独軍の留守部隊と新編成部隊(終)
☆ 普軍と北独小諸邦
独軍が連勝に次ぐ連勝でパリに向けて前進していた頃、独本土では留守を守る将軍や諸官憲も忙しく立ち働いていました。
動員が完了し大本営が出立、野戦軍やその隷属後方諸隊が仏領に入ると陸軍省と各留守参謀部、そして留守軍団本営は本国に残る人・モノ両方の資源を活用して戦勝に寄与する事業を行いますが、その最大の貢献は既述した通り人・モノ両方の補充でした。
また、戦線が急速に仏深部に向けて進むと、新たな任務を全うする新設部隊も必要となり、北独では8月下旬ベルリンとグローガウで迫る新設「予備師団」編成の中核となる予備兵団2個が編成されました。これはそれぞれ後備歩兵6個連隊と予備騎兵1個連隊、そして予備重砲中隊1個に予備軽砲中隊2個からなります。これら諸隊の編成責任者には第5、第6軍団管区からなる第四防衛管区の総督、ユリウス・フォン・レーヴェンフェルド中将が任命されました。
※70年8月下旬に編成命令が出た2個の独軍予備兵団戦闘序列
◎「ベルリン」予備兵団
*普後備歩兵第1、3、4、5、43、45連隊
*予備槍騎兵第1連隊
*第4軍団(野砲兵第4連隊)予備重砲中隊
*同・予備軽砲第1,2中隊
◎「グローガウ」予備兵団
*普後備歩兵第7、10、47、50、84、85連隊
*予備槍騎兵第3連隊
*第6軍団(野砲兵第6連隊)予備重砲中隊
*同・予備軽砲第1,2中隊
グラヴロットのヴィルヘルム1世と大本営(ベッカー画)
9月下旬、ベルリン予備兵団はバーデン大公国のフライブルクへ行軍し、ここで予備第4師団の編成に使用されます。この時、グローガウ予備兵団の槍騎兵と砲兵も同師団へ編入されました。残った後備歩兵の12個大隊も10月下旬にエルザス総督府へ送られ、一部は「デブシッツ兵団」に編入されました。
この予備兵団編成と同時に独本土の要塞守備隊と後方連絡路や兵站勤務の後備諸隊も増員が図られ、北独連邦に在する要塞守備大隊は、その重要度に準じて8月下旬より802名から1,002名への定員変更が行われます。また、補充騎兵諸中隊から騎兵60名を抽出して「隊」を設け、これは予備騎兵連隊が出征した後の要塞勤務に充てられました。
その他、第7、第8軍団管区(ライン州とヴェストファーレン州)では要塞守備大隊で新たな定員は過剰と判断された諸大隊から各200名を抽出して中隊を編成し、これを第一軍の兵站総監部に送り出しました。
この方法は非常に好評だったため、兵站勤務に充当する全ての後備大隊は、先の軍管区以外でも補充歩兵大隊と要塞守備歩兵大隊で余剰とされた各200名を抽出して同じく中隊を編成し増員されたため、9月末以降、兵站勤務の後備大隊は定員200名の6個中隊制となりました。前後して諸騎兵補充中隊からも余剰人員を集め、これによって兵站勤務に充当する予備騎兵6個中隊を編成し出征させるのでした。
1870年11月下旬。仏領へ出征した後備歩兵大隊と北海・バルト海沿岸に配された後備歩兵大隊の定数も802名から1,002名に増加されます。この処置は留守軍団本営が必要と認めた諸大隊や、同じく軍団管区に残留待機する後備大隊にも適用するよう追加で命令が下るのでした。
動員後、新たに編成する部隊に関し、当初普軍大本営では猟兵2個大隊を編成するだけに留めます。これは「予備猟兵第1大隊」「予備猟兵第2大隊」と命名され、近衛猟兵大隊・近衛シュッツェン大隊・猟兵第1大隊・猟兵第2大隊の各補充中隊をそのまま充てて中核とし、野戦猟兵大隊と同じく定員802名の4個中隊制としました。
ところが戦局はこの部隊新設だけで終わらせず、特に想定を越える捕虜が発生したため、独軍では本国で勤務する新たな部隊の編成に迫られることとなったのです。
本国に留まっていた要塞守備隊と予備部隊の数は戦局の進行に従い仏に向けて出征しどんどんと減って行きました。
たとえば70年9月初旬、北独連邦内にあった部隊は、後備歩兵大隊81個・予備騎兵連隊4個と同3個中隊(19個中隊)・予備野砲兵中隊19個でしたが、2ヶ月後の11月中旬には後備歩兵大隊57個・予備騎兵6個中隊・予備野砲兵中隊8個と一気に減っています。71年2月になると後備歩兵大隊は全て仏に入り、独本土にあった野戦可能な歩兵は新設された守備歩兵大隊33個だけとなり、このうち17個大隊も出征準備にありました。
騎兵については一通り教練を終えた新兵の余剰が多数あり、11月まで補充として戦線に送り出した後にも多くが残っていたため、独大本営では11月下旬、乗馬を支給しない「徒歩」後備騎兵補充中隊の新設を命じ、これは71年2月末までに60個中隊を数えるまでになりました。その兵員総数は15,000名を数え、この中隊を指揮する士官は全て後備部隊の士官を充て、数が足りなくなると高齢の退役士官を現役復帰させるのでした。
独では野戦や兵站に使用する部隊の新設を、後備や守備隊から引き抜いて編成したため、前述通り多数の捕虜を受け入れる内国守備が手薄となってしまいます。このため11月に入ると独本土では「衛兵大隊」の編成が始まりました。これは端から野戦に用いず内国警備のみを任務とする部隊で、その要員は各兵科で出征に用いなかった後備兵を第一に、教練を終え待機中の新兵からの志願者を第二として、残りは第一種補充予定予備役で残っていた兵と第二種補充予定予備役の最新年度兵からそれぞれ180名を充てて、当初は定員602名としました。
その士官は内国勤務で残っていた後備部隊士官を優先し、残りを正規野戦軍部隊を指揮した経験のある退役士官を召集し充てました。
この「衛兵大隊」は71年1月末時点で(即ち南東仏以外の休戦までに)23個大隊が編成され、編成中が39個大隊ありましたが、これは更に増えて4月までに72個大隊の編成を見るのでした(兵員総数は約60,000名)。
この衛兵大隊や「徒歩」後備騎兵補充中隊は全て軍団管区の留守歩兵旅団司令部が統率しました。
以上、内国警備用の部隊の他に、独大本営は戦域が拡大した野戦軍のため前線へ派遣する部隊の動員も同時進行で行います。
