独軍の補充部隊
☆ 補充部隊
戦史を辿るとその緒戦、双方軍の兵力数や装備、戦闘序列や動員配置など「傷付いていないピカピカの軍隊」に目が行き印象に残り、その後の戦闘に対してもその経過や損害数と軍の再展開に気を取られ、戦闘後の補給と補充についてはついつい見逃してしまうものです(というか普通の戦史では省略されるか備考欄に落ち着きます)。どんな軍隊であってもあの第二次大戦初期の「フォニー・ウォー」(奇妙な戦争)のような状態でない限り、将兵は倒れ傷付き部隊は定員割れを起こします。いや、フォニー・ウォーであっても将兵・軍属は病気に掛かりますし、事故で死傷もします。そして前線指揮官たちは出来る限り定員数に近付けようと後方に補充兵の充当を求めるのです。
近代19世紀中盤以降(クリミア戦争以降)では欧米の戦闘単位としての歩兵大隊は600名から1,000名前後が定員というのが一般的となりますが、これの30%以上(180から330名前後、即ち1個中隊以上)が「死傷者」としてカウントされてしまうと、これは以降の「戦闘不能」即ち「全滅」認定されてしまいます(大隊としての部隊運用が不可能となるためで、これは連隊以上の単位も同じです)。軍隊が「傷病」としてカウントするのはせいぜい「歩けないほどの酷い捻挫」か「肺炎」などの「重い風邪」以上で、当然ながら「擦過傷」「過労」「心因性の厭戦」などは数に入りません。しかし、戦闘が発生すれば先の30%の陰に隠れてそれに匹敵する数の「なにがしかの傷(心と体)」を負った将兵がいるわけで、彼らもまた十分な「手当と休養」を施さなくては全力を発揮出来ないのです。
ここで重大なことは、この「穴」を埋めるための補充で、これが「数と質」において出来る限り当初の将兵と同じ「力」を維持していなければ、補充を行っても兵力の回復は十分でないことは誰にでも分かることでしょう。これは敵も同じで、また負け戦が続けば当然ながらその「デススパイラル」は「敗戦」に向けて急速に進んで行くのです。
とまあ、「ミリオタで」のような書き出しとなってしまいましたので、この辺でいつもの感じに戻しましょう。
普仏戦争の動員が始まると北独連邦の各軍管区では現役部隊の集合・装備・行軍と予備役の招集など大騒ぎとなりますが、同時に補充部隊の編成も始まりました。
北独軍(実態は普軍)は動員直後、「予備役招集における余剰人員」「第一種補充予定予備役の最新年度兵」「後備兵(旧ラントヴェーア)の初年度兵」によって「補充隊」を編成します。これは動員完了時点で歩兵118個大隊・猟兵18個中隊・騎兵76個中隊・野砲兵41個中隊(補充用野砲各種合計246門)・工兵13個中隊、総計は歩砲工兵122,500名、騎兵15,200名となりました。この補充隊の内、騎兵中隊・騎砲兵中隊・近衛砲兵中隊・猟兵中隊・フュージリア連隊の大隊・近衛歩兵連隊の大隊は補充予定予備役と後備兵新兵からの補充を取らず、正規合格兵のみから編成しています。しかしセダンでの戦いが終った9月9日以降になると、さすがに独本土に残る現役兵は少数となり、後備諸隊の古参兵も補充隊に編入されました。これらの規定は普軍の中の「外国軍」・第12軍団(ザクセン王国)、第25師団(ヘッセン大公国)でも同様に実施されます。その他、徴兵召集から洩れた後に軍へ志願した者も補充部隊に迎えられて教練に入るのでした。
この新兵を出来る限り早期に野戦任務に耐えられるようにするため、前の戦争(普墺やシュレスヴィヒ=ホルシュタイン)を経験した古参の将兵が教官として召集されましたが、10万以上の兵役未経験者を数ヶ月で戦場に送り出すためには、戦争中であっても一定数の教官を確保する必要があり、陸軍省はこれも常に定数を満たすよう努め、これは70年8月から10月に発生した「現役士官の大量不足」下であっても後述通り厳守されました。
独軍に連行される仏人反抗者
☆ 北独連邦における兵員補充
