独軍の野戦電信と野戦郵便
☆ 普仏戦争での独軍野戦電信事情
普墺戦争でも「勝利のカギ」と言われた「電信」は、今日プロシア(以下普)軍のお家芸のように言われていますが、軍の統一指揮と下部組織への迅速な命令伝達を可能としたこの「新機軸」の成功も、同じく新時代の戦争に必須とされた鉄道運行を担った「一握りの人々」と変わらず、少ない人員が加速度的に広がる戦線に出来る限り届くよう、粉骨砕身した結果でした。
普軍の電信隊には2種類あり、これは「野戦電信隊」と「兵站電信隊」と呼ばれます。
野戦電信隊の主任務は軍本営と麾下軍団本営間とを電信で繋ぐことで、兵站電信隊のそれは軍本営と後方連絡線上で本国との常設電信網末端までを繋ぐことにありました。
平和時から国営電信を担っていた「普王国電信総局」は、管理要員と技師を軍に派遣するばかりでなく戦線の遙か後方へも派遣し、急速に仏本土深部へと進撃する独軍戦線後方で仮設の電信線を半永久的な常設電信線へとグレードアップさせて行きました。
軍用を含む国営電信の総責任者は、長年工兵部門で電信に携わって来た王国電信総局長のフランツ・アルフォンス・デジデリウス・フォン・ショーヴィン少将(国営電信網は平和時から軍の管理統制下にありました)で、戦時となればとかく各方面に任務が分散し要求も様々な電信各部門の統制を図るため、部下で参謀本部勤務の軍用電信部長(副総局長格)ヨハン・アドルフ・テオドール・マイダム大佐と連絡を密に取り合い、マイダム大佐は野戦電信隊の状況を把握しつつ戦時は後方業務の総責任者となる参謀本部次長、フォン・ポドビールスキー中将の威光を背景に影響力を駆使するのです。
ポドビールスキー将軍は混乱が予想された戦時電信業務に関する規定を明確に定め、各軍本営と大本営間の連絡業務については特に念を入れた規定を実施させました。この規定によって各軍の司令官は各自目的と需要に従い所属電信隊を(マイダム大佐が許す限り)自由に使用出来ることとなったのです。
ショーヴィン
普軍は開戦時に野戦電信隊を5個、兵站電信隊を3個新設しこれを野戦軍と大本営に直属させました。
※1870年7月下旬の電信隊配属状況
◇大本営
第4野戦電信隊 隊長フリードハイム中尉(工兵第3方面本部より出向)
◇第一軍
第1野戦電信隊 隊長マイ大尉(工兵第4方面本部より出向)→後にヴィッテ中尉(工兵第1方面本部より出向)
◇第二軍
第2野戦電信隊 隊長ヘルファルト大尉(工兵第2方面本部より出向)
*第5野戦電信隊 隊長リューデッケ大尉(工兵第1方面本部より出向)
8月15日に編成命令
◇第三軍
第3野戦電信隊 隊長カウフマン大尉(工兵第1方面本部より出向)→後にフィッシェル中尉(工兵第1方面本部より出向)
□第一軍兵站総監部
第3兵站電信隊 ザイラー電信統括官(電信総局から派遣)
□第二軍兵站総監部
第2兵站電信隊 フォン・ブラーベンダー電信統括官(電信総局から派遣)
□第三軍兵站総監部
第1兵站電信隊 オックスフォルト電信統括官(電信総局から派遣)
これら電信隊の兵員は近衛工兵大隊から抽出し、戦線拡大(マース軍創設による準備)によって8月中旬に編成された第5野戦電信隊は本国の第3軍管区(留守第3軍団)から動員されました。
野戦電信隊の定員は以下の通りです。
隊長 大尉(又は中尉)1名
士官 中尉及び少尉3名(うち1名は輜重兵科より)
先任軍曹 1名
電信技官 7名
工兵 90名
輜重下士官兵 45名
乗用馬匹15頭
曳用馬匹58頭
馬車 13輌
兵站電信隊の定員は以下の通りです。
電信統括官 1名
・第1分隊
士官 中尉及び少尉2名(うち1名は輜重兵科より)
電信技官 7名
工兵 35名
輜重下士官兵 37名
乗用馬匹8頭
曳用馬匹52頭
馬車 11輌
・第2分隊
電信技官 5名
輜重下士官兵 15名
電信準備工事工夫(軍属) 4名
電信工夫(軍属) 20名
乗用馬匹3頭
曳用馬匹18頭
馬車 5輌