これは戦争当初の動員で集合待機が命じられた「兵站用ではない」後備諸大隊の他、要塞砲兵諸中隊、要塞工兵諸中隊、そして攻城に欠かせない諸兵科の輜重隊とその隷下縦列でした。また新編された軍団(第13、第14)や予備師団(第1、2、3、4)で必要な弾薬縦列と糧食縦列、そして経理(主計)部門の軍属も用意しなくてはなりませんでした(全て既述です)。
☆ ザクセン王国と南独三ヶ国
普墺戦争の結果、普王国から「頸城」をはめられた形となっていたザクセン王国は、軍もまた「北独連邦軍」の一員として装備・編制・教練・指揮は普軍と完全に一体化していましたが、その第12軍団管区内では多少独地色を示すことが出来、例えば戦時の本国残留部隊の統括などは単一の防衛管区として存在することが出来ました。この第五防衛管区長官となったザクセン王国陸軍大臣のゲオルグ・フリードリヒ・アルフレッド・フォン・ファブリース中将が指揮した内国残留部隊は以下の通りです。
○補充隊
補充歩兵大隊9個・補充猟兵中隊2個・補充騎兵中隊6個・補充砲兵中隊3個・補充工兵中隊1個・補充輜重兵「隊」・1個
○内国守備隊
守備(後備)歩兵大隊4個・予備「機動」砲兵中隊3個・要塞砲兵中隊4個・ケーニヒスシュタイン要塞守備隊(普後備歩兵第72連隊第4中隊)
「サン=プリヴァのザクセン親衛連隊」ルイス・ブラウン画
守備歩兵4個大隊はメッス周辺の三大会戦後に1個旅団にまとめられて8月24日、仏へ出征します。この守備大隊の兵員数は802名で普軍準規となっていました。このため本国に残った歩兵は再度錬成中の補充隊だけとなり留守旅団司令部は各2個大隊を合併し1個大隊にして強化を図りました。
12月中旬には要塞砲兵2個中隊も出征し、1月1日には予備砲兵3個中隊も仏へ向かうのでした。
ザクセン王国で普仏戦争に動員した兵員の総計は士官・軍医・軍属文官が合わせて1,102名、下士官兵が56,272名となります。このうち内国に留まったのは士官・軍医・軍属文官が382名、下士官兵が15,363名となりました。また、防衛管区司令部は戦争中に予備役・後備役を総計47,500名召集し補充と内国警備に充てました。
ザクセン猟兵(1870-71)
ザクセン王国と同じく普墺戦争後でも独立を認められ、形式上は北独連邦から除外されたものの、国土の半分を「北独連邦」に差し出す形となっていたヘッセン大公国は、これもザクセンと同じく軍が完全「普軍化」しており、その国土・人口の小ささから師団編制を行えば戦時に後備部隊を置くことが出来ず、内国警備は補充部隊に任されました。しかし、メッス陥落後に独在留の捕虜が倍増するとヘッセン領内でも捕虜が収容され始め、この監視のために衛兵1個大隊を新設することとなり、これは1月下旬に480名定員で任務を開始しました。
バイエルン王国は緒戦、内国警備のため正規軍歩兵8個大隊を残置させますが、戦線拡大と損害のため9月中旬までに次々に出征しました。
残ったのはバイエルン歩兵第4連隊第1大隊と、同第8連隊第2大隊だけとなってしまい、この2個大隊も12月初旬バイエルン第1軍団麾下とされて出征しました。
※戦争当初国内に残った8個大隊とその出征先
○バイエルン歩兵第4連隊第2、3大隊→ビッチュ要塞包囲網
○バイエルン歩兵第4連隊第1大隊→バイエルン第1軍団
○バイエルン歩兵第8連隊第1、3大隊→ビッチュ要塞包囲網
○バイエルン歩兵第8連隊第2大隊→バイエルン第1軍団
○バイエルン歩兵第12連隊第3大隊→バイエルン第1軍団
○バイエルン歩兵第13連隊第3大隊→バイエルン第1軍団
バイエルン歩兵(1870-71)
また、後備歩兵大隊は16個ありましたが、これらは全て8月10日に各中隊40名(1個小隊規模)の増員を受けて、半数の8個大隊が後方連絡路警備と兵站業務のために出征します。また既述通りの補充部隊が増員を受けた後にも、なお10,000名の錬成完了兵と24,000名の未錬成兵が残ります。しかし、バイエルンでは戦中歩兵部隊の新設は行われませんでした。
騎兵についてはシュヴォーレゼー(軽)騎兵6個連隊にそれぞれ1個あった補充中隊から士官5名・下士官兵164名(中隊規模)を抽出して兵站騎兵1個中隊を創設してこれを兵站部隊に送り出しました。
野戦砲兵は9月初旬、各補充中隊から選抜して1個大隊を編成し、これは9月下旬に出征します。
この砲兵大隊は大隊本部・施条後装6ポンド砲6門を持つ野砲兵中隊2個・施条後装12ポンド砲6門(10月24日に2門追加)を持つ野砲兵中隊2個・ボレーガン4門(10月24日に2門追加)を持つ砲兵中隊1個・弾薬縦列1個からなり、兵員は866名・馬匹807頭・砲車28輌(10月24日に2輌追加)、馬車86輌でした。また、10月28日に第2のボレーガン中隊(6門)が出征しました。
バイエルンのボレーガン(霰弾砲)
当初は本国待機となったバイエルン要塞砲兵諸中隊からは、ストラスブール、パリ、ビッチュ、ベルフォールそれぞれの攻囲のため砲廠が編成されます。動員と同時に編成されていた2個の予備弾薬廠の出征後、9月1日に3個の弾薬補充廠が編成されました。
バイエルン軍の工兵隊は8月下旬、新規に架橋縦列2個を編成しインゴルシュタットからそれぞれの軍団へ送られます。この縦列は士官2名・下士官兵66名・馬匹106頭からなり、6頭立てで牽引する架柱橋車15輌を運びました。
バイエルン軍で本国に留まっていた総員は以下の通りです。
○1870年9月 兵員39,261名・馬匹3,840頭
○1871年1月 兵員45,123名・馬匹3,929頭
○1871年4月 兵員24,210名・馬匹2,919頭
バイエルン軍は既述通り正式小銃の更新期に戦争突入となったため、戦中69年式新式小銃(ヴェルダー銃)への交換が行われ、当初この銃を携行していた猟兵4個大隊以外にも内国警備として残っていた正規歩兵8個大隊も70年末までに新式銃への更新を完了しています。
ヴュルテンベルク王国では戦中本国残留の部隊はウルム要塞守備隊を含め全て陸軍大臣スコウ将軍の隷下とし、将軍は留守軍司令部を設けてこれをフォン・ツィンメラー将軍に任せました。
