独軍の弾薬補給と輸送(後)
☆ 予備弾薬縦列(厰)
普仏開戦にあたって普軍参謀本部は予備弾薬縦列(又は予備弾薬厰)を諸軍が手持ちの弾薬を使い切るであろう9月にそれぞれの戦場近くまで前進させようと計画しましたが、戦域の急速な拡大・後方連絡線の延伸により鉄道輸送の負担が過大となったため、ほとんど実行することは出来ませんでした。
北独総軍による予備弾薬縦列の編制は、32輌の曳き馬を持たない弾薬車から成っていました。この縦列が4個~8個集合し「予備弾薬厰」1個大隊に編成され、三個の野戦軍にはこの予備弾薬厰1個大隊が配属されます。総計24個作られた予備弾薬縦列は、陸軍の動員完了後直ちに活動を開始し前進準備に取りかかりました。
※普仏開戦当時の普(北独連邦)軍予備弾薬縦列
○第一軍予備弾薬厰
野戦予備弾薬厰第2大隊(第9~第12予備弾薬縦列)
○第二軍予備弾薬厰
野戦予備弾薬厰第1大隊(第1~第8予備弾薬縦列)
ザクセン王国第1、2予備弾薬縦列
ヘッセン大公国弾薬縦列分遣・予備弾薬縦列2個
*ヘッセン縦列は8月6日カイザースラウテルンで野戦師団(第25師団)へ隷属する弾薬縦列から割いて編成されました。
○第三軍予備弾薬厰
野戦予備弾薬厰第3大隊(第17~第24予備弾薬縦列)
○後方待機
第13~第16予備弾薬縦列
*後に第13予備弾薬縦列は予備第3師団に、第14予備弾薬縦列は予備第1師団に隷属しましたが曳き馬は充当されませんでした。また第15、第16両予備弾薬縦列は曳き馬や御者を配して新編され第13軍団に隷属されます。
仏軍に襲われる独軍輜重縦列
第一軍の野戦予備弾薬厰大隊は8月23日から24日に掛けてザールルイ要塞に到着しましたが暫くはこの地を動かず、11月中頃になってようやくメッスまで、同下旬にラン(Laon)まで前進しました。この内3個縦列は曳き馬を充当され12月初旬、困難な行軍の末ソアソン要塞都市に至り、この地で終戦まで弾薬供給を続けました。このソアソンにあった予備弾薬縦列の内1個が後に新設された南軍へ隷属となり南方へ去っています。
第一軍予備弾薬厰本部はコブレンツ、ケルン、ミンデン、ザールルイに在った要塞の常設弾薬厰から供給を受け、9月1日ザールルイで活動を始め、12月5日にソアソンまで前進しました。この頃解散した「予備」第3師団(既述通り「師団内師団」の「後備」第3師団は残ります)が残した第13予備弾薬縦列は最初ランスに、後にラ・フェールに移ってメジエールとペロンヌ要塞の攻囲を行う野戦部隊に銃砲弾を供給するのでした。
第二軍の野戦予備弾薬厰大隊と各国予備弾薬縦列は8月24日から26日に掛けてフォルバックに到着、その後9月18日までに11個縦列がフォルクモンまで前進しました。残る1個はザクセン縦列の片方で、こちらは既に8月22日列車に載せられ当時の端末停車場エルニーまで先行しています。
メッス陥落によって軍が前進すると予備弾薬縦列は順次陸路でコメルシーやヴィトリー=ル=フランソワまで進みます。翌年1月には多くがエペルネーまで前進しました。
第二軍予備弾薬厰本部は弾薬をヴェーゼル、キュストリン(現・ドイツのキュストリンとポーランドのコストシン)、ポーゼン、グローガル(現・ポーランドのグウォグフ)に在った要塞常設弾薬厰から受け、8月29日にフォルバックに置かれます。メッス陥落後はポンタ=ムッソンに移転し、12月初旬ヴィトリー=ル=フランソワまで前進しました。この時、指揮権が第三軍の砲兵部長に移り、供給先拡大によってドレスデン、ケーニヒスベルク、シュパンダウ、シュテチーン、ダルムシュタット、そして第一軍の供給元だったケルン、ミンデン、ザールルイからも補充を受けることとなります。この巨大化した弾薬厰が面倒を見たのは大軍で、第三軍の予備弾薬厰と協働してパリ包囲網の近衛・第2・第4・第5・第6・第11・第12の7個軍団、ロアール河畔の第3・第9・第10・第13、南方転進中の第7と併せて12個軍団に上ったのでした。これだけ大量・広範囲となると鉄道輸送は欠かせず、供給を円滑にするためラニー=シュル=マルヌ、ナンテュイユ=シュル=マルヌ、エペルネー、ヴィトリー=ル=フランソワ、ランス(この地にはザクセン王国2個の予備弾薬縦列も常駐しました)の5地点に中間弾薬集積所を設けて運営するのでした。
