独軍の糧食供給と輸送(前)
独帝国陸軍参謀本部戦史課が編纂した「1870/71年戦役(普仏戦争)公式戦史」に次の記述が見られます。
「軍の給養(狭義には将兵の糧食・馬匹の糧秣供給)を任務とする官憲は戦争の勃発と同時に膨大な要求を受け入れることを覚悟しなくてはならない。つまりは動員と同時に開始される軍の前進は、大兵団を比較的狭い地域に集合させ、この間にも鉄道は引き続き後続部隊と輜重の輸送に全力を投入するからである」(筆者意訳)
独参謀本部の秀英が記したこの文章は、当時の独軍が直面した困難をあっさりと示していますが、実際この「軍の給養」に責任を持った後方担当幕僚たちは次々に降り掛かる難題を矢継ぎ早に解決して行かねばならない状況に直面するのでした。
北独連邦軍(実態は普軍)が仏の国境目指し進み出たライン沿岸地方は、一部を除き農業盛んで石炭などの資源も産出する豊かな土地でしたが、集合する将兵の数は土地の豊潤さを拭い去るに等しく、その給養に充てる糧食を地域から供出するにも、この地に集合する第一、第二両軍用に確保出来た糧食の量は標準消費量で僅か2日分にしかなりませんでした。しかもその一部は未だ収穫されず畑にあり、またこの年(1870年)は干魃に見舞われて一部の水路(水運)は活用されず水車(脱穀)も多くが止まってしまいました。
普王国参謀本部は動員と同時に軍の給養に関する準備命令を発し、前線で戦う将兵が飢えるなどと言うことが無いよう、後方担当幕僚たちは四方へ散って様々な準備を始めましたが、独大本営の軍需経理(兵站と主計担当)長官となったアルブレヒト・フォン・ストッシュ中将は現状のままでは備蓄が直ぐに不足すると案じ、塩漬け肉缶詰(いわゆるコンビーフです)、カンパン、燕麦、圧縮乾草をそれぞれ300万ポンド(約136トン)イギリスから緊急輸入することを命じ、この受け渡しは8月中にケルンで行われることが決まりました。
ストッシュ(帝国海軍初代長官時代)
少し本筋から離れますが、この時独大本営は最初に戦場となる独仏国境付近の地図を普参謀本部に用意させ、これは現在でも使われる「低地を緑・山地を茶色・道を黒・海や河川湖沼を青」の色分けで地図を見やすくする工夫を初めて行ったエミール・フォン・シドウ大佐(参謀本部地図課長)とバイエルン王国参謀本部の地図測量課長オルフ少佐による尽力で、7月31日までに独西部の地図およそ5万2千部と仏東部の地図およそ17万部(うち8万分の1の地図13万2千部)が諸隊に配布されています(仏軍の地図配布における混乱とは大違いです)。
フォン・シドウ
1870年7月末までに独仏国境付近に集合を終えた独軍の給養を確実にするためには、動員開始から僅か半月では時間が短か過ぎました。フォン・ストッシュ将軍を始めとする後方幕僚たちはこの難問に対し全力で事に当たります。
大本営の軍需経理部は、この巨大な給養のため急遽ケルン、コブレンツ、ビンゲン(・アム・ライン。マインツ西方)、マインツ、ザールルイの各拠点にそれぞれ20個の野戦製パン窯を設置し、至近にある麦類粉貯蔵倉庫を徴用してこれに隷属させ、ここへ北独各地から次々と小麦粉やライ麦粉を送り込みました。同時にフランクフルト(=アム=マイン)西郊のハウゼンとライン上流のマンハイムには多数の軍需製パン工場を設営し、更に鉄道沿線の主要駐屯地にある既成製パン所も拡張工事を行い、動員諸隊の用を足すだけでなく後方備蓄用のカンパンも大量に製造させるのでした。
軍団の策源地となる軍管区は、ストッシュ将軍の命令により軍団消費6週間分の糧食・燕麦・乾草を集め、これは準備出来次第国境の待機宿営地へ向かった野戦軍団に送られました。またオランダ国境を睨むヴェーゼルとケルン両要塞に備蓄されていた糧秣の大部分は、ライン川の就航汽船に積載してビンゲンへ配送しこれはそのまま第一、第二両軍へ供給されます。
