独軍の衛生・医療(前)
☆ 衛生部隊の編成
どのような軍隊でも、いざ戦争となれば戦傷者の治療ばかりでなく疫病や平時でも避けられない傷病対処の他、軍の衛生状態を監視し改善する努力も必要となって来ます。
これに関わる軍医や衛生兵は平時、常備軍の駐屯地など限られた場所で勤務し数も最低限で済むため、戦時ともなれば通常兵と同様動員を掛けて集め、野戦軍が必要とする数を充足しなくてはなりません。
普軍もまた普仏戦争勃発時、現役・予備役問わず根こそぎ召集を行いますが、これでは到底要求される衛生部隊の編成を賄う規模にはなりませんでした。このため民間の医師に対し軍医として参戦するよう募集を掛け、これに応じた2,000名余りを臨時軍医として採用するのです。
19世紀後半、急速に中間所得層の発言力が増し、人権が重視され人命の「価値」が高まって行きましたが、軍隊における衛生部門はまだ重視され始めて間もなく(クリミア戦やイタリア統一戦頃から。ナイチンゲールらの活動と赤十字の成立も無視出来ません)、これは普軍や南独三ヶ国も同様でした。
普軍の衛生部隊は普墺戦争後、対デンマークの第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争や普墺戦争での経験・反省から部隊構成・兵器使用法・後方兵站部門など多角的な検証を行った陸軍省の「国軍再編委員会」の「衛生部会」が、1867年3月18日から5月5日に掛けて行った会議で主要議題に上り、委員は「(患者の)前線から策源地の本病院までに至る(兵站部門などに頼らない独立した)自己完結型の対策が必要」との提言を行いますが、他にも軍が改革すべき重大案件は数多く、直ぐに実行には移されませんでした。
この改正案が本格的に始動するのは翌年2月20日に発せられた陸軍省令「衛生隊組織令」からで、これによりそれまで別々に組織化され動いていた現役の軍医・予備役軍医・陸海軍から先の戦争後に完全除隊し民間に下った医療関係者(戦時にボランティアで参加)は軍の「衛生部門」に一本化され、有事に一括召集を受けることとなります。これは衛生隊に所属することとなる全員が「軍人」としての身分を得る(直接軍命令に従う)ことを意味していました。
更に69年4月29日には「野戦軍における衛生事業に関する命令」が出され、これは有事に民間より従軍経験が無い医師も雇い入れることを可能とし、職業軍医の指揮下で「衛生隊」と「野戦病院」を組織化することを正式に決定、戦時において前線後方に「兵站病院」(後方連絡線上にある軍病院)、「戦時常設病院」(占領主要地や独本土内にある一般病院を軍が接収したもの)や「予備病院」(独本土の臨時受け入れ病院)を設置することを骨子とします。
普軍は普仏戦争の動員時、先ずは現役の軍医を最初に編成する軍衛生部門の要所に配し、予備役召集に応じた軍医をその部下や野戦軍の衛生隊へ配属するのでした。
普軍の戦時編成野戦衛生部門は大きく三部門「衛生隊(中隊かそれに近い規模)」「野戦病院」「予備衛生集団(中隊相当か)」となり、これは各軍団に相応数を配します。これら諸隊に先の現役・予備役軍医を配属させますが、実際に前線で働く軍医は結局定員割れで開戦を迎えました。
普仏戦争で独野戦軍が隷下に置いた衛生諸隊は新たに編成したものを含めて以下の通りとなります。
・衛生隊(衛生中隊や衛生小隊として存在したものを含みます)52個
・野戦病院 197個
近衛、第1~第12軍団=12個 第13軍団=3個 第14軍団=5個 バイエルン軍=16個 ヴュルテンベルク軍=6個 ヘッセン軍=6個 バーデン軍=5個
・衛生予備集団 45個
・衛生予備厰(器具装備補充や修繕を行う部隊)17個
この中で戦争中臨機に編成した2個軍団に用意した衛生部隊は次の通りです。
○第13軍団 衛生隊1個・野戦病院3個・予備衛生集団2個
○第14軍団(予備第4師団を含む) 衛生隊2個・野戦病院5個・予備衛生集団3個
また、バイエルン軍に野戦病院2個が追加されました。
