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パリ・コミューンの動乱勃発と独軍(附・ベルサイユ軍戦闘序列)


 パリ・コミューン。大概は1871年3月18日から同5月28日までの72日間に及ぶ「フランス共和国の内乱」を示す言葉で、実際は同年3月28日パリで宣言され成立した世界初の社会主義自治政府を示すようです。史上「パリ・コミューン」と呼ばれる2番目(最初は1789年のいわゆるフランス革命時に成立)の出来事ですが、筆者の主目的は「独帝国成立までのモルトケ率いる参謀本部が関わった戦争の戦史」ですから、ここは桂圭男先生一連の著作やアンリ・ルフェーブルの「パリ・コミューン」など学術研究やその意義を問う名著が数多あることで詳細はそちらに譲り、またベルサイユ軍については戦闘序列などを記すだけに留め、コミューンがパリで行った政策や戦闘、1871年5月21日から28日までの凄惨な「血の週間」に関しても他に譲ることとします(繰り返しますが史料は幾多あります)。


 ここでは主としてコミューンの争乱に至るまでの経緯を簡単に記し、内乱期間にパリ近郊にいた独軍や独大本営などがどういう行動をしていたのかを記したいと思います。


 3月18日前後のこと。独軍は既に仮講和条約第三条に従い殆どの部隊が新たな宿営・駐屯地へ移動し多くの後備諸隊が帰国し始めていました。短くも激しい戦いや厳冬期の行軍など艱難辛苦を経た後の将兵の頭の中は「これで故郷に帰れる」との想いで一杯だったはずで、運悪く仏や新国土に駐留することとなった将兵にしても、戦闘のない状態を満喫し占領地で優遇される身分を楽しむしかない、などと諦め半分期待半分だったはずです。

 これは大本営始め参謀本部や各軍本営でも同じだったはずで、この雰囲気では仏で発生した「内乱」など「楽しみに水を差す厄介事」でしかなかったのでした。

 勿論ビスマルク始め政治とモルトケ始め軍事の両首脳陣も、仏で内乱が発生するのではないか、との予測が一部にあった(コミューンの予兆は既にパリ攻囲中に見られました)ので、不意を突かれて混乱するという状態ではなく、冷静に「仏新政府を後援するものの介入はせず傍観して警戒する」態度を取るのでした。


 2月8日の選挙ではパリの各選挙区で共和党左派(今更ですがここで言う「党」は「主義を同じくする一派」という意味で現在の日本人が思い浮かべる「政党」ではありません)やいわゆる極左(社会主義者、共産主義者や無政府主義者など)まで多くの革新派閥に属する人々が当選し、穏健な中道派閥や国王復活を画する王党派は惨敗しました。しかし地方では王党派の躍進が著しく他は中道一派ばかりで左派は全体の10%に満たない状況となります。「新政府」の長には王党派(保守右翼中道)の一つオルレアン派出身でも共和党中道派(当時は共和党も立派な左翼です)と協調するアドルフ・ティエールが就任し、最終的にはブルボン家オルレアン家が協力して王政復古を目指し左翼の弾圧が始まるのでは、と左派が警戒する動きを見せました。2月26日にはベルサイユで仮講和が結ばれ50億ルーブルの賠償金とアルザスとロレーヌ北部が独に併合されると発表されたため、独と最後まで戦えと声高に訴える左派が「支配」するパリではいよいよ雲行きが怪しくなるのでした。


