました。
暫くして、モルトケ老の姿が無いことに気付いた小モルトケが様子を伺いに喫煙室を覗くとそこには誰もいません。では、と食堂隣室の書斎のドアを開けると、椅子の上で前屈みになって倒れそうにしているモルトケ老を発見します。
モルトケ老は甥たちの手で直ぐに寝室へ運ばれ、小モルトケは伯父をベッドに寝かせると必死に名前を呼び掛けますが、モルトケは口を閉じたまま、ただベッドの前に掛けられていた妻マリーの肖像画をじっと見つめるだけでした。やがて小モルトケは、もはや伯父が息をしていないことに気付き、ちょうど駆け付けた軍医にそっと頭を振るのでした。
享年90歳。
大モルトケの葬儀は4月28日、国葬としてベルリンでしめやかに行われ、これも90歳の誕生日と同じく多くの弔問客が棺を見送りました。
数日後、遺体はクライザウへ運ばれ、モルトケ霊廟のマリーの隣に安置されたのです。
モルトケの国葬
モルトケの遺体
モルトケ霊廟




