独軍凱旋と占領軍
☆ 独軍フランスからの凱旋
独帝国政府の望む戦勝国としての(というよりビスマルクが望み、モルトケ始め軍部が認めた)要求は、殆ど仏共和国政府(と国民議会)が承諾することとなり、ティエール(ベルサイユ)政権もパリに戻ることが出来るようになったことで、独軍はいよいよ本格的な凱旋・復員体制を採ることとなりました。この占領地を除く戦時体制の段階的解除と復員に関して、独大本営はその機能を十分に発揮し、細心の注意を払って実行するのです。
復員の実行時に活躍しなくてはならない鉄道については、戦時下から活動する大本営の鉄道輸送運営管理課がベルサイユ仮講和条約の発効前から計画を練り、独本国政府の商務省鉄道管理局と協議を重ねて各路線一日あたりの輸送量と運行計画とを決定しました。
鉄道の次に大事となったのは糧食の問題でした。
戦時中は段階的に動員し時間と移動量を制限しながら計画を立てていた軍の行軍は、本国の経済活動を早急に平時へ戻すための動員解除を推進するため、短時間で大量の兵員を本国へ送り届けることが必要となりますが、この際、短期間で大量に移動する将兵の給養は最も困難な問題となります。このため独大本営では将兵が確実に十分な量の給養を受けられるよう、乗車する国境付近の鉄道停車場に至る街道筋に多数の糧食貯蔵倉庫を建造し、更に必要とされれば3から5日間でこれら倉庫が満杯となるよう準備が成されました。
軍の行軍も規則正しく計画され、その基本計画では一個の兵団(旅団以上師団以下)は数個の行軍縦隊に分けられ、この縦隊は歩(と工)・騎・砲各兵科が混成となるよう編成され行軍一日の行程(25~30キロ程度)には常に一個縦隊があるよう行軍速度を調整し、諸縦隊は間隔を揃えて後続して、その一個兵団の先頭から後尾まで行軍列の長さは3から4日の行軍行程となることとされたのです。
後備兵の凱旋
この野戦軍の本格的な凱旋・復員が実行される前、独大本営は軍を平時体制にするよう公示し、これは即時実行とされたため未だ仏本土にあった各正規軍部隊は急ぎ部隊の解散・合併・分散を実施するのでした。
この平時体制移行により真っ先に解散となったのは「騎兵師団」で、師団に従属していた各騎兵連隊は平時に所属する各軍管区(戦時は野戦軍団となります)に復帰し、該当する騎兵連隊の多くは仏領でまだ軍団として残っていた親部隊に戻って行ったのです。
独軍の占領地や新領土での業務に居残る部隊以外の「凱旋行軍」は4個の「大梯団」に分けて実施となり、それら梯団は交差する地域で渋滞や混乱が発生しないよう時間差を付け厳密な行軍計画によって実施され、国境に達し次第先の鉄道輸送運営管理課が定めた鉄道運行計画に従って鉄道輸送に切り替え実施されますが、多くは列車編成が足りずにライン川まで徒歩行軍することとなりました。
この中で「優遇」されたのは第三軍麾下の近衛軍団と第4軍団で、両軍団のみは駐留宿営地に近いミトリー(=モリー)~ソアソン鉄道線かモー~エペルネー鉄道線で至近の停車場からの乗車を許され、彼らはそのまま仏領土を横断し故郷(近衛はベルリン、第4軍団はザクセン州やアンハルト)まで「殆ど歩かずに」凱旋することが出来ました。逆に全行程を「歩き」で実施とされた不運な部隊は第8軍団の全て、第11軍団の大部分、第25師団、そしてヴュルテンベルク王国野戦師団(全て独西側に管区を持つ部隊です)で、彼らは故郷まで延々歩いて帰ったのでした。
皇帝のフランクフルト凱旋
※独軍の凱旋行軍(1871年5月末から7月中旬)
(乗車地/乗車開始月日/行先)
◎第一梯団
◇第5軍団
徒歩行軍でベルフォール並びにミュールハウゼン(仏名ミュルーズ)へ/5月27日から乗車開始/ポーゼン州とニーダーシュレジエン
◇第7軍団