セダン・戦場を眺めるビスマルク(A・ヴェルナーのデッサン)
第三軍の野戦予備弾薬厰大隊は他軍の困難に数倍するほどの問題を抱えて進発します。これは南独三ヶ国の武器編制が北独と違っていたためだけでなく、三ヶ国が使用する鉄道線がストラスブール攻囲の本格化に伴って攻城材料・要塞砲弾薬などの輸送拡大で制限を受けたためでもありました。それでも第三軍麾下普軍の予備弾薬各縦列は8月14日までにヴァイセンブルクに到着し、この地からアグノーを経てナンシーまで前進、この6個(第17から24)縦列は終戦までエアフルトに駐屯し続けた第三軍予備弾薬廠本部から補充を受け、本部はエアフルト、ナイセ(現・ポーランドのニサ)、ダンティヒ(現・ポーランドのグダニスク)、マグデブルクの要塞常設弾薬厰から弾薬供給を受けたのです。
セダン戦後に第三軍が弾薬縦列をすっかり空にしてしまった時、鉄道により各縦列がエアフルトまで補充を受けに一斉後退すると言うことがありましたがこの作業は案外円滑に進み、各縦列は10月4日までにはナンシーに戻って来ています。
トゥール要塞陥落後、野戦予備弾薬厰第3大隊はエペルネーへ進みましたが、2個縦列が一時ナンシーに留まり、第13軍団と野戦軍の後方に在る後備諸隊の弾薬補給を担っていました。11月に入るとナンシーに残っていた2個縦列は先に同僚2個縦列が進んでいたナンテュイユ=シュル=マルヌまで前進します。残る4個縦列はラニー=シュル=マルヌまで進み、第三軍の予備弾薬縦列はこの両地でパリ近郊の第三軍だけでなく、前述通り第二軍の予備弾薬厰と協働でロアール川方面の第二軍に対しても弾薬補充を行ったのでした。
ヴルトの戦いパノラマ(一部)ファーバー・デュ・ファウル画
第三軍に属したヴュルテンベルク王国軍(野戦師団)も北独に倣って馬匹を付けない予備「弾薬厰中隊」をウルム要塞で組織し、3個小隊から成るこの中隊の第1,2小隊を野戦師団付きとして、残る第3小隊はウルムとルートヴィヒスブルク両要塞弾薬厰から前線への追送分を仲介しました。野戦師団付となった2個予備弾薬厰小隊は9月2日にウルムを出立、ナンシーへ向かいます。パリの攻囲が始まると両弾薬厰小隊も最初ナンテュイユ=シュル=マルヌに、次いでラニー=シュル=マルヌへ前進し師団の弾薬補充に最善を尽くしたのでした。
同じくバイエルン王国軍も両軍団に予備弾薬厰を設け、これはそれぞれ75輌の曳き馬の無い弾薬車から成りました。
バイエルン第1軍団の予備弾薬厰は8月26日リュネヴィルに到着、同じく第2軍団の予備弾薬厰は9月1日ナンシーに到着しました。その後、戦況の進捗に従い2つの弾薬厰はヴィトリー=ル=フランソワまで前進し、次にラ・フェルテ=スー=ジュアール(モー東)に至ります。ここで戦線が本国より離れたため後方連絡線中間に中継備蓄用の「弾薬補充厰」を軍団毎に創設し、これは両方共にナンシーに置かれました。また三番目の弾薬補充厰も独本土のインゴルシュタットに置かれ、他国との融通が難しいバイエルン軍の弾薬補充に腐心するのでした。
独軍に襲われる仏軍臨時輜重縦列
一方、仏南東戦線を担当したフォン・ヴェルダー将軍麾下第14軍団への弾薬供給は、予備第4師団付となった第14予備弾薬縦列が担当し、ほぼ同時にバーデン大公国師団用に本国から1個弾薬縦列がやって来ました。これらの弾薬縦列は10月にナンシー南東の兵站拠点リュネヴィルで任務を開始して、この地で軍団と予備第1、予備第4の2個師団に弾薬を準備し、自身の補充は多くをラシュタット要塞の弾薬厰から得るのでした。このため、バーデン軍はラシュタットを介して想定以上の弾薬供給を課せられることとなりましたが、大公国官吏の働きでほとんど滞ることなく前線の要求を叶えたのでした。
ストラスブールが占領されるとここに新たな砲兵厰が設けられることとなり、更に1個の予備弾薬厰がエピナルに設置されることになります。その後ストラスブールの「新」砲兵厰はフォン・マントイフェル将軍麾下「独南軍」の要求に応え1月20日から大量の弾薬をこのエピナルの弾薬厰に向けて発送するのでした。
