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独軍の宗教・法務(野戦憲兵)


☆ 従軍牧師


 日本では馴染みの薄い「従軍牧師(神父又は司祭)」(独・Militärseelsorge/ミリテアジールゾーゲ。直訳すれば「軍隊の教導師」。現代ではMilitärgeistliche/ミリテアゲリストリッヒァ「軍事聖職者」と呼ばれます)ですが、欧米では古くから軍隊に付きものの職種です。

 聖職者は普仏戦争でも両軍共に従軍し、独軍のそれはキリスト教二大教派に分かれ、「従軍牧師」(Feldprediger)と「従軍司祭」(Feldkaplane)それぞれが師団単位で勤務しました。ここでは教派に言及しない限り名称として一般化していることと「新教国プロシア」に倣い「従軍牧師」としますのでカトリック信者のみなさま、ご不快の念お許し下さい。

 

 従軍牧師は正規軍人として入隊しますが、軍医と同じく特殊技能を以て軍に奉じると見なされ、軍歴出自に係わらず士官階級か同等の待遇で勤務します。これも軍人や軍属である衛生部員と同様に局外中立特権が与えられており、これはこの戦争以前、1864年のジュネーブ条約第二条で明確に示されています。独(北独と南独三ヶ国)仏共にこの条約を批准していますので、この戦争でもやむを得ない場合以外両軍共に従軍した聖職者を丁重に扱っているようです。但し、仏の「民間」司祭(や牧師)たちは民衆に武器を取るよう勧めたり実際に市街戦などで武器を手にする者や破壊妨害工作に手を貸す者もおり、捕縛されて銃殺される者もありました。


挿絵(By みてみん)

戦場へ向かおうとして逮捕されるヴァレ神父(オニヨン河畔・1870.10)


※1864年ジュネーブ条約(赤十字条約・筆者意訳)


第一条

 衛生部隊並びに軍属病院は局外中立を認められ、負傷者並びに病人の処置を行っている限り交戦者から保護されその権利を尊重されるものとする。

 但しこの衛生部隊または軍属病院が軍隊により保護されるような状況にあった場合は中立特権を失う(健全な軍人が病院を警備するような場合)。

第二条

 衛生部隊並びに軍属病院にて勤務又は従属する以下の職、衛生部隊長、軍医とその部下、事務員、担架兵と車輌搬送要員、司祭や牧師は、負傷者並びに病人の処置入院が続いている間、局外中立の恩恵を享受出来る。


 戦時、野戦軍で広く宗教儀式を行うために、軍は民間から志願する牧師・司祭を募りました。これは当時の陸軍規定で、平時に軍に所属している牧師は戦時にあっても本国でのみ勤務することが定められていたからですが、この普仏戦争動員時には陸軍本省詰の牧師や駐屯地配属牧師の多くが「野戦従軍」を志願し戦地に赴いています(海軍は艦船に乗り組む事もあるため別に規定がありました)。しかし彼らの数は限られており、軍は前述通り多くの志願聖職者を受け入れ戦場へ派遣するのでした。


 この戦争で普軍は各軍団に2名の軍団専属従軍牧師を配し、歩兵師団・後備師団・予備師団にも2名の従軍牧師枠を設けていますが、中には3名の従軍牧師が所属する師団もありました。また規定のない軍団砲兵隊にも多くの場合専属の牧師が従軍しており、同じく騎兵師団にも専属牧師が従軍する例が多く見られました。

 軍団専属従軍牧師は需要(多くは葬儀と病院慰問)と教派に応じて適宜「野戦従軍牧師(司祭)長」がこれを選任します。軍管区制を採っていた普軍では、団隊によってプロテスタント、カトリックそれぞれ信者の割合が違うために牧師・司祭の割合も軍団によって異なりました。


