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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Danach(その後は……)
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周辺諸国の脅威とヴァルダーゼーの登場


☆ 列強の軍備増強と「二正面作戦」


 普仏戦争の結果、煽り立てる報道や観戦武官たちにより独軍の精悍さと参謀本部の活躍が列強中枢に伝わると、まずはロシア帝国とフランス共和国がそれまでの参謀本部を「普軍式」に改め、軍の改革と増強を開始します。復讐心に燃える敗れた相手の仏は当然ですが、露が速やかに改革を開始したのは「次はウチ」という実に直接的な理由がありました。それは中欧に突如現れた「新ローマ帝国」が「コチラ」を振り返る(次の相手=仮想敵国)と言う判断で、当時の露帝国の軍部と政治家が皇帝の血筋や閨閥に惑わされず、地理や政治バランスから正確な情勢判断をした結果とも言えるでしょう。

 元々普王国と親しい関係にあったオスマン=トルコ帝国やルーマニア王国そしてギリシャ王国も優秀な士官を普参謀本部へ派遣し、その「極意」を獲ようとしました。特にトルコはモルトケの時とは全く違う熱心さで参謀士官を軍事顧問として派遣するよう要請して来ます。しかし、イギリスとアメリカは独軍の動きを油断なく注視していたものの、自軍を独式に変えることまでは行いませんでした(英が独式の参謀本部制を採用するのは20世紀に入ってからです)。


 ヨーロッパばかりでなく独軍が世界最強の「グランダルメ(大陸軍)」を完膚なきまでに叩いたことを知った発展途上の各国も独軍式に軍を育成する方針に変更し、南米のアルゼンチン、チリ、ボリビアは普軍式に軍制を改めます。「世界デビュー」したばかりの日本も仏軍式から普軍式に軍の教育方針を改め、トルコ同様独に軍事顧問の派遣を要請し、ヤコブ・フォン・メッケル少佐がやって来ることとなった話は他所で深堀り願い、ここでは省略します。これは欧米列強からの浸食が開始され没落が始まっていた清国も同様で日本に続きました。

 しかし一時軍を中心に憧憬の眼差しで独を見つめていた日本に対して独帝国の態度は素気なく、やがて日本より清を応援し、日清戦争後には三国干渉を行うなどはっきりと敵対したため「日独同盟」なるものが現れるまで半世紀ほど冷たい関係になって行きます。しかし可能性は低かったものの、もし若い皇帝が日本を冷遇せず日英同盟ではなく日独同盟が19世紀末に結ばれていたとしたら、歴史はまたとんでもない方向(日露戦争や第一次大戦にも影響)になっていたことでしょう。


 ヨーロッパでは軍を独軍式に改編するか否かは別として、19世紀末に向かって一斉に急激な軍拡が始まります。それは独に接する各国に顕著で、前述通り内心復讐に燃える仏や新興帝国に厳しい眼を向ける露の「東西両面からの脅威」は戦勝の熱気が醒め始める前、未だ占領軍が仏領に駐屯していた頃から独参謀士官たちの頭に棲み付いていました。モルトケもこの恐れを十分に感じており、事ある毎に仏と露に対して近い将来「予防戦争」を仕掛けるべきという考えを示し、早くも独仏講和前の71年4月、「戦争に勝ったとはいえこの先は見通せず、独の状況は決して安穏とはしていられない状態にある」として仏露との二正面作戦を論じ「短期に一方を叩いて無力化させ、引き続きもう一方と対決する作戦を練らなくてはならない」と語っているのです。


挿絵(By みてみん)

本部参謀総長執務室のモルトケ(1876年)


 しかしこれは独帝国もう一方の雄・「政治のビスマルク」によって完全に拒否されてしまいました。彼は彼で、国力を減衰させる戦争など行わなくとも、しばらくの間は独帝国が大事に至らぬよう策を弄していたのでした。