普仏戦争における歩兵と砲兵の弾薬消費量を比べて見てみますと、戦前に普参謀本部が想定し一軍団に携行させた歩兵・砲兵両弾薬縦列の予備弾薬と比べ砲兵弾薬の消費が相当上で、歩兵の弾薬は思ったほどでも無かったことが分かります。
例えば近衛軍団では戦争中6ポンド野砲弾薬の補充を延べ10個縦列分、4ポンド野砲弾薬の補充を延べ14個縦列分行いますが、あれほどの激戦(グラヴロット等)があったにも関わらず歩兵の銃弾薬補充は1個と五分の四縦列分だけで済みました。またこちらも激戦を勝ち抜いた第3軍団では「マルス=ラ=トゥール」の後に6ポンド野砲弾薬の補充をほぼ7個縦列分、4ポンド野砲弾薬の補充も7個縦列分以上行いますが、歩兵の銃弾薬補充は6「輌」の弾薬馬車分だけで済みます。戦争中全てを集計しても第3軍団では砲兵弾薬縦列が12個分の消費に対し歩兵弾薬縦列は2個縦列分と極端な差が生じていました。
第5軍団では戦争中の砲兵と歩兵弾薬縦列が「空」となった数を比較すると「9対3」となり、第一軍全体では同じく「2対1.3」となっていました。確かに「銃弾薬」「砲弾薬」では一発あたりの大きさも重さも違いがあり過ぎるものの、これ程の差が生じるとは独参謀本部も考えてはいませんでした(後述)。
これを見てもこの戦争中、砲兵は時折砲撃を制限しても予備弾薬縦列からの補充が間に合わなかったことが想像され、逆に歩兵は一部最前線でのみ銃弾不足が叫ばれたものの殆どの戦場で余剰があり、不足しても常に1から2日で充足していたことが分かるのです。
普仏戦争中、予備弾薬厰や同縦列から野戦軍の弾薬縦列に補給した歩・砲弾薬数の比較は砲弾1発に対し小銃弾45発と伝わります。詳しく見てみると、第一予備弾薬厰(第二軍)は砲弾1に対し銃弾45、第二予備弾薬厰(第一軍)は砲弾1に対し銃弾39、第三予備弾薬厰(第三軍)は砲弾1に対し銃弾53となっています。これに対し普参謀本部が定め実施した軍団付弾薬縦列の歩・砲弾薬数の携行数割合は「砲弾1発に対し小銃弾188発」と実態と大きくかけ離れてしまっていたのでした。しかも銃弾切れを心配した独大本営は戦争中せっせと小銃弾の製造と追加送付を行い、追送された小銃弾(つまりは前線で求められていない分)は第7軍団の記録で1,473,875発、第5軍団では989,560発と、ほとんど戦争中の消費量に等しい量だったのです(後方兵站幕僚が有り余る銃弾の保管に苦労したことが忍ばれます)。
このように野戦軍の弾薬補充は想定と実態が乖離したため一部混乱を招きましたが、後方の予備弾薬部門は結果大きな問題を発生させずに乗り切りました。
独公式戦史はこの点について「弾薬補充が(略)大きな蹉跌無く行われ続けたのは、関係した指揮官たち、その部下、そして本国官吏たちが皆、前線の期待に応えるべく全力を尽くして働いた証と言うべきであろう」(筆者意訳)とその功績を誉め讃えています。
☆ ストラスブール攻囲戦の攻城弾薬補充
普仏戦争では多くの要塞や武装都市の攻囲戦が行われましたが、これに関わった攻城(要塞)砲兵諸隊に対する弾薬の補充追送には専門の弾薬縦列が創設されることは遂にありませんでした。このため、要塞砲兵部隊に従属した「攻城輜重縦列」は要塞砲とその付属品・消耗品の他にある程度の弾薬も運ばねばならず、また弾薬の補充には独本土内にある一つか二つの要塞砲兵厰を指定してそこから直接戦場まで運搬させることが基本となりました。
普仏戦争で最初に大規模な攻囲が行われたストラスブールでは、攻囲戦当初に攻城輜重が保管すべき弾薬定数の半数を用意することとなります。この定数は施条要塞砲用の各種口径榴弾100,000発・同じく榴散弾10,000発・滑腔臼砲用炸裂弾29,000発・大口径固定小銃(ウォールガン。旧軍は台装銃と呼びます)用銃弾10,000発・ドライゼ銃弾1,000,000発と伝わりますので、この半数としてもかなりな数量です。この攻城砲兵用諸消耗品定数の合計重量はおよそ4,620トンと言いますが、鉄道を使いこなす普軍の手に掛かれば運搬も案外容易でした。しかし鉄道端末停車場から戦場までの運搬となれば些か困難であることは想像通りで、ストラスブールを攻囲したフォン・ヴェルダー将軍麾下の後方輜重部隊は周辺占領地から徴発しまくった馬車と本土から送られた重量物運搬用の四輪馬車を駆使するものの、運搬馬車と馬匹の絶対的な不足が解消されることはありませんでした。独公式戦史では、この時の全数を一度に運搬するためには「428輌の四輪馬車と馬匹2,752頭(一輌に付き平均6頭)、そして曳き馬1、2頭による農業用馬車3,500輌が必要とされた」としています。