ウルム駐在守備隊のうち、ヴュルテンベルク歩兵第4連隊の第1大隊は8月中旬、後方連絡路での兵站業務を行うためにエルザス地方へ出征し、9月頭には同連隊第2大隊と同第6連隊の第1、2大隊もエルザスに入りました。この9月中にはライター騎兵第3連隊の第3,4中隊がパリ包囲網に参加していた野戦師団に加入するため出征し、両中隊は9月15日同地に到着しています。
同じくヴュルテンベルク要塞砲兵大隊の第1,4中隊はストラスブール攻囲に参加するため出征すると、補充隊の砲兵第1,2中隊は10月中旬、ライター騎兵第2連隊の第2,3中隊は10月下旬、それぞれ仏に向かっています。
ヴュルテンベルク歩兵(1870-71)
ヴュルテンベルク王国では動員時、本国に6個中隊のライター騎兵が待機していましたが前述のように減って行き、僅か2個中隊になってしまいました。このため71年1月16日付で新たに予備騎兵3個中隊を編成するのでした。
2月中旬以降は1870年度徴兵新兵により「特別中隊」を編成し、これは首府シュトゥットガルト、ウルム、ルートヴィヒスブルク(シュトゥットガルトの北13.5キロ)の各駐屯地で補給大隊の新編に使用されます。また、それまで後備補充大隊が行っていた歩兵と猟兵の教練もこの補給大隊において行われるようになりました。
ヴュルテンベルク王国の普仏戦争末期における本国残留部隊は、後備歩兵補充大隊4個・補充騎兵連隊1個(4個中隊)、補充砲兵中隊2個・要塞砲兵大隊1個・補充工兵1隊・工兵1個中隊・補充輜重兵1隊でした。また、71年3月頭の本国残留総兵員数は、士官164名・下士官兵12,814名(病院関係除く)でした。
バーデン大公国では、緒戦で本国に残留していた正規軍歩兵各大隊は全て順次出征し、最後までラシュタット要塞に留まっていたバーデン歩兵第6連隊の第2大隊も12月24日に出征しました。
この大隊は70年8月6日から17日まで国境の仏領ローターブール(独名・ラウターブルク)に駐屯して後方連絡路を守り、同月31日から9月29日までは第5補充隊の兵員300名と4門の野砲を持った補充砲兵隊を加えてパウエル大佐の指揮下、スイス国境方面の上ライン地方に駐屯してライン対岸のオ=ラン県を警戒し、その内の2個中隊は増員としてストラスブール包囲網へ向けてラインを越えました。その後9月29日に大隊はラシュタットに戻り、改めてクリスマスイブに仏領へ出撃するのでした。
その他バーデン要塞砲兵8個中隊と要塞工兵1個中隊はストラスブールとベルフォール攻囲兵団に加わって活躍し、後備歩兵6個大隊の内第1大隊は緒戦から終戦まで、第4、6大隊に残り3個(第2、3、5)大隊の一部は時折兵站業務に使用され仏と本国とを往復しました。
バーデン大公国で本国に留まっていた総員は補充兵を含めて以下の通りです。
○1870年9月 兵員9,148名
○1871年1月 兵員10,951名
○1871年3月 兵員13,604名
バーデン軍では本国残留の将兵を「本国残留軍最高司令部」と名付けた本部で統括指揮していました。
☆ 本国要塞
1870年7月の動員令発布とほぼ同時に指定された要塞に実戦準備が命じられますが、特に北海・バルト海沿岸にある諸要塞・拠点は仏の上陸侵攻が噂されたため各方面が尽力して急速に戦備が整えられました。特に中央省庁の大蔵省が官営林の材木を供給し、同じく商務省は国鉄の余剰軌条を提供したことで工事は格段と早まりました。
開戦時、北独連邦内にある要塞に配備された兵員数は以下の通りです。
○ライン地方
87,500名
○北海・バルト海方面
50,000名
○南部
55,300名
○その他
47,000名
○計 239,800名
しかし、戦争の推移により多数の兵力を追加または補充として仏戦域に送り込まねばならなくなったため、この数は急速に縮小されて行きます。同時に戦争は確実に独の勝利に向かっていたため、70年11月下旬、北独沿岸と重要な河口にある要塞や堡塁、そして仏との国境にあるザールルイ、ラインを守るコブレンツとマインツの三要塞以外の独本土内要塞は戦備を解いて最小限度の維持要員を残し、余った人員を補充や新規部隊設立に回しました。またランダウ、ゲルマースハイムの両要塞は念のためアルザス地方が(ベルフォールを除き)完全に平定されるまで維持され、ラシュタット要塞は上ライン地方安寧のため、ストラスブールとヌフ=ブリザック両要塞に独の守備隊が入るまで守備隊が保持されるのでした。
ストラスブールの攻城砲台
※普仏戦争における本国で主な留守諸隊の司令となった将官
*普王国
○陸軍大臣代理
ユリウス・グスタフ・アドルフ・クロッツ少将(第4工兵監察部部長/1812-1892)
○留守参謀本部長
カール・コンラート・ルイス・ハンネンフェルト中将(1815-1888)
○近衛軍団留守軍団長
アレクサンダー・ルートヴィヒ・レオポルト・アドルフ・フォン・スタール中将(1813-1882)
○第1軍団留守軍団長
クリスチャン・アウグスト・ルートヴィヒ・フリードリヒ・フォン・ボルケ歩兵大将(1804-1888)
ボルケ
○第2軍団留守軍団長
フリードリヒ・ヴィルヘルム・グスタフ・フォン・ダンクバール歩兵大将(1797-1878)
ダンクバール
○第3軍団留守軍団長
カール・アウグスト・フォン・グリースハイム騎兵大将(1799-1878)
○第4軍団留守軍団長
男爵フィリッポ・カール・クリスチアン・フォン・カンスタイン歩兵大将(マグデブルク総督兼務/1804-1877)
8月初旬、カンスタイン将軍はベルリン総督に任命され(それまでの総督、アドルフ・フォン・ボニン歩兵大将がロートリンゲン総督となったため)、後任はアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホルン歩兵大将(1800-1886)となりました(8月14日付)
カンスタイン
ホルン
○第5軍団留守軍団長
男爵グスタフ・ハインリヒ・フォン・デア・ゴルツ中将(1801-1870)
ゴルツ将軍は12月23日に赴任先ポーゼンで急死。後任はカール・ゲオルグ・ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・ヴヌック中将(1803-1881)となりました(12月29日付)