 帝国の成立によって更に強大な権力を得たビスマルクはこの70年代、自由主義勢力に接近して社会主義勢力を分断させたり、文化闘争という名で知られるカトリック勢力の弾圧政策を取ったり、自由主義勢力が是々非々の対応を改めないとなると再び右傾化したり、皇帝暗殺未遂(1878年5月と6月)を契機に社会主義勢力に対して更に弾圧を加えたりと、帝政(というより君主制)を保持するため波乱の内政舵取りを行いますが、外交でも文化闘争によるカトリック諸国の反発を抑えるために立ち回ったり、復興急な仏を警戒してそれぞれの立場(社会情勢の変化による君主主義の危機)を利用し決して仲の良くない墺露に接近、三帝同盟を画策したり(73年)します。墺は支配階層が独人とはいえ大・小ドイツ主義で30年間に渡って普王国と覇権を争った関係で未だ戦争の記憶も生々しく、経済でも完全に独帝国の後塵を拝することとなってしまったためにいつ敵対するか分からない状態でしたが、ビスマルクが秋波を送り続けたことで時流を読んで慎重に歩み寄りました。しかし只でさえ独を仮想敵国筆頭としていた露は、墺ともバルカン半島で利害が衝突していたため、なかなか首を縦に振りませんでした。それでも英とも中東で利害が衝突する露としては仲間が必要で、東方(中東や南アジア)政策の邪魔をせず、緩やかな同盟(戦争には協力しない)ならば、と一旦は受け入れますが、露土戦争(1877年)などにより同盟は崩壊、79年、ビスマルクは独と墺だけで同盟を結び直しました。

 皇帝が大嫌いな墺との同盟を成功させたのはビスマルクの得点でしたが、後に露とも仲を取り返し「三帝協商」を結んでいます。

 これらの政策は全て仏を孤立させるためのもので、いわゆる「ビスマルク体制」と呼ばれますが、この辺りは独近代史格好の題材で資料も多いためここまでとし、先を急ぎましょう。


 要はビスマルクも仮想敵は一に仏、次いで露という部分については軍部と考えが同じで、ただ露については例の「一度に二国は相手せず」の原則から当座エスカレーションを望まず、終始第三共和制の仏を孤立させることに傾注していました。

 つまり「戦争は政治外交の一手段であり無闇に行うものではなく独がただ単一の敵と対決を強いられる時のみ果敢に行うもの」とするビスマルクは、軍部の仏露二正面予防戦争案をことごとく退けるのです。

 ビスマルクにとって二正面作戦、しかも世界から完全に侵略国との烙印を押されかねない予防戦争など考慮するに貸さない悪手なのでした。


挿絵(By みてみん)

ビスマルク・胸甲騎兵の軍装をしたポートレイト


 とはいえ、参謀本部は予見すべき戦争計画をしっかりと準備しておく機関です。まさかと思える作戦も常に構想されており、この対仏露二正面作戦はやがて参謀本部でも最大の課題として様々な計画が練られて行くのでした。


 二正面作戦が現実となった場合、仏(西)・露(東)どちらを先に叩くかについて、参謀本部では常に議論の的となっていましたが、モルトケ参謀総長もどちらが先かを決めかねている様子が窺えました。


 普仏戦争直後、モルトケはそのまま二正面作戦を発動し東西均等に兵力を割いて積極的攻勢を掛ける、としていましたが、やがて仏の軍備が急速に整い出すと、「先に西、次いで東」という案に偏ります。1875年4月には「ポスト紙事件」が発生、これは独政府側新聞の「ポスト」が「戦争は目前に迫っている」との記事を載せ、急激な経済復興を見せる仏を警戒し加速する軍備増強を非難したもので、仏の反発とヨーロッパ各国の非難(特に英と露が仏に悪意はないとして独に警告)を生んだものでした。この時、モルトケは参謀本部を代表してビスマルクに対し「露が仏と同調して敵対してでも仏に対し予防戦争を仕掛けるべき」と進言しますが、ビスマルクはこれも言下に拒否しています。


 東西両面からの「悪夢」に対するため、参謀本部では1879年から一年ごとに対仏・対露戦争計画を策定し随時改定して行くことになります。この頃から仏が東部国境地帯に強力な要塞帯を築き始めたため、それまでモルトケが主張していた「仏に対し先制し仏軍主力を撃滅する」ことは困難となり、二正面「同時侵攻」作戦も自然に俎上となりました。しかしモルトケはこれをきっぱり否定し、独の地勢的状況から言っても「短期決戦・即決転進」を主張しました。この79年プランでは「西部国境では守勢を採り、仏軍が積極攻勢に出た場合は一時的にマインツ~フランクフルトのライン右岸まで後退、ここで持久防御戦を展開している間に墺の参戦を促し、共同して50万の主力で露に対する攻勢を発動、露軍主力を早期に撃滅し休戦に持ち込み、一気に転進して仏に対する」という壮大な作戦案となっていたのです。