徒歩行軍でザールルイへ/6月1日から乗車開始/ヴェストファーレン州
◇第17師団
徒歩行軍にてディーデンフォーフェン(仏名ティオンヴィル)~ザールルイを経てマインツへ/6月9日から乗車開始/メクレンブルク=シュヴェリーン大公国、ハンブルクなど
◎第二梯団
◇近衛軍団
ミトリー(=モリー)~ソアソン線かモー~エペルネー線いずれかの停車場/6月2日から乗車開始/ベルリン、ブランデンブルク州
◇第18師団(第9軍団)
徒歩行軍でリュネヴィル~カイザースラウテルンを経てマインツへ/6月17日から乗車開始/シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州
◇第25師団(第9軍団)
徒歩行軍でツァベルン(仏名サヴェルヌ)~ヴァイセンブルク~マンハイム経由でダルムシュタット(本国です)へ至る/ヘッセン大公国
◇第24師団を除く第12軍団
徒歩行軍でベルダン~メッツを経てマインツとフランクフルト(=アム=マイン)へ/6月26日から乗車開始/ザクセン王国
◇バイエルン王国第2軍団
徒歩行軍でセザンヌ~ヴィトリー=ル=フランソワ~ナンシーを経てマックスアウ(ライン渡河点。カールスルーエの北西)へ/6月28日から乗車開始/バイエルン王国北部
◇ヴュルテンベルク王国野戦師団
徒歩行軍にてサン=ディジエ~ヌシャトー~ストラスブルクを経て本国へ至る
◎第三梯団
◇第6師団を除く第3軍団
徒歩行軍でサント=ムヌー~メッツを経て一部はザールゲミュンド(仏名サルグミーヌ)、一部はモースバッハ(ドイツ本国・シュトゥットガルトの北)まで/6月21日(前者)及び6月26日(後者)から乗車開始/ヴェストプロイセン州
◇第11師団を除く第6軍団
徒歩行軍でナンシー~ブランヴィル=グランド(現ブランヴィル=シュル=ロー。ダムルヴィエール操車・停車場のこと)へ/7月2日より乗車開始/シュレジエン州南部
◇第8軍団
徒歩行軍でそのまま郷里(ライン州)へ至る
◇第22師団を除く第11軍団
徒歩行軍でそのまま郷里(フランクフルト=アム=マインとチューリンゲンなど)へ至る。但しカッセルへ向かう部隊のみマインツで乗車する(乗車日未定)
◇バイエルン第2師団を除くバイエルン第1軍団
徒歩行軍でナンシー~ストラスブルク及びマックスアウへ/ストラスブルク組は7月8日より、マックスアウ組は7月9日より乗車開始/バイエルン王国ミュンヘン
◎第四梯団
◇第4師団を除く第2軍団
徒歩行軍でグレー、ヴズール、ベルフォールそれぞれへ集合/各地6月18日より乗車開始/ポンメルン州北部
◇第4軍団
ミトリー(=モリー)~ソアソン線至近停車場/6月12日より乗車開始/ザクセン州など
◇第19師団を除く第10軍団
徒歩行軍でヴィトリー=ル=フランソワ~バール=ル=デュクよりブランヴィル=グランド並びにナンシーへ/6月21日より乗車開始/ハノーファー州
これら行軍と輸送は特記するほどの問題も発生せず整然と行われ、最後尾にあった部隊も7月中旬までに全て管区内駐屯地へ到着したのです。
☆ 独本土内の復員事業
前述通り独大本営は前年7月中旬から総動員体制を採ったために奪い続けていた本土内の労働人口を平時に戻すため、本国内でも早急に平時体制への移行を進めました。
3月4日。独大本営は重要な命令を発し、その主旨は「本土内にある守備衛兵大隊と後備補充騎兵中隊(乗馬無し)は必要とされない限り全て解散とし、本土に留まった後備大隊(守備専用)と帰国した後備大隊はその兵員を全て復員させるか解隊とする」とのことで、これは直ちに実施に移されました。
これと同時に独大本営は国内要塞と海岸防備の工事を中止し、防御施設の解体も始めるよう命じましたが、海岸防備については今後も有効とされ、ある程度の防御建造物を残置させるのでした。
