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独軍の衛生・医療(後)


☆ 「負傷した戦士と病気の戦士救援のためのドイツ協会中央委員会」


 1870年にはまだ独に「赤十字社」はありません。しかし、独の赤十字精神の発露は各国と比べても早く、アンリ・デュナンがソルフェリーノの戦場で国際赤十字の夢を描いた同じ1859年、バーデン大公国で独の州邦最初の赤十字運動に関連する団体が設立されており、これはルイーゼ大公妃(普王ヴィルヘルム1世長女)が発起人となって創立された「バーデン婦人協会」がそれでした。

 63年11月には同じ志を持った「ヴュルテンベルク王国医師会」が、64年1月にはオルデンブルク大公国に「負傷した戦士救援のための協会」が創設され、これに刺激されてプロシア王国でも66年、普墺戦争後の11月に「戦争による負傷者の介護と支援のためのドイツ婦人会」がアウグスタ王后を発起人として創設されます。この普王国の篤志協会は、以前から赤十字活動を支持していた王后が普墺戦争におけるチフスなどの流行や負傷者の悲惨な状況を聞き、国王に懇願して許されたものでした。

 これらは全てドイツ赤十字社の母胎となるボランティア団体で、他の領邦でも相次いで同様の福祉団体が設立され、この気運から69年、王后と王太子夫妻臨席の下、第2回国際赤十字会議がベルリンで開かれるのです。


挿絵(By みてみん)

アウグスタ皇后


挿絵(By みてみん)

ルイーゼ・バーデン大公妃


 この動きを普軍が利用しない手はなく、1869年6月2日、北独連邦政府の閣議決定によって「負傷した戦士と病気の戦士救援のためのドイツ協会中央委員会」(以下「篤志救護団」とします)として組織統一されました。

 これと同時にアウグスタ王后の名の下に軍と篤志救護団との役割分担とその任務詳細が定められ、陸軍省との関係性も厳密に定められました。

 これによって赤十字精神発揮を目的とする北独の福祉ボランティアたちは、非常時において全て軍の監督下で行動することとなったのでした。


 1870年7月19日。北独連邦の仏に対する宣戦布告により普王国陸軍省は連邦国民に対し「仁愛を旨とする篤志救護団に対する賛同と支援」を求める省令を発したのでした。

 この時、篤志救護団が軍との共働に際し円滑に行動するため「篤志陸軍部長」職が設けられます。この職は既に普墺戦争後、民間のボランティア団体を軍と協調させるため戦時に設けることが定められており、その任務は、戦地で各団体が全力発揮するために指導監督を行い、大小様々な団体の寄せ集めとなる篤志救護団組織の分裂を防ぐ「求心力」となることでした。


 この篤志陸軍部長には7月20日、シュレジエンの大地主・シュタンデスヘル(等族領主)の実業家で軍人の経験もあった若きプレス侯爵ハンス・ハインリヒ11世・フォン・ホッホベルク(当時36歳)が就任しました。

 精力的な侯爵は部下として多くの委員を指名し、これを野戦軍本営や独本土各地に派遣して行動を開始します。これらの委員は北独連邦加盟領邦に「領邦委員」として1名、普王国各州に「州委員」として1名、同じく普王国各郡地方に「地方委員」1名を置くことで銃後を固め、この中から主要メンバーを中央委員として選抜し侯爵自らの手足としたのでした。

 同時に出征する野戦軍には「軍委員」と「兵站委員」各1名を派遣し、その下に「軍団委員」1名を各軍団に派遣させ軍との調整を行わせました。この兵站委員には「救護班長」1名が指揮を執る約200名のボランティアからなる「救護班」1個を指揮下に置かせ、更に若干の「委員副官」を指名して、彼らは後方連絡線の主要拠点に常駐し情報収集と調整を行ったのでした。


挿絵(By みてみん)

プレス侯爵ハンス・ハインリヒ11世


 一方、プレス侯爵の活発な行動に後押しされ南独諸国も同様の委員会組織を作り、バイエルン王国では北独同様の中央委員会組織を立ち上げ、ヴュルテンベルク王国ではこの組織運営をザクセン=ヴァイマル公国公子のヘルマン公爵に委ねました。また、バーデンとヘッセン両大公国ではプレス侯爵に委員会の組織化と指揮を委ねます。結果、南独三ヶ国もプレス侯爵指導の下で独軍との共同作業を行うこととなったのでした。