○第6軍団留守軍団長
フェルディナント・ハインリヒ・アルベルト・カール・フリードリヒ・シノルト・フォン・シュッツ中将(1803-1876)
○第7軍団留守軍団長
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ボギスラウ・フォン・ツィージールスキ歩兵大将(1801-1872)
○第8軍団留守軍団長
カール・フリードリヒ・レオポルト・フォン・シュトゥックラート中将(1808-1885)
○第9軍団留守軍団長
フリードリヒ・アウグスト・フォン・エッツェル歩兵大将(1808-1888)
エッツェル
○第10軍団留守軍団長
オットー・アレクサンダー・フォン・レーヴァルト中将(1807-1879)
○第11軍団留守軍団長
ハインリヒ・ルートヴィヒ・フランツ・フォン・プロンスキ歩兵大将(1802-1880)
プロンスキ将軍は71年1月8日の勅令によってマインツ総督に異動となったため、以降留守軍団長はカッセル総督でヴィルヘルムスヘーエ城に軟禁されていたナポレオン3世の監視責任者でもあった伯爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール・フォン・モンツ歩兵大将(1801-1886)が兼務しました。
プロンスキ
*ヘッセン大公国
第25「ヘッセン大公国」師団管区はヨハン・クリスチアン・ビッケル少将が留守師団長として勤務します。大公国陸軍省長官のヴィルヘルム・ハインリヒ・ドルンザイフ大佐も出征しますが国内に代理を置きませんでした。
*ザクセン王国
○陸軍大臣
ゲオルグ・フリードリヒ・アルフレッド・フォン・ファブリース中将(70年11月に独大本営へ出仕)
○第12軍団留守軍団長
男爵クレメンス・ハインリヒ・ロタール・フォン・ハウゼン中将(ドレスデン総督兼務/1809-1879)
*バイエルン王国
○陸軍大臣
男爵シギスムント・フォン・プランキ中将(1821-1888)
プランキ
○留守参謀本部長
男爵フリードリヒ・デュ・ヤリス・フォン・ラ・ロッシ中将 (1802-1876)
○バイエルン第1軍団留守軍団長
バプテスト・フォン・シュタインレ中将
○バイエルン第2軍団留守軍団長
アレクサンダー・フォン・ハーゲン中将
*ヴュルテンベルク王国
○陸軍大臣
男爵アルベルト・フォン・スコウ中将(1828-1893)
スコウ
○留守軍司令
フォン・ツィンメラー少将(70年12月末まで)
*バーデン大公国
○陸軍大臣代理
ゲルツ少将(陸軍省課長/大臣のバイエル中将が帰還するまで)
○本国残留軍最高司令部長官
伯爵カール・フォン・シュポネク少将(砲兵長官)
70年10月に独第14軍団勤務となり出征しますが兼務となります。
サン=プリヴァを砲撃する普近衛砲兵とザクセン砲兵(1870.8.18)
☆ 仏軍捕虜
普仏戦争における仏軍の捕虜は、それまで独が経験したことがなかった規模で独本土へ送り込まれました。
旧来の戦争で捕虜は士官や貴族以外劣悪な環境に置かれ重罪人並に扱われ、牢獄に詰め込まれた捕虜は栄養失調や伝染病などで次々に死亡することがままありましたが、19世紀も後半となると赤十字活動の効果もあって戦争による傷病者や捕虜にも人権保護が呼びかけられるようになります。
しかし、この戦争で独の捕虜となった仏兵の手記や回想には、捕虜収容所までの長く悲惨な行軍(徒歩行軍も多くありました)、劣悪な劣悪な環境と食事の貧しさ、そして労働の苛烈さ等が多く記されており、当然ながらこれは独公式戦史や独軍人の回想・証言等とは大きな隔たりがあります。
この辺りはどのような戦争手記であってもお互いに「盛った話」となるのが自然で、最早真実は闇の中といったところで、モルトケの業績を追って来た筆者としては、仏人捕虜の回想や仏人から見た独本土の捕虜収容状況詳細については他に譲り(松井先生のブログが秀逸です)、独側が残した記録のみを簡単に記すことにします。
本格開戦(70年8月頭)後半月を経ず、仏軍捕虜を満載した列車が独本土へ到着し始めました。これはまだ戦線がアルザス、ロレーヌ地方にのみあって独の占領地が反撃によって奪い返される可能性もあったための処置で、普陸軍省はこの最初の捕虜の宿営につき、独本土に駐屯する後備諸隊の兵営規定と出来る限り同一とするよう命じました。
このため捕虜を扱うよう命じられたのは大人数を収容可能で監視も楽な各地の要塞で、宿舎が足りない場合は大型テントを要塞の教練場などに展開し、余裕がある場合は仮の宿舎を建築して収容しました。
しかし季節が冬に向かい、戦域も拡大して捕虜が膨大になると要塞ばかりに捕虜を収容することが出来なくなり、監視に適当な部隊(後備や補充など)が存在する土地にも捕虜が収容されるようになります。
結果1871年2月中旬(完全休戦成立時)に独本土にあった捕虜収容所の数と収容された捕虜は以下の通り膨大な数となります。
○北独連邦内にあった152ヶ所の捕虜収容所(要塞含む)
士官・10,718名 下士官兵・305,287名
○バイエルン王国内にあった26ヶ所の捕虜収容所(要塞含む)
士官・547名 下士官兵・39,536名
○ヴュルテンベルク王国内にあった7ヶ所の捕虜収容所
士官・119名 下士官兵・12,839名
○バーデン大公国内にあった8ヶ所の捕虜収容所
士官・333名 下士官兵・11,750名
○ヘッセン=ダルムシュタット地域(ヘッセン大公国南部)内にあった2ヶ所の捕虜収容所
士官・143名 下士官兵・2,569名
これらの捕虜収容施設は通常、一人の正規軍士官が所長となって勤務し、捕虜は当初200から300名を「捕虜中隊」として区分して管理しますが、メッスの捕虜が到着し始めるとこれを500名に増やして対処します。
収容所長は絶対的な懲罰権限を持ち、独各邦はそれぞれ自国の陸軍軍法を適用して捕虜を管理しました。従って捕虜の扱いは収容所のある邦国によって厳しさに強弱が生じたのです。それでも殆どの収容所で最低限度の人権が守られたのは確かなようで、疾病を発した捕虜は病院に送り信仰についても相当な注意が払われた、と公式戦史にあります。