北独軍(普軍)の兵員補充は1870年8月以降、各野戦軍(第一、二、三、マース、南、第14軍団)から戦病死・重傷者・捕虜・入院のために欠員が定員の10%を超えた場合に要求することが定められますが、12月30日以降、これは5%を超えた場合に変更されました。この理由は、戦闘が連続する場合、補充兵が到着するまでの間に再び兵員の損耗で更に部隊が弱体化してしまう事が続出、この「時間差」を埋めるための処置でした。
諸隊の欠員がこの定員の10%を越えた場合、諸隊長は戦闘終了後に軍団本営(緊急の場合は直接補充隊へ)に対し補充を求め、これらの司令部は該当する部隊の補充隊か留守軍団本営に補充要請を出します。
補充兵の輸送は各軍兵站総監部の差配で基本鉄道輸送により兵站主要地に向けて行い、終着停車場からは徒歩行軍で所属部隊に向かうのが普通でした。しかし、一大会戦の後などでは負傷者と捕虜の後送のため鉄道が混み合い、補充兵の輸送は緊急度が高い割に後回しにされてしまうことが頻発し、この遅延の間にも野戦軍は前進してしまい、補充兵が到着するのは要請から数週間後になってしまう事態も頻発してしまいます。
このため野戦軍では一大会戦の後で著しく員数を減らした部隊を一時欠番として残った兵員を同じ連隊内に吸収させたり、半減した中隊の行軍序列を変更して後方に置く、というような処置が採られました。また、多くの部隊が補充を求める一大会戦後には、要求された員数より相当少ない兵員しか到着出来ず、定員の三割減のまま戦闘続行となることもあったのです。この例では第二軍所属の第3軍団が、8月6日と16日に受けた損害(スピシュランとマルス=ラ=トゥール)により「士官382名・下士官兵13,064名」を要求したところ、9月下旬まで五月雨的に受けた補充が総計で「士官147名・下士官兵9,430名」にしかならなかった、という事例があります。また砲兵部隊の損害では、補充を受ける前にまず弾薬縦列の兵員(元より彼らも砲兵です)と馬匹を間引いて使用することが多々ありました。
補充部隊から訓練済みの兵員が出征すると、その「穴」は新規徴募兵によって埋められました。
1870年9月初旬、メッス近郊の三会戦とセダン戦により、1870年及び71年度召集予定徴募兵が繰り上げ召集されます。これで足りない分は第一種補充予定予備役や現役終了直後の古参兵を以て埋めました。この戦争中に関しては、この補充予備役と古参兵は十分な数が独本土に残っていたのです。
以上のように北独連邦歩兵部隊の補充は三つの策源から得ていました。
○第一種
開戦時、既に規定の教練を完了し補充隊で待機にあった兵士
各補充大隊(総計122個半)に約500名・総計約60,000名
1870年8月と9月に発生した損害を埋めます。
○第二種
動員時に召集を受けた新年度兵と志願兵
約50,000名。10月上旬から野戦軍の損害を埋めます。
○第三種
1870、71年度の召集新兵
約70,000名。1871年1月から野戦軍の補充に当たります。
この三種の兵士が補充として出征する中、戦争初期に負傷や疾病で入院していた兵士が退院し始め、彼らはそのまま補充隊に加入したため、補充兵員数は増大し余裕が生まれました。歩兵以外の兵科でもその補充は歩兵に劣らず全く問題ありませんでした。
仏領土に出征した後備諸隊は当初(70年10月前後)損害が生じても補充を行うことをせず、部隊間での員数平準化で凌ぎました。しかし後備部隊も正面戦闘に参加するようになると、損害も無視出来ない数となったことから、独本土で定置勤務に就く後備歩兵大隊と要地衛兵大隊、そして乗馬が交付されていない後備騎兵補充中隊は、出征した後備諸隊の補充を担うため教練の強化が図られ、特に定置後備歩兵大隊には71年2月上旬に第一種補充予定予備役300名が各大隊に増派され、同年5月に占領地で任務に就く後備諸隊に補充するべく教練が急がれます。
士官の補充については70年8月から9月の激戦で大量の補充要請が発生し、本国に残留していた現役士官たちが殆ど出征することとなってしまい、補充部隊の士官として勤務していた者も多数野戦部隊に引き抜かれました。不足した補充部隊の士官は、名誉職的な「腰掛け任務」に召集されるような予備役士官(軽度の傷病休業中や高齢者など)で穴埋めされるのです。