 プレス侯爵の下で働く篤志委員は南独含め363名となり、彼らは十字軍まで遡る「聖ヨハネ騎士団」(十字軍由来で分裂し廃れますが19世紀中頃に普王国が復活させました)や「マルタ騎士団」(聖ヨハネ騎士団の本流)に所属する者が大多数を占めていました。その他宗教系団体構成員の多くが集まり独本土ばかりでなく危険伴う戦場までにも進出して衛生隊に協力して傷病兵の救護・手当を行ったのでした。


挿絵(By みてみん)

包帯所の光景


 軍が篤志救護団の協力を最も望んだのは、傷病兵のための輸送を担い員数不足の軍病院で手助けを行うことでした。このため北独政府が発した70年7月22日の「篤志事業に参加する人員募集」には予想以上の民間人(半数以上が婦女子でした)が志願し、中でも教会関係者と一般病院で看護を行う団体従事者の数が抜きん出ていました。

 篤志救護団はこれら看護に熟達した人々を仏へ送り出す一方、経験なく志願した人々も断ることなく看護人としての速成教育を施して人員不足の病院・患者輸送隊・そして前線後方へ派遣するのでした。

 更にプレス侯爵ら中央委員は、仏国内占領地で独軍が輸送に使用する鉄道沿線の主要停車場ばかりでなく無人の停車場の多くにも兵士のための休憩所や負傷兵のための包帯所を開設し、これは独軍の衛生部門の手間を大いに省くこととなるのでした。


 独本土で篤志救護団は出来るだけ多くの病院を開設するよう動きました。これら臨時の病院は一部独軍からの援助を得て設置されますが、多くは独自の資金と人員によって設立した病院です。この臨時病院はアウグスタ王后や他領邦の后による指導の下、婦人救護団体によって独立経営されるものが多数を占めました。


挿絵(By みてみん)

篤志救護団病院の光景(ヨハニター旗が掲げられます)


 戦争末期となると篤志救護団の中央委員配下となった団体は、国が認可したものが25、州が認可したもの25、その支部1,987、団体傘下約255,000名という相当な数となり、同じく戦争末期に篤志救護団傘下の各種病院数は1,500を軽く越えていたのです。

 なお、特殊な例としてはセダン会戦後、ベルギーを通じて後送される傷病者を沿線で救護するため、ベルギー国内のブイヨン、リブラモン(=シュヴィニー)、リエージュ、そして独本土アーヘンの4ヶ所に救護所と一時休憩停車場や救護専用停車場などが篤志救護団主体で用意されました。

 また、統計には詳細に残っていないものの、病院施設に収容仕切れなかった戦傷者と療養者は個人が経営する療養所や個人宅にまで無料で収容され手厚い看護を受けていたのでした。


挿絵(By みてみん)

軍病院前に並ぶ篤志救護団の介護助手


 この数十万人に及ぶ傷病者の収容先をその家族に知らせるため、早くも70年7月19日、ベルリンに「傷病者中央通知局」が設けられます。その後各州邦の都府にも同様の局が立ち上がり、中央通知局を補助しました。この中央通知局はスイス・ジュネーブの国際赤十字を通じてパリ在の赤十字支社と連絡を取り合いました。

 ベルリンの通知局は各病院から送達された11,963部の名簿から509,837名の傷病者(うち60,000名余りは仏捕虜です)を拾い上げ、住所を調べて患者の家族に状況を知らせたのです。


 篤志救護団の行動力の「源泉」となったのは独州邦一般住民からの義援金や無償の物品提供でした。

 開戦を知るや独住民たちはあらゆる物を投げ出すようにして軍や国家に寄贈を行いますが、その数は膨大で、その処理に多くの人員を割かねばなりませんでしたが、その集積・管理・分配の殆どを行ったのは篤志救護団の中央委員と派遣員たちでした。これら寄贈品は戦争初期、コブレンツ、マインツ、マンハイムの三都市に設けられた「篤志救護団本部厰」に集積され、その後独軍が仏本土に侵入し仏軍の反撃が独本土に及ばないことがはっきりすると、順次独本土76ヶ所に設けられた「支厰」に分配収納されます。支援物資はこの支厰から必要とされる病院・野戦軍・救護専用停車場などに配送されるのでした。