 この「野戦従軍牧師長」(独・Feldpropst/フェルトプロポスト)は平時からある職で、文字通り従軍牧師のトップとして軍の宗教行為を仕切ました。

 普軍にはプロテスタントとカトリックそれぞれに「野戦従軍牧師長」「野戦従軍司祭長」がおり、特に普王国では比較的少数となるカトリックの野戦従軍司祭長はローマ教皇から叙階された司教が勤め、1868年までは教区を持つ司教がこの職を兼務しましたが、この年以降は軍自体が一つの「独立した教区」と見なされました。しかし通常の従軍司祭はそれぞれ軍団の策源地が属する教区から選ばれた司祭が派遣され勤めています。

 普仏戦争時、「野戦従軍司祭長」の職にあったのはフランツ・アドルフ・ナムザノフスキー司教(任期1868~1873)でした。

 またプロテスタントの「野戦従軍牧師長」はピーター・ティーレン師(任期1860~1887)でした。


挿絵(By みてみん)

ナムザノフスキー司教

挿絵(By みてみん)

ティーレン師


 カトリック国のバイエルン王国では普軍とは違って動員令が発せられた戦時にのみ「野戦従軍司祭長」が就任するルールとなっていました。軍自体が一つの教区とされた普軍とは違い、軍管区の枠ではなく将兵個々人はその出身地(教区)に縛られました。普墺・普仏の両戦争で野戦従軍司祭長となったのはグレゴール・フォン・シェル大司教でした。

 ヴュルテンベルク王国とザクセン王国にも野戦従軍牧師長の職があり、プロテスタントの多いヴュルテンベルク軍の野戦従軍牧師長はシュトゥットガルトの駐屯地牧師が兼務します。同じくプロテスタント多数のザクセン王国の野戦従軍牧師長はグスタフ・アドルフ・フリッケ師でした。


挿絵(By みてみん)

シェル大司教

挿絵(By みてみん)

フリッケ師


 軍が従軍牧師に最も望むのは「兵士の国を守る義務感を奮い立たせ戦闘中に神の加護あることを祈願」するため礼拝式を執り行うことでしたが、戦争の緒戦、独軍は各所で仏軍を敗退させたため進撃は急で、従軍牧師たちは将兵を集めた礼拝式を中々行うことが出来ませんでした。これは後に厳寒期の最中で激戦となった第一軍と第二軍、そして南軍の戦闘期間中も同様でしたが、それでも従軍牧師たちは少しでも機会が生じれば熱心に説教や宗教儀式を行いました。

 また、戦闘中の包帯所や野戦病院では積極的に傷病者を見舞い、説教と回復の祈願、聖餐を執り行いました。特に瀕死の傷病者や危篤となった者に教派を問わず信仰上の慰安を与えることは従軍牧師にとって最も重要な聖務でした。また、聖職者は救護の心得がある者が普通で、軍医や篤志救護団を手伝い救護を行うことも度々ありましたが、局外中立を保証されていたとはいえ銃砲弾飛び交う戦闘中前線での行為は当然ながら危険を伴い、この戦争でも数名の従軍牧師が死傷しています。


※普仏戦争で死傷した独軍従軍牧師

*1870年10月18日・普第22師団のシュヴァーベ牧師は「シャトーダンの戦い」最中、軍医の手助けをしようと最前線の包帯所に向かう途中、銃撃を浴びて戦死(従軍牧師も軍人ですので「戦死」となり、シュヴァーベ師はこの戦争独軍唯一の従軍牧師戦死者です)。

*1870年11月24日・普第19師団のディーツ牧師は「ラドンの戦い」最中に負傷。

*1870年12月23~24日・普第15師団のグロース牧師は「アリュ河畔の戦い」最中に負傷。


挿絵(By みてみん)

鉄十字章を受勲した従軍牧師(ベルンハルト・ロッゲ師)

※ピーター・ティーレン師の婿で普仏戦争では近衛第1師団勤務。激戦のサン=プリヴァやセダンの前線で教務を行い、その功績により受勲しています。


 戦闘後に将兵の無事と勝利を神に謝恩する礼拝式も従軍牧師の執り行う重要な儀式で、その後の戦死者埋葬時に祈祷を行うのは勿論のことでした。この埋葬式では参列した将兵に対し、戦死した戦友は「忠義と愛国のため身命を捧げた」ことで「神に認められ死後安寧となる」ことを強調し、それを崇高の行為として称賛することで残された将兵に義務を再確認させるという「軍が期待する」説諭を行うことが常でした。