動員に伴う一大西行輸送の当初、馬匹の糧秣は各自諸隊が乗車する軍用列車に同載され、又は数輌の貨車を連結して集合地へ向かいますが、これでは数日分にしかならないため大本営軍需経理部は「諸団隊は各自集合宿営待機地において自前で糧秣を集めること(もちろん有償です)」との指令を送りました。また鉄道沿線にある拠点の軍需倉庫には全軍(北独連邦・普軍)消費の14日分に当たる小麦粉やライ麦粉と燕麦の貯蔵を開始、各方面から請求があった場合これを直接前線に送り、空いた倉庫には再び14日分に至るまで補充することが定められます。
ケルン、コブレンツ、ビンゲン(・アム・ライン)、マインツ、フランクフルト(=アム=マイン)には7個軍団・6週間分の糧食と燕麦・乾草が予備兼用で備蓄され、バーデン大公国はハイデルベルクとメッケスハイム(ハイデルベルク南東)に、バイエルン王国は全て王国の飛び地で仏国境に面したプファルツ州のゲルマースハイム(ライン河畔)、ルートヴィヒスハーフェン(・アム・ライン。マンハイム対岸)、ノイシュタット(・アン・デア・ヴァインシュトラーセ)に、ヴュルテンベルク王国はブルッフザール(カールスルーエ北東)にそれぞれ自軍のための糧食・糧秣倉庫群を設置するのでした。
動員集合中に諸団隊はその途上、規定の停車場で食事や糧秣を受け取りましたが、動員集合が完了した7月末からは各軍団に向けて策源地から給養品の追加配送が始まります。大本営軍需経理部は7月末から8月初旬に掛けて50本前後の糧食列車をライン沿岸に運行させました。
この間、軍団に隷属する糧食縦列に補充の中継を行う補助糧食縦列の編成が完了し、各軍団は二頭立て馬車400輌から成るこの補助縦列を配され、また各軍の兵站総監部は同じく二頭立て馬車3,000輌を定数として給養を行うことになったのでした。
とは言え、これらの処置は均一に実施することが出来ず、それは三つの軍が行軍した先の状況が大いに影響を及ぼしたからでした。
フォン・シュタインメッツ歩兵大将率いる第一軍は、物資に乏しく起伏も多く街道も細いアイフェル高地地方を行軍しなくてはならなかったため糧食縦列を一旦後置し別動させるしかなく、先ずはコブレンツとケルンに全ての物資を集積しました。また戦前トリールに置かれていた普軍の軍事物資集積所は、仏軍が先手を取って国境を突破した場合に奪取される恐れが高かったため、ライン州の将兵からなる第8軍団を率いるフォン・ゲーベン歩兵大将が一時後方へ撤去するよう命じました。この作業は動員実施中の野戦軍では手に余ったため、ライン州の官憲と地元住民有志の手により徴用した民間馬車によって実行されたため、軍の行軍には大きな影響を及ぼしませんでした。その後、この地方に仏軍が進出する恐れが少なくなったためトリールでは再び軍事物資の集積が開始され、7月30日までには新たな倉庫群も建設されるのでした。また、動員が落ち着いて来たことで利用可能となった鉄道によりトリールからフラウラウターン(ザールルイのザール対岸)に炊事用具類が送達され、8月8日にはこの地で諸軍団の製パン縦列が始動するのでした。
フリードリヒ・カール親王騎兵大将率いる第二軍本営は動員最中の7月22日、麾下に対し「自前で調達した5日分の糧食をそれぞれが指定された鉄道線によって携行せよ」と命じ、29日には軍団経理に対し「前進待機地において調達可能な糧食を値段を気にせず6日分以内で購入せよ」と命じました。同時に戦闘突入で調達困難となった場合を想定し「その場合、糧食1日分の量と内容を変更して馬匹用の糧秣にも現地調達可能な規定外の穀類を混入してよろしい」とするのです。
この第二軍は戦後に注目される処置を採っていて、それはある「缶詰」の大量導入でした。