宣戦が布告されるとフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(後のベルリン・フンボルト大学。医学部が有名です)の学長エミール・ハインリヒ・デュ・ボワ=レイモンは学生に対し「諸君らは武器を取って平和を侵す仏人を罰せよ」と呼びかけ、これには同大学の教授たちも賛同の声を上げます。政治家でもあった高名な病理学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョーは「高圧的な隣人との戦争は避けられない。自分の家で平和安穏を享受するには仏に勝たねばならない」と力説し、これら時流に乗って先述通り2,000人の民間医師が挙って軍に志願することとなります。オーストリアで活動していた独人外科医テオドール・ビルロート(手術法に名を残した名医で、旧軍の軍医総監となった佐藤進医師が師事したことでも知られます)も普軍に志願して従軍、後に細菌学で有名となる若きロベルト・コッホも従軍しました。
デュ・ボワ=レイモン
ビルロート
彼ら功績が知られた大学医学部教授や外科医は「軍医監」(佐官待遇)の階級を与えられ、外科幇助人員(手術を主に担当)として各野戦軍に配されるか軍の階級を持たない外科医として先ずは出征していない病院・諸隊に配されます。残りの志願民間医師たちは一部が前線へ出動した諸隊付きとなり多少の危険を伴うこととなりますが、多くは戦時常設病院や予備病院に配属となっていました。この中には義侠心か普王国への賛同か仏への反感か、普軍に就職している外国人医師も混じっていたのです。
独大本営ではこれでも足りないとばかりに卒業を控えた医学生で成績優秀な者を「見習軍医」として根こそぎ採用するのでした。
野戦・後方問わず病院の事務を担う文官も当然のように足りなくなりましたが、これも民間で心得が在る者を多数採用し対処しました。しかし、看護長・看護兵・担架兵・薬剤官など軍医と共に働く人員は全て軍人か軍属が充てられ、後になって不足しても補充隊から充足し民間人は雇われませんでした。
※独軍とその付属予備病院で普仏戦争中に勤務した者(軍属民間含みますがボランティアは除きます)の合計
○医師 7,022名
○看護長(下士官相当) 8,336名
○看護兵 12,707名
○担架兵(補助軍属除く) 7,800名
○薬剤官 606名
○医療器具保守工(旧軍は「磨工」と呼びます) 254名
○病院事務員 1,309名
その他(医療関係者以外・軍医や看護長の補助や兵站、護衛など)
○士官 523名
○輜重兵 8,398名
○総計 46,955名
普軍軍医と衛生兵・担架兵(1870年)
動員開始10日目の7月27日、全ての野戦病院は所属軍諸隊に追従する準備が出来た事を大本営に報告します。
野戦病院を指揮する軍医は所属する軍団指揮官から医療衛生に関する権限を委譲され、衛生隊と予備病院や兵站病院までを指揮下に置く「軍医部長」と、軍団所属野戦病院を司る「野戦病院長」の指揮下で行動しました。戦時常設病院では民間から志願した功績有る軍医監が権限を行使します。
独大本営は8月上旬の内に全下士官兵に包帯を、大隊付や野戦病院付の看護兵に応急手当て用の薬剤と包帯などが入った医療ポーチやナップザックを配布しました。
☆ 野戦軍の衛生状態
野戦軍と共に従軍した官民医務官(以下軍医でまとめます)は戦闘開始後時を経ずに多忙となって行きました。これは兵員が戦争自体に慣れていない初期、戦傷以外に些細な事故や不注意、そして疾病などが多発し始めたからで、特に目立ったのがいわゆる「塹壕足」(この名称は第一次大戦からで、旧軍は「足痛」と呼びました)でした。
これら軽症の患者を行軍に加えると例え馬車に乗せても文字通り「足手纏い」となるため、患者の数が一定数となると各師団単位で「傷病兵隊」を組織し、これを一人の軍医に任せ輜重縦列と共に続行させる処置が一般的に行われました。
初めに軽症と診断された患者は三日間の休息の後、回復したと軍医が認定すれば馬車に乗せられ所属団隊に向かわせ復帰させます。また、必要ならば輜重の護衛や縦列警備などの後方任務に就かせることも戦争後期に増えて行きました(ボーヌ=ラ=ロランドの一件など)。最初の三日間が過ぎてもなお行軍に耐えられないとの診断が出た下士官兵患者は、野戦病院か更に後方の兵站病院に送られ、これらの病院が付近に無い場合のみ独本土内の常設病院又は善意で医療行為を行う宗教団体に送られたのです。