 篤志救護団を通じ、独本土から独軍に送られた寄付は現金が1,100万ターレル、物品がターレル換算で500万以上となりますが、なお多くの寄付・慰安品が直接諸団隊に送られたのです。

 また、独を応援する諸外国と戦争当時外国に居住していた独人も独軍に対し寄付金や寄贈品を送りました。これも篤志救護団と連絡する諸団体を通じ軍に送られ、総額は金銭だけでも250万ターレル以上となりました。


挿絵(By みてみん)

チャリティバザーのために手芸品を作るドイツ婦人会会員


 このように篤志救護団は独軍の衛生医療部門を大いに助け、独軍を陰から支えましたが、諸国民から集まった寄付金や寄贈品は戦中に消費され切らず、篤志救護団はこれを活用して戦後も後遺症や障害に苦しむ多くの傷病兵を介護し療養事業を続け、以降廃兵や戦死軍人遺族の救済に尽力するのでした。


 後に国際赤十字支社に発展する「負傷した戦士と病気の戦士救援のためのドイツ協会中央委員会」は以上のように大活躍し、多くの独陸軍軍人が深い感謝と賞賛を発しています。軍を我が子のように慈しむ独皇帝ヴィルヘルム1世は仏より凱旋の折り、篤志救護団最大の後援者となる「決して仲が良い訳ではない」アウグスタ皇后に対し親書を贈呈し、「独統一の前に統合を成した」篤志救護団の功績を賞賛し感謝の意を表明するのでした。


挿絵(By みてみん)

臨時の篤志救護団病院となったシュヴェツィンゲン城(ハイデルベルク)


☆ 普仏戦争における独軍衛生・医療部門の評価


 独公式戦史は普仏戦争における衛生部門を評して「大体において良好」と自画自賛しています。特に疾病による死者が外傷による死者よりかなり少ないことを讃えており、1866年戦役(普墺戦争)では「死亡者総数における病死者の割合」が59.1%だったのに対し普仏戦争では28.95%だったとして、「普仏戦争で伝染病やその他の疾病によって発生した死者総数は普墺戦争の半数だったことを考えれば、両戦役の戦闘期間の長短(約1ヶ月に対し6ヶ月)や兵力数の差から見ても普仏戦争での衛生部門は大変優れていた」としています。

 更に、普仏戦争で負傷し治癒した者の平均数は普墺戦争よりわずかに多かった、として「その差が小さかったことは遺憾ではあるものの、これは戦争期間が遙かに長く戦域も広大だったことに起因する」との言い訳しています。


 普墺戦争で猛威を振るったコレラと発疹チフスは、普仏戦争においてほとんど発生しませんでしたが、赤痢と腸チフス(単にチフスとも呼びます)は流行してしまいました。

 この感染症を含めた普仏戦争での独軍死亡数は、軍属・海軍を含めて総数40,881名と記録されます。この内約7割が外傷に起因する死者でした。


挿絵(By みてみん)

民間人負傷者に手を差し伸べる独軍軍医(バゼイユ9.1)


※普仏戦争における独軍死亡者数

◎外傷起因死者(死者全体の約70%)

*戦死(即日死亡のほか行方不明後認定含む) 17,572名

*外傷により死亡 10,710名

*事故・災害による死亡 316名

*自殺 30名

◇合計 28,628名

◎内科的疾患起因死者(死者全体の約25%)

