普仏戦争後のモルトケと参謀本部
☆モルトケ参謀総長と参謀本部の隆盛
普仏戦争が終わり(正式には1871年5月10日・フランクフルト講和条約の締結とも、仏の国民議会によるフランクフルト講和条約の批准日・同年5月18日とも言われます)、歓喜と祝福の中で伯爵ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ歩兵大将はベルリンで国王と帝国軍凱旋を祝う「ドイツ陸海軍歓待の日」当日の6月16日付で元帥(ゲネラフェルマルシャル)に昇進します。
軍歴の頂点に上り詰めた参謀総長はこの時点で既に70歳(1800年10月26日生まれ)を超え、本来ならとっくに退役し余生をのんびりと名誉職で過ごしている頃合いでした。モルトケ自身も、功成り名声を遂げた事を人一倍感じており、これ以降機会ある毎に引退を願い出るようになります(既に7年前、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争直後に引退を願い出ますが却下されています)。
しかし、三つの戦争で普軍勝利に貢献し、独人なら知らぬ者がいないほどに高まった名声は引退を許さず、軍のみならず国家の機関としてもその影響力を無視出来ない存在となった参謀本部と共に新帝国への更なる貢献を期待されることとなりました。
皇帝のベルリン帰還(1871年6月16日)
騎乗前列右にモルトケ・左隣ビスマルク・後方皇帝
モルトケは翌72年1月28日に皇帝勅命によりプロシア上院(貴族院)の終身議員にもなりました。北独連邦議院を継承した帝国議会の議員も続けますが、終生政治とは一定の距離を取り続けたモルトケらしく、議員活動にも目立つことが少なく、ただ軍事に関する質疑では時折発言を求め、特に独帝国に脅威を感じた周辺諸国が軍備強化を図り始めたことから、軍事予算増額に関する発言を度々行っています。この72年には陸軍大学も参謀総長直属となり、陸軍大学で優秀な成績を上げ参謀本部入りすることが陸軍における出世の王道と言われるようになりました(後述します)。
普仏戦争で誕生した新帝国は国家元首をプロシア国王が兼務する皇帝としますが、皇帝は世襲制で、その「権力の源泉」は「軍」でした。
皇帝は平時においてバイエルン王国軍以外の「ドイツ軍最高司令官」で、いざ戦時ともなればそのバイエルン王国軍も指揮下に入れる「全ドイツ将兵の最高統帥者」となるのです。
普軍伝統の「軍旗宣誓」は皇帝に対して絶対服従を誓う儀式へと変化し、これは将兵が「帝国」や「祖国」や「国民」に対してではなく、「敵国首都近郊でたった一回の万歳と共に独諸邦の代表として承認された、たった一人の人物」に対して忠誠を誓うことになったのです。
政治の実権は帝国宰相であるビスマルクが握りますが内閣は存在せず、名目上皇帝を、実際は宰相を補佐する形でビスマルクが必要とする数だけ国務大臣がいました。諸邦の集合体である帝国中枢は実際プロシア王国の官吏が主導権を握り、郵便、電信とまだ陸軍の「おまけ」のような海軍、そして帝国直轄領とされたエルザス=ロートリンゲン州と海外植民地が帝国の所管とされますが、軍とは切り離せなくなったはずの鉄道は何故か諸邦の管轄下に留められました。
皇帝に忠誠を誓う陸軍ですが帝国陸軍省は存在せず、プロシア、バイエルン、ヴュルテンベルク、ザクセンの各王国に「王国陸軍省」が残り、参謀本部もプロシア以外、バイエルンとヴュルテンベルクで存在が許され、バイエルン軍には独自の「陸軍大学」すら存続するのです。とはいえ、陸軍に関する立法と予算は帝国議会の議決を要することとなっており、議会に対する説明責任はプロシア陸軍大臣が担うのでした。
参謀本部も同じく「帝国軍参謀本部」は存在せず、プロシア、ザクセン、ヴュルテンベルク、そしてバイエルン各王国に参謀本部が認められます。しかし、ザクセンとヴュルテンベルクの参謀本部は形ばかりの小所帯で、バイエルンではプロシアと違い参謀本部は陸軍省の完全な支配下にありました。結局は普仏戦争を主導したプロシア軍参謀本部が帝国の戦略や国防の企画・立案機関として確固たる地位を築いて行き、ザクセン、ヴュルテンベルク、バイエルンの参謀本部はプロシア参謀本部に参謀士官を出向させました。逆にプロシア軍からも参謀士官が交換士官として各国の参謀本部へ送り込まれています。