 さて、普仏戦後から強く老いを意識していたモルトケは、この79年頃から周囲に自身の「衰え」をこぼす様になり、遂に81年の晩秋(11月12日)、皇帝に拝謁し辞表を差し出しました。しかしこちらも高齢(当時83歳)で権力の頂点にあったヴィルヘルム1世は熟考した後にその年の暮れ(12月27日)、モルトケに辞表を返し「貴官が軍に及ぼした影響は余りにも大きく偉大に過ぎ、朕は貴官が生きている限り貴官の退役を考えることなど出来ぬ」と答えたのです。しかし自身78年6月に発生した二度目の暗殺未遂事件で瀕死の重傷(一回目は無傷)を負って以来、衰えも感じていた皇帝はモルトケ(当時81歳)の身も案じ、モルトケが示した、若いフォン・ヴァルダーゼー兵站担当将軍を参謀次長に昇任させて参謀総長の処務を任せるという願いを許可するのです。


挿絵(By みてみん)

1879年、パーティー席上でのヴィルヘルム1世を描いた絵画

(アドルフ・メンツェル画)


☆ 「次の男」ヴァルダーゼー


 伯爵アルフレート・ハインリヒ・カール・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルダーゼーは1832年4月の生まれ、ヴァルダーゼー家はアンハルト=デッサウ公の血筋(ご落胤)を引く名門貴族家で、父は普軍騎兵大将で第5軍団長やポーゼン州知事を勤めたフランツ・ハインリヒ・ゲオルグ、母ベルタも普軍中将でナポレオン戦争最終期の「解放戦争」に活躍し、早くからシャルンホルスト一派の軍制改革を支持していたフリードリヒ・ハインリヒ・カール・ゲオルグ・フォン・ヒューナーバインの長女という「軍隊のサラブレッド」でした。

 当然のごとく15歳で普軍士官学校に入学したアルフレートは18歳で近衛砲兵旅団に少尉として任官、その後砲兵司令副官や参謀士官として勤務すると普墺戦争に参謀本部員として従軍(大尉)、戦後は普王国に併合されたハノーファーで総督副官として勤務すると少佐に昇進、70年の早春(38歳)パリに武官として赴任しました。この時、普最大の仮想敵国である仏の軍事情報や地誌を積極的に収集し、この資料は直後の普仏戦争で参謀本部の作戦立案に大いに役立ったと伝わります。

 普仏戦争では中佐に昇進し大本営国王附副官の一人として活躍、戦争後期にはメクレンブルク=シュヴェリーン大公附参謀となり、その元気溌剌とした態度と明晰な頭脳によって独の支配層からも好感を持って認められることとなります。終戦後は槍騎兵第13「ハノーファー」連隊長となり、73年には大佐に昇進して第10軍団(ハノーファー州)参謀長となります。その才能はモルトケやビスマルクからも認められており、出世レースでも先頭に立って行きました。76年に少将(44歳と普軍ではかなり早い昇進です)、81年には参謀本部で新たに設けられた兵站担当将軍職に就き、翌82年中将に昇進すると遂に参謀次長となり名実共にモルトケの後継者となったのでした。

 因みに兄弟も軍人で、長兄のゲオルグ・エルンスト・フランツ・ハインリヒは普軍大佐で近衛擲弾兵第4連隊長として普仏戦争に従軍、グラヴロットで負傷しますがパリ攻囲中に復帰、しかしル・ブルジェの戦い(10月)に戦死してしまいました。3歳違いの兄フリードリヒ・フランツは竜騎兵第6「マグデブルク」連隊の中隊長(少佐)として従軍しグラロット、ノワスヴィル、ル=マンで戦い第2級鉄十字章を受けています(最終階級は中将)。末弟のフランツ・ゲオルク・アドルフは海軍に入り副提督(海軍中将)まで昇進しました。


挿絵(By みてみん)

ヴァルダーゼー(70年中佐時代)


 ヴァルダーゼー次長はモルトケの威光を背に直ちに総長の業務全般を肩代わりし、業務はほとんど総長に諮らず進めて行きました。モルトケもよほどの事がない限り口出しはせず、この自信に満ち溢れて決断も早く、米国の大富豪食品業者の娘(メアリー・エスター・リー。デンマーク系貴族ノアー侯の未亡人でした)と結婚した秀才を支持し続けるのです。

 しかしヴァルダーゼーはモルトケが期待していた「清廉でいて世情や政治に左右されず帝国の安全保障を完全に履行する機関の主」という枠には収まらない男でした。敬虔なプロテスタントで君主主義を信奉する頑固な保守、という点ではモルトケとまったく一緒でしたが、彼には強固な自尊心と野心があり、この時代、権力の中枢である皇帝やビスマルク、そして上司が老いて近い将来天に召される時期となっていることを意識し、手を拱いていればやがて独は内政(自由主義や左翼の台頭、君主主義の危機)と外交(東西両面の危機)で疲弊衰退してしまうに違いない、と信じていました。自分の任務は重大だ、と考えたヴァルダーゼーはやがて、仏露に対する予防戦争を断行し自由主義や社会主義と戦い君主主義を護り抜く決意を固めるのでした。