カール王子は既に動員1日目(7月16日)にこれに関する意見書を参謀本部に提出しており、これは戦前陸軍省が実施していた野戦糧食の実験(兵士の糧食1日分の成分に関する規定を改定するか否かを判定するため第3軍管区で実施されました)結果を受けて、実験に使用された缶詰「エルブスヴォースト」の有益性に着目した王子とその幕僚の意見でした。
この「エルブスヴォースト」。直訳すれば「エンドウ豆ソーセージ」となります。工場製造で大量生産された最初期の乾燥食品と言われるソーセージの形をしたエンドウ豆の乾燥スープで、エンドウ豆の粉末を牛脂や豚の背脂で練り固め乾燥させた黄色い代物で、当時は缶詰にされて出荷されました。
これは1867年、ベルリンの食品加工業者ヨハン・ハインリヒ・グリュンベルクにより開発されたもので、彼は興味を示すだろうと目論んだ軍に売り込み、その効用に着目した陸軍省は彼の発明権利を35,000ターレルで買い取りました。
帆船時代、18世紀から19世紀初頭に掛けての英国海軍でも貯蔵食糧は「乾燥エンドウ豆の粉末と塩漬豚肉」であり軍の糧食としては理に適っていたのです。
前述の「実験」では兵士にこのエルブスヴォーストの缶詰とカンパン「だけ」を支給し、これを6週間続け、兵士に体調の変化や疾病が発生しないか確かめたものでした。その間通常の訓練や執務が行われており、将兵は平時なのに全く同じものを一ヶ月半も与えられ不平不満はあったでしょうが、健康的には特に大きな問題は発生しませんでした(この実験では糧食の成分を変更する必要はないと判定されましたが、この判断は多分変化のない糧食続きでは士気が下がると考えられたからではないでしょうか?)。
カール王子は陸軍省からも賛同と許可を得、第二軍の経理部長ヴィルヘルム・エンゲルハルト軍経理官は直ちにベルリンに工場を設置させ、この工場は8月8日に製造を開始します。この軍工場は1,700人の工員が当初1日7トンのエルブスヴォーストを製造し、最盛期には65トンまで生産効率を高めました。これは8月21日に初めて前線の兵士に配給されます(初回出荷は10万個)。この工場では戦争中エルブスヴォーストを5千トン製造しますが、後に設備を拡張し他の缶詰(コンビーフだったと言います)の製造も始め、戦争中野戦軍に対し各種口糧約4千万個を供給しました。
エルブスヴォーストの缶詰は軽く携行に便利で比較的長期に保存が効き、栄養価も高くしかも製造単価は安価でした。調理法は簡単で単に湯に溶かすだけで食べる事が出来、そのままはもちろん、野菜や肉類を入れれば立派なスープになります。前線の兵士たちからも「なかなかうまい」と好評だったと言い、正に独軍勝利の原動力となったのです。
後にスープメーカーとして有名になるクノール社は1889年、この権利を取得して大々的に製造(製造方法を発展させ缶詰からアルミ箔に包装した筒状に変わります)し、これは軍の口糧ばかりでなく民生用としても登山家や極地遠征隊など過酷な地域に向かう人々の必需品となり、独ばかりでなく世界へ輸出され大成功を収めるのです。残念ながらクノールのエルブスヴォーストは需要の減少により2018年12月31日、製造を終了しています。
炊事をする独兵
北独連邦はイギリスから緊急輸入をした後、ハンブルクやリューベック、ブレーメンの3ハンザ自由市やオランダ王国からも糧食を買い入れライン川を就航する艀を徴用して輸送し、国境付近での待機中の野戦軍に供給しました。これに前述の自前による積極的なパンの製造やケルン、ヴェーゼル両要塞からの備蓄放出が加わって前線の糧食は膨大な量となり、国境への集合中、カール王子麾下第二軍は充分な給養を受け、また進撃するにあたって糧食の予備も余裕を持って用意することが出来たのでした。