☆ バイエルン王国ほか南独諸邦における兵員補充
バイエルン王国野戦軍に対する兵員補充は北独連邦に倣い、補充が発生し補充大隊に欠員が生じると、先ずは再教練過程が終了した予備役と後備兵により穴を埋めます。70年7月に補充隊は歩兵16個大隊、猟兵10個中隊、騎兵10個中隊、野戦砲兵8個中隊、工兵2個中隊で、員数は歩兵・猟兵・工兵併せ20,400名、騎兵1,800名、馬匹牽引野砲24門でした。また補充隊以外で本国にあった要塞等の守備隊は歩兵24個大隊(うち8個は正規歩兵大隊)の18,400名・騎兵3個小隊90名・要塞砲兵16個中隊3,800名・要塞工兵3個中隊でした。
しかし十分な補充兵を用意したと考えていたバイエルン軍では、セダン戦以降特に第1軍団に予想以上の兵員損耗が発生したため補充部隊将兵の殆どが出征してしまい、その後の補充に支障がないよう70年10月4日、1870・71年度の徴募新兵の全て16,000名と第一種補充予定予備役2,520名が補充諸隊に召集され、早くもその一部は同年12月に野戦軍へ補充され出しました。それでも欠員は12月の補充だけで補い切れなかったため、バイエルン軍は12月中旬に新兵の教練期間を6週間(それまでは8週間)に短縮せざるを得なくなります。また騎兵については新兵の教練を同じく6週間としますが、その補充兵は所属部隊に到着しても直ぐには実戦参加させず部隊内で追加の教練と習熟を重ねた後に正式な員数としてカウントされました。
バイエルン軍はこの12月に補充歩兵大隊の定数を200名増加させ、補充猟兵中隊の定数も50名増加とします。これで補充諸隊は3,700名増えることとなりました。また補充大隊の第4中隊は大隊の増員後、戦場への派遣が始まった後備歩兵大隊の補充を専任することになります。
オルレアン周辺の戦いで損耗の激しかった砲兵諸隊の補充については、本国にあった補充砲兵中隊から野砲兵1個大隊を新設し出征させたため、補充砲兵は8個中隊が4個中隊に減少してしまいました。このため補充砲兵中隊にも増員が図られ、各補充砲兵中隊の定数は下士官36名・砲卒278名と四割増となったのです。
「オルレアン近郊のバイエルン兵」
ヴュルテンベルク王国は普墺戦争後に軍の増強を図り、先ずは増員して軍団編成を目指しましたが、郷土兵を全て正規兵とし教練期間を相当短縮しなければ定数が維持出来ない(軍団は通常2個師団4個旅団・24,000名程度)計算となったため諦め、師団編成のままで装備や教練を強化した経緯がありました。この時に秘密軍事協定で北独の有事に参戦が義務付けられたため、編成や教練法も普軍に近いものとなります(1867年春)。
補充部隊もバイエルン軍同様北独連邦に倣って有事に後備部隊(ヴュルテンベルク軍では内国守備隊扱いです)から作られ、70年7月に本国にあったのは歩兵8個大隊(うち半数は内国守備隊)の8,000名・騎兵6個中隊900名・野砲兵3個中隊(砲12門)・要塞砲兵4個中隊(野砲兵と併せ900名)・工兵1個中隊とその予備隊1個・補給補充隊1個でした。
野戦師団で欠員が生じ、本国から補充兵の出征が頻繁となると、軍は欠員を埋めるため1859年から66年までに教練を終えていた補充予備兵と1870年度招集の教練未了新兵、そして同時に招集された同年度の補充予備兵と志願兵(併せて1,400名)で万全を図りました。
バーデン大公国でも補充部隊の充足方法は普軍とほぼ同じ方法に因りました。70年7月に本国にあった補充隊は歩兵6個「隊」、騎兵3個中隊、野戦砲兵2個中隊、工兵1個隊で、員数は歩兵・工兵併せ4,400名、騎兵600名、馬匹牽引野砲12門でした。また本国勤務で残留していた将兵は歩兵11個大隊(うち5個は正規軍歩兵大隊)の8,600名・騎兵1個中隊100名・要塞砲兵9個中隊(1,200名・内1個中隊に野砲6門)・要塞工兵1個中隊でした。
この補充隊は9月初旬に野戦師団各連隊へ240名ずつ補充兵を送ります(バーデン師団の歩兵大隊は当初900名定員で出征していました)。