要塞や主要都市での攻囲のような大軍が一ヶ所に留まる場合、「傷病兵臨時収容所」や「休養回復所」「宿営病院」等々の名称で程度に応じた施設を開所させ、これは季節が寒冷期に及んで様々な風邪の症状を訴える下士官兵が増えると殆ど常設の状態になって行きました。
この攻囲において独軍で最も悲惨だったのはメッスの攻囲でした。これはメッス包囲網の土地が先の戦闘(メッス近郊三会戦)により非常に不衛生で、つまりはカール王子麾下第一、二軍の将兵は敵味方双方の数万に及ぶ遺体が浅く埋められ(独軍公式戦史によれば8月16日の戦闘で1万名を埋葬、メッス包囲網周辺には2万5千から3万名が埋葬されています)、至る所屎尿と腐敗したゴミが溢れる土地に数ヶ月も露営を強いられたために発生した事例でした。季節も雨が多い秋季となり、この天候への備えが不十分だったため更に疫病も多発するのです。
メッス包囲網後方に設えた各種病院・収容施設はおよそ90ヶ所に及びますが多くは不十分な臨時施設で、更に将官まで含む傷病者は多数(後述)でとても足りる数ではありませんでした。これはメッス近郊三会戦における負傷者で未だ動かせない重症者もこれら病院に収容されていたことも原因の一つでした。
ストラスブールの野戦病院(1870)
メッス攻囲軍では8月20日から10月31日までの間に135,636名の傷病者の治療にあたり、この内82,020名が団隊付きの軍医によって治療を受けています。全体の数の内22,090名は消化器(胃腸)系の疾病(食中毒が多数です)とチフス、27,959名が赤痢でした。9、10月の2ヶ月間、メッス包囲網ではチフスで1,328名、赤痢で829名が命を落としています(それぞれ1個連隊・1個大隊に相当する大変な数です)。
包囲された仏軍もそれ以上の悲惨さでコレラ・赤痢が流行しており、独軍ではメッス陥落後に自軍へ伝染させないよう防疫に努めることになります。独大本営・陸軍省は防疫に対する訓令を動員時に発しており、これに従いメッス市街の兵営や病院に接収した建造物は予め丁寧な消毒が施されました。また要塞周辺地ではようやく本格的な消毒作業が開始されるのでした。11月にはナンシーに防疫・消毒を司る「防疫厰」が設けられました。
セダン会戦においてもこの衛生状態が問題視され、セダンの内外ではメッスに劣らず衛生状態が劣悪でした。メッスほどには悲惨な状況とならなかったのは戦闘期間が短かったために過ぎません。それでも独仏双方に傷病者が溢れ、セダンに一時駐屯した諸隊にもチフスと赤痢患者が急増しました。戦争は未だ半ばであり、独軍はセダンと周辺部の消毒作業を至近の中立国ベルギー政府に懇願して任せたのでした。
これらに比較すれば天と地の差(露営は殆ど無く宿営主体で周辺地の衛生状態も良好)があったパリ攻囲軍でしたが、それでもチフスと赤痢の蔓延を防ぐことは不可能でした。またパリ市街から逃亡して来た官民双方の仏人から天然痘が伝染し、独大本営は急遽包囲網の諸団隊全ての下士官兵に種痘を行うのでした(普軍では入隊時に行っているため再度となります)。これは時期を逸せず効果覿面で、パリ包囲時市内で流行した天然痘は独包囲網の将兵での感染者は一定数に留まっています。
また、2月には黄疸が兵士の間で目立って発生しますが、これは赤痢の原因と同じ石灰質を多く含む生水を飲み続けたためと言われています。
結局、パリ周辺の独軍諸隊では死亡率が平時に比べてもそう高くない状態で終戦を迎えるのでした。
この厳寒期に激しい戦闘を経験した独第二軍とメクレンブルク=シュヴェリーン大公軍では、戦闘における被害より疾病による損害が大きく、それは戦闘にも大いに影響する事態となります。ただでさえ輸送用の車輌と馬匹が足りなかったカール王子麾下の諸隊は、この患者を輜重と共に同行させたり後送したりするのに大いに苦労するのです。
前述のメッス攻囲がそうでしたが、70年の9月と10月は独軍の健康にとって最悪の時期となりました。