普仏戦争終了時に135名いた参謀本部士官は次第に増員され、1888年(モルトケ退任時)には239名まで増員されました。この時点で普軍士官が197名・バイエルン軍士官が25名・ザクセン軍士官が10名・ヴュルテンベルク軍士官が7名と伝わります。その社会階層・出自はおよそ60%が貴族やユンカーでしたが、残りはブルジョワ階層(中産階級。いわゆる「フォンが付かない人々」)で、当然のように彼らは出世欲・野心があり職務に積極的で、やがては功績から「フォン」(=准貴族扱い)を与えられて特権階級・貴族化して行ったのでした。
“三巨頭”
☆「赤小屋」
普墺戦争で存在感を示した普軍参謀本部とモルトケ参謀総長のため、本格的な本部施設がベルリンの中心地に建設されることとなり、これは建築家アウグスト・フェルディナンド・フライシンガーにより設計され1867年に建設が始まりました。工事は幾度かの中断を経て普仏戦争直後の71年6月に一応の竣工となり、参謀本部はそれまでのベーレンシュトラーセ66番地(ウンター・デン・リンデン南側、ロシア大使館の裏手・南側になります)から新本部へ引っ越ししました。
場所は正しくベルリンの中心、ブランデンブルク門至近のケーニヒス・プラッツ(現・共和国広場。シュプレー・ボーゲン・パルクの南側です)北西角で裏にはシュプレー川が流れており、73年同地に建立された戦勝記念塔(後にナチスによってティーアガルテンへ移動)とセットで、参謀本部の偉功を示していました(現在の連邦首相府の位置で目の前シュプレー川には今も「モルトケ橋」があります)。
ベルリン中心 右下にケーニヒス・プラッツ(1875年)
本部建物はその総レンガ造りの外観からいつしか参謀たちから「赤小屋」と通称されるようになります。後の1894年に完成する帝国議事堂は、ケーニヒス・プラッツを挟みこの「赤小屋」と斜めに向き合う形となり、これは意地の悪い見方をすれば参謀本部が議会(国民)を監視するような光景となったのです。
更に拡張する参謀本部に従い73年から約10年掛けて本部も随時改装・拡大し、ベルリンにおけるモルトケの「住居」もその内部に設えられました。
この時、ベーレン通りの旧本部はベルリンのカトリック総司教の邸宅となりますがその一角は「モルトケの部屋」として記念館となり、モルトケの写真や戦争絵画、記念品などが展示され観光地と化したそうです。
1872年のケーニヒスプラッツ 戦勝記念塔と参謀本部(右側の建物)
新しい参謀本部の「モルトケ邸」は本部本館の南東翼にありました。正式な入り口はケーニヒス・プラッツに面しており、家族や親しい訪問客は参謀本部を通らずとも出入りすることが出来ます(もちろん参謀本部とは内部でつながっていました)。
ヴィルヘルム1世皇帝はモルトケへの報償として、この邸宅の装飾品や家具のため12,000ターレルを「ポケットマネー」で賜わり、元より「世界一の参謀総長」のため金に糸目をつけてはならぬと軍も奔走したため、その内装・調度は大変豪華なものとなりました。
この参謀本部内「モルトケのプライベート区画」には複数の宿泊可能なスイートルーム、宴会場、会議室、書斎、喫茶室、音楽室、喫煙室、プライベートなダイニング、ベッドルーム、家族の居室、そして下僕や副官のための部屋や施設がありました。
書斎やプライベートな部屋には広いバルコニーが設えられ、ここからは眼下のケーニヒス・プラッツや帝国議会に戦勝記念塔はもちろん、シュプレー川やティーアガルテンを見渡すことができました。
調度で目立つのは喫煙室の家具類で、トルコ時代の苦労を忍んでオスマン=トルコ風になっていました。音楽室には真っ白な本体に金泥で装飾されたベヒシュタイン(独の代表的なピアノメーカー)のグランドピアノが置かれ、ここはモルトケの家族(妹や兄弟、甥に姪たち)が毎晩のように集まり、賛美歌や民謡などが披露されました。特に総長附副官で甥っ子のヘンリー・ブルトは歌の教師を呼んで本格的に歌唱を習い、彼の歌はモルトケや家族を大いに楽しませたと伝わります。同時にこの音楽教師フリードリヒ・ドレクスラーはモルトケ家の大切な友人となり、彼の残した手記は普仏戦後のモルトケのプライベートを窺い知る貴重な資料ともなっています。
長い時間を掛けて(1887年まで)少しずつ改装されていったこの「モルトケ区画」について、モルトケ自身は次のような言葉を残しました。
「邸宅の調度品は少しずつ整って行き、時間もまたゆっくりと進んでいる。ここのバルコニーはとても美しく仕上げられており、緑豊かなティーアガルテンの風景はまた格別に見える」
大好きな葉巻をくゆらせながらバルコニーで平和なベルリンの街並みを眺める老参謀総長の姿が浮かんでくるようです。