また、船舶往来航行の障害となる警戒防御設備(沈船や防塞網、水雷等)を速やかに撤去させ、更に4月4日には皇帝勅令を発して「海岸防備は将来有効で維持すべきとされた施設以外を全て撤去する。沿海地方に残留する最後の部隊はこれを解隊させ兵員は帰郷させる」こととなりました。
これらの命令により、旧北独連邦内ではザールルイ、マインツ、コブレンツの三要塞と海岸港湾口の主要堡塁や河口にある重要堡塁のみ兵員を配置し、南独三ヶ国にある要塞も殆どが平時体制に帰して武装・動員解除と戒厳令が撤廃されるのでした。
航路を塞ぐ閉塞船
独海軍においても3月9日、東海(バルト海)と北海に置かれた艦隊司令部が解散となり、海軍も動員を解除して平時に戻り、海軍後備兵として志願した海員たちも除隊となりました。
この沿海地方及び仏「旧」国境の軍管区(第1、2、8、9、10、11)に敷かれていた戒厳令も3月27日をもって解除され、4月8日には旧北独連邦内に設けていた5個の旧後方防衛管区内で未だ守備隊として残っていた後方諸隊も全て復員を行います。
プロシア王国の全野戦軍(仏領や新領土に残った部隊を除きます)の復員は1871年6月1日付の皇帝勅令により、最初に軍管区内へ帰還した第5と第7軍団、そしてわずかに遅れて到着した近衛軍団から開始され、残りの諸隊も管区へ到着次第復員が実施されるのでした。これは南独三ヶ国の諸隊もそれぞれの管区へ帰着次第実施されるのです。
なお、それまで捕虜の監視と警戒に従事していた後備軍諸隊については最初に到着した第5と第7両軍団が未だ残っていた捕虜の監視を引き継いだため順次解隊・復員が実施されます。ベルサイユ軍に当てられなかった残りの捕虜もフランクフルト講和条約の批准交換直後から送還が速まり、これは独軍が凱旋・復員のため仏から借用した機関車と車輌の返還便をも利用したことが大きく、6月上旬までには無事に終了するのでした。
独軍凱旋 飾り立てられた市街の門
☆ 独軍凱旋事業
ドイツ帝国全土では仮講和成立直後に軍の凱旋が始まるとの報道がなされ、国を挙げその端々まで歓迎式典の準備が始まりました。独全土・各領邦君主と自由ハンザ都市は凱旋する将兵のために荘厳で華美な凱旋式典を挙行し、庶民も至る所・停車場で、市街の入口で、駐屯地で、教会前で、広場で熱烈な歓迎を行いました。最初に帰還した後備兵に始まり、将兵たちはどこでも大歓声に包まれ、愛する家族や恋人を抱きしめ、夢のような一時を経験します。
ベルリン凱旋1871.6.16
新たに「新帝国」の首都となったベルリンでは6月16日を「ドイツ陸海軍歓待の日」として市街を飾り立て、市民は正装で街路に繰り出して凱旋将兵のパレードを待ったのでした。
この日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は首都の西側、シャルロッテンブルクからティーアガルテンへ入り、ここに集合していた近衛軍団の代表と他全軍から選抜された将兵代表による臨時部隊とを閲兵し、その後この諸隊に各領邦君主と自由ハンザ都市代表を従え列の先頭に騎乗し、真っ直ぐに伸びる東西縦貫道(現在の6月17日通り)を進んでブランデンブルク門からベルリン中心街ウンター・デン・リンデンに入り、ベルリン市民からの大歓声を受けるのでした。
ベルリン・ブランデンブルク門前 凱旋式の様子
皇帝はウンター・デン・リンデンの中央に聳えるフリードリヒ大王の騎馬像に拝礼するとシュロス橋を渡りベルリン王宮前まで来るとその前に広がるルストガルテンに入り、皇帝の父フリードリヒ=ヴィルヘルム3世王の記念騎馬像除幕式を行ったのでした。