陸軍省や参謀本部も、この疫病の影響を過小評価していたとの批判を受けなくてはならないでしょう。元より仏のロレーヌ地方はチフスと赤痢が頻繁に流行する土地として有名でしたが、ここで戦うことになることは必然だったにも拘らず、独軍の防疫体制はお粗末と言っても良いくらいだったのです。
前述通り短期間で二つの疫病は軍全体に影響を及ぼす災厄となりました。最終的に独軍に従軍した将兵軍属の内チフス発症者は73,396名、赤痢発症者は38,652名に上ります。赤痢は70年9月にピークを迎え全軍で赤痢患者の死亡率は34.09%と罹患者3名に1名が亡くなるという大惨事となり、チフスは10月にピークを迎え、こちらも患者の死亡率が27.9%を示しましたが11月には下火になります。しかし両疫病共に当時の医学・衛生状態では撲滅は不可能でした。野戦病院は戦傷者よりこの疫病患者受け入れでパンク寸前となり、衛生隊は急ぎ疾病患者を後方の病院へ移すか野戦病院施設を増加させるかで悩むこととなります。
この独軍将兵にとってある意味仏兵より怖い疫病流行は71年2月、ようやく休戦時期となって下火となったのでした。
19世紀後半、感染症の原因や診察法、治療に関する医学の追及は道半ばと言ったところで、特に軍のような不衛生な原野で集団生活を送らねばならない人々にとっては蔓延は必然と言えるような状況にあり、軍自体での衛生教育などは不十分に過ぎました。
これを憂いた前述のルドルフ・ヴィルヒョー博士は「戦場における兵士のための健康規則」というパンフレットを大量に自費出版して軍へ納品し、これは兵士や前線指揮官たちから大絶賛され、彼らは与えられた予防指針を守り始めました。これらを契機に独軍と軍医たちも防疫に対して研究と実効的な対策を実施して行く(前述のコッホ博士など)のですが、これは20世紀中盤まで至る長い病魔との戦いとなって行くのです。
普仏戦争においては病死数が戦死数の1.9倍となっていますが、これは後の世界大戦でも同様な結果となりました。
ヴィルヒョー
☆ 衛生部隊の仕事
「衛生隊」は野戦緒隊が戦闘中や戦闘の危険が高い時に常時前線で活動し、負傷者の救護を行いますが、一大会戦では短時間で多数の負傷者が生じるため重傷者全員を救うことは出来ず、今日で言うところの「トリアージ」を自然と行って行きました。また、70年8月から9月に掛けての会戦では「包帯所」(前線応急処置所)にも銃砲火が度々到達したため幾度も転換しなくてはならない事態となって救護も中々全うすることが出来ませんでした。それでも衛生隊の救護班は迅速に行動して包帯所を閉ざすことなく機能を維持し、多くの人命を救ったのです。
この8月から9月に連続した一大会戦において、独軍衛生隊の多くは平均して400人前後の負傷者を一手に引き受け、同時に野戦病院に引き継ぐまで患者の給養も行いました。中でも隊付きの軍医たちは不眠不休で治療を行うことがしばしばあり、銃火を浴びても戦場に留まり負傷し戦死する軍医もいたのです。このような状況では包帯所から重傷者を野戦病院へ後送するのも困難で、これは激戦ばかりが理由ではなく衛生隊が所有する車輌が極端に少なく、徴発した馬車も他の任務に優先して使用されてしまっていたからでした。
衛生隊の救急馬車(ル・マン市内)
これに比して攻囲諸隊の衛生隊は危険も労苦も少なく、ただ単に包囲網後方の部落や比較的安全な連絡壕の中に設けた包帯所で勤務する毎日でした。このような攻囲では野戦病院も最前線の平行壕近くに設けることが多くあり、パリの攻囲では多くの攻城砲台に1名の軍医が率いる衛生班と担架兵が待機することとなります。衛生隊はまた軍団の前進時、野戦病院の撤去と開設に使われることが普通となっていました。
「野戦病院」は戦況に応じて前後進を行い、各野戦病院は最多200名の患者を受け入れる設備を有しており、一大会戦の場合は更に多数の患者も受け入れていました。バイエルン王国の野戦病院は更に「野戦本病院」があり、これは患者500名から最大800名を受け入れ可能という大きなものでした。