バイエルン王国軍は同国両軍団のために独自で野戦電信隊2個と兵站電信隊1個を編成します。隊長・兵員は全て同軍工兵団から選出されました。
バイエルン第1野戦電信隊 隊長フォン・ルノール中尉
バイエルン第2野戦電信隊 隊長フックス中尉
バイエルン兵站電信隊 隊長リヒター中尉
ヴュルテンベルク王国師団も野戦電信隊を編成(隊長はバウツェンベルガー工兵少尉ですが後に失態によって更迭されます。後任不詳)しますが、バイエルン軍もヴュルテンベルク師団も定員や諸材料は普軍よりかなり少ない員数だったと伝わります。
戦線後方で国営電信との接続を担う王国電信総局は、軍の電信隊に管理要員と技師を派遣したため要員不足となりましたが、やがて軍から電信業務のイロハを叩き込まれた下士官兵が派遣されて来ます。この電信総局は、7月の動員中に仏領への進撃後直ちに電信網を拡充可能なように準備を始め、仏との国境付近に電信架設縦列と予備の材料を蓄積しました。同時に北ドイツ連邦内における動員集合地と沿海地方に通信力強化のため突貫工事を行い、特に電信網が疎らだった沿海地方では戦争中電信線の総延長3,191キロメートル・電信局44ヶ所が増設されたのです。
これら電信網を利用し電信の送受信を行うことが出来る者は全てポドビールスキー参謀次長の規定によって定まるのでした。
1870年8月に入り実際の戦闘が始まると、これは一部想定されていたことでしたが電信隊は殺到する前線の希望に沿うことが不可能となります。
急速な戦線の拡大は電信材料の絶望的不足を招きます。このため行軍中の軍団本営宿営地と軍本営間との連絡は電信で賄うことが殆ど出来ず、これは相変わらず騎馬伝令に頼るしかありませんでした。野戦電信隊と兵站電信隊は最低限各軍本営と後方の常設電信網との接続だけは確実に行うことに全力を尽くしていたのです。
野戦電信隊は通常、第一線に在って活動し諸材料は兵站電信隊から補充を受けることを常としていました。
兵站電信隊は、国営電信網が延長されて占領地まで及んだことを確認後、順次自分たちが敷設した電信線を撤去し、回収した材料から毀損していないものを選別して再利用し、兵站電信線を先へ先へと延ばして行きます。
戦争当初(70年8月)における仏の国内電信線は、そこまで考えが及ばなかった仏軍部隊が手を掛けず、多くが切断されずに残っていましたが、前進する独軍はその電信線を次々に切断して進んでしまい(逆襲された場合を想定し再び敵手に渡るのを防ぐためでした)、兵站電信隊がこれを修繕して進むという不条理がしばらく続きました。作業に不慣れだった野戦電信隊も時折、使用する予定だった仏の常設電信線を不注意から切断してしまいます。
この仏国内電信網の修理は当初、全て兵站電信隊の第2分隊が行いました。何故ならば野戦電信隊は普軍の基準に合った仮設専門の材料と工具しか持ち合わせていなかったためで、この貴重な材料や工具は後方を進む第2分隊しか持ち合わせていなかったのでした。
この由々しき問題は直ちに大本営の知るところとなり、マイダム大佐は急ぎ各所に手配を行い、徐々に野戦電信隊でも常設電信線を回復出来るようになったのです。それでも8月下旬には今後の戦線拡大に留意して電信隊の拡充が求められ、翌9月、野戦電信隊2個と兵站電信隊2個が編成されることとなり、これは10月初旬に戦地で活動を始めました。
マイダム
※10月初旬から活動を始めた電信諸隊
○第6野戦電信隊 隊長プリーゼネラー大尉(工兵第3方面本部より出向)→後にフレック中尉(工兵第4方面本部より出向)
兵員はグローガル(現・ポーランドのグウォグフ)に本部を置く工兵第5大隊により編成されました。
○第7野戦電信隊 隊長フォン・ヴォイナ大尉(工兵第3方面本部より出向)
兵員はミンデン(ハノーファーの西)に本部を置く工兵第10大隊により編成されました。
○第4兵站電信隊 マースマン電信統括官(電信総局より出向)
兵員はシュテティーン(現・ポーランドのシュチェチン)に本部を置く工兵第2大隊により編成されました。
