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独軍の占領地配置転換と本国帰還の開始


 独軍は僅か3日間の象徴的パリ占領を終えた後、仮講和条約第三条に従い賠償金の担保となる占領地以外からの撤退と、新領土となるエルザス州とロートリンゲン州(この時点ではまだ名称は仮です)への守備隊配置を開始するため、3月4日に仏軍との間で独軍撤退のための手順を定めた軍事協定を結びました。これに従い大本営は各軍本営に対し、最初に実行すべきセーヌ川以西地域からの撤兵と必要となる軍隊の移動、そして新領土最初の守備隊となる諸隊を発表し、諸隊の新たな宿営駐屯地を示し可能な限り早期に移動を完了するよう命じました。


挿絵(By みてみん)

パリの独軍パレード(1871.31.)


※1871年2月26日・仮講和条約と休戦協定実施に関する大本営命令


一.仏国領土及び独国新領土所在の後備大隊、予備猟兵大隊、予備騎兵連隊、予備砲兵中隊及び新領土駐在守備の任務を受けない歩兵連隊補充大隊は可能な限り速やかに独本国へ帰還すること。


二.次の諸隊にエルザス州などへの駐屯を命じる。

◎普王国軍

○擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊

○第14「ポンメルン第3」連隊

○第60「ブランデンブルク第7」連隊

○第47「ニーダーシュレジエン第2」連隊

○第22「オーバーシュレジエン第1」連隊

○第17「ヴェストファーレン第4」連隊

○第25「ライン第1」連隊

○竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊

○槍騎兵第4「シュレジエン第1」連隊

○竜騎兵第14「クールマルク」連隊

○竜騎兵第15「シュレジエン第3」連隊

○槍騎兵第15「ハノーファー」連隊

○野砲兵第8連隊・第2大隊

○野砲兵第11連隊(騎砲兵大隊と第1大隊のみ)

○普要塞砲兵第8連隊・第2中隊

○ハノーファー要塞砲兵第10大隊

○ヘッセン要塞砲兵第11大隊

○工兵第5大隊(旧第5軍団工兵大隊)

○工兵第9大隊(旧第9軍団工兵大隊)

◎その他諸邦軍

○独第92連隊(ブラウンシュヴァイク公国軍)

○ザクセン王国擲弾兵第1「親衛」連隊(独第100擲弾兵連隊)

○バイエルン王国歩兵第2「皇太子」連隊

○ヴュルテンベルク王国擲弾兵第1「王妃オルガ」連隊(独第109擲弾兵連隊)

○バイエルン王国歩兵第1「国王」連隊

○ザクセン王国要塞砲兵第12大隊

以上諸隊は従前の所属団隊を離脱し現在の後方守備諸隊と交代するため速やかに鉄道を利用してエルザス州等別途命令される各地へ赴任すること。


三.第7軍団は大本営直轄となりムーズ、ヴォージュ両県とムルト、モセル両県で仏領として残留する予定の地域を占領すること。このため可能な限り速やかに総督府所属守備隊と交代すること。但し第60連隊は前掲のようにエルザス領域内守備隊となり、第72連隊は一時第10軍団に転属しその後の行動に関しては同軍団の指揮を仰ぐこと(第60、72連隊はクネゼベック大佐支隊として第7軍団に隷属していました)。予備槍騎兵第5連隊は本国へ帰還すること。


四.第12「ザクセン王国」軍団は大本営直轄となりエーヌ、アルデンヌ両県を占領すること。ヴュルテンベルク王国野戦師団は大本営直轄となりマルヌ県を占領すること。これら諸県の総督府所属守備隊との交代は可能な限り速やかに完了すること。


五.第一軍はこれ以降ソンム、セーヌ=アンフェリウール両県とウール県のセーヌ右岸部分並びにジゾー~ボーヴェ~ブルタイユ~アミアン街道(現・国道D981~D1001号線)を境界線とするオアーズ県西部(前掲沿道各地を含む)に宿営し、セーヌ左岸からは全て撤退すること。フュージリア第33連隊は(エルザス方面へ向かう)擲弾兵第5連隊に代わって第1軍団に転属すること。第81連隊は一時第8軍団に転属すること。第19連隊は鉄道により第5軍団へ輸送されること。