フリードリヒ皇太子率いる第三軍では動員直後国境への集合中、給養に関して少々困難な状況となります。これは軍が民間食品卸売商と契約し確保した食糧が動員による鉄道の遅延によって到着が遅れていたためでした。しかしこれを助けたのが逗留先の住民による「もてなし」と南独三ヶ国政府による糧食の放出で、更に7月26日にマンハイムへ到着した第三軍兵站総監部が早速開始した軍の倉庫群建設と1,000輌の運搬車輌による「補助縦列」(うち400輌は「臨時縦列」として各種縦列車輌の到着が遅れていた近衛軍団へ貸し出されました)の編成により問題は徐々に解決されたのです。
独軍が本格的作戦始動時(8月初旬)において待機場所に有した倉庫群は以下の場所にありました。
○第一軍 フラウラウターン、トリール
○第二軍 (バート・)クロイツナハ、アルツェイ(クロイツナハ南東)、ビンゲンとマインツ(予備倉庫群)
○第三軍 マンハイム、前述の南独三ヶ国倉庫群
第一軍と第二軍がフランス領内のモセル(独名モーゼル)河畔に向かって進撃中、その給養品は一時ザールルイから追送され余剰はブレ(=モセル)に中間貯蔵倉庫を設置し保管されますが、スピシュランの戦いでフォルバックやその他地方において鹵獲又は徴発した糧食・物資(数日分の糧食を帯同し残りはザールルイへ搬出します)は非常に有効で、各団隊においてもパン焼きに精を出したため、緒戦の給養状態は良好だったと言えます。またメッス前面に到達した第一軍は給養が心許なくなりますが、8月12日、独大本営より一時的にフォルバックとサン=タヴォル、そしてフォルクモンで糧食を受領することが許され、これらは第二軍に指定された糧食受領場所だったため、結果的に余裕のあった第二軍から補助を受けることになりました。その後、クールセル=シュル=ニエにて一大倉庫群が完成し、独大本営はここに大量の糧食を送ったため第一軍の給養状態も改善されて行きます。
第二軍に関しては仏国内侵入に連れて追送する給養品をザールブリュッケン後方のノインキルヒェン~ホンブルクの線まで前進させる必要が生じ、このため独大本営はビンゲン~ノインキルヒェン鉄道を使用して8月4日から毎日3本の糧食列車を運行させることとなります。カール王子は次の手としてライン河畔に集積が終わった予備糧食を至急空きの出来たノインキルヒェン~ホンブルク線上、更には国境まで搬送させるため軍所有の車輌を無駄なく活用するよう注意を払うことを命じるのでした。軍の兵站総監部ではザールブリュッケンと長期占領処置を終えたサルグミーヌ、サール=ユニオンにそれぞれ糧食貯蔵倉庫群を設置し、同時に製パン工場を建設します。その後、軍の前進を見て倉庫群とパン工場はフォルバック、サン=タヴォル、フォルクモンに移設され8月13日にはルミリーにも同様の施設が建設されたのです。
第二軍兵站総監部は第二軍がモセル川を渡河するに際し糧食品をこの後方兵站基地まで前進させました。メッス近郊の三会戦(コロンベイ、マルス=ラ=トゥール、グラヴロット)が行われた8月中旬、会戦当日に糧食を供給出来たのは8月14日に比較的兵站基地に近かった第一軍の一部(主に第1軍団)だけでしたが、その他前線にあった諸団隊も会戦翌日にはそれぞれ十分な糧食の配給を受けることが出来ました。
サン=プリヴァに対するザクセン軍砲列
一方、皇太子の第三軍の給養事情はマクマオン軍との本格的衝突が発生するまで何ら問題は発生していません。これは前述通り宿営地における住民の手厚い援助と南独三ヶ国の十分な糧食供給による賜でしたが、この間、各団隊にもそれぞれの糧食縦列が到着し、これら縦列はランダウ、ホンブルク、マンハイム、ヴュルツブルクから進発し8月5日にヴァイセンブルク周辺まで、翌6日にゾウルツ=ス=フォレまで進んだ大量の糧食で補充し満載となりました。ヴルト会戦後のヴォージュ山脈越えでは渋滞を避けるため縦列の多くを後方に残置して戦闘部隊のみ前進したため糧食が乏しくなる可能性がありましたが、諸隊は臨機に自らの馬車を糧食車に仕立てて数日分を携行し軍本営は広範囲に糧秣の徴発を許可したため殆どの部隊は糧食や秣の不足を訴えることはありませんでした。