○第5兵站電信隊 ビューンケ電信統括官(電信総局より出向)
兵員はマグデブルクに本部を置く工兵第4大隊により編成されました。
*工兵大隊はそれぞれの軍管区(戦時は軍団)に一つ置かれ、大隊番号は軍団番号と同じです。
この電信隊増設により70年10月以降の電信隊配属は以下のように変わります。
◇大本営
第4野戦電信隊
第2兵站電信隊
◇第一軍
第1野戦電信隊
第3兵站電信隊
◇第二軍
第5野戦電信隊
◇第三軍
第3野戦電信隊
第6野戦電信隊
第1兵站電信隊
第4兵站電信隊
バイエルン第1野戦電信隊
バイエルン第2野戦電信隊
バイエルン兵站電信隊
ヴュルテンベルク野戦電信隊
◇マース(第四)軍
第2野戦電信隊
◇第13軍団(メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍)
第7野戦電信隊
◇第14軍団
第5兵站電信隊
フォン・ヴェルダー将軍の第14軍団が「兵站」電信隊を充てがわれたのは、その戦場が独本土に近かった仏南東部だったことに因ると思われます。また、10月以降休戦まで電信隊の配属はこのまま変わりませんでしたが、戦線の変化により度々他団隊に出向しての作業が生じています。
このパリ包囲が始まりカール王子の第二軍が仏西部へと進撃する頃になると、戦線後方で独本土と繋がる既設電信線との接続と仮設電信線を常設に代える作業ばかりでなく通信業務も行っていた普王国電信総局は、次第に任務遂行が困難となって行きます。これは単純な人員不足によるもので、促成で職員を増員しても通信量と作業の加速度的増加に追いつくことは出来なかったのでした。
そこで参謀本部は通信施設管理を地域毎の分担制に変更させ、ナンシー、エペルネー(後ランス)、ラニー=シュル=マルヌ(後ベルサイユ)の三ヶ所に「戦時電信管理局」を設置しました。
○ナンシー戦時電信管理局
局長 ハルデヴィヒ→後にポスト
○エペルネー(→ランス)戦時電信管理局
局長 ハルデヴィヒ→後にリヒター→後にボーテ
○ラニー(→ベルサイユ)戦時電信管理局
局長 ハルデヴィヒ→後にリヒター
ナポレオン3世の帝政が倒れたセダン戦後の9月以降、独軍の電信業務は戦線拡大と軍の急速な移動に伴い大きな困難にぶつかりますが、そこはドイツ人の実直・合理主義な考え方とマイダム大佐ら電信のプロによる差配によって少しずつ改善され、なんとか業務を全うして行きました。
とはいえ前線での混乱はかなり大きく、戦況の変化によって大きく左右される業務の性格上、やむを得ないとはいえかなりの無理を通し無駄な作業も続発しています。
たとえば架線作業を迅速に行うため、多くの場合野戦電信隊は軍の前衛に帯同し前衛の前進と共に工事を行う事が普通となっていましたが、想定の行軍目標が猫の目に変更された場合、その修正命令が数時間でも遅れれば野戦電信隊は無駄な架線業務を実行していることとなり、多大の労力を費やし完成させた電信線を全く使用せず撤去するような事例も相次いだのでした。当然ながら前衛と行動を一緒に行えば危険もまた増大するわけで、時に前衛よりも先行して架線工事を行う野戦電信隊は戦火に巻き込まれ易く前線の仮設通信所では銃砲弾が雨霰と降り注ぐなかで業務を行い、敵の突進によって素早く設備を撤収し慌てて退却を行うことも度々生じたのでした。
電信業務の「敵」は人間ばかりではありません。天候もまた工事に影響を与える原因の一つでした。
一例を挙げれば、71年1月4日、第3野戦電信隊はパリ南郊砲台地区で9キロ長のヴィラクブレー~サクレー線を架設しますが、この日は寒気が襲来しこの工事は9時間30分を費やします(途中凍結したビエーブル川を渡すのでこれに手間取ったのかもしれません)。逆に70年11月9日、第2兵站電信隊は好天に恵まれ25キロ長のジュザンヴィニー~ブリエンヌ=ル=シャトー~ピネ(トロア北東方)線をたった7時間30分で架設したのです。