 権力を手中にしたヴァルダーゼーは、先ず普仏戦中フォン・トレスコウ将軍の部下として軍事内局を取り仕切り、戦後にその軍事内局を任され今日(1882年)に至ったエミール・ハインリヒ・ルートヴィヒ・フォン・アルベディル中将に接近、緊密な関係を築きます。


挿絵(By みてみん)

アルベディル


 当時の軍事内局は以前の面影なく参謀本部に権力を奪われていたとはいえ、全軍士官の人事権を掌握しており、アルベディル将軍が「ナイン」といえばモルトケでさえ参謀人事を動かすことが出来なかったのです(彼以外で動かせるのは皇帝のみ)。そのためヴァルダーゼーはアルベディルに接近し、お互いに「眼の上のタンコブ」だった陸軍省の権限を弱体化させようと持ち掛け成功するのでした。

 時の陸軍大臣はゲオルグ・アルノルト・カール・フォン・カメケ歩兵大将(普仏戦時は第14師団長~パリ攻城司令官。フォン・ローンから引き継いだ大臣は73年から)でしたが、元よりお互いの権力を弱めようと10年近くも「テーブルの下で足を蹴り合っていた」アルベディルとカメケ将軍の闘争は、モルトケをバックに付けたヴァルダーゼーの登場で一気に決着に向かい、軍事内局と参謀本部の優位性に異を唱え続けたカメケ将軍は辞任するしかなくなるのです(83年3月3日)。邪魔者が消えた直後、モルトケを焚きつけたヴァルダーゼーは遂に参謀総長の帷幄上奏権を皇帝に認めさせることに成功し、これは軍事内局にも「異議を唱えさせない」ことにつながったため、アルベディルにとっても不利となる決定でしたが、最早彼にも抵抗する術はなく追従するしかありませんでした。また陸軍大臣の後任は、普仏戦中は参謀本部第1課長、あのセダン戦でナポレオン3世から降伏を受けたパウル・レオポルト・エデュワルト・ハインリヒ・アントン・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ中将で、彼も後輩とは言え今や絶大な権力と「師匠のお墨付き」を得ているヴァルダーゼーとは手を組んだ方がいいと考えるのでした。


挿絵(By みてみん)

ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ


 次にヴァルダーゼーは「マスコミ」の世論操作を目論み、本部第3課(いわゆるフランス課)内にあった情報班(子飼いのツァーン少佐が班長です)を格上げし「報道班」(後に第3b課となります)として活動させます。ヴァルダーゼーは社主が借金に苦しんでいた新聞社に眼を付け、社主に多額の融資を行い、この新聞「クロイツ・ツァイトゥンク」はやがて退役軍人の軍事評論家たちの投稿を載せ始め、それらは全てヴァルダーゼーの息が掛かった論評や意見ばかりだったのです。


 ヴァルダーゼーにとって「次期参謀総長」果ては首相(ビスマルクの次!)という最大の目標に次いで大切な「二正面作戦」のため、彼は「他の諸国なら敗戦しても国家はなくならないが、独の場合、それはプロシアの解体となり延いては独帝国の解散につながる」と主張し、「さらなる軍備増強と軍事予算増額を」と訴えました。同時にビスマルクがお得意の複雑奇怪な外交術でバランスをとる「ビスマルク体制」に対しても密かに「ブランコのような外交」と呼んで軽蔑し、軍だけが帝国の危機を救えるとするのでした。しかし実際は、軍事予算を決定する帝国議会では社会主義・自由主義勢力も多く、また保守勢力でも国民の普仏戦争以来平和安定・現状維持を望む声に押され軍備増強には否定的意見が溢れていました。これにはモルトケも再三議会で軍備増強の必要性を説いていたものの、認められた予算は満足にはほど遠く、参謀本部が望む結果は現れていませんでした。