 既にパリでは2月中旬に共和党左派と革命を指向する極左の融合を図る会議が開かれて「コミューン」の成立を目指すことが決定され、独仏休戦協定で解散せず武器の所有も許された国民衛兵(パリでも中流以下貧困層出身者が大多数でした)も左派に感化されて急速に「革命市民軍」の様相を呈していました。パリ市内の武器庫では独軍へ引き渡される予定だった大砲始め武器弾薬の市民による奪取・勝手な移転が多発し、休戦で認められていた12,000名の「正規軍」(実体はほぼ護国軍兵です)では抑えることが出来ず、中には市民に同調する兵士も現れます。その中で迎えた仮講和成立と3月1から3日の独軍「象徴的な」パリ占領(左派勢力の強いパリ北・東部を避け富裕層が多い西部の一部に展開しました)は、ティエールたち新政府と革命指向のパリとの間を完全に分断してしまうのでした。独軍パレードの裏では「黒い掲示」が左派指導層により張り出され、これはパリの住人と国民衛兵に対し独軍を挑発したり攻撃したりせず自制するように訴える内容でした。彼らとしても先ずはティエール政権との対決で、独軍に手を出せば革命も夢で終わると分かっていたのです。歓声を上げるはずもない一部市民が見つめる不気味に静まりかえったパリ市街に独軍の軍楽隊が演奏する「パリ入城行進曲」や軍靴が正に鳴り響くという状況は、ティエールたちにもパリが爆発寸前にあると痛いほど伝わりました。


 3月6日。ティエール政権は国民衛兵の司令官としてあの分割前最後のロアール軍司令官だったルイ・ジャン・バプティスト・ドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍を任命し、左傾化する国民衛兵を「シャンとさせる」よう期待しますが、パリの国民衛兵は既に2月下旬に自主的な委員会組織を立ち上げ、政府の命令を無視し指揮官を勝手にすげ替えており、ドーレル将軍もお手上げだったはずです。

 8日には市民によってヴァンドーム広場に集められていた大砲を撤去しようと政府軍が動きますが市民の強い抵抗に遭い、政府側はこの時は強硬策を採らず諦めて引き上げます。

 10日。ボルドーの国民議会は抵抗が予想されるパリへの移転を諦め、一時ベルサイユへ移転することを決しました。

 16日には「パリは首都であり正規の政府所在地である」ことを内外に示し「パリ市民との融和を図る」ためにティエール政権はパリ市内に移動します(ティエールはパリに私邸がありました)。ここで空席だったパリ警察庁の長官にパリ軍の師団長だったルイ・エルネスト・ヴァレンティン将軍が指名されます。

 3月17日。ティエール行政長官はパリ市長のジュール・フェリー、警察庁長官ヴァレンティン将軍、国民衛兵隊長ドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍、パリ軍事総督ジョセフ・ヴィノワ将軍らを呼んでパリ市内外務省の会議室で会議を行います。内容はパリにおける左派の動きを封じ込めるための方策で、ベルヴィル地区とモンマルトル地区に市民らによって集められていた砲列を解放し、命令に従わない国民衛兵の武装解除を行うよう決するのです。この作戦を指揮するヴィノワ将軍は本営をルーブル宮に置きました。


 仏政府のパリ駐在軍は当時男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル将軍、ジョセフ・ファロン将軍、ルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ将軍それぞれが率いる3つの師団と警察庁直属の師団からなります。

 3月18日に出動した兵力と目標は以下の通りでした。

 シュスビエル師団はクロード=マルタン・ルコント将軍(北部軍で活躍後パリに潜入し第二次ビュザンヴァルの戦いに参戦しています)率いる旅団とフランシス・パテュレル将軍(同じくパリ軍)が率いる旅団からなり、その兵員は正規軍の戦列歩兵、共和国防衛隊、国家憲兵隊などからなるマルシェ連隊とミトライユーズ砲の小隊も含む約4,000名でした。主力はマルシェ第45連隊、同第46連隊、同第88連隊、同第137連隊でした。目標は9区の北縁から18区に掛けて、つまりモンマルトルです。

 ファロン師団は約6,000名が出撃し兵員は正規軍の戦列歩兵、共和国防衛隊、国家憲兵隊などシュスビエル師団と同様の構成でしたが、ミトライユーズ砲と野砲からなる砲兵中隊が付属していました。目標はベルヴィル地区(20区)で、ビュット=ショーモン公園(19区)やその北のメニルモンタン地区に北駅、東駅も占拠される予定でした。