その後平地に進出しマルヌ河畔を進んだ第三軍は、糧食の多くを豊潤なこの地方に依存し徴発に頼り、宿営地もこの時は豊かであったため、ここでも給養に困ることはありませんでした。
第二軍でもサール=ユニオンに設置した兵站基地が十分な活動を行ったため給養に不足はなく、更に後退する仏軍が所々に満載した糧食車輌を遺棄していたため後方幕僚は仕事を間略にすることが出来たのです。
第三軍兵站総監部は8月21日、鉄道がナンシーまで通じたため、この地とリュネヴィルに倉庫群を設置し兵站基地化するのでした。
バゼーヌ軍をメッスに封じ込めた直後に創設されたアルベルト・ザクセン王子のマース軍の給養は、最初にポンタ=ムッソンを兵站中心地として倉庫群を置き、物資はナンシーとルミリーの貯蔵品により充実させ、不足分は独本土から続々と到着していた追送品で埋めました。しかし糧食を前進する野戦軍に送ることは困難だったのです。これは大本営の命令によってマース軍の諸縦列は第二軍の補助縦列から分派させることになったものの、メッス近郊三会戦によって生じた多数の負傷者を後送するため、縦列からは多くの車輌が割かれており、余分な車輌は一切存在していなかったからでした。但し普軍の中でも独立性が高い第12軍団(ザクセン王国軍)だけは8月24日に本国から到着した補助縦列によって追送品を受け取ることが出来たのです。その他マース軍の諸隊(近衛軍団・第4軍団・騎兵第5師・騎兵第6師)は結局8月末まで宿営地や行軍途上での徴発や購買に頼っていましたが、幸いにも給養状態は水準以上を維持することが出来、サン=ミエルやコメルシーに設けた小規模の糧食倉庫群(殆ど徴発した糧食が納められました)からも物資の追送を受けて凌いだのです。
8月26日に第三軍とマース軍はセダン戦につながる右翼側転進を行いますが、パリへの道を急いでいた大本営の当初想定になかったこの行動は既述通り後方連絡線に大混乱を巻き起こし、狭い地域に二個軍が集中したため一時給養が非常に困難となりました。これは限られた街道に軍団単位で集中行軍を行ったため野戦部隊に後続する糧食馬車や追従する食獣が付いて行けず、糧食縦列も遠く離れて一部しか呼び寄せることが適わなかったからです。この間独軍は徴発や購買を盛んに行って凌ごうとしましたが、既に周辺地域は仏軍によって糧食が徴収されていたため思うように集まりませんでした。
第三軍に属した輜重縦列には行軍方向変更の連絡が遅れ、第11軍団の第2糧食縦列は軍団が右転向した際にヴィトリー=ル=フランソワからランスに向け行軍していましたが、先行する野戦部隊の転向に気付かず孤立したまま仏軍支配下に入り込んだため、たちまち護国軍部隊に取り囲まれ縦列ごと捕虜となってしまいました。マース軍はエテンで8月29日以降毎日メッス攻囲軍から100輌分程度の糧食補給を受けることが出来ました。
この「一大右翼転進」時、第三軍とマース軍は主に携帯口糧により給養を行い、縦列からの車輌が届いた場合のみ通常の糧食を支給していました。これを補ったのはラ・ブサス、カリニャン、ドンシュリー、バゼイユ(すべてセダン周辺・近郊)などで鹵獲した仏軍の糧食で、特に近衛軍団が8月11日カリニャンで、1個軍団が1週間過ごすことが出来る糧食列車を捕獲するという出来事もあり、これらがあったために独軍諸隊は空腹を抱えずセダンで戦うことが出来たのでした。
とはいえ、糧食の供給量が圧倒的に足りなかったことは事実で、「スダン・デイ」の9月2日からは糧食縦列とその補助縦列が軍団近くまで到着し補給を開始したものの、膨大な仏軍捕虜も生じこれもまた養わなくてはならなくなったため糧食不足は更に続いたのでした。
セダンの戦場へ急ぐ独野戦砲兵
この間、独本土でも軍の需要に応えるためパン類の大量製造が続けられていましたが、肝心の輸送手段である鉄道の列車運行が他の用途に圧迫されて少なく、運搬待機にあった大量のパンは真夏の炎天下次々に腐敗してしまいました。陸軍省はパン製造に関して製造の中心となる食品を長期保存可能なカンパンに切り替えてこれを凌ぐのでした。