父王は(様々に言われますが)ナポレオン1世とのプロシア独立戦に「勝利した」王であり、その像は1863年から計画され紆余曲折を経てこの日に建立なったもので、皇帝がこの歴史的な日に「親孝行と祖先への感謝」を込めて除幕を挙行したものでした。
フリードリヒ=ヴィルヘルム3世騎馬像はこの後、その足元に付属する様々な像が付け加えられ1876年に完成しましたが、残念ながら現存しません。ベルリンにあった多くの独帝国時代の銅像の運命と同様、第二次大戦終末期に外されて溶解されたと伝わります。その足元にあった付属の像複数が他の庭園や美術館に残っています。
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世騎馬像
☆ 1871年6月以降の独仏駐屯部隊
1871年5月27日。独大本営は第一軍に解散命令を発しました。ベルサイユ政権によるパリ制圧・奪還を受け、6月4日には第二軍、第三軍にも解散命令が出されます。
第三軍を率いていたザクセン王国王太子アルベルト騎兵大将は6月3日付で司令官職を解かれて帰国の途につき、同軍参謀長のフォン・シュロトハイム少将が解散事務を引き継ぎ、第一軍で唯一仏に残留となった第1軍団も第三軍の残留兵力に合流となりました。
パリの惨状(1871年6月)
野戦軍解体後、仏による賠償金支払いの担保として占領される仏領土に駐屯する諸隊が皇帝の名で発令されます。
占領軍となったのは前述通り解散した第一軍から第1軍団、同じく第二軍から、第4(第2軍団)、第6(第3軍団)、第19(第10軍団)、第24(第12軍団)の4個師団、第三軍より第11(第6軍団)、第22(第11軍団)、バイエルン第2の3個師団で、このうち20億フラン支払い後の残30億フランの担保確保として占領軍となったのは第4、第6、第22、バイエルン第2の4個師団でした。
このフランス領に残った独軍は「ドイツ軍フランス駐屯軍」(以降占領軍と記します)としてまとめられ、6月20日の皇帝勅令により前・南軍司令官のエドウィン・カール・ロチェス・フォン・マントイフェル騎兵大将がその司令官に任命されるのでした。
バリバリの王権神授説信者、ヴィルヘルム1世に絶対忠誠を誓う極右、ビスマルク宰相からは「狂犬」と嫌われ、敵は勿論部下からも恐れられる「鬼将軍」のマントイフェル将軍ですがその反面、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争までは国王傍に傅く軍事内局長(既述。当時は参謀本部より強力な組織です)で外交も得意、軍政にも通じ後方業務にも明るい知将の面もあり、占領軍司令官としては(ビスマルクが眉を顰めても)最適な人事だったのではと思います。
ヴィルヘルム1世もこの人のことは絶対的に信頼しており、将軍はこの皇帝の威光を背にして仏占領地における全権委任を受け、ティエール仏行政長官と独占領軍の宿営・給養・占領地における権利などの詳細を協議したのです。
マントイフェル将軍はフランス人に対し慇懃で友好的に接し、しかも新たに独領となり「ドイツ人となった元フランス人」に対してもその心情を理解し過度に高圧的な態度を露わにすることはありませんでした(後にエルザス=ロートリンゲン総督になります)。
最初は将軍の風貌と愛国者の側面を警戒していたティエールとその取り巻きも、やがて安心して話し合うことが出来る人物として認知し、仏政府はマントイフェル将軍との交渉役に外交官で前・シュツットガルト(ヴュルテンベルク王国)全権公使のサン=ヴァリエ伯爵シャルル・レイモン・ドゥ・ラ・クロア・ドゥ・シュヴリエールと軍の経理監察官アドルフ・ジョセフ・ニコラ・ブロンドーをマントイフェル将軍が司令部を置いたコンピエーニュに派遣し常駐させるのでした。