「赤小屋」(1872年)
☆参謀本部の権限拡大
前述通り普参謀本部は独帝国の成立により軍部だけでなく帝国中枢でも絶大な権力を行使する機関と認められましたが、モルトケが参謀総長であった時代(1888年まで)、参謀本部は遂に直属の実働部隊を持つことがなく、直接軍部に命令を下す権限も与えられませんでした。
参謀本部の作戦や計画は相変らず戦時にだけ置かれる大本営を通して実行されるか、平時においては皇帝勅命や陸軍命令・通達として下達されました。このため、自ずと組織の改革を行うことが先行します。
参謀本部の組織改革は普仏戦争における様々な反省から急速に進み、目立つ改革としては、それまで動員と実戦前の部隊展開を担当していた「本部第2課(ドイツ課)」と「鉄道課」が一つの「部」として統括部長の下に統合され、「地図・測量課」の権限が強化されて他の部署にも分散していた測量や地誌などの情報収集が「陸地測量部長」の指揮下に統一されました。また、人事を主に扱う部門として総務課から独立した「中央課」が創設され、これは陸軍大学と共に参謀総長直属とされます。こうして「いざ戦争」となった時に素早く対応するための組織改革が進み、それまで地域ごとに任務を振り分けていたため分担範囲が輻輳していた各課は三人の「部長」(動員・鉄道部長、陸地測量部長、総務・総長直属機関部長)によって統括指揮され、縦割りの弊害を極力排除しようと試みたのでした。
しかしこれは三人の部長を通じて一人の参謀総長に権限が集中することにつながり、帝国が「一人の皇帝」と「一人の宰相」に権力集中していた状況と同じく、「有能で高潔な人物によって指揮されているうちは良いものの、万が一凡庸で優柔不断な人物が立てば……」の恐れが生じるのでした。
1870年前半・普仏戦争直前のモルトケ
そして参謀総長は1883年5月20日に発せられた皇帝勅令によって、更に強力な権力を得ることとなります。
これが世に名高く後に日本でも採用され様々に論議されることとなる「帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)」で、参謀総長=モルトケは毎週決まった日に「御前講義」の名の下に直接皇帝(法制上は普国王)に拝謁し意見を奏上することが可能となったのです。これまでも参謀総長は国王に対し直接奏上することがありましたがこれは戦時に限ったものでした。また、毎週決まった日以外にも参謀総長が至急と感じた場合には様々な「関門」を飛び越して普国王に拝謁することも可能となっていました。
これにより参謀総長は「誰からも邪魔されず皇帝にもの申すことが可能な」存在となります。モルトケは軍の装備品に関する開発・研究・予算や軍需品や武器の正式化と配備以外、陸軍省(大臣)や普王の直属諮問機関「軍事内局」からも横槍を受けることがなくなったのでした。
☆参謀士官資質の変化
この時代(普仏戦後から19世紀末)、参謀士官として認められ独り立ちするには先ず陸軍大学に入り無事に卒業することと、その後の2年間、参謀本部勤務を卒なく完了することが必要でした。例外的に高級副官(どの時代でも上層貴族の子弟やコネが強力な者が多いものです)を無難にこなした者が選抜される場合もあります。
陸軍大学が参謀総長直属の機関となると、グナイゼナウ以来「参謀たるもの」としてずっと奨励されて来た一般教養の修得機運は廃れてしまいました。モルトケ自身が陸軍大学時代(あのクラウゼヴィッツ校長時代です)に励んだ戦史以外の歴史や文学の探求は語学以外「当座重要ではないもの」とされてしまうのです。
モルトケは普仏戦争の結果、急速に発展する武器とそれに伴う戦術の変化に戸惑い混乱する指揮中枢を憂い、これからの戦争では日進月歩な新しい軍事技術を完璧に理解する「軍事の専門家」が多数必要になると確信し、この意を受けた陸軍大学の教官たちは生徒に対し、例えばギボンのローマ帝国衰亡史を原語(英語です)で読破するとかラテン語でギリシャ古典悲劇を暗唱するとかは参謀士官にとって二の次・「余計な知識」、そんな暇があるのなら兵站の計算問題や戦術学の教本を丸暗記すべきだ、と語るのでした。
そして陸軍大学を優等で卒業した士官たちは参謀本部で2年間の研修に入るのです。
先ずは先輩士官の下で副官・助手として従事し参謀本部員が備えるべき「正確・緻密・迅速で几帳面」な業務姿勢を叩き込まれ、その間、上司からは将来「役に立つか立たないか」を見極められます。「役に立つ」と見做された人間はやがて部隊指揮の根幹である戦術論に磨きを掛け、作戦立案のキモを徹底的に学び、兵棋演習、参謀演習旅行、そして戦史や地誌研究で優秀な姿を見せるよう発破を掛けられたのでした。