しかし、苦心して運んだ大量の弾薬も8月下旬には殆ど消費してしまい、8月30日に残り半数の弾薬も本国から発送されただけでなく、続いてシュパンダウ(ベルリン西郊)、マグデブルク、マインツの各要塞弾薬廠から追加で砲弾薬を供給させ、更にはラシュタット要塞からバーデン大公国軍の攻城用砲弾薬を出庫させるのでした。フォン・ヴェルダー将軍は念には念を入れるとばかり、ヴュルテンベルクのウルム要塞からも要塞砲の弾薬をライン対岸・ケールの攻城砲台(主にストラスブール「重城」の砲撃を行いました)へ輸送させたのです。
9月上旬にはセダン戦やノワスヴィル戦などの影響で独本土から弾薬輸送列車が次々と発進したため後方連絡線各所で列車が数珠つなぎとなってしまい、また受け入れ先での積み卸し作業も遅れたため大きな混乱が発生しました。ストラスブール攻囲網では激しい砲撃による弾薬消費に対応するため攻城砲兵厰での弾薬庫増設が進められていましたがこちらも追い付かず、このため弾薬は列車に載せられたまま側線に留め置かれ、こちらも埋まってしまえば近隣の停車場に移されていたのです。
攻城砲兵厰の運営もこれら「大混乱」の影響を免れず、現場優先で土木作業が行われたため厰内では殆ど準備が整わず、それでも強行的に本格的な攻城砲撃が続けられたことも混乱に拍車を掛けていました。
北独本土では毎日各種榴弾の鉄製弾殻が6,650個、薬嚢が4,500個製造され備蓄されていましたが、ストラスブールの砲兵厰では完成した砲弾の備蓄は最後まで出来ず、結局日々の消費分を綱渡りの状態で供給するしかありませんでした。特に包囲戦後半で深刻となったのは攻城の最終段階で城郭破壊のため大量に消費される臼砲擲弾(炸裂弾)の補給で、一時は弾薬切れで砲撃中止もやむを得ないと考えざるを得ない状況にありました。それでも開城時には7ポンド(15センチ臼砲用)並びに25ポンド(23センチ臼砲用)炸裂弾が併せて74,000発コブレンツとラシュタットから攻囲網へ向けた輸送途上だったと言いますから銃後の努力も大変なものだったと思われます。台装銃の大口径銃弾もまた当初の備蓄を使い切り、こちらは9月上旬、普王国から50,000発(ドライゼ改造台装銃)、バーデン大公国から20,000発(ミニエー式台装銃)を追加で送り込んだのでした。
このような状態でもストラスブール開城時に「攻城砲兵は戦闘継続に困難を感じるようなことはなく、砲弾の供給も過不足無く行われていた」と言いますから、さすが「ドイツ人」と言わねばなりません(但しドイツ側の言い分ですから多少割り引かねばならないでしょう)。
このように厄介な攻城用弾薬を砲撃中の砲台や新設砲台へ運搬するに当たりフォン・ヴェルダー将軍の本営は、徴発した民間の車輌は攻城厰内部や近辺でのみ使用し(脆く壊れ易いため)、戦闘地域内では全て軍用や後方縦列用の頑丈な車輌を使用するよう定めます。また砲撃激化に伴い弾薬等補助縦列を拡長する必要が生じるとかなりな遠方まで馬車を求めて徴発隊が出動しています。
ストラスブール攻囲戦では総計202,099発の各種砲弾が消費され(後述資料)、薬嚢を除くその重量は4,100トンに及びます。これと比較するに北独総軍全ての「野戦」砲兵が消費した砲弾(薬嚢除く)の総重量は1,400トンに過ぎなかったと言いますから、いかにストラスブールへの砲撃が凄まじかったかが想像出来ると言うものです。また逆に、遠距離への運搬を要し鉄道の利用が不安定だった野戦用弾薬輸送(ストラスブールの三分の一の重量)が、一定の場所(攻囲網など)への輸送に比していかに大変だったか分かります。
ストラスブールの惨状
☆ パリ包囲網における攻城砲兵弾薬輸送