悪天候は架線の損傷も発生させ、これに住民や義勇兵による切断などが追い打ちを掛け、既述通り占領地の守備隊は広大な地域に分散していたため監視が追い付かず、電信線の総延長が加速度的に延びるほど電信隊の業務も過大となって行ったのでした。
この軍用電信線、特に兵站電信線にいつの間にか別の電信線が接続されていることも続発し、これは独軍の後方部隊が許可を得ず勝手に接続し利用するばかりでなく、「謎の線」が付けられていることもあり、義勇兵か占領地住民の誰かが盗聴を行っていたものと想像されるのでした(逆に独軍が仏軍の通信を奪い取ることは通信量の差か技術の差かは分からないものの希だったと言います)。
パリ攻囲の期間、大本営が置かれたベルサイユは当然ながら独軍電信網の中心点でもありました。
パリ攻囲軍諸陣地はベルサイユと二本の電信線によりきめ細かく結ばれ、うち一本は大本営~軍本営~軍兵站総監部の専用線として機能し、この線はパリ以外の戦場各地へ通じる幹通信線を分岐していました。
独本土への電信線はラニー=シュル=マルヌから始まり二本に分岐、一本はバール=ル=デュク~ナンシー経由で独本土の末端バイエルン飛び地プファルツ地方のランダウへ通じ、片方の一本はランス~メッス経由でザールブリュッケンに通じていました。
休戦に入ると電信隊は活動を活発化させ、パリを囲む分派堡間も完全に通信可能とし、短いパリ占領中には市内に3ヶ所専用の電信局を設けるのでした。
こうして独軍電信隊は降って湧いた戦時に急遽、普段から訓練をされていない兵員によって編成されたにも関わらず、普王国電信総局から派遣された極めて少数の技師たちによる指導と努力、そして独軍持ち前の「独断と合理主義」で戦場から来る過大な要求に応じて短時間でプロフェッショナルへ変貌、結果独軍勝利に貢献したのでした。
独軍野戦電信隊が普仏戦争中に架設した電信線の総延長は10,830キロメートル。このうち8,252キロが仏の既設電信線を修理したもの、798キロが常設線(半永久線)、残り1,780キロが仮設線でした。これは常時改変を続けた分や使わずに外したり損傷修繕や同じ線を架け直したりしていた分を含みません。大小通信所の数は407局で、その後方、電信総局が担当し仏国内や本国沿海地方に架設した電信網は総延長12,500キロメートル余り、増設通信所は118局と伝わっています。
ベルリンの電信局(1867年)
☆ 普仏戦争での独軍郵便事情
19世紀・普仏戦時の戦場における野戦郵便組織の任務は、軍用・公用書類の早急確実な送達と私信、信書の送達、新聞配達、比較的少額の送金(現金及び為替)業務にありました。
独軍では平時郵便業務専門の部署はありませんでしたが、急遽この目的のため北ドイツと南部ドイツの各郵便管理部門と協力し短時間で戦時体制へと移行するのです。
独大本営は戦時郵便の施行にあたり電信と同じ要領で「野戦郵便管理部」と「兵站郵便管理局」を設けました。
野戦郵便管理部はその名の通り軍部諸団隊間の郵便送達を管理し、兵站郵便管理局は軍団隊支配地域より後方に送達する郵便と独本土の郵便局間の郵便送達を管理監督しました。
兵站郵便管理局の行動範囲は各軍団本営から1日行軍行程後方に位置する地点より後方とされますが、後方連絡兵站路周辺における郵便送達も野戦郵便共々軍関連のものはすべて陸軍監督下に置かれるものとなり、実務は各地の官営郵便管理部に任されました。
実際の郵便配達は基本以下のように行われました。
野戦軍宛後方からの郵便はまず独本土に設置された「野戦軍宛郵便集積局」に送られ、ここで各団隊宛に区分けて郵便袋に積められ、兵站郵便管理局が定めた発送起点停車場に届けられます。ここから多くは鉄道にて(鉄道が及ばない占領地内では一部護衛を厚くした輸送隊に帯同して)野戦郵便管理部の管轄地まで送達され、同管理部はそれぞれの団隊まで配達しました。ただし、一定の期間動かない本営や要塞など拠点宛の郵便物は本土から直送される場合もありました。