確かに19世紀末、武器の進歩や戦術の変化は劇的なほど急速であり、参謀に課せられる任務も多方面に渡り、どのような天才であっても一人の人間の頭脳では処理不可能な激務になっていました。このため軍隊では自然と分業化=専門化が進み、兵科ごとにスペシャリストを多数擁する必要が生じており、参謀もまた分業と専門化が進んで個々人が得意部門を「一点深堀り」することが主流となっていました。
とはいえ、彼ら「専門家」を統括し平時は社会状況を含めた世界の行く末を俯瞰的に見極め、有事においては的確に人とモノを采配する高級指揮官が必要なことは依然変わらないことでしたが、高級指揮官の卵(=参謀士官)たちはそれまでに学ぶことが多く、この要素を磨くことは参謀を目指す者にとって「後回し」となって行くことにもなったのです。
この結果は明らかで、当時の急速な社会の変化(ブルジョワジーの一般化、下層の人々の反発を糧に急成長する左翼主義と保守勢力との対立、そして貴族社会の終焉)に全く興味を示さず、閉鎖的でアカデミックな「井戸の中」、軍事で頭が一杯の「硬直した世間知らずの秀才」たちが軍の中枢に溢れて行くのでした。
かつては広範な知識を武器に多角的・俯瞰的に物事を捉えることが重要、と述べていた天才の考えとは思えない変貌ぶりですが、多くの戦史家や軍事評論家が述べている通り、この時代のモルトケは既に80歳前後、当時の軍人や政治家としては非常な高齢者で、しかも前述通り「溢れんばかりの功績と名声」を持つ人物でした。これはそんな人物、既に何度も引退を願った人物を長く頂点に止めた皇帝や独の政府がその責を負うべきだと思います。
モルトケ自身は戦史を熟知し地理を重視し多言語を操り、普仏戦争まで自己抑制と知性に裏打ちされた素早い判断、時には驚くほど大胆な作戦術を示し普軍を「常勝」に導きましたが、これはモルトケが「モルトケであった」ことで成し遂げたものであり、更にはこの「政治に深入りしないように」して来た参謀総長を信じ重用したヴィルヘルム1世と「軍人が嫌いな希代の策士」ビスマルク、そしてモルトケに足りない「軍政」に長けたローンという幸運かつ奇跡的な組み合わせが産んだ勝利でもありました。
これはアレクサンダー大王が「アレクサンダーだった」、又はナポレオン1世が「ナポレオンであった」ことで成し遂げたものとある種同じ性質なもの(そして彼らにもモルトケと同じく「強運」がありました)で、数世紀に一度あるかないかの出来事だったのです。
歴史に長けたモルトケはこの「奇跡」、信心深いモルトケなら「神の御手に導かれ」とでも言ったであろう状態を感じていたはずで、だからこそ自分が表舞台から去った後に残される参謀本部を「余計な雑音に惑わされることなく何時でも完璧に機能する頭脳集団」にしたかったのではないかとも思います。
しかしそのモルトケも老い、その判断・思考・考察全てが衰えており、それに反比例して人々はその「判断」を神のお告げ同様盲信することで、モルトケが「無難な方向」(=軍事ロボットと化した参謀の大量生産)を示すことで後の停滞と果ては陥穽を招く道を正すことなく進んでしまうのでした。
少し先走りましたので、戻しましょう。
こうしてモルトケが「道徳的で自己抑制に長けた態度で黙々と任務に邁進する」参謀の姿を理想とすることで、「紳士であり道徳的には正しいが余りにも専門的過ぎて専門分野以外は全くわからないし興味もない」「命令に対して疑問を差し挟むことがなく(つまりは自分の考えがなく)上司を盲信する」士官たちが独軍参謀の姿になって行きます。これを率いたのがモルトケの「子弟」たち・普仏戦争で参謀業務に従事していた人々で、例えばブロンサルト・フォン・シュレンドルフやフォン・ファルディ・デュ・フェノイス、フォン・ヴァルテンスレーベン、アルフレート・フォン・シュリーフェン、レオ・フォン・カプリヴィ、コルマール・フォン・デア・ゴルツ、そしてアルフレート・フォン・ヴァルダーゼーという面々はモルトケの教えを守り部下を鍛えていました。
しかし、彼らの中にはその偉大な師匠にはない面を持っている者も少なからずいました。
即ち政治や外交にも十分な興味を示し、そして隠しようのない「野心」を持っていた人間がいたのです。
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