これまで記して来た(「パリ砲撃を準備せよ」「パリ砲撃を巡る深淵」「モン・アヴァロン砲撃」「パリ砲撃の開始」など)通り、独軍はパリを砲撃するという「一大事業」に取り組むため手間と時間を掛け、知恵を絞って準備しました。ここでは独公式戦史が記していたパリ攻城砲撃の弾薬供給に関する「深堀り」を記します。
仏パリ軍最前線の仮眠(パンタン地区71.1.15 ランコン画)
パリ包囲網東部で独軍(マース軍)にとって「目の上のタンコブ」となっていたモン・アヴァロン高地の仏軍砲列に対する砲撃の諸材料と弾薬輸送に要する馬匹牽引車輌の調達は、独大本営によりマース軍司令官アルベルト・ザクセン王太子に一任されます。
これにより近衛軍団は50輌の重量物運搬馬車からなる「特別補助縦列」を編成し、ザクセン騎兵師団(独第12騎兵師団)は12月22日までに600輌に及ぶ様々な馬車を徴発して用を成し、第4、第12、ヴュルテンベルク野戦師団は各自で元より所有し運用していた縦列車輌を工夫して運搬業務の殆どをこなしました。
その後、サン=ドニ等パリ北部郊外の砲撃が許可されるとアルベルト王子は直ちに「攻城砲撃に要する車輌は700輌を限度とする」と命じ、各軍団・団隊に対して「砲台や関連施設設置に携わる要員、補給車輌、攻城材料に関して要塞砲兵司令部から要求があれば速やかに要求に応じるよう」訓令するのでした。既にこの時(1870年末)において、独軍パリ包囲網北方の後方連絡鉄道線端末停車場は包囲網直後にあり、攻城砲厰至近のヴェリエ=ル=ベル(サン=ドニ北北東)まで鉄道輸送が可能となっていました。
フリードリヒ皇太子の視察(モン・ヴァレーリアン堡の巨砲)
パリ南方郊外・独第三軍配下の攻城砲兵部隊に対する弾薬輸送は12月7日の命令(第三軍に対する弾薬縦列の供出とメッスで鹵獲した車輌による24個補助弾薬縦列の新設。「パリ砲撃を巡る深淵」を参照ください)によって方針が定められました。これにより配置される縦列は、エスブリー(モー南西)~ヴィラクブレー(ベルサイユ東)の後方連絡鉄道線に設けられた7つの軍用停車場にそれぞれ3個の補助弾薬縦列(砲兵用)と1個の歩兵弾薬縦列、全線において仏の農産物輸送縦列2個を往復運行、パリ包囲網の攻城厰に置く補助弾薬縦列3個の他、仏の農産物輸送縦列2個と独軍の食料品納入業者が手配した食品縦列3個とされます。しかし第三軍から「取り上げた」縦列やメッスの鹵獲車輌の配備は諸般の事情から遅れに遅れてしまい、これら縦列の配置完了は71年1月末、正に休戦協議中となってしまうのです。しかも貴重な弾薬縦列は厳冬期による様々な障害(大きなものはセーヌ川の流氷による橋梁破壊・渡河不能)で停滞することがままあり、また近隣から仏人の御者ごと徴用した馬車は度々逃亡してしまい、更には馬匹や御者の疾病(仮病もあったのではないかと思われます)のため当てにならない現実がありました。
モルトケの擁護があったとしてもビスマルクやローンら「砲撃賛成派」から強烈な圧力を受けた参謀本部の後方担当(ポドビールスキー参謀本部次長ら)は苦慮した挙げ句、12月16日にパリ攻囲軍に属し暫くは用無しの野戦軍団所属架橋縦列や師団所属の野戦軽架橋縦列と工兵土木器具縦列から「全ての」牽引用車輌と馬匹を引き上げ、また砲兵弾薬縦列に用途変更され攻囲軍から殆ど姿を消していた歩兵弾薬縦列を6個新設させる命令を発するのでした。この縦列は1月2日から始動しています。
また、独本土でも今後を考え、パリ南面・東面両方の攻城砲台群の全要塞砲兵が要求しても安心なように大量の弾薬を用意し、1月6日からパリに向け発送を開始、その後1日おきに独仏連絡本線の端末でパリ包囲網への積み替え停車場、エスブリーへ1編成弾薬列車が到着するよう調整を行います。更に「ダメを押す」形で1月20日に第三次の攻城弾薬追送が命じられていたのでした。
これら強制的な施策を次々に発したことで独パリ攻囲軍は市街砲撃中、弾薬を十分に確保することが出来、休戦協定が発行した時には大量の弾薬を砲台に配備済みで、強烈な砲撃を幾日も連続で実行可能な状態にあったのでした。
パリ包囲網後方の情景(マルジャンシーの第4軍団連絡路)
☆ ベルフォール包囲網ほかの攻城砲兵弾薬輸送
ベルフォールを攻囲した独軍は既述通り当初より苦労の連続でしたが、弾薬の補充も先が心配となる状態から始まりました。