これら軍事郵便の統括は開戦時北独連邦の郵便に限り大本営に「野戦高等郵便部」を置き、その下部組織として三個軍それぞれに「軍郵便管理部」、13個軍団に前述の「野戦郵便管理部」を設け、この下に「野戦郵便局」3個が軍団所属2個師団と軍団砲兵隊とに隷属とされました。
◇大本営・野戦高等郵便部(テュシュネラー部長)
◇第一軍・軍郵便管理部(クラウゼ部長)
◇第二軍・軍郵便管理部(ボック部長)
◇第三軍・軍郵便管理部(ランブレヒト部長)
この他戦時混成となった第9軍団傘下ヘッセン大公国師団に野戦郵便局1個が設けられ、各野戦郵便局には「前衛野戦郵便局」と呼ばれる最前線至近まで進む郵便支局1個が設置されましたが、これは8月中に廃止され、人員は拡大する戦線需要に応じるための郵便局増設に充てられました。
また、後方兵站郵便に対して各軍の兵站総監部に前述の「兵站郵便管理局」が設けられます。
◇第一軍兵站総監部・兵站郵便管理局(ヴィットマン局長)
◇第二軍兵站総監部・兵站郵便管理局(シュリーヴェン局長)
◇第三軍兵站総監部・兵站郵便管理局(リーフ局長)
しかし、電信隊と同じく郵便事情も戦線が拡大するにつけ遅配を来すようになり、既存野戦郵便局と本国地方郵便局から応援を求めて、8個の騎兵師団・後備又は予備の5個師団・エルザスとロートリンゲン両総督府・そしてマース軍と南軍の本営にそれぞれ1個の野戦郵便局を新編し、更に第13と第14軍団に野戦郵便管理部を置くのでした。
結果、普仏戦争中に置かれた野戦郵便の管理部署(管理部と管理局)は総計77個、職員(非軍属で普王国郵便管理総局職員)は788名・馬匹869頭・専属郵便馬車188輌となります。また戦争中仏領土内に置かれた軍の郵便局は兵站郵便と占領地郵便局を合わせ411局、動員された非軍属の常勤局員は2,140名でした。その他王国郵便管理部職員で軍に召集された人員(一般兵士の徴兵です)が3,761名いたため、普王国内で郵便業務から外された者は5,901名となりました。
これら野戦郵便業務の実務を統括指揮したのは北独郵政庁のエルンスト・ハインリヒ・ヴィルヘルム・シュテファン総裁でした。
有能な官吏だったシュテファン総裁は軍の要望をよく理解して、野戦郵便と独本土との連絡、特に郵送手段としての鉄道を重視(戦争中に郵送を主に行うため敷設した鉄道線路の総延長は5,100キロに及びます)し、関連諸機関との綿密な連携を図り、また郵政全般の統制・業務の迅速化に尽力し全般的な成功を収めるのです。
シュテファン総裁は戦争中ベルリンから指揮を執りましたが、早くも普軍動員の第一目(70年7月16日)に軍との連絡と協働を図る部署として郵政庁内に「野戦郵便事務局」を設け、これを高等事務官のザックスに任せました。
シュテファン
南独諸国でも北独連邦をまねて野戦郵便組織を構築しています。
バイエルン王国では王国両軍団のため「野戦郵便部」2個を創設し「兵站郵便管理局」1個も設置しました。バイエルン軍の野戦郵便部には実務下部組織として「野戦郵便局」1個を隷属させ、運営は王国の郵政局主導で行います。「野戦郵便部」には合計して郵便馬車32輌・曳用馬匹60頭と共に郵政職員101名が派遣されますが、兵站郵便業務は後備兵を訓練して運用しています。
ヴュルテンベルク師団でも「野戦郵便部」と「野戦兵站郵便部」を設置しますが、こちらは組織をきめ細かく分割し、実務は郵便部傘下の「野戦郵便係」18個によって行われ46名の郵政職員は輜重兵を中心に訓練し郵便夫に仕立てました。またこの派遣職員は多くが兵役を経験して軍を知っており、軍隊との協働は円滑だったと思われます。ヴュルテンベルク師団は野戦郵便用に馬車8輌・馬匹18頭を充てました。
バーデン大公国師団では「野戦郵便局」を設け、本国郵政部から職員25名を派遣させて郵便馬車4輌・馬匹19頭で業務を行います。集配を行う郵便夫は軍から徴用しました。兵站郵便に関しては郵便監査官1名が派遣され、後方兵站輸送部門が実務を行いました。