 モーユイ師団は市庁舎、バスティーユ広場、シテ島、オーステルリッツ橋、アーセナル河岸など、パリ中心地を抑えることになります。

 ヴァレンティン将軍の警察庁部隊は市庁舎横のロバウとシテ両警察署の武装警察官と戦列歩兵1個連隊そして共和国防衛隊からなり、チュイルリー、コンコルド広場、シャンゼリゼを制する予定でした。


 3月18日午前3時。パリ駐在軍各師団の作戦部隊は営舎を出発します。しかし大砲を曳く馬匹と御者の集合が遅れ、市民に気付かれる前に大砲を撤去する目論見は外れます。

 午前6時。モンマルトルの丘の砲列陣地に一人の国民衛兵軍曹が現れ、砲兵陣地を護っていた国民衛兵に話し掛けます。実はこの軍曹は共和国防衛隊の兵士で、彼が衛兵たちの気を引いている間に忍び寄ったルコント旅団の兵士が奇襲、守備隊を追い出すと400門近い砲が並べられていた砲兵陣地を占領しました。この際一人の国民衛兵が死亡し、これが後に続く大きな災厄の始まりとなります。

 30分後。三発の空砲がモンマルトルに鳴り響き大砲を搬出しようとしていたルコント将軍たちの前に多数の女性を伴った国民衛兵集団が現れ、大砲の前に立ち塞がり抗議の声を上げました。数門の大砲が丘を降りて行きましたが多くが脚止めを食い、旅団の兵士たちは国民衛兵たちと睨み合います。

 午前8時にルコント将軍が麾下の国家憲兵隊に対し大砲を運搬出来るように群集を押し戻すよう命じますが、これを勘違いしたのか兵士の一人が発砲、すると国家憲兵隊員と戦列歩兵の一隊が国民衛兵に対し銃撃を開始し国民衛兵側も応戦、女性たちは逃走しますが銃撃は直ぐに止み、これ以上同胞同士流血を望まなかった第46連隊と第88連隊の兵士は銃床を上に向けて戦意のないことを示しました。これで国家憲兵と少数の騎馬憲兵は撤退を始めてしまいます。対峙する国民衛兵の殺気に危険を感じたルコント将軍は国民衛兵や駆け付けた群衆に向け発砲を命じますが、戦列歩兵たちはこれ以上の戦闘拡大を拒絶し勝手に離脱し始めてしまうのでした。

 残されたルコント将軍は「逮捕だ!」と叫ぶ群衆に押された国民衛兵によって馬上から引き擦り降ろされて捕縛されてしまい、午前9時頃、国民衛兵の首脳陣が集合していたシャトー・ルージュ地区(18区でサクレクール寺院の東側の地区)へ連行されます。

 ほぼ同じ頃、パテュレル旅団でも任務を投げ出し撤退する兵士が続出し、シュスビエル将軍が直率していた部隊も相次いで任務放棄が発生し、師団は全く解散状態に陥りました。

 市内は一気に蜂起の様相を呈し、午前10時にはファロン師団の兵士も市民に対する攻撃を拒否して任務を放棄し、通りには次々にバリケードが出現しました。「名目上の国民衛兵司令官」となっていたドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍は政府に忠実なパリ西部と中心街の国民衛兵を率いて左翼化した国民衛兵部隊を攻撃しようと招集を掛けますが、12,000名の内600名だけが命令に応じるという体たらくで攻撃は行われませんでした。ヴィノワ将軍も異変を聞き及ぶとエコール・ミリテール(陸軍学校)の職員と学生をセーヌ左岸へ避難させます。しかし各所で部下に見捨てられた多くの士官が国民衛兵と民衆に捕らえられてしまいました。