若く有能な外交官サン=ヴァリエ伯爵(当時48歳)の起用は「大当たり」だったようで、ブロンドー准将による軍事面での助言を受けつつ如才なくマントイフェル将軍と付き合い、将軍も彼を認めてしまいにはグチをこぼすようになるまで親しくなり、伯爵も時にはティエール行政長官にすら意見するなど、ゆっくりと平時の外交に戻って行く独仏間で上手に立ち回って行きました(この辺りの状況と占領軍の日常詳細は他の資料、特に松井先生のブログに鮮やかに記されているためそちらに譲ります)。
サン=ヴァリエ伯爵
独軍の大部分が喜び勇んで故郷向けて出立した後、「不運にも」占領地に残された諸隊は決定した宿営地に移動しました。
第11、第22、バイエルン第2の3個師団は、それまで第11軍団と近衛そしてバイエルン第1軍団(同国第1師団と騎兵・砲兵など)が占領していた地域(セーヌ=エ=マルヌ県北部、セーヌ=エ=オアーズ県のセーヌ右岸部分)へ移動して駐屯します。
第1軍団はそれまで第一軍が占領していた地域(ソンム県、セーヌ=アンフェリウール県、ウール県セーヌ右岸、オアーズ県西部)にエーヌ県を加えて駐屯しました。
第6師団はマルヌ県に駐屯し、第4師団はヴォージュ、オート=ソーヌ、ドゥーの三県とコート=ドール県の北東地域に当たる占領地に駐屯します。
第19師団はオーブ県のセーヌ川以東とオート=マルヌ、ムルト、ムーズの三県でサント=ムヌー~ベルダン~メッツを結ぶ街道までの部分に駐屯し、第24師団は前記街道以北とアルデンヌ県、モセル県の仏領に残置された部分に駐屯するのでした。
71年後半からの占領地北部
これら占領軍の編成は独軍平時の編成による定数に変更され、歩兵は大隊の定数802名(士官・司令部含む)となります。師団所属の基本諸隊は歩兵2個旅団(11~12個大隊)、騎兵1個連隊(6か7個中隊)、砲兵1個大隊(4個中隊)、工兵1個中隊と土工具縦列(または野戦架橋縦列)1個、歩兵弾薬縦列1個、砲兵弾薬縦列1個、糧食縦列2個、衛生隊1個、野戦病院2個か3個、野戦製パン縦列半個となりました。
また、駐屯師団とは別にパリ東方郊外の占領地に要塞砲兵13個中隊が、ベルフォールに要塞砲兵4個中隊が師団とは別に配置されます。
71年後半からの占領地南部
占領軍の総兵力は発足(1871年6月)時点で歩兵106個大隊、騎兵61個中隊、野砲204門(野戦砲兵34個中隊)、工兵9個中隊、要塞砲兵17個中隊となりました。給養すべき兵員数(後方諸兵を含みます)は1871年7月1日時点で人員119,337名、馬匹30,375頭との記録が見られます。
一見大軍と見えますが、占領地域は広大で仏領土の約2割を占めており、兵員の配置は分散させずに諸要塞や城塞と各県都や主要都市を主として配置され、残った兵員は不測の事態に備え予備として出動し易い駐屯地に置いたのです。
占領軍は万が一戦争が再開される場合を想定して常に短時間での戦闘態勢移行の状態を維持し、集合を必要とする場合に各団隊がどのような任務を授かるかを詳細に規定した計画書が配布・保管されました。また、パリの外堡に居残る衛兵と要塞砲兵のために十分な弾薬と資材を備蓄し、それまで10日分だった備蓄糧食は3週間分にまで引き上げられました。しかしヴィリエ=ル=ベルにあった攻城厰に保管してあった要塞重砲62門は不要とされて鉄道輸送が可能となった後に独へ後送されたのです。
特殊な状況になったのはベルフォール地域の占領地で、ここは東側が独領になったとはいえ未だ独に対する遺恨があるはずのオ=ラン地区、北・西・南側からは独軍が順次撤退し、残った第4師団たった1個で山岳地も多い広大な地域を守っており、なによりこの地は「最後まで降伏しなかった」として仏人のなかでは対独抵抗の聖地と化していたため、独軍は他の占領地と比べものにならぬ熱の入れようで守備を固めます。