*チフス 6,965名

*赤痢 2,000名

*天然痘 261名

*胃腸疾患 559名

*急性肺炎 500名

*その他内科疾患 521名

◇合計 10,406名

◎その他の死因

*慢性内科疾患(心臓病、癌など) 778名

*突発性疾患(脳梗塞、心臓発作など) 94名

*病因不明 556名

*死因不明(死後発見など) 419名

◇合計 1,847名


※陸軍軍人のみの死亡数

*外傷 28,596名

*内科急性病 10,319名

*内科慢性病   767名

*突発性疾患   93名

*病因不明   553名

*死因不明   415名

◇合計40,743名


 普仏戦争中、この戦争に原因する伝染病などは独本土での流行は見られませんでした(但し牛痘は発生しました)。


 軍の衛生部隊は軍の戦闘力維持に大いに関わる重要部署ですが、19世紀中ごろまでは重視されて来ませんでした。しかし、普仏戦争が発生した1870年代には飛躍的に医療が発展し始め、また赤十字活動によって衛生医療ボランティアの存在価値も高まって行きました。その意味で独軍の衛生部門はその存在価値を十分に示し、篤志救護団の活躍によって独でも赤十字活動が大いに認知されました。衛生兵や軍医の中には最前線で戦死傷したり感染症に斃れたりする者(見習いを含む軍医の戦死8名・負傷51名・捕虜22名)もありましたが、その献身的活動で命を救われた将兵もまた多数に上ったのでした。


挿絵(By みてみん)

負傷者を手当てする篤志救護団


※1870年8月・独軍の主要医官


 軍医の階級は1867年の陸軍省令により70年当時、次のような階級となっていました(海軍も同じです)。


以下、直訳(独語)・陸軍の同等階級

 

幕僚将軍医官(Generalstabsarzt)・少将

将軍医官(Generalarzt)・中佐

上級幕僚医官(Oberstabsarzt)・少佐から大尉の上位

幕僚医官(Stabsarzt)・大尉(但し「一級・二級・三級」の三段階あり)

補佐医官(Assistenzarzt)・中尉から少尉

下士医官(Unterarzt)・曹長から軍曹


 しかし、筆者が元ネタとする独公式戦史の旧軍参謀本部訳では「一等軍医正」や「三等軍医正」などが登場し現代の我々が見るとどうもしっくり来ません。

 これは普軍の軍医階級が前述通り位に「幅」があり、翻訳ではうまく言い表せないからだと思います。また、直訳でも「どちらが上」か分からない場合もあります。

 そのため、拙作に出て来る衛生部門の階級は旧軍翻訳による呼称ではなく、筆者が独帝国軍の階級に見合った階級名で示すため、完全な筆者による「造語」であることをお許しください。


 以下直訳→筆者翻訳の順で示します。


幕僚将軍医官→軍医総監

将軍医官→軍医中佐

上級幕僚医官→軍医少佐(一級、二級)

幕僚医官→軍医(一級、二級、三級)

補佐医官→軍医中尉、軍医少尉

下士医官→軍医補


 なお、「軍医監」は民間人で軍に志願又は招へいされた学者や高名な医師が臨時に授けられた「階級」で、Generalarztとされている文献もあることから佐官待遇と思われます。


挿絵(By みてみん)

独軍病床車の一例


○陸軍省

*衛生局

 局長 Dr.ハインリヒ・ゴットフリート・グリム軍医総監

 参事官 Dr.ロンメル軍医中佐

 参事官 Dr.シューベルト軍医少佐

 参事官 Dr.アルウィン・グスタフ・エドムンド・コラー軍医少佐(後に第1師団へ異動)

 参事官 (事務方)マンド参事官(陸軍省官吏)

○大本営付

 Dr.グスタフ・アドルフ・フォン・ラウアー(軍医監・王侍医)


挿絵(By みてみん)

グリム

挿絵(By みてみん)

シューベルト

挿絵(By みてみん)

コラー

挿絵(By みてみん)

ラウアー


○第一軍

 軍医部長 Dr.シーレ(軍医監→軍医中佐)

 *Dr.シーレはマース軍編成時(70年8月中旬)、臨時に軍医部長としてマース軍に帯同し、第一軍軍医部長は第二軍軍医部長が兼任しました。メッス陥落でDr.シーレは正式にマース軍の軍医部長となり、第一軍同職はDr.ヴェストファル(第9軍団部長)が就任します。しかし南軍編成時(71年1月上旬)、Dr.ヴェストファルは同軍軍医部長となり、その後第一軍は第8軍団の軍医部長が同軍軍医部長兼務となっています。