 午後1時頃、ルコント将軍は群衆ひしめく中罵声を浴びながらモンマルトルへ連行され、その場所には左翼から蛇蝎のごとく嫌われていたクレマン・トマ将軍もいました。


挿絵(By みてみん)

大砲を奪い返すパリ民衆


 クレマン・トマ将軍は既述通り1848年の革命(6月蜂起と呼ばれます)時、多くの労働者を弾圧し処刑した人物で、それは将軍にとっては単に命令を守っただけ、治安維持のための行動でしたが極左の人間にとっては「いつか仕返しをする」仇だったのです。将軍はこの日、危険を察知して私服を着用しパリを脱出するつもりだったようですが、目立つ白いあごひげのために通り掛かった国民衛兵に発見され拉致されたのです。

 午後2時にはパリ東部は国民衛兵と民衆によって完全に支配され、国民衛兵の中央委員会は全ての大隊に「パリ市庁舎へ集結」するよう命じました。

 市庁舎では政府閣僚の意見が割れています。直ちに武力制圧を説く者や一旦パリ西部に集中して反撃の準備をするよう訴える者など様々でしたが、午後3時に中央官庁街にも反乱側に付く国民衛兵が現れて示威的なパレードを始め、それはパリが経験した1789年の、1830年の、1848年の革命と全く同じ光景で、ティエールらは「愚図愚図していられない」とばかり市内に居る政府職員と駐屯軍の一斉退去を命じ、パリ市庁舎や官庁街にいたティエールや閣僚たちは急ぎ西側・穏健な市民(上流階級)が多い地区へ逃走し、やがてセーヌを渡ってベルサイユへ逃げ延びたのでした。

 午後5時過ぎ。ロシエ通り(サクレクール寺院大聖堂が作られた時に壊され、現在のサクレクール寺院の北、シュヴァリエ・ドゥ・ラ・バール通りがその一部です。現在4区に在るロシエ通りではありません)の一角にある警察哨所に捕えられていたクレマン・トマ将軍とルコント将軍は、押し寄せた群衆に通りへ引き出されて酷い暴行を受け、二人とも虐殺されてしまいました(一部史書やモンタージュ写真では「壁を背に立たされ、パリ市民の側に寝返った第88連隊の兵士らにより銃殺された」とされています)。

 残りの指揮官たちは急速に過激化する市民に慌てた左翼指導者たちがこれ以上の私刑を禁じたために助かり、やがてパリ市外へ追放されるのでした。


挿絵(By みてみん)

銃殺されるクレマン・トマ将軍とルコント将軍(モンタージュ写真)


 革命に我を忘れて参加してしまった一部の兵士を除くパリ駐屯軍はベルサイユに集合して政府を護り、独軍に「パリが蜂起し政府はベルサイユに避難した」と通報します。既に遠くナンシーに在った独大本営はこの一報を受けると従来からの方針である「やむを得ない理由なく他国の内乱には干渉せず、自軍の安全を妨げない限り正当な政府官憲に援助を与える」方針を徹底し行動するよう各軍本営に通達を出し、モルトケ参謀総長名で次の主旨の訓令を与えました。

「各自管轄区域内において革命運動が発生した場合、これを直ちに鎮圧せよ。また首都パリに向け革命応援の軍勢を送ろうとする動きも弾圧せよ。仏国正統政府から要請が在った場合はその希望に沿うよう努めよ」


 パリで異変が発生したことはパリ東方の分派堡に駐屯していた独第三軍の将兵にも直ぐに察知され、通報を受けた本営は追って届いた大本営からの訓令に従い、既に兵を引き上げ巡視だけ行っていた各分派堡間の前哨線に兵士を配置して警戒にあたり、最終段階となっていたセーヌ右岸への撤退行動を一時中断しました(当座危険がないことが分かり直ぐに再開します)。