独ベルフォール守備隊は占領軍で唯一戦時定員を維持し、戦備も過剰と言えるほどのものを用意、パリ外堡以外ではここにだけ要塞砲兵を配備して「常に強襲に耐えられるだけでなく正攻法にも対抗しうる」ため要塞砲(316門)やその備品・消耗品は一切間引かず、足りないと判断された分は独本土から運び入れるといった具合でした。
仏が「戦争後短期日でベルフォールを奪還する」しかも「講和条約を反故にして」、などと言うことはあのガンベタやシャンジーでさえ考えもしなかったであろう絵空事ですが、独軍のこの熱の入れようは「本気で落としに掛かっても休戦に間に合わなかった」痛恨、「トラウマ」を示しているようで興味深くもあります。
占領軍の兵站に関しては既に野戦軍と同時に兵站総監部が解散していたため占領軍司令部が直接仕切らねばなりませんでした。後日その司令部が置かれることとなるナンシーには、それまでランスとエピナルに置かれていた出征線区担当係に代わって鉄道運行係が置かれ、この組織は本来の業務の他に仏共和国鉄道局との様々な交渉にも当たりました。
フランクフルト講和条約により仏政府がパリに復帰後30日以内に支払うとされた第一回賠償金5億フランの支払いは7月上旬に行われ(後述)、同月20日に独参謀本部(既に大本営は解散しモルトケら参謀もベルリンの本部に帰還しています)は3月12日のフェリエール協定(賠償金支払いによる段階的占領軍の撤退について定めました)に従いソンム県、セーヌ=アンフェリエーヌ県、ウール県のセーヌ東岸部分からの撤退を命じました。
この地域を占領していた第1軍団の本営と第1師団はそのまま凱旋の徒に就き、第2師団はオアーズとエーヌ両県に駐屯・宿営地を代えるのでした(同年8月11日時点で占領軍の給養兵員数は人員101,834名・馬匹26,610頭)。
「脂肪の塊」ポール・エミール・ブティニ画
※モーパッサンの代表作のひとつ占領下の仏(ルーアンやル・アーブル)を題材とした「脂肪の塊」の一齣を題材とした絵画です。
仏政府は賠償金の支払いを速やかに終えるため、ロチルド家を始め著名な銀行家や財界人を総動員して金策に走り、投資者や銀行家に有利な巨額の国債(投資家には利子・銀行家には手数料)を発行(6月27日)して賠償に充てようとしました。これは想定外に成功(即日完売)しますが、これだけの戦争をしても「大金を吐き出すことが出来る」ということは仏国の国力を示すと言うより、戦争の陰で自分の財産を減らすことなく生き延びた者が(仏ばかりでなく独にも)いかに多かったか、ということでもありました。
いずれにしても仏政府は集まった金を期限前・早急に賠償金として支払うことを独政府に通告し、これは占領地は無論、早く独軍を追い出したい仏国民(特にパリ)の賛同を得、不安定だった政局をひとまず安定へ導く要因のひとつとなりました。
結果、講和条約の規定による「5億フランの支払い」どころか次回の5億フランに届きそうな額の支払いが7月8日までに行われ、独軍は第2回目の5億フランも支払ったと見なしてオワーズ県、セーヌ=エ=オワーズ県、セーヌ=エ=マルヌ県からの撤退とパリのセーヌ川東方外堡からの撤退も実行に移し、これは8月20日に仏軍に引き渡しを完了するのでした。
これにより独第2師団と第22師団も任を解かれて凱旋の徒に就くことが出来、第11師団も遠からず凱旋が可能ということで、同師団はパリ~ストラスブルク鉄道本線の南方でナンシー~ミルクール~ショーモン~ヴィトリー=ル=フランソワを結ぶ線の内側・直前まで第19師団が守備に就いていた地域に移動して宿営し、エーヌ県に居残っていたバイエルン第2師団は第3回目の5億フラン支払いまではオワーズ県も占領するよう命じられるのでした。この命令に従い、バイエルン師団は10月8日までに歩兵3個大隊と騎兵1個中隊、砲兵1個中隊の支隊をオワーズ県へ移しました(同年10月1日時点で占領軍の給養兵員数は人員72,346名・馬匹19,066頭まで減ります)。