 行軍続く遭遇戦と違い長期攻囲戦(メッスとパリなど)において軍は動かず、弛緩しないためにも兵士は厳しく正確な日課で日々を過ごすよう仕向けられていたため、従軍牧師は定時に教務を行うことが出来ました。占領した部落の教会では例外を除き多くの仏人司祭・牧師が独の従軍牧師に会堂を提供し、カトリック、プロテスタントの別なく説教や儀式を行うことを許しています。堂内に入り切れない大部隊の場合は教会前の広場に祭壇を設け礼拝式を執り行うことも多々ありました。


挿絵(By みてみん)

メッス包囲網でユダヤ系将兵の前でヨム・キプル(ユダヤ教祭日)の祈りを捧げるラビ


 軍病院における従軍牧師の役割は将兵にとって軍医同様大切なものでした。このため、特別に「病院付き牧師」が任命される場合もあり、戦域が広がり軍属病院が増えるとその補助としてプロテスタント、カトリック両方の志願病院牧師・司祭が独本土から派遣され、更にプロテスタントの各教会からは助手として野戦「副」牧師が、カトリックの「聖ヨハネ=マルタ騎士団本部」や「マルタ騎士団ライン=ヴェストファーレン支部」などから多数の司祭が各病院に派遣されました。


挿絵(By みてみん)

病院となったパリの教会


 これらの仏占領地や戦地にあった軍属病院(野戦病院や兵站病院)に派遣された多くの牧師や司祭の配分と聖務の指導は第一、第二、第三の各軍兵站総監部に所属していた「野戦病院軍高等牧師」が行い、この三名の従軍牧師は戦域拡大によりその監督区域を軍の管轄区ではなく固定された地域により定めるようになります。これによって野戦・兵站病院における従軍牧師や志願牧師の教務は軍の管轄区に因らず三名の野戦病院軍高等牧師の管轄地によって指導監督されるようになって行きました。

 普仏戦争ではプロテスタント92名の野戦病院付牧師が戦場で教務を行い、同じプロテスタント30名の牧師と神学校から多数の牧師見習いが独本土の予備病院で教務を行います。これら病院付牧師や定数外で従軍した牧師たちは全員、陸軍から支給された給与の受け取りを謝絶してボランティアを貫きました。


挿絵(By みてみん)

パリ包囲戦中に殺害されたフランス兵をめぐる葬儀


 独軍における宗教行為において、傷病者と瀕死の兵士に施す教務は軍にとって最大の貢献でした(これは仏軍も同様だったと思います)。病院付牧師や補助病院で働いていた牧師や神学生は患者の慰安ばかりでなく、患者が託した手紙を家族に仲介したり回復期の患者に有益な書籍を貸し出したりと、治療に忙しい衛生部門や篤志救護団を助けることで軍病院に欠かせない存在となっていました。

 牧師たちは前述通り救護の心得を持っていたため看護を手伝うことで軍医を助け、このため危険な目に遭ったり捕虜と共に敵手に落ちたりすることもありました。従軍牧師自体は厳密に捕虜ではありませんが、解放を拒否して捕虜となった将兵(軍医と患者)と共に進んで同行する者もいました。


挿絵(By みてみん)

祈祷する従軍牧師


☆ 軍の法務と野戦憲兵


 戦場における普軍の司法処理は「普王国軍法に照らし合わせて施行する」ことを原則に、基本平時となんら変わらぬ法執行を目指しますが、既述した1864年と66年の戦争における問題点の反省に立って67年に行った軍の様々な改革に沿って開戦時(70年7月20日)に発せられた勅令により、「陸軍の司法手続きを多少簡素化し戦時に必須とされる軍法執行の敏捷化を計る」こととなります。