近衛軍団と第12軍団から派遣中の諸団隊は速やかに所属団隊へ帰還すること。

騎兵第5師団はマース軍の指揮下となるべくフォン・ストランツ少将の混成騎兵旅団と第5軍団予備砲兵第3中隊は直ちに(先行し)メジエール方面へ向かい出立すること。この行軍日程と進捗は直接大本営へ報告せよ。


六.第二軍は第3、第9、第10の三軍団並びに第2、第6両騎兵師団によりロアール~セーヌ間を東方へ行軍し、オーブ川の河口からセーヌ水源地(ディジョンの北西30.5キロ)に至るまでの間(の東側)、オート=マルヌ県とオーブ県のセーヌ右岸、コート=ドール県のセーヌ右岸に宿営すること。このコート=ドール県における南方境界はセーヌ水源地と(オート=マルヌとコート=ドール県境の)グランセ=ル=シャトー(=ヌヴェル。ラングルの南西31.5キロ)とを結ぶ線とする。

第4軍団はマース軍に、騎兵第4師団は第三軍に、騎兵第1師団は南軍に、それぞれ転属すること。

第10軍団では第17、第92両連隊が(エルザス領域内守備隊となり)転属するため現在南軍に属する第67、第72両連隊が第10軍団へ転属する。


七.マース(第四)軍は現在地のサン=ドニ、ドゥ=レスト、オーベルヴィリエの各分派堡を占領しつつ第一軍管轄地域外のオアーズ県並びにセーヌ=エ=オアーズ県のセーヌ川とウルク運河の右岸地域にそれぞれ宿営すること。また第4軍団と騎兵第5師団が同軍に配属となる。

後備近衛師団は鉄道輸送で本国帰還を命じる。先ずは直ちにランスに向け出立すること。


八.第三軍は軍用資材を撤去収納し可能な限り速やかにセーヌ左岸の諸分派堡から撤退しセーヌ右岸にて従来マース軍が配置に就いていたノジャン、ロニー、ノアジー、ロマンヴィルの各分派堡を守備すること。第11、第6、バイエルン第2の三軍団並びに同軍に復帰する騎兵第4師団は速やかにセーヌ右岸に転進しセーヌ=エ=マルヌ県とセーヌ=エ=オアーズ県でマース軍が占領する以外の地域に宿営地を設けること。

第5軍団は南軍に転属すること。同軍団は直ちにオーセール経由でデイジョン方面へ出立せよ。また(エルザス領域内守備隊となるため)転属する第47連隊の代わりとなる第19連隊は(第一軍より)鉄道にて輸送され同軍団に合流する。


九.南軍はオート=ソーヌ、ドゥ、ジュラ各県に宿営すること。同軍には第5軍団と騎兵第1師団が転属加入する。なお、コート=ドール県内で第二軍に譲る部分とセーヌ水源とシャニー(ボーヌの南南西14.3キロ)を結ぶ線を境界として、第二軍の移動と共に仏軍が支配域に加える地域を除けば(コート=ドール県の残り地域は)南軍の宿営地域に含まれる。

また、南軍はベルフォールを占領する。

第2軍団には(エルザス領域内守備隊となるため)転属する第14連隊の代わりにフュージリア第34連隊(旧・ゴルツ支隊)を配属させること。

第14軍団所属の後備諸隊は近々本国へ帰還することになる。また普軍第30、フュージリア第34、第67、第25の各連隊も他の任務に充当されるため第14軍団、予備第1師団、予備第4師団、フォン・デア・ゴルツ兵団は解散することになるのでその準備を成すこと。