 兵站(後方)軍医部長 Dr.ホッホヴァート軍医少佐

 外科幇助員 Dr.バルデレーヴェン軍医監、Dr.ブッシュ軍医監、Dr.ワグナー軍医監(後にヴェストファル氏と共に南軍へ異動)


■第1軍団

 軍医部長 Dr.クーン軍医少佐

 野戦病院長 Dr.サロウ軍医少佐

◇第1師団

 軍医長 Dr.ペトルシュキー軍医少佐→Dr.コラー軍医少佐→Dr.ロイトホルト軍医少佐

◇第2師団

 軍医長 Dr.シュテファニー軍医少佐

■第7軍団

 軍医部長 Dr.ヴェルリッツ軍医少佐→Dr.ワグナー軍医少佐

 野戦病院長 Dr.クラッツ軍医少佐

◇第13師団

 軍医長 Dr.リンドナー軍医少佐

◇第14師団

 軍医長 Dr.ニュッテン軍医少佐→Dr.ティーゲナー軍医少佐

■第8軍団

 軍医部長 Dr.シュラー軍医中佐→Dr.バルテス軍医少佐

 野戦病院長 Dr.バルテス軍医少佐→Dr.ヘルツァー軍医少佐

◇第15師団

 軍医長 Dr.ミュラー軍医少佐

◇第16師団

 軍医長 Dr.シュタインピッケル軍医少佐


○第二軍

 軍医部長 Dr.ゴットフリート・フリードリヒ・フランツ・レフラー軍医監

 兵站軍医部長 Dr.ヴェーベル軍医少佐

 外科幇助員 Dr.ベルンハルト・ルドルフ・コンラッド・フォン・ランゲンベック軍医監、Dr.プロヴ軍医監、Dr.フォルクマン軍医監(後にマース軍、更に南軍へ異動)


挿絵(By みてみん)

レフラー

挿絵(By みてみん)

ランゲンベック


■近衛軍団

 軍医部長 Dr.フォン・スティックラート軍医中佐

 野戦病院長 Dr.ギーレン軍医少佐→Dr.ウルリヒ軍医少佐

◇近衛第1師団

 軍医長 Dr.カンメラー軍医少佐

◇近衛第2師団

 軍医長 Dr.ウルリヒ軍医少佐→Dr.クラフトヴルスト軍医少佐

■第2軍団

 軍医部長 Dr.グルピッツ軍医少佐

 野戦病院長 Dr.クルッレ軍医少佐→Dr.プルンナー軍医少佐

◇第3師団

 軍医長 Dr.ワグナー軍医少佐→Dr.トウッサイン軍医少佐

◇第4師団

 軍医長 Dr.エヴェルマン軍医少佐→Dr.エルトマン軍医少佐

■第3軍団

 軍医部長 Dr.アベル軍医少佐

 野戦病院長 Dr.ヘルツァー(1号)軍医少佐医

◇第5師団

 軍医長 Dr.ノイパウル軍医少佐

◇第6師団

 軍医長 Dr.シリング軍医少佐→Dr.パイン軍医少佐

■第4軍団

 軍医部長 Dr.ヴェント軍医少佐

 野戦病院長 Dr.レヴェル軍医少佐

◇第7師団

 軍医長 Dr.フィヒテ軍医少佐

◇第8師団

 軍医長 Dr.ベック軍医少佐

■第9軍団

 軍医部長 Dr.ヴェストファル軍医中佐→Dr.エヴェルマン軍医少佐

 野戦病院長 Dr.クレメルス軍医少佐、Dr. マイヤー軍医少佐(ヘッセン大公国軍)

◇第18師団

 軍医長 Dr.アレンツ軍医少佐

◇第25(ヘッセン大公国)師団

 軍医長 Dr.プラッグ軍医少佐

■第10軍団

 軍医部長 Dr.ベルトホルト軍医中佐

 野戦病院長 Dr.ショルツ軍医少佐→Dr.ロッケマン軍医少佐

◇第19師団

 軍医長 Dr.コルフ軍医少佐

◇第20師団

 軍医長 Dr.ロッケマン軍医少佐→Dr.ディエス軍医少佐

■第12(ザクセン王国)軍団

 軍医部長 Dr.ヴィルヘルム・アウグスト・ロート軍医中佐

 野戦病院長 Dr.ライヘル軍医少佐

 外科幇助員 Dr.フォン・ティールシュ軍医監、Dr. プラウネ軍医監、Dr. シュミット軍医監

◇第23「ザクセン第1」師団

 軍医長 Dr.ポーラント軍医少佐

◇第24「ザクセン第2」師団

 軍医長 Dr.ヘンニケ軍医少佐


挿絵(By みてみん)