これは当初ストラスブールから進んだ予備第1師団が攻城砲兵を持たず、続行した予備第4師団に同行した攻城砲兵諸隊がセレスタとヌフ=ブリザックの攻城砲撃により弾薬を消費したため、設置した攻城砲兵廠には当初所有していた北独の要塞砲1門あたり100発の弾薬しかなく、同じくバイエルン王国の要塞砲にも1門あたり200発の弾薬しか残されていませんでした。
その後の攻囲中、ウード・フォン・トレスコウ将軍率いる攻囲兵団が要求した攻城砲兵の弾薬は、独本土から名も無き後方諸官たちの努力で出来得る限りの量を受け取りますが、季節が厳寒期となり補充も難しくなって来ると攻城砲台は射撃間隔を空け節約しながらの砲撃に終始することとなります。
ベルフォール包囲網の弾薬補充における苦難の主たるものは他の戦場と同じく、鉄道端末停車場から戦場までの陸送でした。ベルフォール包囲網への後方連絡端末停車場は当初コルマール(ベルフォール包囲網まで約90キロの道程)で、後にミュルーズ(同60キロ)、更にはダンヌマリー(同40キロ)まで前進しますが、陸送に使用された車輌は常に不足気味で、加えてその兵站指定連絡路は初め泥濘に沈み、厳冬期になると結氷と積雪によって諸縦列は常に遅延気味となったのです。
※ベルフォール攻囲兵団の後方諸縦列が使用した運送車輌
◯普軍 軍用運搬車輌/100輌・徴用車輌/250輌
◯バイエルン軍 徴用二頭立て農業用馬車/30輌
◯バーデン軍 徴用二頭立て農業用馬車/80輌
これらの条件からベルフォールの攻城初期には独軍の攻城砲兵は1日に付き1,000発のみ射撃を許され、これはU・トレスコウ将軍たち攻囲兵団の首脳たちが全く満足出来ない規模でしたが、攻囲最後(2月中旬)まで改善されることは無かったのです。
このような攻囲には独本土からの攻城材料ばかりでなく鹵獲された仏軍の材料(大砲)も使用されますが、これがまた厄介な状況を産み出しました。
ベルダンの攻城砲撃は仏国製の鹵獲砲のみによって始められますが、これは砲撃開始と共に困難な状況となります。これら鹵獲砲の弾薬は陥落したばかりのセダンから運搬(約80キロの道程)することとなりましたが、運搬車輌の不足が大きく補充は大いに不安定となりました。これを改善するため普王国から要塞砲とその弾薬を運搬しますがこれも遅れに遅れ、その主な理由は当時鉄道輸送が可能だったのはフェンデンハイム(ストラスブール北)~コメルシー(ベルダン南)間だけで、コメルシーからの運搬(56キロの道程)は徴発した農業用馬車による数個輸送隊により行われますが、一度に運べたのは列車一編成の五分の一程度だったと伝わります。弾薬については11月8日までにコメルシーへ到着したのは弾薬列車4編成分でした。一方、セダンからの仏製弾薬の補充は次第に改善され、これによりベルダン開城時には各砲台に数日分の備蓄を持つまでになっています。
その他、要塞の攻囲では開城後、その攻城廠(砲兵・工兵)を解体し次の要塞攻囲に向けて幾度も運搬を行いましたが、損耗した攻城材料の代わりは独本土に求めるしかない場合も多く、こちらも大きな困難を抱えての任務となったのでした。
セダンの会見 ヴィルヘルム1世とナポレオン3世
※ 普仏戦争で独軍が要塞と拠点攻囲ので消費した弾薬数
○リヒテンベルク(1870年8月9日)
消費弾薬数不明
○ファルスブール(同8月10日、14日、11月24日)
*4ポンド野砲榴弾(口径78.5mm)と6ポンド野砲榴弾(口径91.5mm)
約3,280発
○トゥール(同8月16日、23日、9月10~23日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲(又は9センチ要塞砲)榴弾 3,414発
*12ポンド(12センチ)要塞砲榴弾(口径117.75mm)515発
*24ポンド(15センチ)要塞砲榴弾(口径157mm)268発
*12ポンド要塞砲榴散弾 40発
*24ポンド要塞砲榴散弾 4発
*鹵獲仏製22センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 190発