戦中常にフォン・ヴェルダー将軍の下、仏南東部で戦ったバーデン師団はディジョン~ベルフォール間の戦いで損害を受け、補充兵は70年11月と12月下旬、そして休戦間際の71年2月中旬に輸送隊を編成して戦地に向かいました。このため生じた補充隊の欠員は1870年度の徴募兵により埋められますが、更に1860年度以降に召集された予備役で野戦勤務に耐えると判断され未だ召集を受けていなかった者は全て71年1月31日付で召集され、員数不足となっていた各後備歩兵大隊・要塞砲兵大隊・補充隊に分配されました。
フォン・ヴェルダー歩兵大将(1870年)
☆ 独軍の兵員・馬匹補充の実態
独軍の補充兵は前述通りの大量召集によって十分に確保され、またこの中から新規の野戦部隊や後方支援部隊が創設され出征しました。このため、独大本営としては野戦軍の補充計画に大きな変更を行うことなくこの戦争を乗り切りました(当然ながら実戦期間が7ヶ月余りと短期間だったことも独にとっては幸いでした)。
独軍の補充諸隊は71年3月上旬までに総計2,000名余りの士官、およそ220,000名の下士官兵を仏の戦場に送り出し、野戦軍の欠員を埋め続けました。しかもこの71年3月初旬に独各軍の補充諸隊に在籍した将兵の総数は、士官3,288名、下士官兵204,684名、馬匹26,603頭と丸々一軍が創設出来る数だったのです。
また、これら補充歩兵は戦中末期に至るまで例外なく「完全装備」で武器弾薬を規定の満数携帯して戦地に向かい、騎兵・砲兵・輜重兵も同時に必要数の補充馬匹を曳いていました。
戦場にあった野戦軍の被服装備の補充も出来得る限り本国から送達されます。これらの追送品は軍団ごとにまとめられ、最低限度の護衛を付して該当諸隊の兵站集合地まで送達されますが、既述通り列車の運行状態や後方連絡路の不備、仏義勇兵(フランク・ティラール)の妨害、そして悪天候などにより遅延が続き、馬具や簡単な装具などは現地で至急を生じた場合、部隊長の判断で間近の仏民間工場と交渉し時には脅して作らせるのでした。
軍になくてはならない馬匹の補充は、騎兵・砲兵・輜重兵の各兵科では直接専用の補充部隊に対しこれを要求出来ましたが、歩兵・猟兵・工兵・各本営(後方担当)については各軍に付属する馬厰に対して請求を行います。
馬厰は緊急時、騎兵や砲兵に対しても補充供給を行いましたがこの普仏戦争において独軍では馬厰の多くが定数以上の乗用馬・牽引馬の両方を飼育していたため殆どの場合、供給に不足を覚えることはありませんでした。
この馬厰ではその補充を占領地での徴発と戦勝による鹵獲により補い、更に傷病によって後送された馬匹も手厚く看病して前線に戻していました。もちろん本国からも追送補充を受けましたが、これは仏領で獲た馬匹が不足したり特に戦争後半で獲た馬匹が弱小だった場合に行われました。
この乗用馬の補充で困難だったのは士官用の乗馬確保で、これは士官の威厳を示すためにも十分な調教を施した見栄えも良い馬が求められていたため常に不足気味で、戦死か重傷を負って本国へ後送された士官の乗馬を買い取って充てる場合が多く見られました。因みに独軍士官(というより当時の各国士官)の乗馬は騎兵を含めて全員自己負担の私物「自家用馬」で、喪失した場合も自分で用意するか馬厰から買い入れていました。
普軍では出征した馬厰のため、ベルリンに「特別編成中央馬厰」を設置します。
これは「馬厰のための馬厰」で、常に乗馬100頭・牽引馬200頭を用意して出征馬厰からの補充要求に応えますが、戦争後期では野戦軍と同じく定数以上の馬匹を飼育することとなります。中央馬厰は戦中3,585頭の馬匹を出征馬厰に追送しますが、これらの馬匹の補充は全て購買で行っていました。
バイエルン軍では補充部隊の他に軍馬飼育場や軍乗馬学校も馬匹の供給を行いました。他ヴュルテンベルクやバーデンでも不足した馬匹を順当に供給しています。
独軍は本土から馬匹約22,000頭を送り出し、その他に仏で約16,000頭を徴発または鹵獲して補充に充てました。従って戦中独軍が受けた馬匹補充の総計は約38,000頭となります。
北独の野戦砲兵諸隊に戦中補充した野砲は総計92門となりました。