ロート


○第三軍

 軍医部長 Dr.ビューゲル軍医監

 兵站軍医部長 Dr.タウプネラー軍医少佐→Dr.メールハウゼン軍医少佐

 外科幇助員 Dr.ヴィルムス軍医監、Dr.ヴィヒナー軍医監、Dr.ローゼル軍医監、Dr.ストローマイエル軍医監

■第5軍団

 軍医部長 Dr.シャーロンス軍医中佐

 野戦病院長 Dr.マイヤー軍医少佐→Dr.グロッセ軍医少佐

◇第9師団

 軍医長 Dr.シュムント軍医少佐

◇第10師団

 軍医長 Dr.ローラント軍医少佐

■第6軍団

 軍医部長 Dr.プロッツ軍医中佐

 野戦病院長 Dr.ラグス軍医少佐

◇第11師団

 軍医長 Dr.メールハウゼン軍医少佐→Dr. タウプネラー軍医少佐→Dr.ヴォネーハウプト軍医少佐

◇第12師団

 軍医長 Dr.ハイネ軍医少佐→Dr.ロッチュ軍医少佐

■第11軍団

 軍医部長 Dr.クックロー軍医中佐

 野戦病院長 Dr.ベルヴェント軍医少佐→Dr.ピーフェル軍医少佐

◇第21師団

 軍医長 Dr.ノイバウエル軍医少佐→Dr. シュミット軍医少佐

◇第22師団(後に第13軍団)

 軍医長 Dr.ホーマン軍医少佐

■バイエルン王国第1軍団

 軍医部長 Dr.フォン・ジッヘラー軍医少佐→Dr.クラニヒ軍医少佐

 外科幇助員 Dr.フォン・ヌスバウム軍医少佐、後にDr.スペングラー軍医中佐が参加

◇バイエルン第1師団

 軍医長 Dr.クラニヒ軍医少佐→Dr.ロッツベック軍医中佐

◇バイエルン第2師団

 軍医長 Dr.プリンブス軍医中佐

■バイエルン王国第2軍団

 軍医部長 Dr.ラスト軍医少佐

 外科幇助員 Dr.ルプレヒト軍医中佐、後にDr.フォン・リンハルト軍医少佐とDr.ハイネケチ軍医中佐が参加

◇バイエルン第3師団

 軍医長 Dr.ヴィガント軍医少佐

◇バイエルン第4師団

 軍医長 Dr.ヘンレ軍医少佐→Dr.ミュラー軍医少佐

■ヴュルテンベルク王国師団

 軍医部長 Dr.フィヒテ軍医中佐

 外科幇助員 Dr.プルンス軍医監

■バーデン大公国師団

 軍医部長 Dr.ホフマン軍医少佐

 野戦病院長兼務外科幇助員 Dr.ベック軍医少佐


〇第一~第三軍以外の野戦軍


■第13軍団

 軍医部長 Dr.シリング軍医少佐

 野戦病院長 Dr.パーシェン軍医少佐

◇第17師団

 軍医部長 Dr.トルミン軍医少佐


■後備近衛師団

 軍医部長 Dr.スタルケ軍医少佐

■後備第1師団→予備第1師団

 軍医部長 Dr.クラッテン軍医少佐→Dr.シュミット軍医少佐

■後備第2師団

 軍医部長 Dr.スタール軍医少佐

■後備第3師団→予備第3師団

 軍医部長 Dr.ロイトホルト軍医少佐

■後備第4師団(70年9月20日編成完了)

 軍医部長 Dr.レーニウス軍医少佐


挿絵(By みてみん)

独軍の衛生医療関係者(独帝国初期)




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