士官については旧来ヨーロッパで慣習とされて来た「捕虜宣言」(逃亡せず通信も軍検閲を介して送る)をすれば自弁で民間宿舎(旅荘や民泊)に滞在することが可能で、指定された滞在地を出なければ買い物も散歩も自由でした。更には家族を呼び寄せ一緒に暮らすことも可能だったのです。そんな贅沢は出来ない下級士官には捕虜収容所や駐屯地の士官用宿舎が解放されますが、彼らとしても収容所を自由に出入りし街をぶらぶらすることが可能でした。捕虜宣言をしなかった士官は、その身分・階級に応じた宿舎に軟禁され軍による監視が行われました。宣言を破って行動し捕らえられた士官は下士官兵並に捕虜収容所に送られ幽閉されるか、囚人として監獄に送られるなどの厳罰が下されるのでした。
捕虜宣言せずに護送中に、そして様々な手段を講じて収容地から脱走し、無事仏軍支配地へ到着した者も多数あり、その多くは再び軍に復帰して戦いました(デュクロ将軍やクランシャン将軍など)が、中には宣言をしたにも関わらずこれを破り逃走に成功し、仏軍に参加して独から死刑を宣言された者もいたのです。
捕虜士官は階級に応じて給与が支払われ(月額75ターレル~12ターレル)、戦争後半には英国大使館を通じて仏国防政府から増給も支払われます。しかし大尉以下の下級士官はこれだけで生活は出来ず、多くの者は本国の家族から送金を受け何とか士官の威厳を崩さずに生活を維持していました。また、下士官兵にも糧食と被服などが支給されますが、これは所定の捕虜給与から差し引かれました。
当時もその後現代においても捕虜は多少の「作業」を行うことが求められますが、これは当事者にとってはかなり過酷に感じる場合もありました。多分に収容所長の人格により待遇や作業の度合いに相当な違いがあったことは様々な記録からも明らかですが、それは当時の独に限ったことではなく、例えば現代でもグランタナモの忌まわしい事件などが発生する戦争の暗部だと言えます。
少なくとも命じる側の独軍上層部では捕虜に作業を行わせることは、捕虜に不穏な感情を起こさせず監視に反抗させず、そして逃亡を防ぐためにも確実な方法と考えていました。つまり「暇を与えず疲れさせてしまえば反抗する気も失せ、健康にも良いだろう」ということで、北独連邦内収容所では戦争当初、仏捕虜は毎日5時間の無賃労働が課せられ、土木工事や製材などに従事させられました。この時間を超過した場合には相応の賃金が支払われる制度でしたが、捕虜収容所の収容人員が増えるに従って規定はかなり曖昧となり、超過労働は当たり前となり賃金も支払われない収容所が多くなってしまうのです。
このため、建前上は志願により賃金を支払って労務に従事することが定められ、同時に民間人の抑留者にも使役が行われることになりました。
とはいえ、これが完全に実施されたかと言えば怪しいもので、捕虜の多くは休戦に至るまで是非もなく多くの者が宿舎建築や練兵場や射撃場の整備や改装、軍の工場作業や道路の整備などに使役され続けたのでした。
独公式戦史は捕虜について多くは語らず、自軍の捕虜については記述がありません。「行方不明」として「数」だけが残りますが、この数は軍医や軍官吏を入れても公式に12,879名で、仏は独捕虜を約40,000名としており、かなりの隔たりがあります。
また独公式戦史は、仏捕虜の多数が帰還後収容時の不満を口にした事実を無視し、こう結びます。
「捕虜が激増したことでその処置について、時に失態があり特に輸送中の逃亡などが発生したが、戦争中独に捕虜として滞在した多数の仏人は、その給養や処遇について何ら不満を唱えることはなかった」(独公式戦史・筆者意訳)
☆ 普仏戦争の決算
普仏戦争で独軍が被った公式の損害は次の通りです。
○士官・軍医・官吏 6,247名
○下士官兵 123,453名
○馬匹 14,595頭
○軍旗 1旒(但し仏軍は2旒と記録しています)
○砲 6門(その他8月18日のグラヴロットの戦いで2門を仏軍に奪われますがメッスの開城で取り返しています)
普近衛シュッツェン大隊兵
対する仏軍は1871年2月中旬の完全休戦までに、士官11,860名・下士官兵371,981名の捕虜を出して、これは独軍が全て独本土へ輸送しています。
パリでは士官7,456名と下士官兵241,686名が投降しました。
※パリ開城時に投降した仏軍
○正規陸軍に属する軍人
士官4,542名 下士官兵125,178名
○海軍に属する軍人
士官366名 下士官兵13,665名
○護国軍に属する者
士官2,548名 下士官兵102,843名
「パリ降伏・1871年1月28日」(エドゥワール・デタイユ画)
仏東部軍は士官2,192名・下士官兵88,381名・砲285門でスイスに越境し武装解除・抑留されました。
独軍が獲た戦利品は以下の通りです。
○軍旗 107旒
○野砲とミトライユーズ砲 1,915門
○要塞砲 5,526門
*携帯火器の総計は資料無し
鹵獲された仏の野砲
※普仏戦争で独軍が鹵獲した主な戦利品詳細
○ヴァイセンブルクとヴルト会戦の結果
*鷲旗・軍旗 5旒
*野砲とミトライユーズ砲 25門
○メッス近郊三会戦(コロンベイ・マルス=ラ=トゥール・グラヴロット)とその降伏の結果
*鷲旗・軍旗 56旒
*野砲とミトライユーズ砲 695門
*要塞砲 876門
*携帯火器 260,000挺
○ボーモンとセダン会戦の結果
*鷲旗・軍旗 9旒
*野砲とミトライユーズ砲 461門
*要塞砲 139門
*携帯火器 66,000挺
○ストラスブール攻囲とその周辺の戦いの結果
*野砲とミトライユーズ砲 3門
*要塞砲 1,213門
*携帯火器 200,000挺
○ロアール河畔の戦いとオルレアン確保の結果
*鷲旗・軍旗 4旒
*野砲とミトライユーズ砲 35門
*要塞砲 52門
○ロアール河畔以降の戦闘とヴァンドームの戦闘の結果
*鷲旗・軍旗 1旒
*野砲とミトライユーズ砲 22門
○ル・マンへの行軍中
*鷲旗・軍旗 6旒
*野砲とミトライユーズ砲 17門
*要塞砲 1門
○仏北軍との戦闘の結果
*鷲旗・軍旗 8旒
*野砲とミトライユーズ砲 42門
*要塞砲 29門
○仏南東部の戦闘の結果
*鷲旗・軍旗 5旒
