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決戦前夜~プロシア側の事情

 プロシア軍はオーストリア北軍を追い込み、王も参謀総長と宰相を率いて出陣、いよいよ決戦と意気込んでいました。

 

 開戦以来、一、二の例外(トラテナウやランゲンザルツァ)を除いて連戦連勝、このオーストリアとの避けられぬ戦いのために準備を重ねたモルトケもさぞ満足だったことでしょう。


 西部方面の戦いもこの7月2日までにしぶといハノーファー王国軍を倒して中西部を掌握、南部諸侯(バイエルンやヴュルテンベルク、バーデンなど)をマイン川のラインまで追いやりました。ドイツ連邦第7軍団(=バイエルン王国軍)との決戦、そしてハンブルクに籠もる連邦第8軍団(西部諸侯軍)との戦いも間近、という頃合いですが、モルトケは心配していませんでした。

 西部方面のプロシア軍司令官ファルケンシュタイン将軍は、プライドが高くモルトケを毛嫌いし時折言うことを聞きませんでしたが自分の仕事は分かっており、大筋でモルトケが描いた戦いを遂行しています。

 部下の将軍たちも優秀で、各部隊からの寄せ集めで敵の半分の戦力しかないのによく戦っていました。この方面は今しばらく彼らに任せておき、今は最大の敵との決戦を考える時です。


 この7月2日の早朝、プロシア国王ヴィルヘルム1世は前日宿泊したジヒロー城(現・シフロフ城/トゥルノフ北西7キロ)を出発、ギッチン(イチーン)市に入ります。宰相ビスマルクと参謀総長モルトケも一緒でした。そして本営をここに構え、決戦に備えます。


 戦争状態にある国の軍隊を司る国軍総司令官が詰める本営(総司令部)を「大本営」と呼びます。これは王国の場合、名目の総司令官は国王ですから、国王が前線に近いところで指揮を執る場所と考えて差し支えありません。戦前の日本では総司令官を「大元帥」と呼び、それは即ち天皇を示しましたから「大本営」は天皇陛下の座所となります。もっともこの「大本営」という言葉、旧軍の愚かな行為のせいで、今日では人心操作のためウソの発表をする所の意味に墜ちてしまいましたが……


 余計な話はここまでとして、プロシアの「大本営」、実はこの時点ではオーストリア北軍の集合状態を知りませんでした。


 プロシア軍は、スカリッツ戦までは敵の位置を大体掴んでいましたが、その後オーストリア軍司令官のベネデック元帥が優柔不断な指揮を執ったため、その麾下の軍団は右往左往して動き、そのため、さすがのプロシア軍も情報が入り乱れ、モルトケでさえ予想の位置を間違えたのです。もっとも、オーストリア軍の軍団長たちですらベネデックの真意を計りかねていたのですから、当然といえば当然でした。ベネデックのあやふやな指揮振りが、妙な格好で功を奏した、と言えそうです。


 モルトケが考えていた敵の位置、それはエルベ川とアウパ川が合流する部分、ヨセフシュタット(ヨセフォフ)の西側で既にエルベを渡河し、その南岸に沿って防衛線を敷いているだろう、というものでした。

 

 これは当然の考えで、ヨセフシュタット要塞とケーニヒグレーツ(フラデツ・クラーロヴェー)要塞の間、川を前にして軍団を並べれば、それは強力な防衛線が出来上がります。

 軍隊がこの手のラインを敷いた時、最も弱点となるのはその両端で、そこを突破され回り込まれて包囲されたり、そこからグイグイと押されれば横腹を突かれることになるわけですから、戦線の崩壊は必至です。

 古代よりこの防衛線の脇を突かれて崩壊した戦例は数知れず、だからこそ両脇が強力な要塞ならば防衛線はかなり強固になります。

 

 また、この要塞を避けて渡河しようにも、東側はアウパ以外にもヨセフシュタット付近でエルベに合流する支流(メッタウ川やスタラー川など)があり、それは南に行くにつれて何本も枝分かれして網の目のようになっており、道も限られ、軍隊が展開するのは困難でした。