 3月23日、既述通りパリ周辺では独軍の撤退が完了しますが、独軍は出撃命令一下全力で事に当たるよう訓令が行き届き、大本営はパリの左翼革命指導者に対して書簡を送付し、それによれば「もし諸君等が独軍に正面相対して行動を起こせば直ちに市街を砲撃する」とのことでした。


挿絵(By みてみん)

3月18日のバリケード(バスティーユ広場)


※3月24日・独軍のパリ指向重砲陣

○ラ・ブリシュ堡/9門

○サン=ドニ市街南部/11門

○ドゥ・レスト堡/14門

○オーベルヴィリエ堡/25門

○ロマンヴィル堡/28門

○ノアジー堡/18門

○ラ・フェザンドリ角面堡/7門

○グラヴェール角面堡/10門

*シャラントン堡では既に大砲が撤去された後だったため、バイエルン6ポンド(重)砲1個中隊が要塞重砲18門が設置されるまで配されました。

*これら分派堡など砲陣には要塞砲兵11個中隊が配されました。また予備として同9個中隊がブルー、スブラン、ヴィリエ=ル=ベルに置かれた砲兵厰に待機し、ヴィリエ=ル=ベルには要塞重砲51門が何時でも運び出せるよう置かれます。これ以外の要塞砲兵と要塞工兵諸中隊は本国帰還が止まることなく続行されました。


 パリのコミューン政権も独軍陣地を攻撃すれば藪蛇だということはよく知っており、頭に血が上った下層市民たちを抑えつつ、まずは足下を固めコミューンを盤石にすることとベルサイユに対する攻撃を企画することに熱意を傾けます。

 こうしてコミューンが首都を完全に支配し、外(東や北側・独軍支配地)に撃って出る可能性が殆どなくなったと判断した大本営は4月2日、独第三軍(既にマース軍も合流しています)に対し「通常の警戒任務に復帰せよ」と命じますが、再び警報が発せられた場合は速やかに前哨線に戻れるよう油断することなく、とも訓令を発するのでした。


挿絵(By みてみん)

コミューン成立(1871.3.28)


 パリ・コミューンは更に南仏を中心とする各地にも伝播し蜂起する街も現れますが、パリ以外では一部の暴徒に多くの市民は同調せず、殆ど数日で鎮圧されてしまいます。とは言うものの、独軍では第一軍、第二軍、南軍の占領地こそ平穏で問題は起きませんでしたが仏国駐留独軍の員数自体を減じる帰還行動は一時中断されてしまいます。これにより足止めを食ったのは第17師団で、揚々凱旋途中のアルデンヌ県メジエール付近で停止を命じられ、しばらく同地周辺で待機する羽目になったのでした。


 仏ティエール政権(史書では「ベルサイユ政権」と呼ぶことが多いようです)は独政府に対し「暴徒を鎮圧するため軍の兵力を増大する必要がある」として「パリ周辺兵力の鎮圧作戦使用」と「捕虜の帰還」を要望しました。

 このため、3月28日にルーアンにて元ベルサイユ総督フォン・ファブリース中将が大本営からの委託を受けて、行政・外交・法令等の専門家を率いて仏側と交渉を行い、協定を結びます。

 これにより、仏ベルサイユ政権はベルサイユ周辺に集合させた軍を「パリの暴徒に対する軍事行動」と「ベルサイユにある国民議会を守ること」にのみ使用し、この兵員数を1万名の国民衛兵に護国軍兵を合わせて8万名まで増加することが許され、この兵員充足のためブザンソン、オーセール、そしてカンブレに増加兵員の集合地を設けることと、この増加兵員を輸送するに当たって独軍占領地内を通過する場合は当地の独軍から輸送の援助を受けることが出来ることとなりました。