*野砲とミトライユーズ砲 30門
○パリとその周辺
*鷲旗・軍旗 4旒
*野砲とミトライユーズ砲 605門
*要塞砲 1,371門
*携帯火器 177,000挺
砲台の設置位置を事前偵察する独軍(ストラスブール)
○要塞攻略・70年8月(リヒテンベルク、リッツェルシュタイン、マルサル、ヴィトリ・ル・フランソワ)
*鷲旗・軍旗 1旒
*要塞砲 75門
*携帯火器 3,000挺
○要塞攻略・70年9、10月(ラン、トゥール、ソアソン、セレスタ)
*鷲旗・軍旗 2旒
*要塞砲 346門
*携帯火器 45,000挺
○要塞攻略・70年年末まで(ベルダン、ヌフ=ブリザック、モンメディ、ティオンヴィル、ラ・フェール、ファルスブール)
*鷲旗・軍旗 1旒
*要塞砲 644門
*携帯火器 77,000挺
○要塞攻略・71年年頭から講和まで(メジエール、ロクロワ、ペロンヌ、ロンウィー、ビッチュ)
*鷲旗・軍旗 2旒
*要塞砲 409門
*携帯火器 5,000挺
○ベルフォール
*要塞砲 341門
*携帯火器 22,000挺
○鹵獲場所不明
*鷲旗・軍旗 3旒
サント=マリー=オー=シェンヌのザクセン軍団(1870.8.18)
※独軍の損害詳細(休戦後に占領地で発生した損害は含まず)
○第一軍本営
*負傷 士官1名
○第二軍本営
*戦死又は負傷後死亡 士官1名
○メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍本営
*負傷 士官1名 下士官兵1名
○近衛軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官172名・軍医1名・経理官1名 下士官兵2,706名 馬匹699頭
*負傷 士官238名・軍医2名 下士官兵6,672名 馬匹378頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名 下士官兵219名 馬匹10頭
○第1軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官82名 下士官兵1,595名 馬匹311頭
*負傷 士官234名・軍医2名 下士官兵5,291名 馬匹317頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官3名 下士官兵460名 馬匹28頭
○第2軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官61名・軍医1名 下士官兵807名 馬匹152頭
*負傷 士官167名・軍医4名・軍医見習1名 下士官兵2,191名 馬匹83頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名・軍医1名 下士官兵165名 馬匹6頭
○第3軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官172名 下士官兵2,655名 馬匹724頭
*負傷 士官408名・軍医9名 下士官兵8,299名 馬匹331頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名 下士官兵394名 馬匹18頭
○第4軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官63名・軍医1名 下士官兵826名 馬匹138頭
*負傷 士官132名・軍医5名・軍医見習1名 下士官兵3,029名 馬匹159頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名 下士官兵197名 馬匹3頭
○第5軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官97名・軍医1名 下士官兵1,697名 馬匹182頭
*負傷 士官290名・軍医2名 下士官兵5,961名 馬匹164頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名 下士官兵846名 馬匹18頭
○第6軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官17名 下士官兵282名 馬匹24頭
*負傷 士官43名 下士官兵738名 馬匹8頭
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵30名
○第7軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官76名 下士官兵1,225名 馬匹247頭
*負傷 士官207名・軍医1名 下士官兵3,991名 馬匹159頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官3名 下士官兵527名 馬匹17頭
○第8軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官148名 下士官兵1,707名 馬匹406頭
*負傷 士官315名・軍医1名・従軍牧師1名 下士官兵6,124名 馬匹434頭
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵351名 馬匹15頭
○第9軍団(第25「ヘッセン大公国」師団含む)
*戦死又は負傷後死亡 士官119名 下士官兵1,799名 馬匹618頭
*負傷 士官242名・軍医1名・軍医見習2名 下士官兵4,767名 馬匹254頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官2名・軍医見習1名 下士官兵174名 馬匹43頭
○第10軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官110名 下士官兵2,128名 馬匹416頭