なお、コンピエーニュに置かれていた占領軍司令部は、占領地が東へ退いたことで9月14日、5月まで大本営が置かれていたナンシーへ移動しました。
独の賠償を批判する風刺画
1871年10月12日。仏政府プイエ=ケルティエ財務相は独政府と交渉を行い、賠償金支払いを短期に終わらせることを条件に占領軍の早期撤退、それによる占領費の削減と独領となった旧モセル県のアヴリクールの南側(現ムルト=エ=モセル県のアヴリクール。ナンシーの東46キロ)とイニェ(アヴリクールに南接)、バ=ラン、ムルト=エ=モセル、ヴォージュ三県境のラオン=レ=ローとラオン=シュル=プレンヌを独から取り戻すことに成功しました。
これにより仏は2段階目の10億フラン支払いの内残っている5億フランを72年5月1日までに支払うこととなり、独は支払いを待たず直ちにエーヌ、オーブ、コート=ドール、ドゥー、オート=ソーヌ各県の占領地から一斉に撤退を行うこととなり、前記の支払い終了までこれらの地域には仏軍が入らず中立地とすることになりました。
このため該当する占領地に駐屯していた諸隊は10月22日から撤退行軍を始め、第11と第24師団は帰国・凱旋することとなって列車に乗車し、バイエルン第2師団はアルデンヌ県とムーズ県北部ベルギー国境付近のモンメディ郡、モセル県のブリエ郡とショーモン郊外の野営駐屯地に移動し、第6師団は任地をマルヌ県のまま動かず、第19師団はモンメディ郡を除くムーズ県とムルト、モセル県(ブリエ郡を除く)の仏領部分に移動、第4師団はオート=マルヌとヴォージュ両県とベルフォール地域に移動しました。
なお、第19師団の駐屯地域内となるリュネヴィル(ナンシーの南東25.3キロ)には第4師団所属の騎兵7個中隊と砲兵1個中隊が、コメルシー(同西北西44キロ)に第6師団所属の騎兵7個中隊が宿営することになります。
独仏占領軍は第11、24師団の凱旋と諸大隊定員数を厳格に平時定員に抑えることで講和条約第八条に記された占領軍の「総数5万名」を達成するのでした。
占領軍はこの位置のまま1874年3月2日の賠償金支払い期限まで駐屯する予定になります。
占領軍諸大隊は軍紀を厳格に守るよう指導され、また占領地住民との軋轢に注意するよう命じられ、実際住民から兵士の素行に対する苦情があった場合、厳格に処罰されましたが、マントイフェル将軍ら占領軍首脳が留意したのは、緊張感が失せ軍人として弛緩してしまうことを防止することで、このために普段の訓練や教育も巡察や歩哨などの勤務と同時に本土と変わらず計画的に実施しました。これは連隊単位や旅団単位でも実施され、この年(71年)と翌年の秋には師団単位で本格的な「秋季演習」も実施されるのでした。
独将兵・パリ近郊での記念撮影
1972年6月29日。賠償金の最終支払いのための協議が独仏間で行われ、仏は残りの30億フランを次のように支払うことで合意します。
*5億フラン 協定批准交換後2ヶ月以内に
*5億フラン 1873年2月1日
*10億フラン 1874年3月1日
*10億フラン 1875年3月1日
仏政府が支払いを早めることが出来るのはこの協定直後に敗戦後2回目の国債が発行されるからで、これも愛国心に燃えなけなしの金銭を投じる仏民衆と計算高い銀行家たちにより仏政府は30億フラン以上を集めることが出来たのです。