 既に3月11日、仮講和条約で規定された捕虜送還につきその実施に係る軍事協定が独仏間で結ばれており、その輸送ルートはメッツ~シャルルヴィル(=メジエール)線、ストラスブルク~リュネヴィル線、ミュールハウゼン(ミュルーズ)~ブズール線と定められていました。しかし送還は仏側が用意するはずの機関車や列車の供給遅れと各端末停車場に差配する捕虜受取委員の到着遅延で大いに遅れていました。

 これに加えてパリでのコミューン成立で仏国が情勢不安となり、独側も捕虜の解放には慎重を期すしかなくなります。これは独本土内で捕虜となっていた将兵は仏本土にある仏軍将兵と違い戦前から訓練を受けた「精鋭たち」で、中にはコミューンに賛同し加入する者も居るのではないかとの疑いがあったからでした。このため、「ルーアン協定」では「当初解放する捕虜は戦列歩兵2万、残りは国民衛兵と護国軍兵に限る」とするのでした。

 独第三軍はこの時(3月下旬)2日間で20万名の将兵をパリ近郊に集合させることが可能なように差配しており、ティエールらベルサイユ政権が使用可能な兵力を圧倒すること間違いが無いようにしていたのです。


 4月2日にパリ・コミューン側はベルサイユを攻撃しようと動きましたがベルサイユ政権(ヴィノア将軍指揮)は翌日に掛けてこれを撃退し、4日に「ベルサイユ軍」は南郊のシャティヨン高地とセーヌ左岸をセーブルからクルブボアまで占領しました。これでベルサイユは安泰となり、またベルサイユ軍がパリに進撃するための「足掛かり」が出来たのでした。

 この間も独から続々と将兵が帰還し集合地点で隊列を組むとベルサイユまで行軍して来ました。最終的に「ベルサイユ軍」はパトリス・ドゥ・マク=マオン大将に任され、6個の軍団以下師団、旅団指揮官もセダンやメッスで捕虜となっていた者や普仏戦で健闘した経験豊富な指揮官たちが任命されたのです。


挿絵(By みてみん)

独仏休戦直後2月上旬のイッシー堡


 4月25日にベルサイユ軍はパリ侵攻への第一歩としてコミューン軍が占拠するヴァンヴとイッシー両分派堡の攻略を開始し、イッシー堡はジョセフ・ファロン将軍師団約2万名により包囲攻撃を受け、激しい砲撃戦の後5月10日にコミューン軍が退去したことを発見したベルサイユ軍が確保し、ヴァンヴ堡は同13日同じくベルサイユ軍が占領しました。


 この間、独仏政府は正式な講和条約の協議を続け、パリのコミューン政権が次第に内部抗争と先鋭化で陰りを見せる中、5月10日に署名されるのです。


挿絵(By みてみん)

ベルサイユ軍砲撃後のイッシー堡


挿絵(By みてみん)

パリ・コミューン後のヴァンヴ堡


※1871年5月のベルサイユ軍


 マクマオン将軍の記録によりウィキペディアも参考としますが、マクマオン将軍は「元帥」との記述もあります。また、一人を除き旅団以上の指揮官は「准将」「少将」またはそれ以上の階級(少将以上は任務による臨時階級)があったと思われますが、戦時昇進もありそれが仮講和条約発効後も有効だったのか、はっきりしていないため全て「将軍」としました。

 所属部隊についても砲兵の記録を探せず不詳です。更に「マルシェ」「戦列歩兵」「仮」等どういう基準かも不詳ですが、想像を許して頂くならば、「マルシェ」はそれまでの護国軍を中心とした部隊、「戦列歩兵」はパリ軍や一部地方軍で戦っていた正規軍部隊の「末裔」、「仮」は捕虜から復帰した将兵と妄想しますが如何でしょうか?