*負傷 士官234名・軍医6名・従軍牧師1名 下士官兵4,704名 馬匹307頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官15名・軍医4名 下士官兵1,035名 馬匹62頭
○第11軍団
□第21師団と軍団砲兵等
*戦死又は負傷後死亡 士官39名 下士官兵467名 馬匹230頭
*負傷 士官130名・軍医1名 下士官兵2,023名 馬匹130頭
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵171名 馬匹1頭
□第22師団(1871年1月4日を除く・別記)
*戦死又は負傷後死亡 士官55名・従軍牧師1名 下士官兵747名 馬匹225頭
*負傷 士官167名・軍医2名 下士官兵2,749名 馬匹131頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名・軍医1名 下士官兵462名 馬匹5頭
○第12「ザクセン王国」軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官104名・軍医1名 下士官兵1,331名 馬匹291頭
*負傷 士官190名・軍医1名 下士官兵4,203名 馬匹264頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官5名 下士官兵1,009名 馬匹115頭
普近衛猟兵大隊兵(1870-71)
○第13軍団
□軍団本営
*戦死又は負傷後死亡 士官1名
□第17師団
*戦死又は負傷後死亡 士官49名 下士官兵644名 馬匹138頭
*負傷 士官101名・軍医1名 下士官兵1,718名 馬匹113頭
*生死不明(多くは捕虜) 軍医3名 下士官兵190名 馬匹9頭
□後備第2師団
*戦死又は負傷後死亡 下士官兵14名 馬匹2頭
*負傷 士官6名・軍医1名 下士官兵84名 馬匹6頭
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵13名
□第22師団(1871年1月4日)
*戦死又は負傷後死亡 士官11名 下士官兵102名 馬匹15頭
*負傷 士官10名 下士官兵307名 馬匹20頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名 下士官兵89名
○第14軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官47名 下士官兵715名 馬匹149頭
*負傷 士官141名・軍医1名 下士官兵2,538名 馬匹133頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官5名・軍医7名 下士官兵293名 馬匹19頭
○バイエルン王国第1軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官195名 下士官兵1,768名 馬匹536頭
*負傷 士官350名・軍医1名 下士官兵6,964名 馬匹582頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官12名・経理官1名 下士官兵2,270名 馬匹141頭
○バイエルン王国第2軍団
*戦死又は負傷後死亡 士官71名 下士官兵737名 馬匹89頭
*負傷 士官107名・軍医1名 下士官兵2,475名 馬匹91頭
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵599名 馬匹1頭
○ヴュルテンベルク王国野戦師団
*戦死又は負傷後死亡 士官37名 下士官兵641名 馬匹121頭
*負傷 士官79名・軍医1名 下士官兵1736名 馬匹80頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官1名 下士官兵178名 馬匹8頭
○バーデン大公国野戦師団
ストラスブール攻囲兵団所属時と第14軍団所属時にそれぞれ加算しています。
○ストラスブール攻囲兵団(後備近衛師団と予備第1師団を除く)
*戦死又は負傷後死亡 士官9名 下士官兵77名 馬匹36頭
*負傷 士官16名・軍医1名 下士官兵285名 馬匹24頭
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵21名 馬匹12頭
○ベルフォール攻囲兵団(予備第1師団と予備第4師団を除く)
*戦死又は負傷後死亡 士官8名 下士官兵123名 馬匹5頭
*負傷 士官32名・軍医1名 下士官兵492名 馬匹25頭
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵56名 馬匹1頭
○後備近衛師団
*戦死又は負傷後死亡 士官6名 下士官兵67名 馬匹2頭
*負傷 士官9名 下士官兵270名
○予備第1師団
*戦死又は負傷後死亡 士官10名 下士官兵210名 馬匹10頭
*負傷 士官44名・軍医2名・経理官1名 下士官兵1,072名 馬匹13頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官4名・軍医1名 下士官兵349名
○予備第3師団
*戦死又は負傷後死亡 士官26名・軍医1名 下士官兵291名 馬匹46頭
*負傷 士官51名・軍医1名 下士官兵1,338名 馬匹30頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官3名・軍医1名 下士官兵642名 馬匹18頭
○予備第4師団
*戦死又は負傷後死亡 士官12名 下士官兵222名 馬匹66頭
*負傷 士官36名・軍医見習1名 下士官兵859名 馬匹27頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官2名 下士官兵414名 馬匹9頭
○騎兵第1師団
*戦死又は負傷後死亡 士官6名 下士官兵51名 馬匹163頭