戦争初期、独軍の郵便業務は不慣れな所為もあって多くの問題を抱えました。その内で最大の問題は期待していた鉄道利用が殆ど不可能となったことで、これは当然ながら動員された兵員や物資を国境へ輸送することが最優先だったことに因ります。このため兵站郵便業務は独軍が国境から仏国内へ離れた8月7日から10日に掛け、ザールルイ、ホンブルク、ランダウの3ヶ所でようやく業務が開始されます。その後8月中旬までに後方の郵便業務は当初計画通り動き始めました。
仏本土内で占領地が増え始めると鉄道による郵送も開始され、次第に幹線ばかりでなく支線にまで郵便物を乗せた貨車や客車が走るようになりましたが、これも鉄道輸送部門の懸命な努力で路線が開通したからで、それまでは陸路を使って兵站輸送に従い業務を行うしかなく、跋扈し始めた義勇兵の襲撃や地方住民の見えない妨害を排除しての苦難は休戦まで続いたのです。
この鉄道輸送では兵員輸送・物資輸送の区別なく各列車に野戦郵便用の貨車やスペースを設け、これを野戦郵便管理局から派遣される「野戦鉄道郵便係」が運用しました。
戦争初期は書類と送金のみだった郵送は10月15日から小包も取り扱うことが出来るようになります。小包の輸送は最初の55日間で1,219,533個を扱い、このため81,922個の小包用カーゴと延べ560輌の貨車・数百輌の馬車を要した、との記録が残っています。
しかし、この頃から各軍の活動はパリ攻囲以外流動的となり、諸団隊の運動は迅速かつ変化に富んで、届先不明で返送される郵便物は数知れず、寒冷な時期に入って街道筋は凍結または泥濘が激しく郵便の遅延は当たり前となって、郵便職員の苦労は果てしないものとなって行きました。
戦争中期、北独郵政庁のシュテファン総裁とザックスら部下の事務官たちは、速達郵便を扱う基幹停車場の指定と運用規定、パリ包囲軍のための兵站郵便局と野戦鉄道郵便局の開設、ベルギー王国との戦時中郵便取扱事務協定(野戦郵便のベルギー国内往来を可能とする協定でした)、ストラスブールとメッスに高等郵便管理局を設置すること等の施策を実際現地に赴いて次々に実行させます。
ベルリンの野戦郵便事務局では執務を迅速に行い情報共有するために「野戦郵便取扱一覧」を著しました。これは全軍諸隊と所属する郵便関係部署の所在地・責任者などを明記した書類で、日々訂正され配布されました。しかし軍の移動を網羅することに努めたこの書類も万能ではなく、野戦郵便の配達現場では「八方手を尽くしても」その所在地が不明だった諸隊が多くあり、その移動距離が想像以上に長かったためにその団隊宛郵便は滞留し受領すべき郵便が週間単位で遅れる場合もあったのです。
その上護衛が手薄な場合(ない場合もありました)、郵便馬車は反抗する地方住民や義勇兵格好の目標となり、襲撃され奪われる場合も多く発生しています。中でも有名となったのは70年11月14日サンスで発生した「事件」で、この日郵便夫のポーデンソンは小包を馬車に載せサンス市街へ入りましたが、なんと情報が先走っていてこの街は未だ独軍の手になく、独軍迫る中無秩序となった住民によって操る馬車が襲撃され、ポーデンソンは身を呈して小包を護ろうとしましたが重傷を負って捕らえられ小包は強奪されてしまいました。しかし翌日独軍が入城し、ポーデンソンは救出され小包も大部分が奪還されるのでした。同年12月23日には郵便夫のデュッケンブロックとバッジシューフェルはシャブリ(オーセールの東17.2キロ。ブルゴーニュ地方の高名な辛口白ワイン産地として有名)とオーセールの間に在るベーヌ渓谷で義勇兵の襲撃を受けましたが、二人は超人的な活躍をして「白兵戦」で敵を撃退し郵便物を文字通り死守するのでした。
このように郵便夫の苦労も大変なものがありましたが、大切な曳馬の苦労も大きく、前述の戦域拡大や天候不良も相まって給養や厩舎の不足・不良は深刻で、戦争中期以降は傷病による損耗が続き、これは戦闘部隊が使用する馬匹も同じく常時不足を来していたため、必然優先順位と質が低かった郵政関連部署への馬匹供給は必要数に応じることが出来ず、人員同様慢性的な不足状態が休戦時まで続いたのでした。