軍団解散に伴う人事、経理、輜重等の転用転属に関しては別に命じる予定である。


十.第一、第二、第三、マース、南各軍の新駐屯宿営地になお残存する後備諸隊の撤収・本国帰還予定日・方法は野戦部隊又は兵站守備諸隊の配置交代完結する毎にこれを決定すること。このために各軍本営は大本営に対し総督府所属部隊の駐屯不要となる(交代終了した)期日を速やかに報告することが必要である。


十一.各軍は兵站総監部所属の守備隊を速やかに本国帰還させるべく努めること。つまりは今後、この任務につき各軍に配する宿営地域では各軍の野戦部隊(から抽出された諸隊)がこれを担当し、(大本営直属の)第12、第7両軍団とヴュルテンベルク師団の宿営地域ではそれぞれの団隊が(自前で)これを行い、エルザス等新領土では各地域最上級者の指示に従い兵站守備隊を構成すること。


十二.要塞砲兵諸中隊、要塞工兵諸中隊(但し総督府所属の隊・兵站守備隊所属の隊・予備師団所属の隊は除く。こちらは既に帰国が決定しています)の本国帰還に関しては追ってこれを規定する。


十三.第一、第二、第三各軍の兵站総監部はこれを存続させる。第三軍の兵站総監部はマース軍の兵站業務を兼務しマース軍の兵站総監部は南軍に移籍し同軍の兵站総監部となる。


十四.撤退する地方所在の独設置電信局の内、陸軍文官が運用した局(即ち軍専用局)は野戦及び兵站電信隊によってこれを交代し、その地の独軍が全て撤退するまでその任務を遂行する。その警備と局員、電信機等の運搬に際しては当該地の司令部がこれを行うこと。


十五.軍本営、総督府等は本命令に掲げた人員交代などの実施に関し、互いに情報、経過などを交換すること。

軍の鉄道輸送はこの規定に従い、当該線区司令部に要求を出すこと。これら線区司令部には既に大本営からその旨訓令を発している。また鉄道輸送を要する諸隊には線区司令部からの照会(乗車人数、貨物重量など)があった場合は直ちに応じられるよう準備するように命じること。


伯爵 モルトケ (筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

パリ近郊・独軍高級将校公園での散歩


※1871年3月4日以降の仏国内独軍配置


◎第一軍 

 第1軍団・第8軍団・騎兵第3師団

 ソンム県、セーヌ=アンフェリウール県、ウール県セーヌ右岸、オアーズ県西部

 

◎第二軍 

 第3軍団・第9軍団・第10軍団・騎兵第2師団・騎兵第6師団

 オート=マルヌ県、オーブ県セーヌ右岸、コート=ドール県セーヌ右岸北東地域


挿絵(By みてみん)

仮講和条約以降の独軍占領地・パリ周辺 


◎第三軍 

 第6軍団・第11軍団・バイエルン第1軍団・バイエルン第2軍団・騎兵第4師団

 セーヌ=エ=マルヌ県、セーヌ=エ=オアーズ県セーヌ右岸南部(ノジャン、ロニー、ノアジー、ロマンヴィルなど)

 

◎マース(第四)軍

 近衛軍団(近衛騎兵師団含む)・第4軍団・騎兵第5師団

 セーヌ=エ=オアーズ県セーヌ右岸北部(サン=ドニ、ドゥ=レスト、オーベルヴィリエなど)、オアーズ県東部


挿絵(By みてみん)

仮講和条約以降の独軍占領地・セーヌ上流域


◎南軍 

 第2軍団・第5軍団・騎兵第1師団

 オート=ソーヌ県、ドゥ県、ジュラ県北部、コート=ドール県中東部、ベルフォール地区


挿絵(By みてみん)

仮講和条約以降の独軍占領地・スイス国境付近 


◎大本営直轄

□第7軍団

 ムーズ県、ヴォージュ県、ムルト、モセル両県で仏領として残留する地域

□第12「ザクセン王国」軍団

 エーヌ県、アルデンヌ県

□ヴュルテンベルク王国野戦師団

 マルヌ県


挿絵(By みてみん)