 この開戦時には様々な勅令が発布されますが、中でも「自軍と敵国民衆との法律上の関係を明確にする」いくつかの勅令は軍法に携わった法務士官たちにとって重大で、その要点は「いかなる場合においても軍の権力を保持し、敵性住民で独軍に抵抗またはその権力を侵す者は速やかに、また厳格に処罰する」ことでした。しかし戦争とは言っても一般住民は出来る限り平常に近い生活を送らねばならず、また占領地が拡大すれば当然ながら限られた後方の兵力で様々な取り締まりを行うことは不可能だったため、「敵国地方行政府の協力を取り付け法務処理に掛かる負担を軽減するよう」「敵国司法権力で処理出来るものは任せる」ことが大事でしたが、実際は占領地の行政府は非協力的で、特に司法権力(検事や判事)と警察権力(一般警察と国家憲兵)は殆どの場合協力を拒み、仏軍支配地へ逃走する者も後を絶ちませんでした。このため独軍の軍法関連機関は相当な苦労を重ねて占領地の法的支配を行っていたのでした。


 それでも独人の合理性と真面目を兼ね備えた性格は困難を乗り越えるに力を発揮し、犯人が判明すれば軍法会議などを迅速に行って諸問題の解決を速やかに図りました。同時に自軍に関する軍紀維持も厳格に行い、占領地住民に対しても厳格な処罰ばかりでなく公平な判断と多少贔屓目はあったでしょうが法規を乱した独兵への処罰を行い、独軍に対する占領地住民の無用な反感を招かないように努めていました。

 また、司法を熟知した軍人や事務官は時に地方行政の首長が逃げ出した県庁などで知事の職務を代行し、これも偏ることなく執務を行ったこともあってか、この戦争では大規模な占領地での反乱などは発生しませんでした。


☆ 野戦憲兵


 ナポレオン戦争の終結直後、独の諸邦ではナポレオン1世が創設し仏の軍民治安維持に力を発揮した「国家憲兵隊」(ジャンダムリ。仏;Gandarmerie nationale)に倣い同様の「一般の警察権力と軍隊内の法務執行機関を併せ持つ治安部隊」である「国家憲兵」を創設しました。

 普王国でも1815年に「地方憲兵隊」(Landgendarmerie)が創設されますが、これは警察ではなく陸軍に属する組織として成長して行きます。地方憲兵隊は1848年の革命時に改変された後、全土で管区を分けた8つの旅団編成となりました。また動員令が発布されると自動的に野戦憲兵隊(Feldgendarmerie)として出征することが決まります。

 第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争前の1862年における地方憲兵隊の隊員数は以下の通りです。


○少将の階級を持つ隊長1名

○その副官若干名

○大佐の階級を持つ8名の旅団長

○主に大尉の階級を持つ35名の地区隊長

○曹長の階級を持つ下士官101名

○1,570名の憲兵、そのうち1,121名が乗馬憲兵


 これを見ても分かる通り地方憲兵隊の「旅団」とは陸軍の「中隊」(200名)規模でその隷下「地区隊」は「小隊」(50名)規模であったと思われます。


 このシュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争後、陸軍大臣のアルブレヒト・フォン・ローン中将はデンマークとの戦争では明らかに憲兵の数が少なく、占領地の治安や交通整理、軍の綱紀粛正などに見るべき効果がなかった、として不満を感じていました。折から国王と議会が反目しあう中、ローンは左傾化していた議会との交渉に臨み苦心の末、憲兵隊にも予算増額を認めさせることに成功し、1866年5月25日、ビスマルク内閣の閣議決定により戦争における野戦憲兵のあり方が定められました。

 これにより増員された地方憲兵隊は直後に発生した普墺戦争で182班(一班10名前後と思われます)の野戦憲兵隊として出征しボヘミアやスロヴァキア、オーストリア北部で活動しました。普軍野戦憲兵はこの時、制服右腕に白地にプロシアの象徴である黒い鷲を描いた腕章をすることで「権威」を示し野戦軍との判別を図るのでした。

 しかし、この短期間の戦争でも野戦憲兵は数が足りず、軍法の執行や主要街道の交通確保も十分に行うことが出来なかったのです。

 このために戦後、野戦憲兵隊は更に大幅な増員を成すことが決定されますが、増員した分は地方憲兵隊の員数で埋めることは適わず、戦時動員時に騎兵諸中隊、特にこの職務に向いている驃騎兵中隊から召集することが決まるのでした。