野砲兵中隊で砲の損耗があった場合、その補充要求はまず各軍の砲兵部長の下に出されます。砲兵部長は自軍の砲兵の状況を鑑みてこれを適宜陸軍省へ要求しました。更に陸軍省の砲兵部門はこの要求の正当性を吟味した後に本国砲兵工廠へ手配するのでした。これはバイエルンやヴュルテンベルク軍でも同じで、それぞれ本国の砲兵工廠から戦場へ送達されますが、その多くは砲身のみの搬送で、砲架や砲車の破損は出来るだけ自分たちで修繕し、損傷が激しい場合には現地の砲厰や時には占領地の鍛冶屋などに修繕させるのが常でした。結果、戦中の独軍野砲損失は激しい砲撃戦が相次いだ割には合計116門と信じられないほど軽微と言えました。
同じ事が他の火器や刀剣と槍、野戦器具類などにも言え、その総計は詳細な資料が手元になく分かりかねますが、ザクセン軍の戦後資料によれば第12軍団では出征時以降、現地在庫が無くなったとして本国から補充したのは「ドライゼ銃33挺・後装騎銃39挺・各種軍刀146本・銃剣179本・槍44本」と微々たるものでした。この理由として独公式戦史では「独軍は戦闘時殆どの場合敗走することがなく、多くが後退せず戦場に留まっていたからである」と誇らしげに記しています(逆に仏軍は背嚢や武器を遺棄して遁走する場面が多く見られました。後述)。
独軍では71年2月から3月の休戦期に人馬の損耗を殆ど補充し終え、仮講和条約が成立する頃(2月末)には既に仏軍と再戦しても必勝と言い切れるような準備を終えていたのです。
パリ・セーブル橋~白旗の使者
※普仏戦争における独軍毎月の総兵員数
戦後に独帝国が調査のために招聘した特別委員会報告に因ります。この数には士官・軍医・宗教関係者・文官・入院患者・軍属を含めます。
○1870年8月期
*出征中の者 780,723 同馬匹 213,159
*本土にある者 402,666 同馬匹 37,214
*総計 1,183,389 同馬匹 250,373
○1870年9月期
*出征中の者 813,280 同馬匹 218,093
*本土にある者 350,238 同馬匹 34,100
*総計 1,163,518 同馬匹 252,193
○1870年10月期
*出征中の者 840,857 同馬匹 225,401
*本土にある者 369,799 同馬匹 33,785
*総計 1,210,656 同馬匹 259,186
○1870年11月期
*出征中の者 827,271 同馬匹 225,856
*本土にある者 390,380 同馬匹 32,601
*総計 1,217,651 同馬匹 258,457
○1870年12月期
*出征中の者 841,196 同馬匹 227,860
*本土にある者 404,611 同馬匹 31,618
*総計 1,245,807 同馬匹 259,478
○1871年1月期
*出征中の者 913,967 同馬匹 232,689
*本土にある者 398,826 同馬匹 31,619
*総計 1,312,793 同馬匹 264,308
○1871年2月期
*出征中の者 936,915 同馬匹 232,398
*本土にある者 413,872 同馬匹 31,337
*総計 1,350,787 同馬匹 263,735
○1871年3月期
*出征中の者 925,800 同馬匹 233,196
*本土にある者 424,608 同馬匹 32,312
*総計 1,350,408 同馬匹 265,508
○1871年4月期
*出征中の者 717,572 同馬匹 205,936
*本土にある者 366,614 同馬匹 34,730
*総計 1,084,186 同馬匹 240,666
○1871年5月期
*出征中の者 671,451 同馬匹 195,712
*本土にある者 320,248 同馬匹 33,543
*総計 991,699 同馬匹 229,255
○1871年6月期
*出征中の者 502,815 同馬匹 155,378
*本土にある者 366,392 同馬匹 57,568
*総計 869,207 同馬匹 212,946
「降伏」 独槍騎兵と仏兵