当時の野戦病院は現在我々が思い浮かべる大型テントや車輌が集まった光景とは違い、殆どが接収した屋内で活動しており開設や撤収は数時間以内に行う迅速を旨としました。接収に際しては宮殿や城館、教会、役所や劇場等大型で大空間のある建物が選ばれますが、周辺に適当な部落や建物が無い場合は農場や独立農家に穀物倉庫などで満足しなくてはなりませんでした。更に野戦病院専用に施設を建築することも行われ、これは戦争の歴史において初めてと言われます。この設備はスピシュラン、ヴルト、セダンの会戦後に移送困難な重傷者が多く発生したために実行され、これは殊の外好結果を出しました。これらの新築病院は戦線の前進に伴い兵站病院や戦時常設病院へと変化して使用され続けるのです。この新築された病院施設で最大のものはナンシー南郊のノートルダム・ドゥ・ボンスクール(現鉄道操車場付近)に設けられた千を越える病床を持つものでした。
普軍の野戦病院
「予備衛生集団」は「野戦病院」に属する軍医や衛生兵、衛生関連軍属「以外」の人員を集積したグループで、普軍(ザクセン軍団含む)の予備衛生集団1個は当初軍医大佐か1級軍医(軍医の階級は後編で記します)3名と1級軍医か2級軍医9名に必要数の官吏と看護長・看護兵を配した100~200名の団隊(中隊規模)でしたが、戦闘が激化し戦線が広範囲に広がると軍属以外の民間人医師も多数受け入れるようになりました。
この集団は通常1個の集団を三分割した「隊」(小隊規模)として行動し、軍の兵站総監部に直属しました。但し普第25師団(ヘッセン大公国)とバーデン師団のそれは規模が小さく、バイエルン軍では同等任務の集団が野戦本病院で勤務しており、ヴュルテンベルク師団には組織として存在しません。
予備衛生集団の任務は、野戦病院から後送された患者の受け入れ・治療と野戦病院が前進し去った土地での衛生勤務、そして兵站病院や戦時常設病院への患者引継ぎを行う、言わば兵站縦列における「補助縦列」にあたる「繋ぎ役」でしたが、戦域拡大に伴い兵站病院や戦時常設病院の新設とその勤務も行うようになって行きました。
彼らの活動記録としては、マース軍の例が公式戦史にあり、それによれば「総計37,866名の傷病者(うち28,836名は移動可能な者)を救護し、うち野戦病院から後送された患者をパリ包囲網北東方のミトリー(=モリー)及びゴネスで引き受け、ここでは9,192名を救護した」とあります。
独軍の野戦病院と予備衛生集団は戦争中500ヶ所前後に及ぶ軍病院を設置し、その野戦病院で治療した傷病者の総計は295,644名に達しました。
会戦最中の衛生隊
「兵站病院」は野戦軍の背後、後方連絡線や占領地で勤務する軍人・軍属の傷病治療に当たるだけでなく、野戦病院から搬送された傷病兵を後方へ送る拠点ともなる重要な施設でした。しかし患者の後送を鉄道によって行えない場合、兵站病院は陸送を準備するため患者をある期間入院させる必要が生じるため、その労苦は倍化するのでした。
仮講和条約が発効した頃(71年2月初旬)、独第二、第三両軍が開設していた野戦病院は患者を全て後送し終え、その大部分が業務を停止し患者の受け入れを終えていましたが、その撤収は3月下旬まで留保されます。同第一軍とマース軍、そして南軍については、各病院に残留していた傷病者で輸送に耐えられると診断された者は3月中に患者輸送専用列車6編成で独本土まで搬送され、その後軍の本国帰還・凱旋と並行して患者の輸送も順次行われ、大規模な患者輸送で最後のものは72年11月に実施されています。
野戦・兵站・予備の各病院に対する薬剤や衛生材料消耗品に備品器具の補充は軍の最後方で追従する衛生予備廠と、陸軍省直轄で設置される衛生予備倉庫や中央衛生予備廠と呼ばれる施設と特別志願救護団体(後述)とによって随時実施されました。
☆ 患者輸送と分散化
当時普軍ではそれまでの経験値から「戦時に傷病者は出来る限り広範囲へ分散し治療回復にあたる(集団感染予防策)」という原則を奉じ、これを実施するべく努めましたが、戦争前期の一大会戦が連続した時期では軍医の不足と運搬車輌の不足とでその実施は困難となりました。
この時期、搬送に耐えることが可能と診断された傷病者は極力前線後方の指定地に集めて管理し、順次後方連絡線上を鉄道端末まで搬送されて行きました。この患者たちは戦争初期には鉄道によりヴァイセンブルクかフォルバック経由で独本土の戦時常設病院か宗教団体(聖ヨハネ、マルタ騎士団など)の医療施設へ移されました。