総指揮官 マクマオン伯爵・マジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ドゥ・マク=マオン大将

挿絵(By みてみん)


◇第1軍団 ルイ・レネ・ポール・ドゥ・ラドミロー将軍

挿絵(By みてみん)


◎第1師団  フランソワ・グレニエ将軍

○第1旅団 アントニー・ドミニク・アバチュシー将軍

・マルシェ第48連隊

・マルシェ第54連隊

・マルシェ第87連隊

・セーヌ=エ=オワーズ県の義勇兵大隊

○第2旅団 エルネスト・エマニュエル・プラディエ将軍

・マルシェ第10連隊

・マルシェ第51連隊

・マルシェ第72連隊

・セーヌ県の義勇兵大隊

◎第2師団 ラヴォークペ伯爵シルヴァン=フランソワ・ジュール・メルレ・ドゥ・レ・ブルジエール将軍

○第1旅団 シャルル・ジョセフ・フランシス・ウォルフ将軍

・第23猟兵大隊

・マルシェ第67連隊

・マルシェ第68連隊

・マルシェ第69連隊

○第2旅団 ジャン=フランシス・アンリオン=ベルティエ将軍

・第2猟兵大隊

・マルシェ第45連隊

・マルシェ第135連隊

◎第3師団 ジャン=バプティスト・アレクサンドル・モントードン将軍

○第1旅団 ジョセフ・ウジェーヌ・デュモン将軍

・第30猟兵大隊

・マルシェ第39連隊

・外人部隊第1連隊

○第2旅団 アドルフ・エルネスト・フェリクス・ルフェーヴル将軍

・マルシェ第31連隊

・マルシェ第36連隊

・戦列歩兵第119連隊

◎軍団騎兵旅団 ガストン・アレクサンドル・オーギュスト・ドゥ・ガリッフェ将軍

・猟騎兵第9連隊

・猟騎兵第12連隊


◇第2軍団 エルネスト・ルイ・オクターヴ・クルト・ドゥ・シッセ将軍

挿絵(By みてみん)


◎第1師団 マリエ=オーギュスト=ロラン・ルヴァソール・ソルヴァル将軍

○第1旅団 ジュール・ピエール・ジョセフ・ラアン将軍

・第4猟兵大隊

・マルシェ第82連隊

・マルシェ第85連隊

○第2旅団 オーギュスト・アドルフ・オスモン将軍

・戦列歩兵第113連隊

・戦列歩兵第114連隊

◎第2師団 ベルナール・ドゥ・シュスビエル将軍

○第1旅団 ルイ・アルフレート・ボシェ将軍

・第18猟兵大隊

・マルシェ第46連隊

・マルシェ第89連隊

○第2旅団 フランシス・ジュスタン・パチュレル将軍

・第17猟兵大隊

・マルシェ第38連隊

・マルシェ第76連隊

◎第3師団 シャルル・ニコラス・ラクレテル将軍

<所属部隊不詳>


◇第3「騎兵」軍団 フランシス・シャルル・デュ・バライユ将軍

挿絵(By みてみん)


◎第1師団(騎兵) ジョセフ・シャルル・アルナ・デュ・フレテ将軍

○第1旅団 シャルルマーニュ・アントニー・シャルルマーニュ将軍

・驃騎兵第2連隊

・驃騎兵第3連隊

・驃騎兵第8連隊

○第2旅団 フランシス・シャルル・ルイ・ドゥ・ラジャイル将軍

・猟騎兵第7連隊

・猟騎兵第11連隊

◎第2師団(騎兵) マルグリット・ジャック・ヴィンセント・オクターヴ・デュ・プルイ将軍

○第1旅団 ジャック・アベル・クーザン将軍

・竜騎兵第4連隊

・胸甲騎兵第3連隊

○第2旅団 ジャン=フランシス・ダルジャントル将軍

・竜騎兵第8連隊

・竜騎兵第9連隊

◎第3師団(騎兵) ジャン・ジャック・ポール・フェリクス・レセール将軍

○第1旅団 フランシス・ジュスタン・レモンド・ドゥ・ピエール・ドゥ・ベルニ将軍

・猟騎兵第6連隊

・竜騎兵第7連隊

○第2旅団 ジョセフ・バシュリエ将軍

・胸甲騎兵第4連隊

・胸甲騎兵第8連隊


◇第4軍団 フェリクス・シャルル・ドゥエー将軍

挿絵(By みてみん)