やがて環境が整い糧食運搬列車が定時運行されるようになると、ようやく様々な種類の食品を前線に向けて発送可能となったのです。
しかし、問題は解決しませんでした。それは前線の野戦経理部と本国陸軍省の官憲が涙ぐましい努力を重ねて兵士たちに十分な糧食を届けようとし、軍に食品を納入する卸売業者もフル稼働で物資を供給し続けた結果、膨大な量の各種食料品が停車場に集中し遂には鉄道網輸送力の限界を超えてしまったからです。同じく前線後方の端末停車場では次々に到着する列車から荷下ろしする人員も少なく、このため列車は糧食ばかりでなく様々な軍需品を積んだまま側線や停車場引き込み線で立ち往生し、線路上では列車が数珠繋ぎとなって大渋滞を起こしてしまうのでした。
この事態を受けてストッシュ将軍は8月11日、「独本土より糧食列車を発進させる場合は本官(大本営軍需経理部長)直接か各軍兵站総監から特別の命令を発する時に限る」と命じて混乱終息を図ります。しかしこの混乱状況は9月以降戦争中に度々発生し、これは生真面目かつ合理的に難問解決を図るドイツ人気質(特にプロシア人)が引き起こした笑うに笑えない事態と言えたのです。
幸いにも仏国で戦場となった地方は一部を除き資源豊富で、特に糧食は幾度も両軍に徴発されても幾分かは手に入れることが出来(代わりに住人が飢える寸前・翌年に蒔く種も不足となります)、少々独には僥倖もあって仏軍のように軍が飢餓に陥る危険に直面することはありませんでした。
後方縦列・馬蹄の交換
こうして8月下旬以降、戦線後方では各軍の兵站幕僚たちが停留した物資の迅速な搬出に奔走し、盛夏から初秋に掛けて長くは保てない糧食の保管にも苦慮しましたが、第二軍経理部長のエンゲルハルト経理官は9月中旬、パリ攻囲軍用に輸送され停車場に積み上げられていた糧食を空荷で引き返そうとする列車に乗せ、これをメッス攻囲軍に宛てて送るという奇策に出て成功させるのです。
カール王子のメッス攻囲軍は、傷病兵後送が落ち着くとマース軍に補助縦列の殆どを取られてしまったため、給養の状態が一時悪化していました。ただでさえ少ない補助縦列が鉄道隊の工事や傷病輸送に使われてしまい十分な働きが出来なかったことが原因でした。第一軍の兵站総監部では戦争当初2,000輌を数えた各種車輌が10月17日には手元に僅か20輌という危機を迎えていたのです。
再び本筋から外れますが、このメッス周辺では土地の性質から水の供給も厳しい状況にあり、給水地点が少ないことから攻囲軍諸隊は方々で汲み上げポンプ式の井戸を掘削しますが、地質は多くが岩石質で中々地下水脈に当たることが出来ず、給水状況は常に危機的状況にあり続けました。これに対してカール王子の本営が行った施策は我々日本人にとって俄には信じ難い解決法だったのです。
メッス周辺モセル川流域はワインの一大産地で、各民家には必ずワインセラーがあって大量のワインを貯蔵しており、独軍はこれを徴発して兵士に「酔わない程度」毎日配給し、状態の悪い生水を避けるためコーヒーも増量して与え、次第に寒気が身に沁むようになるとグリューヴァイン(香辛料入りホットワイン)やシュナップス(アルコール度が高いジンなどの蒸留酒)まで配給に入れて水分不足を防いだのでした。
メッス攻囲軍はその包囲期間中、一時は心配された給養に関して結果的に十分な供給を受けることが出来、またマース軍の給養にも協力した他、セダンから独本土に向けて護送される仏軍捕虜の途中給養や占領されたメッスの捕虜、そして要塞地区住民にも糧食を分け与えることが出来たのでした。