 普仏戦争の動員が開始されると野戦憲兵隊も計画通り地方憲兵隊を核にして編成作業がはじまりました。


 この野戦憲兵の「元」となった地方憲兵隊の隊長は、戦争勃発の直前まで伯爵フリードリヒ・テオドール・アレクサンダー・フォン・ビスマルク=ボーレン中将(8月21日にエルザス総督就任)が就いていましたが、出征に伴い7月30日に普墺戦争で第29旅団長としてミュンヘングレーツとケーニヒグレーツで戦ったフランツ・フリードリヒ・アレクサンダー・フォン・シュトゥックラート中将が指名されました。

 シュトゥックラート将軍は先の5月、中将昇進と同時に予備役に下ったばかりでしたが、戦争勃発により僅か2ヶ月で現役復帰し、ベルリン守備隊司令兼地方憲兵隊長としてベルリンに赴任するのです。


 動員時、第一、第二、第三の三個軍本営はそれぞれ1個の「野戦憲兵部」を持ち、これは野戦憲兵隊長1名・次席憲兵士官1名・曹長1名で本部を構成します。その麾下軍団(バイエルン王国の2個軍団を含みます)にはそれぞれ地方憲兵から招集された将兵の他に軍団からも選抜した兵員を加え、士官1名・曹長1名・下士官兵40名からなる「軍野戦憲兵隊」1個を置きました。

 彼らの職務は軍団における保安・警察任務で、野戦軍の中でも独立して行動し、将兵と軍属の隔てなく軍法を厳格に執行することでした。

 各軍の兵站総監部には1個野戦憲兵隊を置き、これは「兵站総監部野戦憲兵隊」として隊長1名と各軍団から曹長1名・下士官兵20名の提供を受けて編成されました。

 彼らの主任務は占領地(と後方連絡線上)において仏官憲と共に地方警察の任務を行うと同時に、前線後方での交通整理や諸街道の安全確保を行うことでした。

 この他、大本営とベルフォール攻囲兵団本営には曹長1名・上等兵5名からなる「憲兵班」が付されます(衛兵とは違います)。ヴュルテンベルク野戦師団では平時から存在する「野戦猟騎兵中隊」(隊長含む士官3名・下士官兵82名)がそのまま野戦憲兵隊として活動しました。


挿絵(By みてみん)

独野戦憲兵(1870年)


 70年7月末の出征野戦憲兵関連部署の高級士官は以下の通りです。


◯第一軍本営・野戦憲兵部 隊長 ドルンドルフ中佐/次長 ティロー大尉

同兵站総監部 野戦憲兵隊長 シュルツ少佐

◯第ニ軍本営・野戦憲兵部 隊長 クールト大佐/次長 シュレーダー(1号)大尉

同兵站総監部 野戦憲兵隊長 フォン・ヴィッヘルト少佐

◯第三軍本営・野戦憲兵部 隊長 フォン・ヒンメン中佐/次長 ベーム大尉

同兵站総監部 野戦憲兵隊長 ハーク少佐

○バイエルン王国野戦憲兵隊長 ハイス大尉


 仏国内に出征した野戦憲兵は占領地で十字路などの拠点に立ち、後方連絡線の通行の安全や主街道の交通整理などを行いますが、中でも大変だったのは往来する膨大な数となった緒縦列の秩序維持でした。

 これら独軍緒縦列の馬曳車輌を操る御者は多くが民間からの徴用者で軍属とは名ばかり、軍の経験なく形だけの教練に上辺だけの軍法や軍規の学習で仏領に出動した者が殆どと言う状態であり、無学で荒っぽい連中が多数だったために規律も乱れがちで、度々野戦憲兵が「世話を焼く」こととなります。