◎第1師団 ジャン=オーギュスト・ベルトー将軍

○第1旅団 ファビアン・ピエール・エドモンド・ガンディ将軍

・第10猟兵大隊

・戦列歩兵第26連隊

・戦列歩兵第5連隊(仮・臨時編成)

○第2旅団 シモン・ヒューバート・カルテゥレ=トレクール将軍

・戦列歩兵第94連隊

・戦列歩兵第6連隊(仮・臨時編成)

◎第2師団 レリティエ将軍(ナポレオン1世の騎兵将軍レリティエの子息ですが4人のうちの誰かは特定出来ませんでした)

○第1旅団 ラウール・ポール・ウジェーヌ・レ・ロワ・ドゥ・ダイ将軍

・マルシェ第55連隊

・マルシェ第58連隊


◇第5軍団 ジュスタン・クランシャン将軍

挿絵(By みてみん)


◎第1師団 ルイ・メデリック・ジョルジュ・フレデリック・アンリ・エロイ・ウジェーヌ・デュプレシス将軍

○第1旅団 フィリップ・マリエ・アンリ・ロセール・ドゥ・クルシー将軍

・戦列歩兵第1連隊(仮・臨時編成)

・戦列歩兵第2連隊(仮・臨時編成)

○第2旅団 オメル・アルセーヌ・アンドレ・ブロ将軍

・戦列歩兵第3連隊(仮・臨時編成)

・戦列歩兵第4連隊(仮・臨時編成)

◎第2師団 イシドロ・テオドール・ガルニエ将軍

○第1旅団 ジョセフ・ドゥ・ブラウアー将軍

・戦列歩兵第13連隊(仮・臨時編成)

・戦列歩兵第14連隊(仮・臨時編成)

○第2旅団 アンリ・ウジェーヌ・アレクサンドル・コトレ将軍

・戦列歩兵第15連隊(仮・臨時編成)

・戦列歩兵第17連隊(仮・臨時編成)


◇予備軍団 ジョセフ・ヴィノワ将軍

挿絵(By みてみん)


◎第1師団 ジョセフ・ファロン将軍

○第1旅団 ルイ・コンスタン・ロラン・ドゥ・ラ・マウリーズ将軍

・戦列歩兵第35連隊

・戦列歩兵第42連隊

○第2旅団 ジョセフ・バーソロミュー・クサヴィア・デロジャ将軍

・戦列歩兵第109連隊

・戦列歩兵第110連隊 

○第3旅団 アレクシス・フロリモン・ベルトー将軍

・第22猟兵大隊

・マルシェ第64連隊

・マルシェ第65連隊

◎第2師団 エミール・マウリーズ・ブリュア将軍

○第1旅団 ウジューヌ・シャルル・フィルミン・ドゥ・ベルナール・ドゥ・セーニュラン将軍

・マルシェ第74連隊

・海軍戦列歩兵第1連隊

・海軍フュージリア第2連隊

○第2旅団 エミール・ジョセフ・マリエ・ラ・モルダン・ドゥ・ラングーリアン大佐

・マルシェ第75連隊

・海軍戦列歩兵第2連隊

・海軍フュージリア第1連隊

◎第3師団 シャルル・ニコラ・バージ将軍

○第1旅団 ジョセフ・オーギュスタン・ユジューヌ・ダゲール将軍

・第26猟兵大隊

・マルシェ第37連隊

・マルシェ第79連隊

○第2旅団 ジャン・シャルル・モーリス・グレミオン将軍

・第26猟兵大隊

・マルシェ第90連隊

・マルシェ第91連隊



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