仮講和条約以降の独軍占領地・ベルギー国境方面


 この命令に準じ、仏国内の独軍は一斉に行動を開始し、本隊から離れて任地に就いていた部隊は急ぎ本隊へ帰還する準備を始め、宿営予定地では家屋の接収と駐屯将兵が出来る限り快適に過ごせるよう設備の改修や継続する糧食補給の準備が急がれました。

 エルザスに向かう部隊は、それまで肩を並べて戦った同じ旅団や師団将兵から別れを惜しむ声や拍手を背に列車へ搭乗し東へ向かいます。また、新たな任務を受けなかった後備や予備を主とする諸隊は、遂に故郷に帰れると心弾ませ母国・東方へと行軍して行ったのです。


挿絵(By みてみん)

独後備兵の凱旋


 3月5日。独大本営はロートリンゲン、ランス、ベルサイユ各占領地総督府の解散を勅命として公布し、総督府が行っていた任務はそれぞれ新任地に赴く各軍本営が行うこととなりました。


 この大本営訓令と勅命を受けた第一軍は先ず、リスル河畔にあった第1師団をセーヌ右岸に移すべくルーアンまで撤退するように命じ、同師団は3月12日までにルーアンへ引き上げました。同時進行でそれまで第一軍と共に戦った近衛と第12両軍団の諸隊(主に騎兵)は本隊へ帰還して行き、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国とハンザ・ブレーメン、ハンザ・ハンブルクの混成師団である第17師団には別途「準備出来次第母国へ凱旋せよ」との勅命が届きました。また、マース軍への転属を命じられた騎兵第5師団は直ちにパリ方面への行軍を開始しましたが、セーヌ河畔のマント=ラ=ジョリーに達しここから鉄道利用しようとした時、海峡地方からパリ方面へ移動中の仏軍1個師団12,000名が鉄道輸送の順番待ちをして街が人で溢れていたためこれに先を譲ります。師団長のフォン・ラインバーベン中将はいらいらしながら麾下と共に待ちますが結局この地で2日間も足止めを食ってしまうのでした。


 第二軍主力は休戦末期までサルト河畔(ル・マンにアランソン方面)やトゥール方面に展開していましたが、大本営の命令はこの地方からの大移動を命じており、カール王子は先ずアランソン方面に在り麾下を離れる第4軍団と騎兵第4師団に移動を命じ、第4軍団はマント=ラ=ジョリーでセーヌを渡りマース軍へ、騎兵第4師団はシャルトル経由でムランでセーヌ右岸へ渡り第三軍へそれぞれ向かいました。残った第二軍主力は三個縦隊となってセーヌ上流へ行軍し、第3軍団と騎兵第6師団はトロア付近、第9軍団と南軍へ移籍する騎兵第1師団はシャティヨン=シュル=セーヌ付近で、それぞれセーヌ右岸へ達し任地に向かいました。しかし第10軍団は最も長距離の行軍(トゥール周辺からショーモン、ラングルへ)となったため、3月4日の軍事協定で定められた「独軍は3月28日までに仏支配域からの撤退を完了する」という期限に間に合わないことが判明し、独大本営は仏軍に第10軍団のみ4月1日までと期限を猶予してもらうのでした。この軍団は3月31日に無事シャティヨンでセーヌを渡っています。これにより第二軍も指定された占領地に到達するのでした。


 ところが、実際第二軍に与えられた宿営と駐屯範囲では全ての将兵が整った宿営に入れないことが判明し、大本営は急遽マルヌ県とヴォージュ県を第二軍の管轄に追加すると、マルヌ県を担当していたヴュルテンベルク王国野戦師団を第二軍へ転属させるのです。これによって第二軍も宿営地をほぼ倍に拡張し良質な宿営を得ることが出来るようになったのでした。

 第二軍本営は軍の配置転換中はフォンテーヌブローに在りましたが、3月19日以降は駐屯地のショーモンへ移動します。軍司令官のカール王子はヴィルヘルム1世皇帝からベルリンで開催される第1回のドイツ帝国議会開会式に臨席するよう召され(母国への凱旋と休暇を兼ねます)、フォンテーヌブローから首都へ赴いたため、軍は第10軍団長のフォン・フォークツ=レッツ将軍に任され3月18日より指揮を代わりました(後述)。