 これには現役の参謀士官からも軍事評論として多くの「軍拡主張」がなされました。中でも才能豊かな男爵コルマール・フォン・デア・ゴルツ大尉による1877年著「レオン・ガンベタとその軍隊」は軍備拡張論よりその内容でセンセーショナルな話題を呼び、そのくだりは「普仏戦争中国防政府派遣部でガンベタが行った民衆の総動員は次の戦争で当たり前の光景になるだろう」というもので、これには軍をプロ集団と考え仏の「フラン=ティラール(義勇兵)」を憎んだモルトケが反応して厳しく叱責しています。ゴルツ大尉は陸軍大学で教官を務めながらその後も間接的に帝国を非難する形となる論文や著書を発表したため、やがてトルコに派遣(1883年から95年まで。左遷とも噂されました)されて軍の近代化に尽力することとなります(ヴァルダーゼーは中央からライバルが一人減ったと感じたことでしょう)。

 とはいえ、コルマール・フォン・デア・ゴルツは真剣に独の将来を憂慮していたもので、正直に将来の戦争を予測し、軍備増強の果てに行われる戦争はエスカレートすれば国家総動員状態「国民戦争」となることを図らずも警告したとも言えます。

 しかし、ヴァルダーゼーは違いました。彼はモルトケと同じくプロフェッショナルな軍隊だけが最新の装備と戦術で勝敗を決する「フェアで明快な戦争」を夢見ていたのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴァルダーゼー参謀本部次長


 1887年。モルトケはヴァルダーゼーにせっつかれる形で意見書を取りまとめ、再びビスマルクに「仏露に対する予防戦争」を提言します。

 ビスマルクはこれも退け、「それは死(仏露)への恐怖からの早まった自殺だ」と吐き捨てました。また、参謀本部が予防戦争の誘惑から離れられないのは「それを逃れられないものと決めつけてしまっている組織の精神状態からだ」と論じてもいました。

 このようにビスマルクは常に参謀本部からの突き上げをかわしましたが、これもモルトケが「伝家の宝刀」・帷幄上奏権を行使せず皇帝に「是非にも」と奏上せず、常にビスマルクに対し相談していたから可能となったもので、ここにモルトケとビスマルクが長年「互いに相手を好きではなかったものの、その職域の能力を認め合いその決定に従った」という間柄だったから可能となったものでした。


 このころモルトケは階級章のない古ぼけた黒い将官用ロングコートを羽織り、薄くなった頭に略帽を乗せ、一人ティーアガルテンをゆっくりと散歩する姿が目撃されています。伝説に近いその姿を認めたベルリン市民はきっと帽子を取って頭を垂れ、淑女は膝を折って挨拶を送ったことでしょう。それに無言で応えることもあれば、何か思案で心ここにあらずと通り過ぎることもあったと想像します。

 そんな老いた参謀総長が独帝国の命運を握っていても良いのか、という声は一向に聞かれませんでした。


挿絵(By みてみん)

伯爵ヘルムート・フォン・モルトケ(レンバッハ画1890)





※こぼれ話 ヴァルダーゼーの都市伝説


 ヴァルダーゼー将軍はその野心からか、後の歴史家からは余り良い評価を受けていない様子で、しかも前任者と後任者が余りにも有名となったため、軍事史以外で「忘れられている一人」となっているように思います。

 しかし、彼が参謀士官でも飛び切り優秀・頭脳明晰で天才の域に達していたことも事実だったようで、様々なエピソードが残されています。


 有名なものをあげると、ヴァルダーゼーは軍事演習や参謀旅行の際、決して「軍標準地図」を持って行かなかった、というものがあり、それを問われた時、彼は「貴殿は貴殿の地図に貴殿の頭脳を載せるわけにはいかないが、貴殿の頭の中には地図を載せるべきだ」と答えたと言います。実際、部下の証言では、ヴァルダーゼーは地図を見ずにその地域全ての目印となる家屋や全ての三角測量点(標高などが記されています)の位置(や数値)が分かっていたそうです。


 また、ヴィルヘルム2世皇帝の伝記を記した著者は皇帝から聞いた話として、次のような不思議な話を残しています。


「野生の獣を飼い慣らすことが趣味の一つだったヴァルダーゼーが参謀総長だった頃、一羽のカラスを飼っていたことがあり、そのカラスは主が赤小屋で勤務中、本部の中庭にある決まった石の上に止まり続け、それは主が建物から出てくるまでそのままだった。主が建物から現れるとカラスは飛び立ち、将軍の金色の肩章に止まり、将軍とカラスは門衛から敬礼を受けて帰宅した。ある時、皇帝がこのおとなしいカラスに目を留め、それを愛でようと手を出したがカラスは威嚇し触れさせず、それは誰が試みても一緒だった」


挿絵(By みてみん)

飼い慣らした野生の狐とヴァルダーゼー将軍



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