この内、第1回目の5億フラン支払い後に独軍はマルヌ県、オート=マルヌ県の両県から撤退し、最後の10億フラン支払いでヴォージュ県、アルデンヌ県から撤退することと決まりました。
この協定の批准交換は72年7月7日に行われ、第1回目の5億フラン支払いはちょうど2ヶ月後の9月7日に実施されましたが、独軍の撤退は直ぐに実施出来ず11月4日に開始されました。これは退いた部隊が新たに入る宿舎を残された占領地に建設する責任を負った仏政府がその建築に手間取り時間が掛かったためでした。
このマルヌ、オート=マルヌ両県から撤退後の72年11月18日、独占領軍の配置は次のようになりました。
第4師団は西部のヌシャトー(ナンシーの南西52キロ)とクセ(ヌシャトーの北6キロ)を除くヴォージュ県とベルフォール地域に、第19師団はムルト県とブリエ郡を除くモセル県の仏領部分に、第6師団はモンメディ郡を除くムーズ県とヌシャトー、クセ両部落、バイエルン第2師団はアルデンヌ県とモンメディ、ブリエ両郡となりました。
1872年12月初旬、予定より3ヶ月も早く通算30億フラン目の賠償金支払いが完了します。翌73年に入ると仏政府は1874年3月支払予定の10億フランの内大部分を近日中に支払うことを独政府に通告しました。これで仏政府は残りの賠償金も極短期日で支払いを終えることを匂わせたのです。
この通告から間もない73年3月15日に最後の賠償金に関わる協定が結ばれ、仏は同73年5月5日までに10億フランを、残り10億フランは同年6月5日、7月5日、8月5日、9月5日の4ヶ月に渡って2億5千万フランずつ支払うことを約束し、独占領軍は7月5日の支払い(残り5億フラン)を終えたことを確認後、全ての占領地から撤退を始めることを約束しました。但しベルダン要塞に守備隊1,000名を残し、国境からベルダンまでの後方連絡兵站線沿線の土地を最後の担保として賠償金完済まで残すことを約したのです。
占領軍はベルフォール要塞、トゥール要塞、メジエール要塞の防備を外し守備隊を解散・撤退させた後の73年8月2日、前述のベルダン要塞を除き全ての部隊が帰国を開始しました。
ベルダン要塞の処遇はマントイフェル将軍とサン=ヴァリエ伯爵の仲介により仏政府との間で決定されます。ベルダンには占領軍司令部が移動し、独第12旅団(第6師団)・槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊の第1中隊・野砲兵第3連隊の第3大隊本部と重砲第5,6中隊、工兵第3大隊の第3中隊、要塞砲兵第3連隊の第6中隊、要塞砲兵第10大隊の第2,4中隊、第3軍団の第3糧食縦列が最後の占領軍部隊としてベルダンと後方連絡線守備に就きました。
約束通り73年9月5日に賠償金最後の2億5千万フラン支払いが完了すると独政府はマントイフェル将軍に占領軍の完全な独本国への撤退を命じました。
9月13日早朝。マントイフェル将軍は第12旅団から抽出されたベルダン守備隊を率い要塞を後にします。この部隊を最後尾としてメッツ西の国境までの間で「最後の」後方連絡線となっていたベルダン~エテン~コンフラン~メッツの街道沿いに展開していた守備隊の撤退も始まり、将軍は強行軍なら2日の行程(約60キロ)を惜しむようにゆっくりと辿りつつ9月17日、3年前の激戦地、グラヴロット北西・ヴェルネヴィルの南西側で「新」国境を越え、メッツからやって来た要塞総督府の参謀士官たちに迎えられました。
「閣下。お疲れ様でした」
敬礼交換の後、差し出された右手に主席参謀は破顔しその手を受けました。
「お帰りなさいませ」
普仏戦争はこの瞬間その後始末を含め全てが終了したのです。
(手前左から)モルトケ、皇帝、皇太子(皇太子の左)ローン、(同右)ビスマルク