*鹵獲仏製27センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 192発
*鹵獲仏製12センチ施条要塞砲榴弾 411発
○メッス(同8月17日~10月28日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲(又は要塞砲)榴弾 3,064発
*12センチ要塞砲榴弾 1,808発
*12センチ要塞砲榴散弾 5発
○ストラスブール(同8月23日~9月27日)
◇攻城砲兵と歩兵・騎兵
*9センチ要塞砲榴弾 6,985発
*12センチ要塞砲榴弾 61,318発
*15センチ要塞砲榴弾 43,889発
*15センチ要塞砲「長」榴弾 3,283発
*21センチ施条臼砲「長」榴弾 600発
*9センチ要塞砲空弾(炸薬を詰めない弾殻のみの砲弾。貫通を狙います)18発
*9センチ要塞砲榴散弾 3,964発
*12センチ要塞砲榴散弾 11,394発
*15センチ要塞砲榴散弾 5,028発
*7ポンド(口径15センチ)臼砲炸裂弾 22,828発
*25ポンド(口径23センチ)臼砲炸裂弾 19,931発
*50ポンド(口径28センチ)臼砲炸裂弾 14,768発
*バーデン軍60ポンド臼砲炸裂弾 2,500発
*ドライゼ銃銃弾(騎銃含む) 131,935発(普軍のみ)
*ドライゼ改造台装銃(固定大口径銃)銃弾 22,276発
*ミニエー式台装銃銃弾 37,837発
◇野戦砲兵諸中隊
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲榴弾 5,383発
*6ポンド野砲空弾 7発
*6ポンド野砲榴散弾 203発
◇ストラスブール攻囲総計
*砲弾 202,099発
*銃弾 192,048発
ドライゼ小銃(北独正式小銃)
○ビッチュ(同8月23日、9月11~17日)
*バイエルン軍4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲榴弾 不明
*バイエルン軍12ポンド野砲(又は要塞砲)榴弾 約6,000発
*バイエルン軍60ポンド臼砲炸裂弾 1,100発
○ベルダン(同8月24日、10月13~15日)
*4ポンド野砲榴弾 194発
*6ポンド野砲榴弾 1,778発
*鹵獲仏製12センチ(12ポンド)施条要塞砲榴弾 2,554発
*鹵獲仏製15センチ(24ポンド)施条要塞砲榴弾 1,861発
○ソアソン(同10月12~15日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲(又は要塞砲)榴弾 1,233発
*12センチ要塞砲榴弾 3,211発
*15センチ要塞砲榴弾 2,268発
*12センチ要塞砲榴散弾 496発
*15センチ要塞砲榴散弾 172発
*鹵獲仏製22センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 720発
*鹵獲仏製27センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 210発
○セレスタ(同10月20~24日)
*12センチ要塞砲榴弾 1,037発
*15センチ要塞砲榴弾 339発
*12センチ要塞砲榴散弾 81発
*15センチ要塞砲榴散弾 50発
*23センチ臼砲炸裂弾 201発
*28センチ臼砲炸裂弾 274発
○ヌフ=ブリザック(同11月2~10日)
*9センチ要塞砲榴弾 37発
*12センチ要塞砲榴弾 1,962発
*15センチ要塞砲榴弾 2,736発
*15センチ要塞砲「長」榴弾 880発
*9センチ要塞砲榴散弾 88発
*12センチ要塞砲榴散弾 122発
*15センチ要塞砲榴散弾 74発
*鹵獲仏製15センチ要塞砲榴弾 1,978発
*バーデン軍60ポンド臼砲炸裂弾 394発
*鹵獲仏製32センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 425発
○ティオンヴィル(同11月22~24日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲(又は要塞砲)榴弾 9,914発