 また占領地における地方警察としての任務も果たす野戦憲兵は、義勇兵はもちろん妨害を試みる老若男女全ての住民も疑って警戒せねばならず、街道沿いの重要拠点や橋梁、隧道など警戒を要する場所は憲兵の数の数百倍になってしまいます。この戦争中常に員数が不足していた野戦憲兵隊は頻繁に巡察を行うことで諸街道の安全確保に苦心するのでした。


挿絵(By みてみん)

独軍のヴィヴァンディエール(女性の酒保商人)


 野戦憲兵の重要な任務の一つに、仏住民に対する独軍の不正な徴発や無用な暴力を摘発し防止することがありました。この不正は軍に許可され追従して商売する酒保商人など軍属ではない民間人従軍者によって時折発生し、この占領地住民に対する軍法違反は軍人が犯さなかった場合でも軍に責任があることは変わらず、犯罪を未然に防ぐため野戦憲兵は酒保商人たちの行動監視も怠りませんでした。

 また、会戦後には率先して負傷者や行方不明者の捜索を行い、衛生部隊と共に戦場の清掃と整理を指揮し、その他新たな占領地に独軍の法規を知らしめる役目も重要でした。


 野戦憲兵が占領地で地方警察の役目を担うことは、メッス近郊三会戦の後に非常な困難に陥ります。これは実に当たり前なことで、憲兵の数に比して占領地は広大に過ぎ、憲兵の多くが仏語を解せず、同じく独語が分からない仏人とのコミュニケーションに問題が生じ、しかも仏の官憲がサポタージュと逃走によって満足に機能せず、この仏人の協力が困難だったことが最大の障害となりました。

 仏人警察官憲が職務放棄せず秩序が保たれていた地方でも、独野戦憲兵は職務執行の手を抜くわけには行きませんでした。つまりは仏民間人の独軍に対する犯罪ばかりでなく、逆の独兵による仏人への犯罪も取り締まることとなると、全て仏人警察官に任せることは出来なかったからでした。この例では、比較的仏官憲の協力が得られたルーアン市とその周辺で独仏混成の警察隊が組織され、普軍野戦憲兵と仏地方警察の巡査2名ずつからなる巡察班を結成、巡視と街道の通行監視を行っていたのでした。


 パリに到達した独大本営では野戦憲兵と並立して「特別野戦警察部」が設けられます。

これは当初部長1名・官吏4名の小さな部署として発足し、陸軍省参事官(高級公務員で非軍人)のスティーベル博士が部長として指揮を執ります。この部署は占領地を広く俯瞰する形で監視する(即ち各地域から集まって来る情報を整理し独に不利な情勢・住民の従順度などを調べる)ことを主任務としましたが、大本営は少数先鋭とは言え書類事務が煩雑で、スティーベル博士の机上にも他部署が処理すべき案件が積まれたりしたために激務となり、しかも主任務は責任重大と言うこともあって、情報分析や犯罪捜査などに熟達した職員を順次追加投入して次第に員数の大きな部門となって行きました。

 ベルサイユ宮殿に置いた独大本営自体、その警護と外国人の往来などに注意を要し、これもまたスティーベル博士の特別野戦警察部が処理すべき案件とされてしまったため、この任務のためにも更なる官吏の増員と仏人警察官の利用、そして予備部隊の使用(最終的に普予備猟兵第1大隊から士官4名・下士官兵185名を抽出して実働部隊とします)によってベルサイユ周辺の治安維持にも力を尽くしました。


挿絵(By みてみん)

独猟兵を銃撃した民間人レオン・ヴィニュロンの銃殺刑


 このように様々な困難に直面した独野戦憲兵隊でしたが、幸いにも普仏戦争では野戦軍が奔走し戦争の行く末に影響するような大規模ゲリラ戦や後方部隊の手におえないような住民蜂起は発生せず、独軍の犯罪も少なくなかったとはいえ、殺人などの重罪は最低限に抑えられたと言います。


「独軍の野戦憲兵隊は以上のような困難な任務を受けたにも係わらず多方面に及ぶ任務を処理し、また従来から軍紀厳粛なる評判を得ていた独軍の名誉をこの戦争でも汚すことなく維持することに大いなる力となった」(独公式戦史/筆者意訳)



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