普陸軍省は70年9月からヴァイセンブルクとザールブリュッケンに「特別患者輸送委員会」を置き、この患者後送の指揮を行わせ、これは後にエペルネーにも設けられます。
彼ら委員は到着する患者に対し症状や所属団隊などを考慮して振り分けを行いました。この後、独本土で指定された収容病院へその収容力に応じて患者の分散搬送を行わせました。ボーモンの戦いからセダン会戦までに生じた戦傷者6,500名については特別にベルギー政府と交渉し、ベルギー・オランダ・独三ヶ国の国境が集まるアーヘンに急遽設けられた輸送委員会(10月10日までの限定設置)の指揮下で患者をベルギー経由で独へ送り届けています。これはメッスの包囲が続き線路は仏軍によって寸断されており、捕虜の後送で街道も渋滞となっていたための処置でした。
また、ザールブリュッケンにあった委員会は10月10日、停車場が大きいフォルバックへ移動しています。
独軍の大型患者移送馬車
この戦病者の集合地としてはこの戦争中、ナンシーとラニー(=シュル=マルヌ。パリのノートルダム寺院東26.1キロ)が最重要拠点となりました。
ナンシーでは仏国内にあった独軍の後送患者全てが集合することもありました。このため、同地では度々1日で1,400から1,700名の患者が到着し宿泊することもあったのです。ナンシーでは70年8月23日から71年5月5日までに傷病者144,940名が通過し、この内70,282名が前述の停車場脇に建設されたノートルダム・ドゥ・ボンスクールの兵站病院に一時入院しています。
ラニーは70年11月24日からパリ攻囲軍の傷病者指定集合地となりました。またオルレアンとル・マンで生じた独第二軍の傷病者も一時はここを目指して搬送されたのです。その後第二軍の患者輸送はオルレアンからモンタルジ、トネール、ショーモン、ブレームを経てナンシー又はヴァイセンブルクへ至る鉄道路線が指定されました。
ラニーでは70年11月27日から71年4月11日までに傷病者48,242名が一時滞在・通過しています。同地に至った患者たちは多くがこの地で荷を降ろして空となった糧食縦列列車に乗せられ搬送されました。通常は翌日にエペルネーに達し、ここからシャンパーニュ地方やアルザス=ロレーヌ地方の兵站病院か戦時常設病院に分散収容され、長時間輸送が可能な者は独本土まで後送されました。
独本土に到着した患者専用列車
第一軍とマース軍で生じた患者は当初ランス~メジエール~メッスの鉄道線で送致され、後にフルアール経由でフォルバックへ至る路線も使用されるようになりました。第三軍の患者は全てナンシー経由でヴァイセンブルクへ送られます。1870年11月8日から1871年3月23日までにエペルネーを通過した傷病者は84,827名に及び、内19,000名余りがここから「衛生専用列車」に乗せられ後送されました。
この「衛生専用列車」は重症者が出来るだけ優先利用し、有蓋貨車にベッドを入れて列車には軍医数名と看護兵や軍属が同乗し看護しながら独本土の戦時常設病院や宗教団体の療養施設を目指しました。
また、軽症者と伝染病でない疾病発症者で比較的軽い症状の者の後送については「傷病兵列車」が編成され、これは有蓋貨車の車内に藁を敷き詰めるか布団を敷いて患者を寝かせ、厳寒期には厚手の毛布を支給しました。もちろん軍医と看護兵が付いて看護に当たったのです。
ヴュルテンベルク軍の衛生列車
これらの「医療専用列車」はこの戦争から登場したもので、独軍では「戦傷病者の救護におけるこの戦争最大の進歩」と自画自賛しています。
しかし、事実として伝わる話を聞くと、果たして普参謀本部や陸軍省は誇れることを成したのか少々疑問が残ります。
普王国参謀本部の作戦計画で戦病者輸送は鉄道を主体に行うこととされていたものの、同陸軍省の衛生部門は前述の通り予想以上の患者発生(ヴルトとスピシュランの戦いだけで負傷者約11,000名)で急遽輸送列車を確保しようと右往左往していました。
この事態にすぐさま対応したのはバイエルン王国で、用意してあった衛生専用列車は8月7、8、11日にそれぞれミュンヘンを発して患者の待つ端末停車場(ヴァイセンブルクか)へ向かい、同月16日にはヴュルテンベルク王国の列車もそれに続きました。