 またケーニヒグレーツの西側も軟弱な平地で、ため池などが点在し、それが南西の重要都市パルドゥヴィッツ(現・パルドゥビツェ)まで広がっています。

 この地形を見れば天才モルトケでなくても敵はそうするだろうと考えることでしょう。

 敵は実際驚くほど目の前、これも防衛適地ではあるものの護る価値の見出せないクルム(フルム)高地に集中していたわけです。

 そうとは知らないモルトケはギッチンに落ち付くなりさっそく先の二要塞の間に籠もる敵と戦う作戦を考えました。


 まず、この7月2日は休養日とします。翌3日、右翼側(西側/エルベ軍と第一軍)で西からクルメック(フルメツ・ナト・ツィドリノウ)~ノイ=ビゾー(ノヴィー・ビジョフ)~ホリク(ホジツェ)のラインまで前進、クルメック付近でエルベ川沿岸を強行偵察してから右翼はパルドゥヴィッツへ前進、この周辺を渡河点として橋頭堡を確保する。

 同時に東側の第二軍はアウパとメッタウ川の沿岸を偵察、敵の配置を掴んでから、翌4日、敵の側面または正面を攻撃(西側の助攻/牽制攻撃にもなる)、もし敵(オーストリア軍)の護りが強固なら無理せずにパルドゥヴィッツの渡河地点から全軍が渡河、エルベの防衛線を迂回して南下しよう、という作戦でした。

 

 この作戦のため、モルトケは国王の名で全軍に次の命令を発します。


 エルベ軍は主力でクルメックへ前進、その東側にあるプラグ(プラセク)の高地を監視しつつパルドゥヴィッツへ前進、渡河点を確保すること。

 

 第一軍はノイ=ビゾーからホリクのラインまで前進、左翼(東側)の一隊をサドワ(サドヴァー)村付近に前進させてケーニヒグレーツとヨセフシュタット間にいるはずの敵を監視し、敵が多数の場合、第一軍は集中してこれを撃破すること。

 

 第二軍第1軍団はミンチン(ミレティーン)を通過しビュルグリッツ(ヴジェシュチョフ)及びセレウィック(ツェレクヴィツェ)へ進出、ヨセフシュタットの方向を警戒、命令があれば第二軍の行軍を援護すること。

 その他の第二軍所属の軍団は3日もエルベ右岸(東側)に留まってアウパとメッタウ河畔を偵察すること。


 敵の情報や地形に関する情報は直ちに大本営に通知すること。情報次第では第一軍と第二軍は合流し、敵主力をヨシフシュタットとケーニヒグレーツ間で攻撃する。

 また、既に敵主力がエルベ河畔から退却している場合は、全ての軍団はパルドゥヴィッツへ向かい行軍を継続すること。


 第二軍においては行軍中において補給がしっかり行われるよう手配すること。

 第一、第二軍司令部は今夕、命令を受領するため、大本営へ連絡将校を派遣すること。


 この命令は電信によって2日午前中早い時間に通達されました。


 ところが、この日の午後遅く、状況を一変させる情報が飛び込んで来るのです。


 セレウィック近郊、第7師団第14旅団の先鋒部隊、第27連隊より。「敵の大軍がリパ(リーパ)部落にいるとの情報があり、確認のため偵察隊を複数出したが、その全てが情報を裏付けた。これに付随して敵の四個軍団がビストリッツ川(クルム高地北沿いを流れる小河川)の南岸高地に野営しているとの情報を得た」


 第一軍司令官カール親王はこの情報を得ると、明日の早朝自軍でこの高地の敵を攻撃することを決め、命令系統上王子の麾下となるエルベ軍のビッテンフェルト将軍に連絡します。将軍は自軍をカール王子の左翼(西)に置き部隊を南東方向へ進ませることとしました。

 

 また、カール王子は麾下の部隊に対し、夜9時、以下の命令を下しました。


 我が第一軍は明朝、サドワの南にいる主力と思われる敵と合戦する。

 

 第3軍団はミンチンより発しホリクの南に集中し、ホリクよりケーニヒグレーツへ向かう街道に沿って南下すること。第6師団は街道の東側、第5師団は街道の西側を進むこと。


 第4軍団の第7師団はホリクを発し、セレウィックへ進出、第8師団はオーベル・グートヴァッサー(ドルニー・ノヴァーヴェス)を発してミロウヴィック(ミロヴィツェ・ウ・ホヅツ)へ進出すること。


 第2軍団の第4師団はウォクトロメル(オストロムニェルシ)を発しブリストラン(ブジーシュチャニ)へ達し、第3師団はアウイェージョ(ウーイェズト)を発してプサネック(プシャーンキ)へ進出すること。