*負傷 士官24名 下士官兵193名 馬匹255頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官3名 下士官兵109名 馬匹133頭
○騎兵第2師団
*戦死又は負傷後死亡 士官6名 下士官兵42名 馬匹157頭
*負傷 士官13名 下士官兵146名 馬匹218頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官2名 下士官兵83名 馬匹85頭
○騎兵第3師団
*戦死又は負傷後死亡 士官4名 下士官兵38名 馬匹102頭
*負傷 士官4名 下士官兵79名 馬匹75頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官4名 下士官兵82名 馬匹107頭
○騎兵第4師団
*戦死又は負傷後死亡 士官6名・軍医2名 下士官兵62名 馬匹146頭
*負傷 士官15名 下士官兵144名 馬匹270頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官5名・軍医1名 下士官兵150名 馬匹133頭
○騎兵第5師団
*戦死又は負傷後死亡 士官17名 下士官兵227名 馬匹519頭
*負傷 士官52名・軍医1名 下士官兵692名 馬匹228頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官6名 下士官兵182名 馬匹443頭
○騎兵第6師団
*戦死又は負傷後死亡 士官13名 下士官兵137名 馬匹341頭
*負傷 士官29名・従軍牧師1名 下士官兵285名 馬匹208頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官2名 下士官兵125名 馬匹135頭
○兵站総監部と占領地総督府所属部隊
*戦死又は負傷後死亡 士官9名 下士官兵162名 馬匹22頭
*負傷 士官28名 下士官兵527名 馬匹29頭
*生死不明(多くは捕虜) 士官16名・糧食部員1名・軍医見習1名・経理官1名 下士官兵616名 馬匹128頭
○パリ包囲網攻城(要塞)砲兵
*戦死又は負傷後死亡 士官9名 下士官兵80名 馬匹1頭
*負傷 士官25名 下士官兵336名 馬匹1頭
○パリ包囲網要塞工兵
*戦死又は負傷後死亡 下士官兵1名
*負傷 士官1名 下士官兵10名
○野戦弾薬第1予備厰
*戦死又は負傷後死亡 下士官兵2名
*負傷 士官1名 下士官兵1名
○第3野戦鉄道隊
*負傷 士官1名
*生死不明(多くは捕虜) 士官2名 下士官兵139名
○第4野戦鉄道隊
*戦死又は負傷後死亡 下士官兵2名
*生死不明(多くは捕虜) 下士官兵2名
◎独軍死傷者総計
*戦死又は負傷後死亡
士官1,871名・軍医8名・従軍牧師1名・経理官1名 下士官兵26,397名 馬匹7,329頭
*負傷
士官4,184名・軍医46名・軍医見習5名・従軍牧師3名・経理官1名 下士官兵84,304名 馬匹5,547頭
*生死不明(多くは捕虜)
士官102名・軍医20名・軍医見習2名・糧食部員1名・経理官2名 下士官兵12,752名 馬匹1,723頭
総計
士官6,157名・軍医74名・軍医見習7名・従軍牧師4名・経理官4名・糧食部員1名
下士官兵123,453名 馬匹14,595頭
普近衛擲弾兵(1870-71)
※軍属にカウントされない野戦鉄道隊に勤務した商務省鉄道局官吏の死傷数
*戦死又は負傷後死亡 2名
*負傷 5名
*生死不明(多くは捕虜)27名
合計 34名
※鉄道事故により死傷した官吏
*死亡 14名
*負傷 17名
壁新聞を読むベルリン市民
独公式戦史は普仏戦争の戦記を以下のように結びます。
「独仏民族の激しい戦いはとにかくも7ヶ月で終了した。
独民族は半世紀前、あのナポレオンと戦った先祖と同じく独の独立を維持するため血を流して戦い祖国を寸土も譲らず敵兵は一歩も独本土を侵すこと無く栄光の勝利を獲た(実際はザールブリュッケンが一時占領されプファルツ地方の国境地帯で数ヶ所部落が占領されます)。
独民族はこの戦争で多大の犠牲を被ったが、開戦当初より全力を傾注して敵に当り、その義務を心得て沈着冷静にして大いなる辛苦を耐えた。この犠牲を甘んじて受け入れること独民族の骨頂である。
しかしこの戦勝で獲た利益は損失を補って余りあるもので、かつて仏国に奪われた独領土はメッスとストラスブールと共に回復し、独民族旧年来の願いであった統一にも成功し、勝者となった普国王は独各領邦と自由市に対する責任を負う独皇帝の位に就いた。これがこの戦争最大の成果である」(筆者意訳)
しかし……皆さんご存知の通り。
この喜びの絶頂こそ独の将来に深い陰を落とすことになったのでした。
(普仏戦争編・了)
Le Rêve
Édouard Detaille作
1888年
キャンパス・油彩
400x300cm
オルセー美術館所蔵
仏の戦争画家、エドュワール・デタイユの代表作「Le Rêve」(日本名「兵士たちの夢」)は広大な演習場で野営するフランス軍兵士を描いたものです。この兵士はおそらくシャンパーニュの平原で夏の演習に参加している第三共和制フランス軍の招集兵でしょう。彼らは過去の兵士の姿・両帝政の栄光の光景を夢見ており、それは即ち普仏戦争で味わった祖国の屈辱を晴らすための復讐を夢見ているのです。空に浮かぶ幻影はフランス革命軍の他にアウステルリッツ( 第一共和制と第一帝制)、トロカデロ(スペイン戦争)、アルジェ遠征(復古王政)、マゼンタとソルフェリーノ(第二帝政)、グラヴロットとヴルト(1870年の戦争)それぞれで戦った兵士たちです。
この絵画はフランス栄光の時代への郷愁を呼び、この絵が描かれた当時(1888年)の「ブーランジェ運動」に賛意を示す、つまりは独への復讐を呼びかける強力なプロパガンダとなりました。
フランス共和政府は直ぐにこの絵を買い取り(1889年7月)リュクサンブール宮殿に飾られ、その後アルメ美術館で長らく展示された後、現在はオルセー美術館所蔵となっています。(ウィキペディアより)