挿絵(By みてみん)

本営にて 左手前フォークツ=レッツ将軍(腰に手を当てている)


 南軍では後備諸隊を含む第14軍団が解散することとなり、また第7軍団も大本営に召し上げられたため、当初は第2軍団だけとなってしまいます。さすがにこれでは仏瑞国境付近を守備することが出来なかったので大本営は第5軍団と騎兵第1師団を南軍へ転属させました。

 第5軍団は2月末にオルレアンの東西ロアール河畔におり、騎兵第1師団は前述通りトゥールからブロアにかけて展開していましたが、両隊共にセーヌ川上流で渡河するまで第二軍団の行軍列に入って進むと、第二軍から離れて新任地であるコート=ドール県北部とオート=ソーヌ県へ進むのでした。

 南軍の南方と西方の仏軍との境界線は河川山脈や県郡市村の境界ではなく直線状に定められ、新たに加わった騎兵第1師団はディジョンを中心に西はソンベルノン付近(ディジョンから25キロ)、南はディジョンから15キロほど、南西角はウシュ川までとかなり狭い範囲に集合し、実際は占領する権利のあったボーヌやニュイ=サン=ジョルジュから3月24日を限度に撤兵しています。また、ジュラ県でも旧・休戦ライン以南には進駐せずロン=ル=ソニエ付近までに駐屯を留めるのでした。


挿絵(By みてみん)

ベルフォールの要塞門で記念撮影する独守備兵


 南軍は3月31日、勅令を以て解散となり、所属団隊は第二軍に編入となります。この時点でフリードリヒ・カール王子は第二軍の司令官職を解かれ(前述通り既に本国へ凱旋しています)、「新」第二軍はフォン・マントイフェル騎兵大将が指揮を執ることとなったのです。将軍は本営をディジョンに置いたままとして、ショーモンにあった旧第二軍本営は縮小の後ディジョンに移動し旧南軍本営に吸収されました。


 パリ近郊ではマース軍がセーヌ右岸北方を、第三軍が同南方を担当し再展開します。


 マース軍は3月3日の独「象徴的」占領撤退後に周辺部全ての検問と貨物検査を廃止し、諸街道からパリへの出入りは自由となりました。前哨線に当初配されたのは近衛第1師団で、サン=ドニとドゥ=レスト、オーベルヴィリエの各分派堡に入りました。

 このパリ北方の占領地分割線は、3月4日の軍事協定を補完する同6日の追加協定により、モン・ヴァレリアン堡塁の返還後における「パリ北方軍隊配置のための中立地帯境界」として決定します。この境界線はセーヌ右岸サン=ドニ市のセーヌ上流側境界を起点としてセーヌに沿い、サン=トゥアン部落の東境界に沿ってパリの「ティエールの壁」に突き当たるまで(現在のサン=ドニ市西側境界とほぼ同じです)となりました。


挿絵(By みてみん)

サン=ドニで記念撮影する独将兵


 比較的問題なく休戦期から占領期間に移行したマース軍と比較し、第三軍の撤退はかなり困難な状況となります。

 パリ南方及び西方の包囲網を解体しセーヌ右岸(東方)へ速やかに移動するという「一大事」、セーヌ左岸地区の諸分派堡(イッシー、ヴァンブ、モンルージュ、オート=ブリュイエール、ビセートル、イヴリー、シャラントン)とジェンヌヴィリエ半島のマルメゾンやナンテール、そしてモン・ヴァレリアン堡(アニエールやコロンブ、ジェンヌヴィリエにいたマース軍の第4軍団麾下諸隊もほぼ同時に撤兵しています)こそ3月7日までに撤退を完了しますが、パリ南郊とベルサイユからの撤退には少々時間が掛かりました。この理由の一つは仏軍から鹵獲した大量の諸材料に兵器の移送と、包囲網維持のために設置していた倉庫群や攻城廠・砲兵廠の撤去などに相当な準備と人員を要したためでした。しかもこのように重量があって量も多い貨物の輸送に見合った広く路面も整備された街道はパリの南郊外に少なく、撤退が始まると直ぐに渋滞も始まるのです。それでも几帳面で真面目な独軍のこと、撤退は時間こそ掛かりましたが3月10日に鹵獲器材の搬出・搬送から始まると後は作業が途切れることなく着実に進み、3月19日までに全てが終了しました。