頼りとする鉄道も既述通り鉄道部門と後方兵站部門の努力で何とか維持していましたが、それでも途切れることが多く、その場合でも野戦郵便各部門は陸路に変換し義勇兵や反抗する住民の襲撃を警戒しつつも配達を続け、郵便物の滞留を出来る限り防いだのでした。
独軍の野戦郵便馬車
占領地における一般郵便業務も当然ながら独の管理下に置かれます。
1870年8月24日、北独郵政庁によりナンシーに「郵便事務局」が開設され、これは戦時中仏占領地における郵政を統括する部署として機能し、休戦まで40ヶ所の占領地郵便局を指揮します。占領地の拡大に伴い同事務局は10月上旬ランスへ移動しました。
これら占領地郵便局の任務は独本土における通常の郵便局と変わらぬ業務を行い、郵便局管轄内の集配と郵便局間の送達は勿論、独本土または独を介して外国への郵便業務も行い、同時に野戦郵便局を手伝って郵便用の鉄道開通や鉄道郵便局の開設に人員を派遣し野戦郵便局を大いに助けたのでした。
北独郵政庁は前述通り10月初旬、将来独領となることが見えて来たエルザスとロートリンゲン両総督府のためストラスブールとナンシー(後にメッスへ移転します)に高等郵便管理局を設置しました。この郵便管理局の指揮下で71年3月下旬までに156ヶ所の独国内と同じ水準の一般郵便局を開設するのでした。
また独大本営は、休戦から講和条約成立を見越して、それまで郵政当局と軍とによって別々に行って来た占領地内の普通郵便と野戦郵便の管理を一元化するため、3月24日に「駐屯軍高等郵便部」をランスに創設し、この部長にそれまで第一軍兵站総監部で後方連絡の郵政を指揮していたヴィットマン事務官を任命します。同時にそれまで占領地で一般郵政を司っていた郵便事務局は廃止されるのでした。
独の野戦郵便部門と郵政当局は戦争中、多くの難題を抱えつつも戦況に影響するような欠陥を露呈することもなく、その難題の解決に努力して持ち前の組織力で戦場の隅々まで郵便物を配達しました。
また本国から兵士宛の様々な信書や小包も大量に届け、勿論その返信も確実に家族の下に届けたのです。独の捕虜となって独本土深く(一番遠くはオストプロイセンまで)に収監されていた仏軍捕虜のためにも仏の家族からの信書や小包、為替などを届け、その返信も(当然検閲されましたが)確実に仏の郵便当局へ渡していたのです。この返信については独の官憲信書扱いとなったことで料金は一切取られませんでした。また戦争中捕虜宛に送達された為替についても合計500万フランが確実に当人へ支払われています。
戦闘の合間に祖国への手紙を書く独兵
※実際の戦闘開始(70年7月末頃)から71年3月31日までの野戦郵便当局が扱った郵便
◇北独野戦郵便扱い
○封書・書簡 89,659,000通
○新聞 2,354,310部
○公金 43,023,460ターレル*
○私金 16,842,460ターレル
○公用小包 125,916個
○私用小包 1,853,686個
◇バイエルン野戦郵便扱い
○封書・書簡 約3,240,000通
○書留及び現金書留 約72,000通
○小包 約90,000個
◇ヴュルテンベルク野戦郵便扱い(出征期間中)
○封書・書簡・新聞 6,898,000通
○公金・私金 4,834,983グルテン*
○小包 454,233個
◇バーデン野戦郵便扱い
○封書・書簡・書留 1,470,500通
○新聞 114,400部
○公金 1,908,100グルテン
○私金 1,023,110グルテン
○小包 63,067個
*北独の通貨1ターレル(統一ターラーとも呼ばれます)は1866年において純度0.900の銀18.5g(純銀16.65g。1866年の換算で約1米ドル)。この後(1873年)廃止され金マルクとなります。
*南ドイツの基本通貨1南独グルテンは1866年において約1.751ターレル。この後廃止されドイツは金マルクに統一されます。