第三軍とマース軍によるパリへの行軍中、その給養は軍の行軍地域が広範囲に渡ったことで宿営地における調達と行軍途上の徴発で十分に賄うことが出来ました。宿営地に満足する食糧が無い場合のみ不足した分を糧食縦列から補給していたのです。糧食には絶対に必要なパンも徴発と隷属する製パン縦列によって十分賄えました。これにより、前述通り後方連絡線の混乱を招く原因の一つだった食品納入業者との契約は中途で打ち切られることになりました。
9月12日にはヴィルヘルム1世の勅令が発せられ、「軍の糧食車輌は野戦歩兵1個大隊につき2輌、騎兵及び砲兵1個中隊、そして縦列1個につきそれぞれ1輌に定める」としました。諸隊はその後各人携帯口糧を持つ他、数日分の糧食を車輌に積載し行動することとなりました。
パリの攻囲を開始した第三軍経理部はこの良好な給養状態を出来るだけ長く維持しようと考え、ランスとシャロン=シュル=マルヌに一大糧食倉庫群を設置し、パリ郊外ムールムロンで破壊されずに占領された巨大なパン工場を第5、第6両軍団の製パン縦列に引き渡してパリ攻囲中の糧食を充実させることに努めたのでした。
普仏戦争中、独軍の糧食事情で危機を及ぼした出来事は他に「牛疫(独語でリンダーペスト)」がありました。これは牛や豚以外に羊やヤギ、シカやイノシシ等にも伝染する厄介な疫病で、1857~66年のヨーロッパ大流行ではイギリスの牛が殆ど失われるという恐ろしい病気でした(ヒトには感染しませんが、ジェンナーが使用人の子供に接種して種痘のきっかけとなったことは有名です)。
70年後半にもドイツ全域に流行し、感染拡大を防ぐため家畜は次々に殺処分されてしまいました。この時、各軍の野戦糧食担当幕僚たちも疫病蔓延を防ぐため、疫病の発覚当初ランダウ~ナンシー間の後方連絡線上にあった生きた食獣を悉く撲殺して、疫病に冒されていた食獣の死体は地中に埋め、健康だった牛や豚の肉はソーセージに加工して支給し、以降後方からの供給を制限しました。生きた牛や豚は短期間ですが仏占領地とベルギー、オランダからのみ輸入や徴発して対処しますが、流行が拡大傾向となった後はこの輸入も止まったのです。
この時の感染は中々終息せず、第二波、第三波と続いたため食肉の供給は非常に困難となりました。このため将兵の糧食は肉類の無い単調なものになりがちで、これは健康面や精神面(即ち士気)にも関わるため陸軍省と独大本営は急ぎ本土に備蓄していた塩漬け肉や缶詰を放出し、比較的疫病に侵されていなかった羊を大量投入、マインツに塩漬け肉と缶詰加工の材料を得るため一大屠殺場を建設しましたが、なかなか大勢に影響を与えることが出来ませんでした。
第三軍とマース軍が相次いでパリ郊外に達した頃(9月中旬)、パリ攻囲中の給養のため所属する騎兵師団は広範囲に徴発を実施し、独大本営は奪った糧食物品を納めるため、第三軍用にベルサイユとコルベイユ(=エソンヌ)、マース軍用にシャンティイに一大倉庫群を設置させました。
鉄道輸送では第三軍用に弾薬等軍需品と同じノジャン=ラルト停車場(包囲網のヴィルヌーブ=サン=ジョルジュまで約80キロの道程)が端末駅に指定され、マース軍にはシャトー=ティエリ停車場(包囲網のゴネスまで約80キロの道程)が指定されます。それぞれ端末停車場から先は陸路輸送となりました。このため両軍は包囲網まで往復のため縦列を派遣しますが、この輸送に7日から10日が掛かりました。給養品ばかりでなく軍需品や弾薬も運ばねばならない兵站路の諸縦列は大変な苦労を重ねますが、特に糧食輸送は攻囲軍の需要に対し全く不足していました。
ベルサイユの倉庫群に納めるための糧食縦列と補助縦列は当初1,386輌の各種馬車を持っていましたが、ノジャン=ラルトまでの往復で最短7日間が掛かり、糧食馬車1輌の積載重量は最小で750キロ、最大で1,400キロですから、全量最大で1940トン余り、一見多いようですが往復7日間ですので1日あたり277トン余りとなり、実際はもっと少なく200トン前後だったとすれば、第三軍の糧食1日消費量400トンの半数にしかならなかったことになるのです。鉄道もまた前述した通り遅延が続き、パリ攻囲軍でも兵站総監部が必要とする契約以外、民間業者との契約は全て破棄されてしまいました。