 騎兵軍団はグートヴァッサー(ノヴァーヴェス)に待機し、軍直轄砲兵はホリクにて待機すること。


 カール王子はこの攻撃は自軍とエルベ軍だけで十分と自信満々でした。しかし、この態勢だと、自軍の左翼(東側)ヨシフシュタット方面から敵が攻撃してきた場合やっかいなことになりそうです。そこで王子は夜9時45分カメニック(カメニツェ)の本営より第二軍司令官のフリードリヒ皇太子に要請を発しました。


「本日、大本営よりの命令により、殿下は明日アウパとメッタウ両川に偵察を出すと聞いております。しかし本日、我が第一軍の偵察部隊より報告があり、それによると敵の大部隊がリパ及びサドワ付近のホリク=ケーニヒグレーツ街道沿いに布陣しているとのことです。本官は明日、第一軍を以て敵と戦うつもりです。しかし、敵がもしヨセフシュタットから出て我々の邪魔をすると、敵への攻撃が弱められ逃げられてしまうかもしれません。

 そこで殿下には近衛軍団か配下の一軍団をヨセフシュタット方面に進め、我らの左翼を護って頂けましたら助かります。フォン・ボニン将軍の第1軍団は未だ遠方にあり、間に合いそうにありません。殿下には偵察の任務もありますが、ぜひ我々をお助け頂きたく。我が軍左翼はセレウィック付近にあります」


 この要請を皇太子が読んだ時は既に午前2時になっていました。部下には3日の行動を命令した後で、簡単にカール王子へ回せる軍団はありません。そこで第1軍団を急がせるしか手がなく、カール王子には第1軍団により貴軍を援助する、と回答しました。


 それ以前、カール王子は自軍の参謀長フォークツ=レッツ将軍を大本営へ送り込みます。これは命令を受領するための行動でしたが、レッツ第一軍参謀長は王子の意を汲んでモルトケに翌日の攻撃の許可を求めました。

 モルトケもこの時(夜10時頃)までには敵がエルベ河畔ではなくその北面の高地に布陣していることを知らされていました。彼はさっそく参謀会議を開き(午後11時)、即座に全軍が一致してクルム高地を攻撃することに決します。


 モルトケは敵の布陣を、プロシア第一軍を攻撃するための布陣と考え、偵察部隊の報告からその攻撃は明日早い時間だろうと考えます。そこでモルトケは第二軍司令官の皇太子に対して、直ちにオーストリア軍の右翼(東側)に向かいこれと戦うことを命じます(夜12時)。


「第一軍の得る情報によれば敵主力がサドワの南にいる。敵は明朝、我が第一軍を攻撃する可能性が高い。その数は三個軍団程度だが次第に増加するだろう。第一軍は大本営の命令でこれと戦うべく午前2時に戦闘配置に付く。殿下においては至急準備を整えて兵を急がせ、明朝襲来する敵の側面右翼に対し攻撃を加えること。これにより、本日(2日)午前に発した命令(休止とヨセフシュタット付近の偵察など)はこれを取り消しとする」


 これと同時に全軍から最も離れたところを行軍している第1軍団に対し、同じ命令を送りました。

 しかし、命令は真夜中の12時に発せられ、早朝まで僅か数時間、これは敵であるオーストリア軍の合戦準備命令とほぼ同時刻の発令です。しかも皇太子がこの命令を読んだ時には夜が明け掛かっていました(午前4時)。

 既に動き出した第一軍とエルベ軍は間に合うでしょうが、第二軍はどんなに急いでも戦場に馳せ参じるのは十二時間後、明日の昼になりそうです。何せ第1軍団を除いた他の 第二軍構成三軍団(第5、第6、近衛)は距離もさることながらエルベ川を渡河しなくてはなりません。


 結局、第二軍の諸軍団が動き出したのは午前7時。第1軍団がサドワの戦場に到着したのはその7時間後の昼過ぎ、近衛第1師団は5時間後、同じく第2師団が6時間後、第6軍団が5時間後、第5軍団に至っては8時間近くを費やしました。


 戦いは間もなく始まります。しかし、モルトケの得意とする合撃はタイミングが合わず、まずは第一軍とエルベ軍13万が21万のオーストリア・ザクセン連合軍と戦う事になるのでした。


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