挿絵(By みてみん)

接収直後のモンルージュ分派堡(1871.2.4)


 3月4日のパリ周辺における独仏軍事協定では、パリ南方の一時的占領地分割線をブージヴァル(ベルサイユ宮殿の北6.9キロ)に始まりビュザンヴァル(城館)を経てサン=クルーへ至り、ここからバス・ムードン(セーヌ川湾曲部突端。ベルサイユ宮殿の東8.9キロ)を経てセーヌ川上流に達すること(つまりはジェンヌビリエ半島全域とパリ南方諸分派堡周辺)、と定め、これはパリ南方の諸分派堡と占領地からの独軍撤退完了まで有効(それ以降は先のサン=ドニ周辺以外セーヌ川自体が境界線となります)とされました。


 独大本営が4ヶ月近くに渡って使用して来たベルサイユ(宮殿ばかりでなく門前市街も大本営の関連分室や第三軍と攻城部隊・要塞砲兵と同工兵の本営が使用しました)からも撤退が始まりますが、当初は3月19日までとの期限が仏政府の要請(不穏なパリの情勢を見るに出来るだけ早く国民議会と政府をベルサイユに移したいとのことです)により、大本営は3月7日にいち早くロチルド家所有のフェリエール城館(パリ・シテ島の東27キロ)に移動しました。前日6日に合意された補足変更軍事協定では、ベルサイユ宮殿と市街周辺地は3月11日を以て完全に引き渡すとなっていましたが、大本営はかなり急いで出て行ったことになります(病院も運営していたのでその辺の撤収も大変だったことでしょう)。


挿絵(By みてみん)

フェリエール城館


 しかしこの協定では独軍にも猶予が与えられ、撤収に手間取る第三軍のために、既にこの時点で仏軍への引き渡しが始まっていたジェンヌヴィリエ半島で3月10、11日の両日に限り独軍の通過を認め、場合によっては宿営も許すとし、同じく中立地のクラマールとヴィトリ=シュル=セーヌ両部落(ここには独軍の攻城資材や仏軍からの鹵獲品が大量に集積されていました)で独軍の一時停留を認め、イヴリー=シュル=セーヌの橋梁(セーヌ川とマルヌ川合流地点)を軍用資材運搬のため3月19日まで独軍に解放する等が定められたのです。


 これと同時に独第三軍撤退までの限定境界線も拡張(未だこの地域にいるのですから仕方がありません)され、ブージヴァルから一旦西へ、ルーブシエンヌ~バイイ~ノアジー=ル=ロア~レンヌムーラン~ボワ=ダルシー~ブヴィエ(陸軍士官学校所在で有名なサン=シル=レコールの南方)を経てビエーブル川(現在のブラック池付近)に達すると同川に沿ってプティ=ジュイ(ベルサイユ宮殿の南東4.4キロ)に至り、ここからロテル=デュー(プティ=ジュイの北東2.2キロ。現在はインターチェンンジになっています)~ヴェリジー(=ブラクブレー)~ヴェルボン(ヴェリジーの東北東2.5キロ。現在は高校です)そしてムードンでセーヌ川に達する線とされるのでした(ベルサイユが完全に独軍支配域に入ります)。