ベルサイユの第三軍本営(皇太子と幕僚たち)
第三軍兵站総監部は9月25日発令の大本営命令によりパリ攻囲軍全体の給養品供給の責任を負うこととなります。しかし同総監部もその補助縦列による補給により攻囲軍全てを賄うことは不可能でした(攻囲軍の片割れであるマース軍にはそもそも補助縦列が存在しません)。これは只でさえ少ない車輌と兵站・輜重兵を後方拠点の倉庫群の積み下ろしに割き、用途外の攻城砲兵関連輸送にも従事させていたためでした。幸いにもマース軍ではシャンティイの倉庫群に徴発した物資・糧食を十分に蓄えていましたが、第三軍の徴発は獲るところが少なく、麾下包囲網の将兵は規定以下の量の口糧で我慢するしかありませんでした。独ベルサイユ大本営は第三軍の窮状を見て訓令を発し、これは「徴発は遠隔地に及ぶ場合、又は住民が退去し無人となった部落、又は住民との合意が成立しなかった場合にのみ実施し、その他の場合は全て住民や商人との合意によって購買(現金取引)で獲得するように」とのことでした。諸隊はそれぞれ自身の糧食を得るため独自に行動するよう奨励され、またこれにより満遍なく隅々まで占領地を巡回させて「取りこぼし」の無いようにさせたのです。
冬季を前に独ベルサイユ大本営は糧食確保に力を入れ始め、独の占領地では特にジャガイモなど野菜が豊作で、独軍が徴発より購買を重視し始めたため、仏住民も最初は反発と「敵に塩を送る」ような後ろめたさがあったものの、気前よく高めに、しかもツケ(軍票など)ではなくフラン(現金)で買ってくれる「お得意さん」として独の経理部将兵と付き合うようになって行きました。糧秣の収集も次第に軌道に乗りパン工場も順調に稼働し、独軍は占領地での市場開場を許したため食品と物資の流通量は増加して行きます。その結果、パリ攻囲軍でも10月下旬以降は日常の需要に不足を感じることが少なくなったのです。
但し、鉄道による追送と民間契約の残り分の直送に関しては相変らず不安定な納入状況が続いていました。生肉に関しては牛疫流行が収まっていませんでしたが、各軍の経理部将兵たちが地方を回って購入し続け、特にモーとエペルネーの市場での購買契約は良好だったため少ないながらも供給が途切れることはありませんでした。また11月中旬には約10万頭の生きた羊がコルベイユ=エソンヌ停車場に到着しています。
糧食徴発(騎兵が行うことが多くありました)
独本土の缶詰製造と供給に関しても11月には軌道に乗り、陸軍省は第二軍用のベルリン工場やマインツの食肉処理場の他にもフランクフルト=アム=マインに缶詰工場を新設しました。口糧缶詰は各軍経理部に宛てた輸送で軽く嵩張らない物資として需要が高まり、前線においても前哨勤務などで簡単に調理可能、場合によってはそのまま食べられるなど好評でした。単調な包囲網勤務で変わり映えの無い糧食を救ったのは、やはり豊富に供給されたワイン(こればかりはいくらでも在庫がありました)と時折支給されたシュナップスで、兵士は寒気とも戦いアルコールで身体を温め「やる気」を出すのでした。
11月下旬。パリへの後方連絡鉄道線は、ソアソンの陥落以来続けられていたマース軍管区へ向かう鉄道修復が完了して包囲網至近のゴネスとミトリー(=モリー)まで延伸され、第三軍管区でもノジャン=ラルトからラニー=シュル=マルヌまで開通、以降給養品の補充は非常に楽になりました。これで陸送に使用されていた第三軍補助縦列車輌の多くが不要となり、これはパリ砲撃準備に忙しい攻城砲兵の輸送に転用され、年末までには不安定だった後方連絡鉄道線の運行ダイヤも次第に落ち着き定時運行が可能となって行くのです。
独仏竜騎兵の死闘(ボーケンヌ画)