ヴュルテンベルク軍の衛生列車(炊事車)
これら「衛生専用列車」に備えられたベッドは特別製で、列車の振動を出来るだけ相殺するような仕掛けが施されていました。これで長距離の移送困難と思われた重症患者(特に外科的施術が必要となっていた患者や術後患者)も独本土まで帰還させることが可能となったのです。
この列車内には冬季暖房(ストーブ)が施され、軍医と看護兵は独立した「医務車」で治療を行い、休息用の「寝台車」で休みます。薬品棚も設えた「薬局車」もあり、手術専用の車両も連結されていました(もちろん停車時のみ使用します)。給養には炊事車が連結され、連結された車両は走行中も相互通行可能なように連結部に渡り板が付けられており、列車一編成で最大200床のベッドが設けられたのでした。
準備が後手に回っていた北独連邦(普軍)では慌ててこの仕様に沿った列車9編成を用意します。その最初の一編成が走り出したのは9月、バーデン大公国も遅れて11月から衛生列車運行を開始しますが、北独の列車全てが定期運行を確立した時には年明け1月になっていました。
それまでは民間人による特別志願救護団体(赤十字とはまた別の組織です)が用意した列車20編成が患者輸送を担い、列車では同団体委員や民間人医師が指揮を執っていました。
北独の列車手配は普王国鉄道省が行い、その装備は一部が政府から、一部が民間有志の寄付により用意されました。
この北独衛生専用列車では現場最先任軍医が指揮を執りますが、南独三ヶ国の列車では非衛生士官か医務系の文官、時には民間医師が指揮を執っていました。
これら医療列車には通常軍医と数名の看護兵が同乗しますが、その他の看護人は全て特別志願救護団体から派遣されたボランティアでした。
衛生専用車両(病床が揺れ緩和のため吊り下げられているのに注意)
普仏戦争中、鉄道により独本土へ無事搬送した患者の総数は240,426名と北独連邦常備軍の総数を越えていました。この内衛生専用列車で搬送された重症患者は36,426名で、運行回数は延べ164回を数えたのです。
☆ 予備病院
前線包帯所から野戦病院へ搬送され、高度な治療を要すると診断されたり長期加療を要すると診断されたりした患者は後方へ送致されますが、その際まず受け入れるのは予備病院でした。
予備病院は平時から計画され、陸軍省指導の下、地方州の官憲によって準備されており、ヴァイセンブルク、スピシュラン、ヴルトの三会戦で生じた負傷者を全て受け入れてもなお余裕がありました。
また、平時における軍経営病院は全てこの予備病院となりますが、これは主に補充兵と出征前の後備諸団隊で発生した患者を収容しました。
普仏戦争中、予備病院は最大368ヶ所に設置され、病床の総数は111,932床に及び、このうち7,268床は新規に建築した病院にありました。新規建築予備病院で最大のものはベルリン南郊のテンペルホーファー・フェルト(普軍練兵場で後に有名な空港となり現在は公園となっています)に陸軍省、ベルリン市、特別志願救護団体それぞれが建てた病院で、軍が15病棟、市が20病棟、特別志願救護団体が15病棟を運営、合計2,500床のベッドが稼働していました。
予備病院には当初本国に残留した軍医が勤務しますが、戦争が進むとこれらの軍医も仏に出征し、代わりに民間から志願した医師が勤務することになります。
また戦争初期には仏軍捕虜の患者もこの予備病院が治療にあたりましたが、セダンやメッスから大量の捕虜が独本土へ護送され収監されると「捕虜病院」が設置され、ここには仏軍の軍医で捕虜と同行した者全員が勤務しました。この時、独仏双方の軍医から今後兵役に就くことはないと見なされた捕虜(身体の重大欠損や失明等)は捕虜交換せず直接仏に送還されています。
仏軍の衛生兵(1870年)
普仏戦争中、予備病院では捕虜病院を含め総計812,021名の独仏将兵を治療し、その治療延べ日数(患者一人に掛かった日数の総計)は17,613,397日(患者一人あたり21.7日)と膨大なものとなりました。
予備病院は、71年3月下旬から患者全てが転・退院した院から順次閉鎖されました。