 しかし、大本営こそ出て行ったものの宮殿とベルサイユ市街は引き渡し期限の11日を迎えてもまだ独軍が占拠したままでした。これは仮講和条約の実行に関して未だ両国全権委員が見解を異にする部分があったためで、引き渡しに訪れた仏軍収容隊の指揮官は丁重に「お引き取りを」願う独軍の前哨に対し呆れ顔で「期限切れなのは間違いないのだから、取りあえず諸君等が協定よりパリ至近にいても構わないのでセーヌ右岸に下がってお上の決定を待ったらどうかね」と皮肉一杯に提案しますが、程なくフェリエールで協議中の独仏全権委員から「問題は解決した」との連絡が入り、翌12日に仏軍収容隊は宮殿と市街の引き渡しを受け、ベルサイユをほぼ4ヶ月ぶりに取り戻したのでした。


 独第三軍は一部がパリ北方、一部が同南方を行軍してセーヌ右岸の新任地へ向かい、第22師団はマース軍の残留守備隊からロマンヴィル、ノアジー、ロニー、ノジャンの各分派堡を引き渡され、その南方ではバイエルン第2師団が前哨線に展開、軍本営はモーに移りました。

 3月22日。独第三軍は移動を完了し、パリ周辺の独軍は全てセーヌ右岸に撤退したためパリ南方からは半年振りに独兵の姿が消えたのです。


 少々遡って3月14日。勅命によりマース軍の解散が命じられます。


 マース軍に所属した諸団隊は第三軍に編入され、これによりパリ近郊にある独軍は全て第三軍配下となりました。同時に司令官の異動も命じられ、フリードリヒ皇太子は第三軍司令官を降りることとなり、前・マース軍司令官のザクセン王太子アルベルト歩兵大将が後任としてパリ周辺部の占領を担当するのでした。


挿絵(By みてみん)

本営にワイヘルン将軍を迎える皇太子


 4月1日以降、仏駐留の独軍は仮講和条約の履行を監視するのみとなり、既に3月13日に大本営はフェリエールからナンシーへ移動しています。

 この独軍による東方への大移動は閲兵に好都合で、ヴィルヘルム1世は3月7日、パリ近郊・ノアジー=ル=グランとヴィリエ=シュル=マルヌにおいて例の象徴的パリ占領時に閲兵出来なかった第3梯団・第12「ザクセン」軍団、バイエルン第1軍団、ヴュルテンベルク野戦師団の閲兵を行って新たな「ドイツ国軍」となった諸邦軍隊から大歓声を浴びました。またフリードリヒ皇太子も皇帝から委任され3月12日にルーアンで第1軍団と第17師団を、翌13日にアミアンで第8軍団と騎兵第3師団に予備第3師団をそれぞれ閲兵しています。


 3月15日。ヴィルヘルム1世皇帝はフリードリヒ皇太子を伴ってナンシーを発ち、フランクフルト=アム=マイン経由でベルリンへ凱旋しました。これに先立ち、皇帝は全軍に対し次の詔勅を発しています。


「ドイツ国陸軍軍人に告げる


 朕は本日フランスの国土を後にする。この大地はドイツの名声に新たな軍事的栄誉を加えた所であり、また多くのドイツ国軍人が尊い鮮血を注いだ所である。今や和平は成立し、軍の凱旋は開始された。朕は諸官らの多幸を祈り、諸官がこの戦争において発揮した勇気と忍耐に対し重ねて深く謝意を表するものである。諸官は既に世界史上この上はない大戦に勝利を重ね、崇高なる祖国を守護し、一歩たりとも敵を国土へ侵入させることはなかった。更にはその昔ドイツが奪われた領土をも奪還したのである。今や諸官はこの光輝在る偉業を以て凱旋するのである。

新たに統一したドイツ国の陸軍軍人たる諸官よ、忠勤止むことなく常に軍を最高の状態に保持することに努めなければ、軍の隆盛と名声を維持することが出来ないと言うこと、肝に銘じるべきである。是にして祖国は初めて将来に安息を覚えるのだ。


1871年3月15日ナンシーにおいて

ヴィルヘルム (筆者意訳)」


挿絵(By みてみん)

閲兵する皇帝と皇太子(エミールヒュンテン画)


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