※普仏戦争(1870年7月から1871年5月)における独軍の総将兵数 (別記ない限り士官には軍医・従軍牧師・経理などの陸軍文官を含みます。)
○北独連邦軍(普王国と北独連邦に加盟した小邦)
*仏領土に入った将兵(野戦軍と後方支援・総督府などの諸隊に属した者)
士官・26,322名 下士官兵・847,796名
*本国で勤務した将兵(補充隊・後備諸隊や地方要所警護・要塞兵・監視兵など)
士官・7,039名 下士官兵・244,595名
○ザクセン王国
*仏領土に入った将兵
士官・1,102名 下士官兵・56,272名
*本国で勤務した将兵
士官・382名 下士官兵・15,363名
○ヘッセン大公国
*仏領土に入った将兵
士官・438名 下士官兵・18,676名
*本国で勤務した将兵
士官・121名 下士官兵・8,112名
○北独連邦(実質普軍)合計
*仏領土に入った将兵
士官・27,862名 下士官兵・922,744名
*本国で勤務した将兵
士官・7,542名 下士官兵・268,070名
○バイエルン王国
*仏領土に入った将兵
士官・3,842名(他に軍属文官797名) 下士官兵・130,902名
*本国で勤務した将兵
士官・1,352名 下士官兵・44,004名
○ヴュルテンベルク王国
*仏領土に入った将兵
士官・823名 下士官兵・29,410名
*本国で勤務した将兵
士官・264名 下士官兵・13,060名
○バーデン大公国
*仏領土に入った将兵
士官・574名 下士官兵・30,198名
*本国で勤務した将兵
士官・161名 下士官兵・13,604名
○独軍合計
*仏領土に入った将兵
士官・33,101名 下士官兵・1,113,254名
*本国で勤務した将兵
士官・9,319名 下士官兵・338,738名
「十字架と戦死者」
※1870年7月下旬から1871年3月上旬までに独軍が送り出した補充兵員・馬匹・野砲総数
○近衛軍団
士官97名・下士官兵17,471名・馬匹1,195頭・4ポンド軽砲14門
○第1軍団
士官81名・下士官兵9,564名・馬匹1,346頭・4ポンド軽砲14門
○第2軍団
士官101名・下士官兵11,962名・馬匹1,296頭
○第3軍団
士官125名・下士官兵17,096名・馬匹2,069頭・4ポンド軽砲2門
○第4軍団
士官118名・下士官兵9,910名・馬匹1,114頭
○第5軍団
士官86名・下士官兵9,803名・馬匹1,148頭
○第6軍団
士官84名・下士官兵4,796名・馬匹694頭・4ポンド軽砲4門
○第7軍団
士官96名・下士官兵13,838名・馬匹1,749頭・4ポンド軽砲1門
○第8軍団
士官141名・下士官兵15,350名・馬匹871頭・4ポンド軽砲5門
○第9軍団
士官71名・下士官兵13,520名・馬匹1,044頭・4ポンド軽砲10門・6ポンド重砲2門
○第10軍団
士官115名・下士官兵11,933名・馬匹1,876頭・4ポンド軽砲9門
○第11軍団
士官84名・下士官兵10,300名・馬匹1,322頭・4ポンド軽砲27門(うち24門はボージョンシー=クラヴァンの戦いで完全損耗した第22師団砲兵用)
○第12「ザクセン」軍団
士官82名・下士官兵11,228名・馬匹989頭・4ポンド軽砲1門
○第25「ヘッセン」師団
士官27名・下士官兵4,649名・馬匹377頭・4ポンド軽砲3門
○北独連邦合計
士官1,308名・下士官兵161,420名・馬匹17,090頭・4ポンド軽砲90門・6ポンド重砲2門
○バイエルン王国軍(第1、2軍団)
士官770名・下士官兵47,487名・馬匹3,005頭・4ポンド軽砲13門・6ポンド重砲10門
○ヴュルテンベルク師団
士官76名・下士官兵7,836名・馬匹938頭・4ポンド軽砲1門
○バーデン師団
士官18名・下士官兵3,847名・馬匹325頭
○特別編成中央馬厰
馬匹654頭
○独軍合計
士官2,172名・下士官兵220,590名・馬匹22,012頭・4ポンド軽砲104門・6ポンド重砲12門
パリ近郊の占拠した邸宅で寛ぐ独兵