*12センチ要塞砲榴弾 3,997発
*15センチ要塞砲榴弾 1,500発
*15センチ要塞砲「長」榴弾 911発
*鹵獲仏製32センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 283発
○ラ・フェール(同11月25~26日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲(又は要塞砲)榴弾 191発
*12センチ要塞砲榴弾 719発
*15センチ要塞砲榴弾 412発
*12センチ要塞砲榴散弾 58発
*15センチ要塞砲榴散弾 52発
*鹵獲仏製22センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 400発
○ベルフォール(1870年12月3日~1871年2月13日)
*4ポンド野砲榴弾 1,448発
*6ポンド野砲榴弾(又は9センチ要塞砲榴弾) 1,719発
*12センチ要塞砲榴弾 42,554発
*15センチ要塞砲榴弾 33,468発
*15センチ要塞砲「長」榴弾 3,128発
*21センチ施条臼砲「長」榴弾 1,164発
*9センチ要塞砲空弾 2発
*9センチ要塞砲榴散弾 277発
*12センチ要塞砲榴散弾 2,092発
*15センチ要塞砲榴散弾 1,028発
*15センチ臼砲炸裂弾 3,947発
*23センチ臼砲炸裂弾 3,128発
*28センチ臼砲炸裂弾 1,638発
*バイエルン軍60ポンド臼砲炸裂弾 2,059発
*鹵獲仏製22センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 670発
*鹵獲仏製27センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 6,755発
*鹵獲仏製15センチ要塞砲榴弾 7,386発
*タバティエール式台装銃銃弾 2,130発
*シャスポー小銃銃弾 3,434発
シャスポー銃
○モンメディ(1870年12月12~13日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲榴弾 611発
*12センチ要塞砲榴弾 1,121発
*15センチ要塞砲榴弾 493発
*15センチ要塞砲「長」榴弾 620発
*21センチ施条臼砲「長」榴弾 140発
○パリ(1870年12月22日~1871年1月26日)
◇南面
*9センチ要塞砲榴弾 613発
*12センチ要塞砲榴弾 18,680発
*15センチ要塞砲榴弾 26,843発
*15センチ要塞砲「長」榴弾 3,830発
*21センチ施条臼砲「長」榴弾 3,886発
*12センチ要塞砲榴散弾 248発
*15センチ要塞砲榴散弾 80発
*50ポンド臼砲炸裂弾 347発
◇北及び東面
*12センチ要塞砲榴弾 26,111発
*15センチ要塞砲榴弾 21,519発
*15センチ要塞砲「長」榴弾 7,980発
*21センチ施条臼砲「長」榴弾 239発
*12センチ要塞砲榴散弾 612発
*15センチ要塞砲榴散弾 298発
◇パリ攻囲総計
*砲弾 110,286発
○ペロンヌ(1870年12月28日~1871年1月9日)
消費弾薬数不明・但し「膨大な数量」
○メジエール(1870年12月31日~1871年1月2日)
*12センチ要塞砲榴弾及び榴散弾 1,600発
*15センチ要塞砲榴弾及び榴散弾 3,300発
○ロクロア(1871年1月5日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲榴弾 1,518発
○ロンウィー(同1月17~24日)
*4ポンド野砲榴弾と6ポンド野砲榴弾 380発
*12センチ要塞砲榴弾 3,841発
*15センチ要塞砲榴弾 1,813発
*12センチ要塞砲榴散弾 213発
*鹵獲仏製22センチ臼砲炸裂弾又は榴弾 76発
*ミトライユーズ砲弾 14斉射分
ミトライユーズ砲の犠牲者(1870.12.2)デタイユのデッサン




